田中克彦『チョムスキー』に驚く



遥か後になっての前言
田中式深層構造(マジでこの人学者か?)
田中式音韻論(声門閉鎖音を知らんらしい)
田中克彦名言集(恐いぞ)
カツヒコ・オートマトン
カツヒコ・オートマトン2008
追記
田中克彦の子供達
田中克彦の子供たち池田信夫編
田中克彦の子供達,宮崎哲弥編
なぜこんなに嫉妬深いのか
「反チョムスキー」ユウゲニストの踏み石構造
本多勝一さんの著作によって田中克彦氏を知った方へ(別ファイル)

遥か後になっての前言---誤解と意図的な嘘の拡大再生産について
02/11/ 6 Wed



世にもまれな文筆詐欺師田中克彦氏について書きます。
以下はもう4年ほど前に書いた文章です。所々改変がありますが、それらについては編集日時を加えてあります。今読み返してみて「もっと品のあるいい方は出 来なかったのか」とも思いますが、既にあちこちからリンクされ、多くの方に読まれているものであるため、あえて書き直すことはしないでおきます。自分がこ のような発言をしたという事から逃げるのはまさにここでの批判対象である方が行っていることでもありますから。この件に関しては逃げているのは田中氏とそ の擁護論者達であり、生成文法の研究は揺るぎなく続いているわけで、内容については変える必要がありません。
(余談ながら、私はいわゆるチョムスキアンでは無いです。チョムスキーも読む言語学者であるに過ぎません)

今日(2015/12/09)思いついたのですが、田中氏はチョムスキーに公開書簡を出せばいいのではないでしょうか?「深層構造」は普遍だとか、音声と音韻について、とか、「印刷言語」しか相手にしていないとか、「あなたの普遍主義はユダヤ系であることに関係がありますか?」など。


また、あちこちの掲示板などで田中氏擁護論者の方から(議論において全く不利である状況を悟った後に)「間違いはあるとしても、なぜそこまでの物言いをするのか」という問いもいただきました。

理由は簡単。田中氏は少なくともこの項で扱う事柄に関しては、「間違っている」だけではなく、「嘘を吐いている」し、更に「嘘の上塗りもしている」からで す。はっきりと雑誌上で批判され、自身がそれに対する反論を同じ雑誌に書いているにもかかわらず、「批判はなかった」という嘘(言語学者による再反論後に 田中氏は沈黙しました)。評論対象である、自身も参考文献に挙げている文献を(つまり読んだはずの文献を)読んでいない「嘘」、他者の発言を自分にとって 理想的な批判対象になるようにねじ曲げる嘘。(その反論中で田中氏はどうやら深層構造と普遍文法を混同しているらしいことが読みとれます。「深層構造が普 遍でないと困るではないか」との事ですが、困るのは『チョムスキー』を書いた田中氏だけです。)2013/04/15追記:アマゾンの書評で『研究書としても読める」ということが書かれていますが,完全に素人の発言です。繰り返しになりますが、田中氏はまったく勉強不足のまま『チョムスキー』を書いています。ちゃんとチョムスキーの著作を読んでから比較してみましょうね。

つまりこの項は、言語学的論争を目指したものではなく、私がたまたまほんのわずかだけ馴染みのあるが故に気が付くことが出来た虚言を明らかにすることを目的にしたものです。

『チョムスキー』中において様々な研究者の発言が言及されますが、「引用」と呼ぶに値するものはありません。全て(全て、です)田中氏の解釈によって文脈 を外され、翻訳の揺れを突き(それが原著者にとってどうだというのか?2013/04/15追記:田中氏はどうやら和訳の本しか読んでいないようですね。しかも上滑りの読み方で)、決定的なことはそれらが引用元の参照すらされていない言及であるということで す。これでは読者は闇雲に氏の発言を信じるしかなくなるし、疑問を持っても確認のしようがありません。これも下で触れますが、田中氏は言語学者を名乗って いながら入門コースレベルの音声学の基本も分かっていないし(音韻と音声の違いが分からないらしいし、音声的には多くの言語で確認出来る音を知らない)、 思考と言語を混同しているようだし、基本的な言語学の表記法にも全く暗いことが分かります。

「社会言語学者」が音声学や理論言語学の表記に暗くてもいいではないか、という意見もありました。関連分野である以上基礎の基礎を知らないのはまずいと思 いますが、百歩譲ってその意見を仮に認めるとしても、それなら最初からそれらの知識が前提となる分野に口を挟まなければいいし、言論者としての自覚がある ならば批判はなかったなどという嘘をつく必要もない。

強調しておかなければいけないことがあります。それは、田中氏の『言葉と国家』などで示されている母語と国語の関係 や少数言語に対する視線は疑いようもなく適切だと言うことです。そういった、理論言語学などよりはるかに生きた人間に取って重大な問題についての主張その ものは貴重なものです。それらは言語学の文脈ではごく常識的で議論を待たない個別言語の等価性に関する各論的議論ですが、それが一般書の形で示されたのは 非常にありがたい事です。

ただし(残念ながらただしが付きます)、総論としては疑いがないことでも各論的な事になると、果たして田中氏の挙げ るエピソードを一つ一つ信用していいものか疑問が残るのです。明示的で真偽がすぐに明らかになる領域であれだけ嘘と無知を持って発言するのだから、確認の 難しいエピソードにおいて正確さが期待出来るのか。『最後の授業』に向ける田中氏の視線には批判のための「かくあれかし」が入り込んでいないか。原語民の 言語意識は田中氏が意図したようなものだったのか。歴史的、地理的検証がされないまま「教師は帝国主義者だった」という結論が導かれているのではないか。 言うまでもなくこのエピソードに関しては田中氏の言うとおりである可能性も大きく残るのですが、「可能性」とまでしか言えないのです。

同様に、その精神に関しては正しいとしか言いようがない他のエピソードについても、資料と しての価値は、すぐには判断がつかないのです。出典が明らかでない、事実と判断の境界が不透明である、などの理由によって。もちろん田中氏がちゃんとした 根拠を持ってそういった主張をしておられると信じたいのですが、そのためにも出典やデータソースを明確にして欲しかったのです。

資料に信頼が置けない。これは根本的間違いよりやっかいな事態です。根本的誤解であればは なから相手にすることもなく、原理的に排除出来るし、誤りも発見しやすい。しかし各論的データが誤謬に満ちていたときには、全く誤解の余地のない根本的主 張までが誤りであるとみなされる事態が生じうるからです。特に田中氏がマスコミ的活躍をしているだけに、そういった、痛くもない腹を探られかねないエピ ソードの羅列は非常に危険です。ですから、田中氏の書くものに出典が明記されていないことや、事実なのか判断なの かが曖昧になりがちなのは不幸な事態であると言わざるを得ないのです。

服部四郎先生の研究に触れた所では、実にどうしようもない無知が明らかになるのですが、服部先生のどの著作に置ける 発言を問題としているのかが一切隠されています。これは闇討ちと呼ぶべきやり方ではないでしょうか。耳が悪いからこの音が聞こえないのだ、という意味のこ とを誰が言っているのか、確認のしようがないのです(田中氏は服部先生の発言だと言いたいようですが。2011/06/30追記、「言語学者の耳がいい」というのは、「ミュージシャンの耳がいい」のと同じで、言語音の聞き取りに長けていることを言います)。これは研究者の学説を云々する以前の問題であり、 低次元の人格攻撃ですらあり得ます。このことについては書くのを迷いました。研究の場にこういった無神経なレトリックを持ち出す事自体が論外だし、あって 欲しくないことだからです。蛇足ながら、服部先生は生成文法系の研究者ではなく、スタンダードな記述方法を大事にする研究者であるという印象があります。 田中氏はつまり、生成文法だけでなく、標準的、基礎的な言語学の考え方や記法が理解出来ずに、それら全てに対して無知に基づく非難を浴びせていることにな ります。

田中氏の発言の根底にはイデオロギーがあるらしく、自身もそのことを取り立てて問題にはせず、むしろ長所であるかのような発言が見られます。『チョムスキー』pp.213に「ソビエト言語学のたちば」という小節が設けられ、その中で、

マルの言語理論が作り出された一九二、三〇年代には、遺伝学の領域におけるルイセンコ学説も形成されたが、この二つのソビエト製理論の誕生は、人種主義、血統主義的イデオロギーとのたたかいという共通の要請にもとづいていた。

と、科学理論への政治思想の侵犯について触れていますが、ここでの意図 はどうやら肯定的評価をすることにあるらしく、
ルイセンコ学説、
マル学説の破綻や科学的不誠実さには触れられていません。Wikipediaで調べたら、マルという人は、共産主義的言語学者で、「すべての言語は単一の言語へと成長する、という珍説を唱えた方らしいです。いかにもマルクス主義的な社会の発展理論を言語に当てはめた説ですね。また、ソビエトの生成文法学者といえるシャウ ミャンの名には触れていません。イデオロギー的観点から価値があると判断したものしか見えないようです。

本多勝一さんの著書に導かれて、田中克彦氏の著作を読んだ方へ

田中克彦氏は、その後調べたところ、「日本言語政策学会」と言うところの理事をしておられたらしいです。
そのページを見てみると、「言語管理」などという恐ろしい語彙が見受けられます。もう何が何だかわかりません。「人民の言語」を管理なさるおつもりなのでしょうか?他にも、漢字否定論など、現象としての言語を政策的に操作したい旨の発言が有りますが、果たしてそれは「人民の言語」であり得るのでしょうか?私には、それは、政治家の発想に思えてなりません。(08年 8月24日 日曜追記)
08年 8月26日 火曜 追記、田中克彦氏のMAIL ADDRESSを探しているのですが、どうにも見つかりません。
以前、氏は私の発言について「どこの誰ともしれんやつが言ったことなど相手に出来ない」と言っておられたそうなので、直接討論がしたいのです。しかし見つかりません。当時(五年前)、田中氏の教え子の身内のかたに、メルアドを教えて欲しいと尋ねたのですが、拒否されました。困っています。言いっぱなしはしたくないのです。


以下読みぐるしい部分も多々あると思いますが、確認出来ることは確認したつもりです。



マジでこの人学者か?


いきなりの入り口からこんなことを言って恐縮だが、まあこの人のチョムスキー理解はひどいものである。「深層構造」という語彙から典型的な初学者が犯す過ちを引き出してしまっている。

pp.48「・・・現実にある言語の外に別の言語---これは考え方によればすでに言語ではないのであるが---を設け、言葉の 現象は、すべてそこへもどして、あるいはそれと関係づけることによって説明することにした。すなわちそれというのは深層構造(deep structure)である。実際に現れる言語は、単に表面に現れた現象にすぎないのであって、じつは、その背後の奥底の深いところには、人間の言ったこ とではなく、考えたことのほうにより近い、何か言葉の原型のようなものがあると仮定する。実際に、、我々がオトにして話し、聞いている言葉は、この、ココ ロのと言うか、精神のと言うか、あるいは意識のと言ってもいい、そのような奥底に抱かれたある何かの考えとは、同じ形であることもあれば、そうでないこと もある。」

いったいどこでチョムスキー本人がこんなことを言っているのだろう。特に「ココロ」って何よ?なんでカタカナなの?それがどうして「意識のと言ってもいい」わけ?言っていいかどうかを判断してるのは誰?

ま、これだけならどこにでも転がっている「読まない評論家」の誤解と同じで、深層という語彙からすぐさま深層心理を連想したり、甚だしくはコギトな ど持ち出したり(あー寒い)、「あ、そうなんだー」とでも言うしかない無邪気さなのだが、田中氏の場合はいつかどこかで聞いたようなペダントリーと、「民 族」「権力」「たたかい」(おいおい、ひらがなだぜ。やめてくれー)などの語彙をサブイボ使用して訳の分からないフレーバーを与えている点で罪深い。 (02/11/ 8 Fri追記:深層構造については不十分ながらここに説明をしました)

認知心理学や認知言語学、いわゆる認知革命を知る人であれば、「心的表象」と言う術語になじみがあるはずである。そして、この心的表象という概念は、ここ で田中氏が「この、ココロのと言うか、精神のと言うか、あるいは意識のと言ってもいい、そのような奥底に抱かれたある何かの考え」とわざわざ曖昧にしてくれ ているようないい加減なものではないことも共通の認識としてあるのである。この田中氏の「チョムスキー」中の術語は、全てこの調子で田中氏流に曖昧なものにね じ曲げられていて、初学者が読めばチョムスキーの行ってきた研究自体が曖昧なものに受け止められるだろう。
この手の議論は各論的に論駁し、更には概念的にもおかしいことを示さなければ何にもならないのだが、残念ながらこの本の中には具体的議論がない。概念的にもあれだけの数があるChomskyの著作からの直接的引用は無い。なんでじゃあ?主に触れられているのは何と対談における発言(しかも著者はチョムスキーではなく、文責は著者、ミツ・ロナにある)である。そんな評論があるかー。2013/04/15追記:結局田中氏は和訳のある文献だけを斜め読みしたのだ。そうとしか考えられない。和訳でも読めばきっちりと深層構造について,変形規則について,表示の性質について記されているのだ。読んでいたら絶対に書けないことを書いているのが田中氏である。Pinkerの一般書からでもいいから勉強し直して欲しい。Pinkerを読んだら、LSLTを一年かけて読んで、次がAspects。それが終わったらLGBをやはり一年かけて読んで欲しい。それが終わったら、Chomsky&Lasnikをまた一年かけて読みながら、実際の研究に当てはめていって欲しい。その後にだったらいくらでもチョムスキーを批判すればいい。その時点でまだチョムスキーに関する誤解が残っていたらたいした頑固さだ。

具体的にチョムスキーの道具立てを使って見せている場所が殆ど無い本であるが、ひとつだけ田中氏にも誤解という理解が出来たらしい「名詞化変形」で日本語を「分析」して見せている場所がある。pp.158前後での事であるが、チョムスキーが一度も言ったことのない「名詞句の深層構造は常に文になっている」と いう仮定を立てて、「サカナの料理」「ブタの料理」「オバサンの料理」などと言った表現の曖昧さを得意気に分析して見せているのだが、そもそも「名詞句の深層構造が常に文になっている」と言う仮定が田中氏の独創であり、チョムスキーのものでは無いというナンセンスさである。もし、「名詞句の深層構造は常に文になっている」の であれば、たとえばcatsや the bible, a book、John,Iなどと言った名詞句はいかなる文から派生するのだろうか。巧妙にも田中氏はこのような形容詞を伴わない名詞句については全く触れていない。ここまでくると田中氏の 書いたもの全てが疑わしくなってくる。更に田中氏は、議論が錯綜してくると(誤解から始まっているから錯綜して当然だが)「・・・である事はどんな読者の目にもあきらかだ。」(pp.211-212)などというある種の詭弁家が好んで用いるレトリックでお茶を濁している。それを書くのが著者の義務でしょうが。02/12/20追記:この言い回しは,「分からないやつは馬鹿だ」という意味だと言う事に気がついた。「とにかくここで思考停止して,書いてあることを鵜呑みにしなさい」という表現の一つである。卑劣だなあ。

年明けにでも月刊言語のバックナンバーで田中氏批判を調べてこようと思うのだが、考えてもいただきたい。もし、田中氏のチョムスキー批判が正鵠を射ているもの であるならば、そこから新たな研究が派生してきているはずである。生産的な議論というものはそういうものだからだ。ところが1983年初版の田中氏の「チョ ムスキー」に端を発する研究は16年後の今日にも全く見られない。あるのは副島某のような誤解の拡大再生産だけだ。学者として惨めにはならないのだろう か。もっともよく世に知られている著作が自分に理解できない学派への批判の書であるという事実の前に。

('98/1/12更新)

新年早々図書館へ行って田中氏関連の月刊「言語」のページをコピーしようと思ったのだが雪に降り込められる。腹立たしい。雪はきれいだけどね。ちゃんとコ ピーを取ってきたら即座にこのページに更新情報を載せます。そのあと、岩波書店に、田中氏の「学会からの反論はなかった」を掲載している件について問い合 わせて見るつもりです。

1/18.寒くて外出する気がしないのでまだ「言語」のコピーを取っていない。これはいかん。20日の火曜日にマッコイ神父とSJハウスで面会することに なっているのでそのついでにコピーしてこよう。簡単にまとめてホームページに載せる予定。そのうち全文引用するかもしれない。面倒だ。

2/3 あまりにあほ臭くて面倒なのでまだコピーを取っていないのだが、まあ近いうちに書きます。

2/7 などと書いていたらホームページを見た先輩から「馬鹿をいじめるのに時間とエネルギーを使うな」と怒られてしまった。それもそうだ。でもまあ暇を見てコピーを取ってきてまとめます。春ぐらいまでにはそうします。


などと書いてからずいぶん時間が経ってしまった。もう今日は1999/3/10である。
このような文章をHPに乗っけたものだからいろんな人からいろんな反応をいただくようになってしまったのである。言語学専攻の方からはさすがにわけのわか らない反応はなかった。せいぜい個人的な知り合いからよけーなことやってねーでべんきょーしろといわれた程度のものだ。チョムスキーに興味があってタイト ルで引かれて読んだけどどうにも納得がいかなかったのだがこういうことだったのね、という、書いてよかったなあと思わせていただけるありがたい反応も少な からずあった。

おったまげたのは、言語学ファンと言うのか、語学ファンと言うのか、自身は言語学関係ではないが、興味があって新書などは読んでいると言う、ほかに専門を 持っている人の一部に見られた反応であった。いわく、社会言語学を全く知らないで偏った知識で物を言っているのではないのか、いわく、田中克彦のほかの著 作はどう評価するのか、いわく、チョムスキーが絶対だと思っているせいで批判を受け付けなくなっているのではないか、などなど。

どうして何らかの専門を持っている人が他分野の人間に対してそう簡単に「しらんのではないか」などと言えるものなのかと、驚いてしまったのである。どうもこう言うことを言う人たちは、

1)田中克彦は社会言語学を代表する言語学者である
2)社会言語学と生成文法の主張は対立する
3)田中克彦を非難するやつは、社会言語学の勉強が足りない
4)言語学者はChomskyを絶対視していて反論を許さない。
という実に恥ずかしい思い込みをしているようである。

新書ですって?ええ、もちろん読んでますとも。専門がまだよく見えなくてうろうろしていた大学一、二年のときにね(実は高校を退学して海辺でヤスパースやヴィトゲンシュタインや田中氏の本を読んだことはあった。大検取得前におませなことをしていたものだと思うが、、ただ雰囲気に酔っていたのだろうな。。田中氏の本は高校中退の頭でも読めるほど分かりやすかったが、ヤスパースやヴィトゲンシュタインの本はむずかしくてそれでも読んでいく快感があった。)。確かに田中克彦氏は新書業界では有名人 であります。しかし、間違えてはいけない。彼は社会言語学の世界においてはまるで無名です。こちらとしても、専門を絞り込んでくる段階で当然言語関連分野 のちょっとした初学者向けのレクチャーを受け、各分野の入りやすい論文集などを読んできているわけですが、彼の名前は全く出てきません。全くです。その後 必要があって社会言語学の文献を調べても、彼の名前には出くわしません。論文がreferされないと言った生易しいレベルではなく、学会的に知られていな いのです。

そして更に理解に苦しんだのが、2)の思い込みである。なんでー?どーしてー?
それなら社会心理学と臨床や認知心理学は対立するのー?おしえてー?領域が違うというだけの話を、ナニユエ対立に持っていくかなあ。論外の誤解である。

3)に関しては、「社会言語学の勉強が足りない」と言う部分についてだけ、まあそうだろうなあ、と言わなければならないのだが、それが田中氏批判の根っこ になっているのではないよ。勉強が足りないなあと思うのは、例えばLabov,Hymesなどの論文ってフォローしてないなあ、というような意味である。 決して田中氏の思いつき作文に賛同できないからではないのだ。ご存知ない方のために書いておくが、主要な社会言語学理論にはチョムスキーのやり方そのもの に反対する考え方はない。対立させるべき論点がないのだ。相補的流れとして捉えられているのが普通ではないか。LabovもHymesもHalliday も個人の言語能力の研究方法としてはチョムスキーを認めているし、彼らは言語のほかの側面を追及しているのであって、対立などは生まれ様がないのだ。彼ら 社会言語学者たちもなぜか英訳されない田中克彦著『チョムスキー』を読んだら腰を抜かすと思うよ。

4)だけどねえ。これってまるっきりあれだよ。ChomskyをEinsteinに置き換えればいわゆるトンデモ本の著者が言ってること そのまんまです。一番激しく彼等の仮説にアタックして改変の努力をし、隙あらばひっくり返したいと考えているのはもちろん彼等の理解者ですよ。理解者イ コール賛同者ではないし、賛同者でないからと言って誤解をほおって置くわけではない。こんなの言うまでもないと思うんだけどなあ。各論的にも概念的にも Chomskyにおかしいじゃないかと言い続けているのは生成理論家達です。

基本的に田中克彦氏の書く新書物は読み物として大変面白い。私も好きである。しかし、そこでのウルトラリベラルな主張は、言語学をやる人であれば誰でも即 座に気がつくような種類のもので、あったりまえの話である。べつに当たり前の話を書いてはいけないなどとは言わないが、それらの考えを田中氏独自のものの ように理解するのはナイーブにも程がある。ひとつでもいいから外語に目を向けたときに、いや、方言でいいのだ、権力と一 方言の結びつきに目を向けて、そこにいわれのない差別構造や力関係を見て取れないようなら学問がどうこういう前に、感覚がおかしいと思う。その程度の当た り前の話でころりといかれてはいけない。それにね。なんと言っても私は『チョムスキー』で田中氏が明らかな嘘を書く人だと知ってしまったから、以前の著作 に関しても、その主張は共有できても、各論的データを信用できなくなってしまったのだ。これは残念であるよ。
2013/03/25追記。田中氏が何を教えておられるのか本当に気になる。早稲田か一ツ橋の学生さん、メールで教えてくれませんか?




この人は声門閉鎖音を知らんのか


いやあ、やたらに雨が降るので暇潰しに『チョムスキー』を眺めていたらエライ所に気がついてしまった。

田中克彦氏はどうやら声門閉鎖音(リンク先はPDFです)の存在を知らんらしいのだ。
(08/ 8/10 Sun 追記:「声門閉鎖音」のリンク先では"glottal plosive"と表記されている奴です。なお、声門閉鎖音については、あのゴルゴ13も言及したことがあります。ど のエピソードだったか、依頼者のnative languageを声門閉鎖音によって聞き分ける、というシーン。スナイパーに負けてどうする。と書いてからyahooで「ゴルゴ|声門」で検索するとこの騒ぎ。何と『ゴルゴの音声学』なんて言うページまである事後承諾ながら、このサイトの管理者様には快くリンクの許可をいただいています。ありがとうございます。。と、ここでちょっと気になって調べるとモンゴル語にはかつて声門閉鎖音があったという説を発見。あれー?田中克彦先生ってモンゴル語学者じゃなかったっけ?)
2012/09/05追記。実を言うと、英語ネイティブでも声門閉鎖音は使っているので、ゴルゴが声門閉鎖音に気がついたというのにはちょっと無理がある。物の本によると、声門閉鎖音の有無には英語話者は気がつくらしい。さいとうたかおさんちょっと勇み足の設定だったみたいです。




実際に声門閉鎖音を確認してみる方法(02/11/20 Wed)

日本語話者がこの音を自分で確認する方法として何かいい方法は無いかと考えたのですが、簡単な方法がありました。大して難しくはないです。

口を開いて、唇や舌が閉じたり上顎に接触しないように「あっあっあっ」と発声してみてください。ここで「っ」の時に発声を止めてみてください。そのとき声門が閉じています。
生理的感覚として喉のあたりに力がかかっているのが分かると思います。「あっあっあっ」の中で、「あ」から「っ」に移るとき、「っ」から「あ」に移るとき、それぞれ声門閉鎖音が出ています。

無声で息を吐きながらスラーの感じで「あーー」の発音に移るのと、「っ」の声門が閉じた状態から「あーー」と発音する時の音の違いも試してみるといいです。スラーで入るときは声門の閉鎖が起きないので声門閉鎖音は出ません(替わりに声門摩擦音が出るかも知れませんが)。

この区別が発話者として分かるようになったら、今度は英語の、例えばashとかAndyの語 頭の母音を声門閉鎖の有無を加えて実験してみると、声門閉鎖が無い方が英語っぽく、声門閉鎖音を入れると母音がとがった感じになる、言ってみればアタック が強い感じがあるのが分かると思います。


ちょっと信じられない発見であった。呆然としてしまった。これは何に喩えればいいのだろう。物理学者を名乗る人が慣性を知らなかった、と言えばいいだろう か。経済学者が資産って何?という様な物だろうか。生物学者がミトコンドリアを何かの掛け声だと思ってるような物だろうか。どっちにしろとんでもない話で ある。あり得ないレベルの話だ。

場所は『チョムスキー』pp.149-153である。事もあろうに服部四郎先生の日本語音声の研究に触れて、異常な発言が見られるのだ。(誰 の研究であろうと批判はもちろん自由だ。ここで「事もあろうに」というのは、服部先生が日本語音声学の定評ある大家であり、その注意深い研究に何らかの批 判をしたいのであれば、以下に示すような無知な状態で行ってはならない、と言うことだ。いかにリベラルな経済学者でも、「資産」を全く知らない人と専門的 議論はしたくないだろう。)(後になっていい例えを思いついた。つまり、身の回りにない元素、自分が実験で使ったことのない元素はその存在を認めない人が 化学者を名乗っているようなものだ。)いや、もっと簡単に言えば、周期表を知らない化学者、であろう。

服部先生の日本語の音節構造についての記述を説明した後、いきなりこういうことを言いだす田中氏。

0a 0i 0u 0e 0oのような解釈を確信を持って提案したのは服部四郎氏だが、(氏は、このゼロの位置に聞こえるはずだというオトを積極的に示すための記号を設けさえした)
これはどうやらマジで声門閉鎖音を知らんらしいぞ。どうするどうする。しかも声門閉鎖音を服部先生の発明のように考えているぞ。どうするどうする。こんな 奴と議論は成立せんだろう。ど素人じゃないか。下手に分かったつもりで口出しする分ど素人よりタチが悪いぞ。それにまたしても「オト」だよ。寒いんじゃ あ。

例えば「はんたい」「さんがく」「さんぽ」それぞれに現れる「ん」であるが、これは日本語ネイティブなら同じ「ん」として認識していると言っても 差し障りはあるまい。ところがこれらは音声学的にはそれぞれ/n/,/ng/,/m/という違う音である。他言語ではこれらをきっちりと弁別する場合が珍 しくないし(朝鮮語、英語、仏語、ドイツ語、アラビア語などなど)、日本語ネイティブでも訓練によって聞き分けることはそれほど難しくない。 しかし「声門閉鎖音」は聞き取るのが大変だ。人間の発声器官の中でも一番「奥」にあるので、一番前の「ぱぴぷぺぽ」や「ばびぶべぼ」などよりはるかに難しいのだ。よっぽど注意して聞かないとその有無による違いが分からない。アイヌ語の声門閉鎖音は、記録テープでしか聞いたことが無いのだが、実に聞き取りに苦労した。2016/01/05追記:爆笑問題との対話で田中さんは/k/の音が一番奥だと思っている事が判明。脱力である。

だからといってこれは日本語の音韻体系を否定する物ではないことに注意してもらいたい。ただ単に、日本語の音韻ではこれらを弁別しないというストラテジーを取ったというだけで、日本語話者の直感が間違っているなどとは誰も言いはしないのだ。

音声的には違った音でも、話者の日常的認識には違いが現れないと言うことは、自動的音処理システムの存在を含意するのだが、その音処理シス テムによって、「聞こえなくなってしまう」音もまたあるのだ。声門閉鎖音なんて言うのはその最たるものかも知れない。そして、「聞こえない」からと言っ て、自動的音処理システムがそれらの違いを利用しないとは言えないのだ。だから、日常的直感では不思議に思われても、音声的記述として声門閉鎖音を表示す るのはちっともおかしな事ではないのだ。(これは、服部先生の方法が音声学、音韻論的に立つかどうかとは全く別の、方法論上の議論である)

大体がこんな事は音声学入門とか、言語学概論とか、特に言語学を専門としない人でもいわゆる「文系」の学部であればいやいや取らされる入門科目で出てくることだよ(ここで「いわゆる『文系』」と書くのは、今や理系だの文系だのの区分は特に人間科学においては無意味だと思うからだ)。本当に知らんのかな。

2008/07/20追記。

ここで、IPA(International Phonetic Alphabet:このリンク先にWikipediaによる簡易な表があります)を知らない「社会言語学者」という存在を考えてみたい。

外語でも方言でも個人語でも、はたまた時代とともに変わり行く母語でも何でもいいのだが、言語を記述する際にまず必要なのがこの国際音声字母の知識である。なんといっても音声のアルファベットです。さて、「社会言語学者」というからには様々な言語を記述し、その特性を調べるという過程が必ず必要になるはずである。そうでないと、未知の言語の実態調査や、自分が母語として使っている言語の記述さえ出来ないからだ。実験方法はおろか、周期表を知らない化学者に試薬を渡して何が入っているか判定させること、基本定数や公理、基礎的定理も知らない物理学者には、星の揺らぎや海の波の観測すら出来ないのとおなじ事情だ。この場合、「フィールドワークのできない社会言語学者」ということになるのだが・・・・

ではいったい、田中氏は何をお仕事となさっているのだろうか?言語学外の読者相手の一般書しかこの方には仕事が見受けられないのは何故なのだろうか?その際に知的好奇心をお持ちの読者であればすぐに納得するような、しかもこの方の発見でもなんでもない、過去の研究者たちが積み上げてきた「個別言語の等価性」を、先人の功績には全く触れないままご自分好みのイデオロギーと絡めて書かれるのは何故なのだろうか?先端の研究に言及する段になると、噴飯もののご発言しかなさらないのは何故なのだろうか?

マジでコワイっす。泣きたいっす。海が好きっす。


02/11/27 Wed追記
さて、こうしてみると、田中氏は内省報告に基づいたメンタリズムを批判しているのか、それとも物理的観察を重視するマテリアリズムを否定しているのか、ど ちらか全く不明、もしくはどっちもダメだと非難をしていることが分かる。ところが、他者の説を非難する時になると、田中氏は突然話し手の実感を重視し始め る。あたかもメンタリストであるかのように。

『チョムスキー』pp.151

話し手が、いやそれは自分の感じ方としては何かへンだと抗議しても、受け付け てはもらえない。(中略)あまりにも多数の話し手が、それはへンだと言い、説得されないと、こんどは、ア、オなどの前には、これらの母音を出す準備のため に、声帯が閉じるときのオトが聞こえる。これは聞こえるはずなのであって、聞こえない人は耳が悪いからだ。音声学という学問をやれば耳がよくなってかなら ず聞こえるようになる。あなたはまだそのような訓練が足りないので、あなたの抗議は無効である・・・・・・と、じっさいにこんなぐあいに、記述主義者は行 動してきた。



統語論の記述においては内省報告を批判しながら、都合によっては「話し手の実感」を持ち出すわけである。では田中氏はメンタリズムを取るのか?そ うすると以前の文脈から外れてしまう。場合によって自説の立脚点を左右し、非難に用いることが出来るなら立場の変化も厭わない。全く依って立つところの定 まらない印象批評である。ついでに書いておくが、「声門閉鎖音」は「声帯が閉じるときの音」ではなくて、閉じていた声帯が開くときに母音に変化を表す音か、母音に続いて声帯が閉じられるときの音である。声帯が閉じられるときの音なんて、微弱すぎてだれにも聞こえないだろう。たとえば両唇閉鎖であるぱぴぷぺぽの音を発するときには、両唇が閉じる音が聞こえないのと同じである。続いて出る母音への影響で聞き取っているのだ。田中氏は言語学の基礎の基礎も知らないのだ。たとえばワタクシの長男は、2歳のときには、「だっこ」のことを「あっこ」と発音していたが、「あ」の前に声門閉鎖音が出ていた。また、一緒にお風呂に入っているときには、「たったかいねー」と言っていたものだが(かわいかったなあ)、これも声門閉鎖音を/t/の音と混同していた証拠である。本当に何も知らないで「言語学とは何か」などという大変に時代遅れの本を書いている田中氏だが、あの本のタイトルは、「言語学とはこれではない」とするべきだったと思う。

2013/03/25追記。とにかく田中氏は誤解しまくっているので、たとえば、
Flying planes can be dangerous.
という文の多義性を、「そもそも考えないで文を発することがあるのだろうか」という趣旨のことを書いておられる。素朴でナイーブなメンタリストの発言としか思えない。問題はそんなところにあるのでは無くて、この文自体が多義性を持つのは構造が違うからだ、というのがチョムスキーの論点である。やはり田中氏は思考と言語を混同しているとしか思えない。哀れなものである。マテリアリズムを取らないといい(服部先生への批判)、また別の場所では『思ったこと」を担ぎ出す。支離滅裂である。言語学を知らない人でも、この本の自己矛盾に気がつかないと恥ずかしいですよ。

後で気づいてあわてて付け足すのだが、ここで田中氏は「記述主義者」を批判している。
「記述主義」とはその名の通り、現象を記述する主義のことである。??????現象を記述しないでどうしようというのだろうか????言語学における記述主義は、他の経験科学における記述主義と変わらない。例えば物理学が記述を行っていることを批判して、それがまっとうな理解力を持つ人間に理解できる批判足りえるだろうか?リンゴが木から落ちる、重力レンズで星の位置がずれて見える、背景輻射を観察する、etc.etc.などを批判することになるのだ。言語の場合、問題はもっと深刻である。言語を扱う場合、(ここで言語学では、と言わないのは、物理学においてと同様、「学」の中では記述しか考えられないからだが)とにかく、言語を扱う場合、「記述主義」に対する主義といえば、「規範主義」である。

規範主義とは、「こう書くべきだ」、「こう言うのが正しい言い方だ」、「これが正しい日本語だ」などという、最終的には、「近頃の若いものの日本語は・・・」だの、「美しい日本語で話そう」だの、「日本語力」だの、いつまでたってもなくならない、言語というものの性質への無理解による愚痴や、果ては私にはコンプレックス商法にしか見えない「声に出して・・・・日本語」だの「品格」本だのに辿り着く代物である。

ここで田中氏が「人民の言語」といった表現を好んで用いられることを、この記述主義批判と重ねてみると、恐ろしい帰結が導けはしないだろうか?田中氏が主張する「人民の言語」とは、自然に使われている、記述対象としての言語ではなく、ある権力が規範として「人民」に押し付けるスキーマである、ということになりはしないか?

このことと、田中氏がルイセンコやマルやスターリンを高く評価していることを結びつけるのには無理があるだろうか。
正直言って、もう何がなんだか分からなくなってきた。田中克彦先生、言語学に何をお求めなのか、それだけでも教えてくださいませんか?


付記:ちょっと言い過ぎました。いや、逆です。言葉が足りないところがありました、と言うべきでしょう。
「規範主義」自体は困った物ですが、「規範文法」が有意義な場合があります。それは、外語を習得する場合に、お手本として示される文法として使われた場合です。簡単に言えば、学校で習う「英文法」などが身近な例です。これがあるので、勉強が楽になるわけです。

「文法なんか嫌いだ」という方のお気持ちはよーく分かります。

余談になりますが、中学高校時代の私もそうでしたし、今でも外語を勉強する際は、どんな品詞があって、どんな活用や変化をするか、どんな代名詞があるか(または無いか)、その言語に特徴的な音や文法的特質といわれるもの、などを、まずテキトーに記憶すると、(ここで「テキトーに」しか記憶しないのは、私の場合、完全主義を排するのに役立っています。あるステップを完全に記憶しない限り先に進まないのは、言語学習の場合、意欲をそぐのではないかと思います)それでまあ、大体やっつけ仕事でそれらをテキトーに記憶すると、次はいきなり原書を、辞書を引き引き読む勉強法を採っています。

(受験勉強で英語をやったときは、それまでまったく「勉強」ということをしないで、好きな本や音楽やスポーツだけにかすかな情熱を注ぎ、後は学校をサボって海辺でぼーっとするマヌケで怠け者(今でもそうですけど)な生活をしていたので、まだなんの勉強法も知らなかったし、思いつきもしなかったので、仕方なく、大量の英語の短文を、対照されている日本語とどうつながるのかを考えながら記憶したら、いつの間にか文法問題にも答えられるようになっていました。それで、「これはなにか?何で経験の無い文法問題に自分が答えられたのか?はじめて見る書き換え問題など解けるようになってしまったのか?」という疑問を持つことになりました。ついでに、対照日本文を細かく分解することにもなったので、なかなか愉快なパズルでもありました。それから、長文をしつこくしつこく読むと、いつの間にか速読ができるようになっていました。もちろんこれは、受験レベルのことで、その後、どれだけ自分が英語が分かっていないかを知ることになるのですが)

ただしこの場合は、一行一行について、解釈に確信が出来るまで読むので、かなり時間を食います。大体意味が取れるようになったら、あとは同じテクストを、百回近く、場合によっては数ヶ月かけて音読します。だから、そのテクストも、当該言語において定評のある標準的なものを選ばないと、とんでもないことになります。例えば、アマリの展開のためか、破綻のカタマリに思えるA川J郎さんの本や、こちらはもちろんいい意味で先端的過ぎる筒井康隆さんの実験作品を選んだらどんな日本語学習者が生まれるか、興味深いものがあります。この学習法は、いかにも効率が悪いのですが、そうやって音読しているうちに、以前の解釈が間違っていた部分に気づいたり、よく使われる構文や語法や音声的な特徴が理解を伴って記憶されるようですので、このやり方が私には合っているようです。
文法書に当たるのは、よほど困ったときで、それ以外は、辞書に述べてある語法や辞書の簡単な文法解説で理解しようというやり方しかしません。ときどき、これではいけないな、とも思うのですが、そのうち、対象言語の文法が自分の中に立ち上がってくるプロセスを楽しむようになってしまい、なかなか標準的な学習法を使えないでいます。これは、いわゆる外語の達人と呼ばれるような方々と違って、私には超人的な記憶力や瞬時的な理解力が欠けていることが主な理由ではないかと思います。
また、上記の私の勉強方も、後で思い返せばそうなっていた、というだけで、しかも、よっぽど上手くいった場合を理想的に述べたに過ぎません。いつもそうできたらいいな、と私が思っていると受け取ってください。その点、誤解して買いかぶらないで下さるようお願いします。


規範文法に話を戻します。「文法無用の英会話」などと謳ったコンプレックス商法も掃いて捨てるほどありますが、何のことはない、読んでみると、「こういうときはこういう言い方をします」と述べてあります。これは、たいへん素朴な「規範文法」に他なりません。英会話学校でネイティブから教わる場合も、もちろん彼らはある「規範」に従って教えるわけで、そうでない場合は、かなり危険な学習方法を実験しているとしか思えません。それまで英語の簡単な文も読めなかったけど、駅前によくある英会話学校に週一で通ったら、英語がじゅうぶんに話せるようになったという経験をしたことがある方はいらっしゃるでしょうか?
もちろん物事には例外もありますので、毎日二時間ずつ必ず一日も欠かさないように(これは条件がきつすぎるので、隔日でもいいですが)駅前に留学し、自宅でも復習を欠かさない生活を二年続けた場合は、可能かもしれませんが、ひとコマあたり数千円かかるというシステムでこれを行うのはよっぽど意欲に燃え、かつお金に余裕があり、時間のある方でないと無理じゃないかと私個人は思います。そのくらいなら、いっそ目的の言語が使われる社会に移住したほうが早いような気が。しかしこの場合でも、その社会での日本人コミュニティーから身を遠ざけないと、効果は望めないのではないでしょうか。自己変革を目指してイキナリ「語学留学」するという暴挙に出た方が、現地の語学学校に行って見たら日本人だらけで、当然寮も日本語が共通語となっていて、地元の地理にだけ詳しくなって帰ってきた、というよくある話に終わらないことを祈ります。あ、規範文法の話から逸脱してしまった。

「規範文法」がどうやって出来るか、組み上げられるか、ということを考えてみると、それは、当該言語の発話を観察して、それを記述した結果得られるものです。つまり、「規範文法」は、「記述文法」を基にしてしか作ることは出来ないことになります。

ただ、「記述文法」が「規範文法」として採用されるまでには、ある程度固定した用法を選ぶ必要があるため、やや時間的に遅れが出来てしまいます。この結果、「学校文法で教えることは、全部時代遅れの用法だけだ、使い物にならない」と言ったコンプレックス産業の常套句が出てくるわけです。

しかしそうでしょうか?たとえ50年前の記述を基にした規範文法であれ、それを確実に身につければ、当該言語の話者から見て、「古臭いけどきれいな言葉」に聞こえることは考えられないでしょうか?
例えば、現代日本語の、二年もすれば「死語(正確には、というか、専門分野では「廃語」といいます。「死語」は、ネイティブスピーカーのいなくなってしまった言語をさす術語です)」、になってしまうような流行語をやたらと知っている、しかし少し真面目な書き物になると読めないし、専門的な議論もちょっと突っ込んだ世間話も、友情や愛を語ることも出来ない(今になってチョベリバだのMG5だの言われても・・・)外語ネイティブを見て、日本語ネイティブである我々はどう思うでしょう?

これに比べて、本国で、例えば漱石や太宰、谷崎や中也を、果ては専門的に源氏物語や記紀まで読みこなす訓練をしてきた外語ネイティブが、日本にやってきて、それはしばらくの間はギャップに驚くでしょうが、何しろ基本がしっかりしているから、すぐに現代日本語口語を理解するようになるのと、どちらが教養人として、また深い言語力を持った人として遇されるでしょうか?

私個人は、後者のほうに好感と敬意を抱きます。他の方がどう感じられるかは、まったくその方の自由ですし、相手との付き合い方の度合いにも拠ってくるでしょうから、一般的判断はしないでおきます。というか、出来ません。




全くの余談であるので、興味のないかたは読み飛ばしてもらって構わないのだが
音声と音韻の違いについて

音声学で扱う音声とは、言語音として可能な音をいう。これは個別言語の制約を受けないので、当然個別言語話者の判断(話し手の実感)に左右されない記述を 行う。人間言語音として可能な音の記述を行うわけで、上の「ん」の例で言えば、/m/,/n/,/ng/の違いをしっかり記述する。

これに対して音韻は個別言語話者の抽象的な言語音の認識を扱う。上の例で言えば、/m/,/n/,/ng/という音声的差異が話者の直観上弁別されないとき、言い換えれば、当該言語のシステムとして弁別されないときに、これを[N]という抽象的な音韻表示で表す。

上で「自動的音処理システム」と言及した機構はこの音韻論と音声学的実現を含むシステムのことである。

例を挙げれば、日本語話者は英語の/l/,/r/の区別をしないと言われる。これは音韻表示[l],[r]の区分が日本語にはなく、いわば[R]という音 韻表示が音声的には/l/,/r/双方に文脈依存的に対応していて、音素としての機能を持たないのだとみなしうる。抽象的音声システム(音韻)では、 [R]があって、これが英語話者の表示[l],[r]のように分化していないということだ。結果、日本語話者は音声/l/,/r/の弁別が困難であるとい う事態が生じる。
音韻音声区分
英語話者[r], [l]/r/, /l/あり
日本語話者[R]/r/, /l/無し

音韻としての区分がなければ、「聞こえない」、「違いが分からない」という現象が起きやすい。だが、音声としての違いはやはりある。
フランス語話者が日本語の「はい」を[ai]と認識しがちであるのも同じ事情だ。フランス語の音韻においては[h]は存在しないか、またはリエゾンを禁じ るマーカーとしてのみ存在するので、対応する音声/h/も言語音としては認識されず、「はい」が[ai]と聞き取られてしまう。英語話者が日本語の促音を 聴き取れないか、発話出来無いというのもよく知られている。
音韻音声hが「聞こえた」か?
日本語話者[hai]/hai/聞こえた
仏語話者[ai]/hai/聞こえない

音韻音声促音が「聞こえた」か
日本語話者[haPPa]/happa/聞こえた
英語話者[hapa]/hapa/聞こえない
仏語話者[hapa]/hapa/聞こえない
上で促音の音韻表記にはcapitalを用いて代用した。
これらの場合において、母語に音韻として存在しない他言語の音声は、言語音としては認識されないという共通の現象が見られる。「話し手の実感」としては 「聴き取れない・発音出来ない」音であろうと、言語音としては存在するし、音響機器でこれらの音を確認することも出来る。日本語話者にとって「っ」は一つ の音として認識されているかも知れないが、「はっぱ」(/p/)、「せっちゃく」(/t//) 、「りっしゅう」(/sh/) 、それぞれ違う音だ。違う音を一つの音として認識するためのシステ ムは、これらの差異を認識していると考えるのはおかしな事では無いだろう。

02/11/29 Fri 田中氏の引用した原論文で服部先生が言っておられると思われること(参照がないからこういう言い方になってしまう)

日本語の「ア行」は、「カ行」、「サ行」その他の行に照らし合わせると、母音が単独で出てきている点が浮いている。「カ行」以下の音節の構造は[C V] (Consonant, Vowel)の作りになっているが、「ア行」だけ[V]の構造だ。しかし、日本語話者の「ア行」の発音を調べると、母音の前に声門閉鎖音が観察される場合 がある。すると、「ア行」も実は他の行と同じく、[C V]の構造を持っていると考えることが出来るのではないか。

田中氏の引用は断片的で、何度も繰り返すが出典が示されていないので、上の文は完全に私の想像だ。しかし文脈からこのような趣旨の事ではなかったかと思われる。

これを表にすると、
音韻音声子音は「聞こえる」か
[a]/?a/聞こえない
[ka]/ka/聞こえる
[sa]/sa/聞こえる
[ta]/ta/聞こえる

と示しうる。ここで声門閉鎖音の表記にはIPAの記号と形が似ている?を使った。

蛇足
音韻表示:[]
音声表示://

音韻音声
[N]/m/sampo 「さんぽ」
/n/hantai 「はんたい」
/ng/sangaku 「さんがく」




受けたみたいなので田中克彦名言集


掲示板とかメールで、田中氏の誤解が受けてしまっているので、田中名言集を作ったりして。
どうやらマジで言ってるから恐いところを集めたりして。
特にかっちょいいところを抜き出しますが、文脈に反して引用するズッコイ真似はしていません。これらのお言葉は音読するとかっちょよさにターボが効きます が、多分人前では危険です。あんまりかっちょいいところには文字どおり色をつけてしまいました。目がちかちかしますが、内容は頭がちかちかします。


其の一
音楽から絵画への変形、さらには俳句などへの変形すら考えることができる。もしそれができれば、たとえばソビエト社会主義文化なるものを構成する、それぞれの部門の間に変形によって対応関係が得られるであろう
pp.172

其のニ
女でない私にはよくわからないのだが、女ははじめから、つまり深層においても、あのような、いつも表層で聞くことばで考えているのだろうか言うことだ。

pp.173

其の三
これからの世の中は、言語の理論などはとりわけ、ますます多くの人にわかりやすく書かれなければならない。そうしなければ、言葉は人民のものではなくなってしまうからだ。 pp.249

其の一は全くもって意味不明だ。どうして言語学のタームが政治理論に入り込むんだろう?音楽から絵画への変形というのも意味が分からない。分かった方、教えてください。もしかすると、田中克彦さんはLSDでも使って音楽を聴きながらキャンバスに絵筆をふるうのがお好きなのかもしれない。他の可能性としては「共感覚」の持ち主で、俳句を聞くといろんな図形がよりどりみどりの形と色彩で目の前に浮かぶのでは無いか。他に説明する考え方が見つからない。2013/03/26追記

其の二も意味不明である。時々「人間は言語で考える」という主張をなんとまあ二一世紀に入ってからも聞くことがあるのだが、「で」の意味が分まずわからない。言語は思考のツールでは無い。もし言語が思考のツールであるならば、新生児は定義上思考を持たないことになるのだが、その定義上思考を持たない新生児が成長に伴ってこれまた定義上思考」である言語を獲得するシステムが立たなくなってしまう。余談になるが、まだインターネットが普及する前に、パソコン通信で「私は論理的に考える必要があるときは、英語で考える」とおっしゃってた方がいるんですが、「はいぃ?」であった。この方はどこかの塾の先生で、英語を教えていることが嬉しくて仕方が無いようだったが、英文を書かせるとまずロジックがおかしかったし、構文も中学レベルの物しか出てこなかった。また、たとえば将棋の名人が手を考えることは間違いなく「思考」だが、それを言語化するのはほぼ不能だし(出来ていたらAIに組み込めるはずだ)、筒井康隆さんの「家族八景」での主人公はサイキックで、相手の思考を「文」として受け取るシーンがある。我々の思考はそんなもんじゃ無いでしょう。もっともっと複雑で、「言語化出来ない」場合がいっぱいあるでは無いか。もっとも筒井さんは「日曜画家」という前掲書中の1エピソードで、思考が絵画的な抽象概念になっている人物も描いておられるので、実験作品として実に面白い。それにしても、「女ははじめから、つまり深層においても、・・・表層で聞くことばでかんがえている」ねえ。深層構造を見事に思考と混同していることが分かる。

其の三あたりにぐっと来る人がいるのは想像出来るのだけど(大検取得前の中退生の私のように)、例えば「言語」「言葉」を「心臓」「社会」「脳」「心理」「政治」「交通網」「コンピュータ」「自然」「哲学」何でもいいから現代的探求の対象の名前と入れ換えて見ると、ナンセンスさが浮き彫りになります。

誰にでも分かるような理論(これは普通床屋談議と呼ばれる。しかし現実には床屋さんも自分の理容技術について誰にも分かるように簡単に語れるとは思 わないだろう)、少なくとも複雑な対象についての誰にでも分かる理論が、正しいなんてことがかつてあったのかな。現代は自分の専門領域以外は全部素人の時 代じゃないのか。せいぜい我々に期待出来るのは、理論が誰にでも分かる事ではなくて、論理の推論過程一つ一つが、原理的には誰にも了解可能であることぐらいじゃないか。理論全体が誰からも理解されなければならないなんて、ヤクザの言いがかりと変らんよ。ワタクシ個人は田中氏どころでは無いほどの真っ赤なアカだが(あんまりにもアカ過ぎて尖閣諸島に自衛隊を駐屯させろ、などと自衛隊員の友人に説いたりする。この問題については、なんなら右翼の人間と共闘してもいいぐらいだ)、政治思想を学問に持ち込もうとはまるで思わない。ワタクシが赤いのは読む方には分かる気がするのだが、前述したパソコン通信時代には、例の「英語で考える」方になぜか「右より」だとされてしまったことがある。日本語はポンコツ言語で、英語は優れているとおっしゃるので、それにいちいち反論していったら「愛国者」だと勘違いされてしまったようだ。国家と言語の混同であった。ワタクシは日本文化や伝統やアニメやマンガなどのサブカルチャーまで愛する人間だが、国家、政体としての日本は好きでは無い。赤いと言っても田中克彦氏のような硬直した古典的なマルキストでは無いのだ。いっそアナーキズムに近い考えを持っている。これは別にチョムスキーの影響では無いのでご注意を。個人と国家の関係を考えていくと、いつの間にか日本に生まれていつの間にか日本語を喋るようになり、いつの間にか日本文化を愛するようになっている自分がいるだけだ。個人としての選択権は無いままワタクシはワタクシの環境を所与の物として受け入れざるを得ないのだ。自分が投票したわけでも無い様々な憲法や法律や条令が縛りをかけてくる事自体が腹立たしい。そこにはどんな形にせよ象徴は必要では無い。同時にまた、井上ひさしさん型のカトリックでもある。神や審判を信じなくとも、神父さんたちに大変にお世話になったので、心情としてカトリックよりであるということだ。あ、だいぶ話がずれた。

言語理論なんか無くても、言語は人間のものでしかない。脳で考えてるのを知らなくても脳で考えているようにね。理論は現実の所有とは没交渉的だ。こういう、じんみんファンに受けるようなプロパガンダは、半世紀遅れているし、正しくもない。

其の三の書き方は本当に卑怯だと思う。なぜ理論が難解になると人民のもので無くなるのか、全く説明が無いではないか。例え学校教育において生成文法で国語 を教えるという極めてナンセンスな真似が行われたとしよう。なんにも生徒の言語活動に影響は無いよ。あり得ない。母語について子供は発話データは取り入れ るだろうが、押しつけの規則を取り入れる事は、文体論とも呼べないような手紙の書き方や作文の書き方などのうわっつらのレベルでしかないので、規則の押し つけによってコアをいじることはできないのだ。毎日生成日本語論を教えても、文法嫌いが増えるぐらいのもんでしょう。それは健康な反応だと思う。そういう 健全さに逆行するのは、「人民のもの」などという、いたずらにセンチメンタルな60年安保的予断である。サイエンスに政治理論を取り込んでどうするのだ。 ルイセンコにでもなりたいのかこの人は。2011/10/30日追記。結局この「わかりやすく書かれなければならない」という発言の根底には、田中氏には分からなかったんだなあと解釈するのが一番適切な解釈だろうと言う事に気がついた。分かんなかったのね、田中克彦さん。それでいらついたのね。醜いなあ。哀れだなあ。今更勉強しろと言っても無理かもしれないけど、チョムスキーのLGBぐらいから毎日少しずつ勉強するといいと思いますよ、田中さん。焦らず、ゆっくりとね。4,5年もやれば少しは分かるようになっていると思いますよ。2013/03/25追記。LGBは難しすぎるかもしれないから、Aspectsの第一章だけでも読んでみてください。あれなら翻訳も出ていますよ。言ってもムダかな?





カツヒコ・オートマトン

カツヒコの名詞化変型について書いた上の文と下にある注を読んでくださった方に見落としていた派生を指摘していただいた。掲示板でのご発言だが、全 くそのとおりだった。そして、その可能性を付け加えると更に恐ろしい地獄絵図が浮かび上がってきたのだった。だんだんこうやって反論したり反証しているの がムナシクなって来るのだが、人間に可能な誤解の極限とその帰結としての樹形図地獄を描くのも面白いかと思うのだ。思わねえよ。

カツヒコの名詞化変型を形式化すると、

1) S→NP VP
2) NP→S

という二つの規則が必要になるのだが、これに加えて、通常のVPの規則

3) VP→V NP

取り入れよう。そうしないと、少なくとも動詞が現れないので絶対に非文になるからだ。

さて、恐いのはここからだ。(2)については、カツヒコは「常に深層は文」と言っているから、義務的に適用される。NPが出てきたら必ずSに書き換えられるのだ。そして、定義上Sという語彙範疇は存在しないから、(1)も義務的にかかる。すると、

S
NP VP
S V NP
NP VP V S
S V NP V NP VP
NP VP V S V S V NP
S V NP V NP VP V NP VP V S
NP VP V S V S V NP V S V NP V NP VP
S V NP V NP VP V NP VP V S V NP VP V S V S V NP
NP VP V S V S V NP V S V NP V NP VP V S V VP V NP VP V NP VP V S

きりがないからこのへんでやめるが、わずか階層を十層重ねただけでこの騒ぎ。いまだ動詞しか語彙は出てこれないし、[V VP V]などという連鎖が現れるあたり、人間の言語ではない可能性がある(いや、結果的には人間のみならずあらゆる知性体の言語ではないのだが)。真に恐ろしいのはこの構造が無限に続くという点であろう。たかだか単文(否応なくS が出て来るので単文じゃなくなるのだが)ひとつ作るのに無限の派生が要求されるとは田中克彦式文法は奥が深い。可能な文の数が無限だというのではなくて、 ごく単純な文を一つ定義するのに必要な派生が無限だというのだからメチャメチャにアナーキーだ。使用は愚か、習得さえも不可能である。つまりそんな言語は 存在出来ないのだ。アヴァンギャルドだなあ。いや、ダダイズムか?それとも言語が不可能であることを提示して生得性を否定したのだろうか。スゴすぎる。

実は紙に構造を樹形図で書いて見たのだが、倒れそうになったのである。ものすごく不条理なものを目にした時に感じる恐怖が襲ってきたのだ。恐ろしく増殖能力の高い細菌の増加を顕微鏡で見たらこんな気持ちになるかもしれない。

上では省略した構造をブラケットでいれるとどうなるか。やりたくないなあ。きっと吐く。

ためしに第五階層を描いて見よう。ええと、

[[[[[[[S]] [V NP]]] [V [[NP VP]]]]]]

うわーん。うわーん。こんな気持ち悪い構造は嫌だあ。ままー。ああああぁん。

構造を無いものとして単なるフラットな記号列と考え、、階層の各段階を「世代」として捉えると、これは各々のセルが四つの状態を取れるセ ル・オートマトンとみなし得るが、このように終端記号が断続的に現れつつも全体としては決して派生を止めないパターンをカツヒコ・オートマトンと呼ぶ事を 提案したい。カツヒコ・オートマトンは言語理論における破壊的ウィルスのような存在である。いったん規則系に取り入れられた途端に無限の派生を始め、とど めにその派生はどんな文も産み出すことがない。恐るべしカツヒコ。

2013/03/27追記。これではあんまりなので、田中克彦氏によかれという解釈を一つだけ挙げておこう。それはすなわち、「形容詞を含む名詞句は深層構造では常に文だ。そして深層構造では再帰的な規則の適用は無い」というものである。さあ、どうなるでしょうか?[綺麗な花]を、[花が綺麗だ]から派生させようとする試みである。この場合に必要になる句構造規則は、ええと。

4)S->S VP
5)S->AP NP
6)S->NP AP
7)VP->NP V
8)NP->S


どういう順番で規則が働くかというと、まず8と6)で、

    NP
    S
   NP VP
  花が 綺麗だ

という深層構造が出来て、これに変形規則をかける必要がある。    、次に、、、、あああああ、混乱する。訳分かんないよ。やっぱり宿題にしてください。2013/03/26記す。

[NP[S[花が]][[綺麗だ]]]

の形の構造があれば、随意的に

[NP[AP綺麗な][NP 花]]

の形式に書き直せ、と言うことになるかな。ここでは「綺麗だ」の文法範疇の書きかえまでする必要がある。こういうアド・ホックとしか言えない条件(文法は形容詞を含む名詞句を他の名詞句と区別して扱う、深層構造では再帰的な規則の適用は無い、などなど)を変換に課すのは文法がいたずらに複雑になってしまうので、避けたいものの代表格だ。理論はエレガンスを求める。生成文法においても、しかり、である。
田中氏は方言や権力の結びつきについて書くときは、「トリビアルに正しい」ことしか言わないが、言語学の基礎訓練が足りないようで、ちょっと何かを分析しようとするとこういう乱雑で見苦しい、美しくない解決法に頼らざるを得ないのだ。オッカムのカミソリを使ってみれば、こういう「雑然とした文法」は即座に退けられるだろう。田中氏には、言語学者でも社会言語学者でも無く、言語政策評論家とでも名乗って貰った方が適切なあり方だと思う。それにしても「言語政策」というタームのおぞましいことよ。1984の世界を連想するのは私だけだろうか>2013/03/271:10追記。

もうほとんどカツヒコが気の毒になってきた。編集者におだてられてやけっぱちで書いたとしか思えないではないか。こんなどうしようもない結果を産んでしまう事を得意気に書かされた可哀相なカツヒコ。ガムあげようか。キャンディの方が好きかな?


「深層構造は常に文になっている」
句構造規則では確かに
S→NP VP
のような表記をする。これは深層の式だから、「深層構造は常に文になっている」とい うのはこの限り、つまり、文については正しい。ただしこれは、文の深層は文である、といっているだけで、何もここで田中氏が無知から来る敷衍をしたように、 名詞句まで常に文になっているとは言っていないのだ。確固たる定式化が存在する分野を批判したければ、例えば
チョムスキーがひっさげて現れ出たものは何であったか、それを私はほとんどすぐさま理解したから、規則の森の中をあちこちと連れまわされるのは、ちょっとくたびれもうけだと思ってしまったのである。
『チョムスキー』pp.244
このようなレトリックでごまかし、具体的な形式に触れないと言う人には何も期待してはいけないのだ。それにしても、「私はほとんどすぐさま理解した」ねえ。とほほほほ。その結果がこれかよ。

名詞句まで深層では常に文になっているのだとすると、
NP→S
とい う式が必要になるが、これは一発で過剰生成を惹き起こし(eg.この式と前式、S→NP VPを再帰的にかけるとNP、VPが無限に並んでしまう。*注)、簡単に排除される。田中氏は初期の定式化の代表的文献、Syntactic StructuresとAspects of the theory of Syntaxを読んだと書いているが、この二冊にはとことんこういう定式化が説明されている。読んだと言うのが嘘か、それとも分かっていてこう書いた のか(読んでない方に二万リラ賭けよう。ただしオッズは1.00)、どちらにしても嘘ついちゃいかんでしょう。


上では再帰的にかけるとと書いたが、よく考えると田中氏は「深層では名詞句は常に文だ」と言っているのだから、これは義務的適用なので、

S→NP VP
NP→S

の二つの式は、適用された途端に循環をはじめる。しかもそれは無限の循環である。

1) [NP VP]
2) [S VP]
3) [[NP VP] VP]
4) [[S VP] VP]
5) [[[NP VP]VP] VP]
n) [[...[NPn VP]...VP]VP]
n→∞

これではいつまでたっても終端連鎖に辿り着くことがなく、よって語彙が現れない。こんな馬鹿としか言い様の無い事を言って議論したつもりになるのには特殊な訓練が必要だろう。思いつきの発言が形式的に検証出来る様に作ってあるのは生成文法のやはりメリットである。

02/11/27 Wed追記
生成文法誕生期には、無制限な変形が多くの研究者によって提案され、名詞句も含め、、およそ主語-述語構造を意味的に見い だせる構造であれば「名詞化変形」によって生成する提案がなされた(例えば、[僕の本]を、[僕が本を持っている]から変形で作るなど)。その場合でも、「常に深層では文である」という無限ループを避けるために変形に条件が 課されている。さて、そのような無制限の名詞化変形を理論に取り入れると経験的矛盾が起きるので、「おばさんの料理」の様な名詞句を辞書規則によって(つ まり変形ではなくie.「おばさんが料理する」という文からではなく)記述するべきだという趣旨の論文がある。タイトルは"Remarks on Nominalization"、著者はChomskyその人であり、出版年は1970年である。つまりChomskyは無制限な「名詞化変形」は出来な いと示しているのだ。

例えば、[the enemy destroyed the city]、[敵が町を破壊した]という文から、[the enemy's destruction of the city]、[敵による町の破壊]と言った名詞句を作り出すことChomskyは様々な例を挙げて反証している。そう、田中氏が独自の解釈で「おばさんの料理」「狸の料理」などはどのような深層構造を持つのか、という愚問は、10年も前にChomskyその人によって解決されているのだ。
独自の「名詞化変形」によって言語理論に破壊的ウィルスを導入した田中克彦『チョムスキー』の出版は1983年である。これはどういう事だろうか。
また、"Remarks on Nominalization"は、常にチョムスキーの論文がそうであるように、学史的に大きな価値のあるもので、これを仮に他の研究者が書いたとすれば、それだけで学史に名が残るようなものである。これを読まないまま「名詞化変形」について語るとは暴挙としかいいようがない。



01/ 9/21 Fri 追記

昨日書店で立ち読みした文庫版の『チョムスキー』からは「学会からの反論はなかった」という発言が消えている。事情が知りたいものである。解説もずいぶん と「引いた」感じになっている。田中氏の発言を曖昧に評価しながらも言語学者にも気を遣う、という実に旗色不鮮明な書き方だ。そうせざるを得ないのは分か るが。解説執筆候補者の中で何番目にジョーカーを引いてしまったのだろうか。

01/ 9/26 Wed

更に昨日立ち読みすると、新書版では見られた得意げな前書き「私の『チョムスキー』はチョムスキー派言語学徒の間では焚書の対象と見なされている」が消えている。そもそも焚書も何もない。私にしたってウェブ上で話題にされなければ触れずに終わったであろう。問題視されていないのである。いまだ相手にしているのは私のようなアホだけだ。しかしそれもいい加減にしようと思う。時間がもったいない。

それはそれとして、田中氏の「消えた発言」については、何があったのか知りたいものである。


更に振り返って考えると、『チョムスキー』の出版年は'83である。これはいかにも変だ。というのは、この頃ならまずその後の20年以上の間影響を与え続け ることになるランドマーク的著作、"Chomsky '81 Lectures On Government and Binding"、そしてその反響と発展を視野に入れた"Chomsky '82 Some Concepts and Consequences of the Theory of Government and Binding"が言及されていないのはあまりにも不自然であり、評論を書こうという人間なら外せない文献を外していることになる。

これはいったいどういう事だろうか。この事実と、『チョ ムスキー』中で触れられているミツ・ロナ『チョムスキーとの対話』が仏語→英語→日本語という重訳でだいぶん訳が揺れている事、その揺れている部分(深層 構造が不変だとかいうあたり)を田中氏が本筋から離れる勢いでやり玉に挙げていること、更には前掲書二冊が83年時点ではまだ訳されていなかった事を重ね合わせると、恐ろしい憶測が(あくまで私の憶測である)湧きあがってくる。

田中氏は日本語訳しか読んでないのではないか。
または、英語文献、読めないんじゃないの?(普通に英語の本が読めるということと、専門分野の論文が読めるというのは別の話である。例えば数学者や物理学者たちが専門の訓練なしには、その分野の論文が読めるようにならない事情と同じだ。語学力は最低の前提にすぎない)
それであんな学問的には一九世紀後半または二〇世紀前半的主張満載の一般受けしそうな新書ばっかり書いてるんじゃないの?

誰か違うと言ってくれ




カツヒコ・オートマトン2008

2008/07/16
私は馬鹿でした。長いこと修正しなければならないと思いながら怠慢で放置していた私は本当に馬鹿でした。カツヒコ・オートマトンは間違いでした。正しく田中克彦先生の御言葉を解釈し損ねていました。修正いたします。

田中先生は、「深層は常に文である」とおっしゃっています。この御言葉の深い意味を、硬直した私のクサレ脳髄は、ごく普通の言語理論の文脈でしか捉えておりませんでした。田中先生は、もっともっと、遥かな天空を駆け巡る自由人であらせられたのです。

名詞句の「深層は常に文である」以上、深層の式に、NP(名詞句)が出てくることは出来ないのです。
ですから、以前書きました式は間違っておりました。
1) S→NP VP
2) NP→S
3) VP→V NP
の中で、なんと1)と3)は田中先生の御言葉を誤解して記していますし、2)に至っては、存在すら不要です。
なんとなれば、1-3)は全て深層の規則であるため、NPが登場してはいけないのですぅ。なぜなら、「深層は常に文である」からなんですぅ。
ですから、1)は、より正確には、
1') S→S VP
ですし、2)は、NPの展開なのでその存在が認められず、おそらくはこれの逆、すなわち2')S→NPこそが句構造規則ならぬ先生御謹製の「名詞化変形」規則なのでしょう。構造記述がここまで単純化した文脈自由な(つまり、どこで当てはめてもいい)「変形規則」は始めて見ました。目からウロコの思いでございます。そして3)は、
3') VP→V S
でなければ、田中先生の御言葉を正確に伝えたことにならないのです。
すると、派生は、
1. S
2. S VP
3. S VP V S
4. S VP V S V S VP
5. S VP V S V S VP V S VP V S
6. S VP V S V S VP V S VP V S V S VP V S V S VP
7. S VP V S V S VP V S VP V S V S VP V S V S VP V S VP V S V S VP V S VP V S
8. S VP V S V S VP V S VP V S V S VP V S V S VP V S VP V S V S VP V S VP V VP V S,,,

ああ、混乱してわからなくなったです。それにおそらく、ここの派生を書くとフォントを小さくしないとこの行は見やすい様に書ききれません。どのみち無限長の段階に達するとはいえ、八世代目(もちろんこれは生成文法の用語ではないですが、何しろオートマトンですので術語をお借りします。ですので、本来の統語表示にはないナンバーも振りました)でこれです。超弩級のいけいけ負けるな欲しがりません出て来いヒトラームソリーニです。そして最終的(という言葉を使っていいのやら)には、


とならなければならないのでした。そして、この無限の横の連鎖(終端連鎖(無限なので「終端」は出て来ませんが)のみならず、派生段階全て、つまり「縦の」表示)に対して、何しろ「文脈自由変形規則(!:これが可能なら、φ→Johnなんてのも可能です。つまり無から有を作り出し、φからイキナリ「今日はいい天気だ」なんて文まで作れるのです。すげー!なお、生成文法にお詳しい方には言わずもがなですが、これは、Moveαや、AffectαやMOVEといった代物と違い、あくまで「変形規則」です)ですので、Sを全てNPに変換する("Transformation"は、やはり「変形」ではなく、「変換」が適訳だと私は思います)という、先生が御経典の中で発見された「名詞化変形」をかけなければならないのです。無限構造に対してアイソモーフィックに無限回の変形規則の適用。凄まじい計算量!宇宙が始まってから終わるまで、ひたすらスパコンでも量子コンピュータでも計算尺でもソロバンでもノット記法でも近頃ハヤリのインド式計算法でも計算し続けてもなお得られぬ彼岸の境地。宇宙という巨大コンピュータはこの命題をひたすら解き続けているのではないかという悩ましい妄想まで湧いてきて苦しゅうございます。

上の派生図に田中克彦先生の「名詞化変形」をかけた後の表示、すなわち表層構造は以下のようになります。あたしゃもうコワイです。常人の発想では御座いません。
1. NP
2. NP VP
3. NP VP V NP
4. NP VP V NP V NP VP
5. NP VP V NP V NP VP V NP VP V NP
6. NP VP V NP V NP VP V NP VP V NP V NP VP V NP V NP VP
7. NP VP V NP V NP VP V NP VP V NP V NP VP V NP V NP VP V NP VP V NP V NP VP V NP VP V NP
8. NP VP V NP V NP VP V NP VP V NP V NP VP V NP V NP VP V NP VP V NP V NP VP V NP VP V VP V NP,,,



コワイです。苦しいです。五十六億七千万年後には先生がこの苦悩を取り除いて下さることを信じたいです。ああ、なんという深い御心。魂が浄化されるのを感じます。光の天使が放つ暖かい波動を感じます。スピリチュアルなアセンションを感じます。数学で用いられるという噂の、無限を有限に収斂させる手法以外、私には光明の一筋すら見えません。句構造規則1')と3')、そして先生のおっしゃる「名詞化変形」規則、S→NPがあるにはありますので、一見単純な規則適用に思えますが、これが言語の記述に用いられる物であることを、つまり有限の派生で収めなければならないことを考えるとき、私にはその実際的方法は、アマリの難題過ぎて、手がかりすら見つけられませぬ。無限構造の深層構造からアイソモーフィックな写像により、無限構造の表層構造が派生されるのです。そしてその結果得られるのは、「無限の内部構造と長さを持った、具体的語彙は無限個の動詞しか現れない一個の名詞句」なのでございます。これはもう頭で考えては解けない禅の境地です。悟りです。言葉に出来ないからこそ敢て矛盾した命題を与えるという禅問答でございます。

もういいです。私にはもう分かりません。壁に向かって何十年も座る事はこの根性なしには出来かねます。もう諦めました。お好きに天空を駆け巡ってください。ムキになって反証しようとしていた、しかも、全く自分の勉強にもならないし学問の進歩にもならない無駄な抵抗をしていたオノレの幼さと馬鹿さを肝に銘じ、今後は今上猊下(今後も連綿と出てこられるでしょうからこうお呼びいたします)の御事跡を翼賛奉る方向で今上猊下の畏くもお住まいになるネバーランドを遥拝しつつ、草葉の陰からひっそりと見守り記録する一書記の立場で残り少ない人生を過ごしていく覚悟でございます。人間は本当に自由になれることを学びました。勿体無くもいみじくも有難きかな有難きかな。で、どうして田中先生には新書以外の著作が無いのかな?社会言語学の中でも取り立ててスクールを作るでもなし、引用される訳でも無し。どうして大学で教えていられるのかが不思議だ。謎だ。本当に不思議だ。



なぜこのような虚言が問題か---虚偽の伝搬:田中克彦の子供達
02/11/28 Thu
さて、田中克彦氏の『チョムスキー』における発言は、言語学的インパクトは皆無であることを述べてきたのだが、言語学外での悪影響は様々な形で現れてし まっているので、それらについて述べたい。俗説がはびこった理由としては、一つには、チョムスキーの研究書が前提知識なしで楽に読めるようなものでないた め、知りたいが手が出せない人たちが、タイトルが「チョムスキー」である『チョムスキー』を参考書として、そして唯一の手がかりとして読 み、無批判に受け入れてしまった結果、田中式チョムスキーが一人歩きしたのではないかと思われる(「批判書」を原典の知識無しに受け入れる心性が理解不能 だ)。この現象は最近でも、全く別の文脈において観察される。チョムスキーの政治的発言を批判するときに、田中式チョムスキーの影が見て取れるのだ。力 学の基礎もない人が、場合によっては四則演算すら出来ない人が量子論批判を口にしたところで誰も相手にしないだろう。田中氏は言語学の四則演算の存在すら 知らない事は上で見た。その田中氏の『チョムスキー』を、やはり四則演算の出来ない人が読んで伝言ゲームをしている状況があるのだ。



池田信夫--- http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/Chomsky.html より引用
著者(チョムスキー、引用者注)の本業は、政治学ではなく言語学である。言語学にノーベル賞ができたとすれば、最初に受賞することが確実な巨匠である。そ んな大学者が政治的にはこんな幼稚な議論を繰り返すのは不思議だが、よく読むと両者には共通点がある。彼の提唱した「変形生成文法」は、人間は生まれなが ら遺伝的に頭の中に「普遍文法」を持っているという超合理主義である。これを著者は「デカルト派言語学」と呼ぶが、実際にはデカルトはこんな生物学的決定 論を主張したわけではなく(彼の時代には遺伝子という概念もなかった)、むしろその背景には神の存在がある。
一時は、生成文法で自動翻訳を実現しようという「人工知能」が流行したが、すべて失敗に終わった。言語理論としての生成文法も破綻して枠組みが 二転三転し、最近では「ミニマリスト」モデルという比較言語学の骨組みのようなものだけになってしまった。この事実が証明したのは、言語は著者の想定する ようなデカルト的な構造にはなっていないということである。生成文法で文と非文を識別する基準になっているideal speaker-listenerは、実は神の別名である。こうした超合理主義が市場経済を否定し、社会を「計画的」に運営しようという社会主義的アナー キズムにたどりつくのは、ある意味では必然ともいえる。著者の政治評論には何の影響力もないが、こうした形而上学的な言語理論が人文科学やコンピュータ・ サイエンスに及ぼした悪影響は、それよりもはるかに大きい。

読むたびに脱力するような学問観と教養と論理と慎重さ,誠実さの欠落であるが、簡単に批評しよう。なお、後日、この方はただ事ではない発言を繰り返しておられることが判明したのでファイルにしました。当時の雰囲気を保持するため、掲示板のコピーですが、読みがいがあります。
エライヒョウランカ様のご発言に混乱する衆生の記録

著者の本業は、政治学ではなく言語学である。言語学にノーベル賞ができたとすれば、最初に受賞することが確実な巨匠である。
言語学にノーベル賞ができたとすれば。これは「ノーベル賞に言語学賞ができたとすれば」、の間違いだと思われるが、どちらにせよ貧しい発想である。 サルトルが受賞を拒否したのと同様、チョムスキーも受賞を拒否するだろう。現代的文脈では取りざたされないが、ダイナマイトで得られた資金で作られた賞を よりによってチョムスキーが受け取るものだろうか。言語学に賞が出来るとしたら、そのものずばり、「チョムスキー賞」しか考えられない。ダウンタウン松本 の、「ノーベルって奴は俺より偉いんかい」発言を思い出させる。「数学にノーベル賞ができたとすれば」のように、入れ替えて遊ぶと面白い。(2012/06/25追記)チョムスキーがノーベル賞を取るかどうかについて考えてみた。彼の政治姿勢からノーベル賞はまず絶対に与えられないだろう。ついでに考えたのが、なぜダライ・ラマにはノーベル賞が与えられて、ローマ法王には授与されないのかと言うことだ。人種的、社会的な差別を感じるのは私だけだろうか。ローマ法王は、ノーベル賞に関しては「格上」なのだ。ダライ・ラマは「格下」だということだろう。

「変形生成文法」は、人間は生まれながら遺伝的に頭の中に「普遍文法」を持っているという超合理主義である。
今時「変形生成文法」という名称を用いるあたり、激しく田中氏の遺伝子を感じさせる。悪い予感がするのだが、その予感は以下徐々に的中していく。

「普遍文法」(以下UG)は、この字面から想像されるような、「全ての言語に共通の文法」の事ではなく、人間の子供の言語機脳の初期状態を指す。この書き方では誤解を招くと思われるので、2013/03/25修正。内包的には人間の子供の初期状態、そして成人の言語機能の共通性を指す、と言った方が誤解が無いだろう)ついでに書いておくが、チョムスキーのUGは、個別文法をメタランゲージとすると、メタメタランゲージになる。これは、チョムスキーが発達段階を無視して、「瞬時的獲得仮説」を立てて研究してきたから起きる事態である。発達段階を視野に入れた理論が日本製で存在する。動的文法理論と呼ばれる研究プログラムである。動的文法理論では外延的パラミターでは無く、内包的パラミターを考える。発達段階で言語機脳の初期状態が個別言語に従って変化していくことまでも考えられている。

人間の認知系の研究において、何らかの初期状態が想定されるのは今では珍しくないし、むしろ普通であるが(と言うか、初期状態の想定なしでは何も説明できない。人間の脳はtタビュラ・ラサではないのだ。)、チョムスキーがUG概念を提唱した1950年代には、人 間の初期状態は白紙、いわゆるタビュラ・ラサだとする行動主義が席巻していたため、非常にインパクトのある主張であった(スキナーのLanguage Behaviorに対するちょむすきーの批判を参照のこと。現在では、全くの白紙状態では何 も説明出来ないと見る方が主流となっている。

そんな大学者が政治的にはこんな幼稚な議論を繰り返すのは不思議だが、よく読むと両者には共通点がある。
との事だが、これは両者、すなわちチョムスキーの政治的発言と言語学書を両方よく読んだ、という意味だろう。では、言語学書では何を読んだのか、教えていただきたい。(もちろんこれは意地悪な要求だ。下で見るとおり、池田氏は何も読んでいない。読みもしない本にしつこく言及する池田はは虫類的気持ち悪さだ。)

これを著者は「デカルト派言語学」と呼ぶが、実際にはデカルトはこんな生物学的決定論を主張したわけではなく(彼の時代には遺伝子という概念もなかった)、むしろその背景には神の存在がある。
「デカルト派言語学」とはChomsky 1966 "Cartesian Linguistics"の邦題である。そこで行われたこととは、人間科学における合理論の系譜の研究を踏まえた上での自説の展開であり、チョムスキーが自説を占有的に「デカルト派 言語学」と呼んだのでは無いのだ。行動主義に対するメンタリズム、経験論に対する合理論を主張するチョムスキーが学史的にメンタリズムと合理論の研究をふまえ、 自説の研究を行った著作である。これだけで池田信夫氏が"Cartesian Linguistics"を読んではおらず、田中克彦の「デカルトは言語学をやっていないではないか」というとんでもなく筋違いの難癖を受け売りしたこと が分かる。キリストはChristian Universityに通っていないではないか、というようなものである。

遺伝子という概念がなかったのは誰でも知っている話で、そんなことを問題にする方がおかしい。ではメンデルは遺伝子やDNAを知らなかったからメンデル遺 伝は研究として無効なのか。馬鹿な話だ。チョムスキーもUGを遺伝子の特定の一部に局在させるような極端な主張をしているわけではない。遺伝暗号の個体における発現は コードと機能の一対一対応になっているわけではないのは常識ではないか。確かにデカルトは、「生物学的」決定論は唱えていない。それは時代の知見の限界で あり、合理論を生物学に帰属させる事が可能になっていなかったからではあるまいか。認知系研究が生物学的基盤を持ち始めたのは、20世紀も半ばを過ぎてか らであり、その発端の一つとなったのがチョムスキーの研究である。デカルトであれ誰であれ、それ以前の研究者に「生物学的」決定論を求めるのが間違ってい る。

「むしろその背景には神の存在がある」これはデカルトについて語っているのだろうが、デカルトの合理論から神概念を取り去っても現代的文脈で十分 に有効だ。デカルトが行った神の存在証明と合理論の関係を、学史的に、または人物研究として取り上げるのは面白いかも知れないが、この二つは切り離して独 立に考えられるものだ。ニュートンが有神論者であったことは知られているが、ではF=maに現代的文脈で触れるとき、神を見て取る人がいるだろうか?がりがりのファンダメンタリストは除く。

デカルト主義についていうならば、モジュール性と普遍性について述べなければ言い足りないという指摘を頂いた。なるほどである。そうすると、まさにチョム スキーの基本概念はデカルト的であり、デカルト主義の各論的実現への努力と見ることが出来る。なんら問題はないのだ。完全な余談になるが、フランス語の慣 用でCartesianというと、理屈屋を指して使う事があるそうだ。そういえばMonty Pythons'でもデカルトネタのギャグは出てきたなあ。これらは無論ここでいうデカルト主義とは無縁だが、それほどデカルトの名は人口に膾炙してい て、田中-池田流の誤解というか、ヌレギヌが可能な日本の土壌は素晴らしくウィルス繁殖に適していることであるなあ。しかしそれも、田中的言説を無批判に 受け入れる人たちの間だけのことだ。そうではない人がはるかに多い事は下の方のリンクの多さをみていただきたい。
生成文法で自動翻訳を実現しようという「人工知能」が流行したが、すべて失敗に終わった

この文は非常に曖昧だ。「人工知能」=「生成文法で自動翻訳を実現」するものなのか、それとも「人工知能」の中の「自動翻訳」について語りたいのか。
どちらにしても嘘と誤りである。生成文法ベースの「自動翻訳」(イマドキこの語彙かよ)は、生成文法誕生時から現在までその研究が止まったことがない。PCの上で走っている翻訳プログラムに多く使われているのは格文法の応用が 多いが、この格文法にしてからがまごうかたなき生成文法のいちモデルであるし(「格文法が生成文法の一種だって、笑わせるなよ(池田信夫)」)、民生以外の研究環境ではGB-parserなど、枚挙にいとまがない。言う までもないことだが、機械翻訳研究は生成文法の応用研究であるに過ぎない。応用研究の成否を基礎研究に遡及的に当てはめる論理は全く不当である。参考まで にYahoo USAでの検索結果:[chomsky machine translation] 02/11/28で6510hits
「全て失敗に終わった」とのことだが?
言語理論としての生成文法も破綻して枠組みが二転三転し、最近では「ミニマリスト」モデルという比較言語学の骨組みのようなものだけになってしまった。この事実が証明したのは、言語は著者の想定するようなデカルト的な構造にはなっていないということである。

以前の研究プログラムに後生大事にしがみつくことなく、大胆にモデルチェンジをすることが、科学研究において非難されることだろうか?理論をリファインす ることを「破綻して二転三転し」と言うのなら、車のモデルチェンジはおおごとだ。言うまでもなくPCのモデルチェンジも。オープンソースのバグフィックス も。そして何より、あらゆる科学分野における理論の改編も進化も。言うまでもなく、科学理論の発展の歴史には、理論の洗練と説明可能領域の拡大に伴う「二 転三転」が不可欠だ。よりよい理論を構築する努力がこのような言いがかりを付けられるとは。あらゆる改編の努力は「破綻して二転三転し」たものなのだろ う、池田氏の目には。

多分池田氏には理解出来ないだろうが、実現形としての生成文法モデルは確かに過去二回大きな変更をしている。しかし、その根底にある形式化と明示性、獲得モデルの構築、などの基本方針には変化がないのだ。
「デカルト的構造」とは何のことだか不明だが、池田氏はデカルトについて理解していないようなので、ここでは突っ込むことすら不能な意味不明さになっている。

ミニマリスト・モデルが「比較言語学の骨組み」であるというとのことだが、「比較言語学」と「言語類型論」の違いも分かっていないらしいこと(おそらくは 言語類型論はその存在すら知らないかも知れない)、また、ミニマリストがその名の通り過去のモデルに比べてミニマルなものになっているのを「骨組み」であ るとどこかで聞きかじったらしいことだけが分かるのみである。池田は絶対に"The Minimalist Program"を読んでいないし、だいたいが読めない。生成文法はその初期にはいわゆるRule Systemを取っていた。つまり、言語の記述に、数多くの規則群が使われていた。そのうち、様々な研究者から提案された変形規則だけでも200を超えるといった事態が生じ、言語獲得の説明は遠のくばかりではないかという観測が出てきた。つまり、規則が多すぎては、子供の言語獲得のデータ的、時間的少なさが説明できなくなるということである。このことから、生成文法はRule Systemから、Principles and Parametersと呼ばれる、原理群と変数群からなるシステムに進化した。このフォーマットにおいても、原理群や変数群が大きすぎてはやはり獲得問題が解決できないという理由から、minimalなモデルが求められるようになった経緯がある。これは、現象の記述から説明への変化であり(2013/03/25修正。どこまで行っても記述は記述である。説明に達するには、この場合、UGを脳の性質から派生させる必要がある)、minimalなシステムが理論に要求されるのは、ひとり言語学だけの問題ではない。こういった、基礎的な学問観すら池田氏には欠落しているとしか言いようが無い。
比較言語学では史的、地理的な言語間の関係を問題とするが、言語類型論ではそういったつなが りを無視し、縁戚関係にない言語でも同じような言語現象があれば、類似のシステムが働いているとみなす。生成文法の文脈で重視されるのは、類型論的視点で ある。

生成文法は言語類型論的多様性を記述する事が出来なければならないし、初期状態、つまり生まれたばかりの子供が持つ言語装置としてはミニマルな装置しか想定しない。このことが伝言ゲームの末に耳に入ったのだろう。全く理解していないことだけが分かる。ついでに触れておくと、「言語はみんぞくのたましいである」というようなまさに形而上学としか呼びようのない、田中臭のするユウゲニズム(幽玄ism:経験的、形式的なものを嫌い、ぐだぐだの言明しかできないやりかたを好むスタイル) 言語学を嫌って、経験的に反証可能な構造を持たされたのが生成文法の特徴である。「形而上学的」とは全く的はずれな難癖だ。

だから、上の引用中の「この事実」は生成文法理論の進化と取ることは出来ない。2016/03/28追記。言語の初期状態にミニマルな装置しか想定しないのは、生物、進化学上にも妥当なものだ。UGが大きすぎれば進化論上なんでそんな物が出来たのか説明が付かない。池田はバカだ。
また、仮に生成文法基盤の機械翻訳が失敗に終わっている事実に反して仮定しよう。それがどうして
この事実が証明したのは、言語は著者の想定するようなデカルト的な構造にはなっていないということである
この論旨に適用されるのか?ならば聞こう。原子爆弾が作ら れることによって相対論は証明されたのか?核融合炉が失敗に終わっていれば、核融合は無いと証明されてしまうのか?原理的に不能だ、というのではなく、応 用が失敗すれば原理が否定されるというのだ。工学的応用と理論の著しい混同であり、基本的な科学認識が稚拙なものであることが分かる。
生成文法で文と非文を識別する基準になっているideal speaker-listenerは、実は神の別名である。
これは本当に意味不明だ。デカルトの神学につなげたいのか、池田氏が「デカルトとは関係ない」と言いたいらしいチョムスキーが神学的だと言いたいのか。分かった人、教えてください。ちなみにチョムスキーは無神論者です。バッカじゃないの?このあたり、田中克彦がチョムスキーの普遍主義を彼がユダヤ系であることに関連させたがったたことと関係があるように思われるそんなことを言う人が「みんぞくの言語」と言っても信用出来ない。その下のアナーキズムと合理論の関係について述べたところはは実にトリップ感覚に満ちている。読むだけでトリップ出来るとはありがたい限りだ。これだけの前衛詩を書ける人がいたんだな。鑑賞してみよう。ラブアンドピース!
こうした超合理主義が市場経済を否定し、社会を「計画的」に運営しようという社会主義的アナーキズムにたどりつくのは、ある意味では必然ともいえる。
認知システムの生得性を主張すると、アナーキズムに辿り着 く、というマジック・スペルである。先ほどの引用では、神の概念が出てきたので、これは多分sword and magicのヒロイック・ファンタジーの世界が展開されているに違いない。ぜひ続きが読んでみたい。呪文の鍵は「ある意味では」にありそうな気がするが、 どんな意味かは示されていない。注意して頂きたいのは、ここで池田氏は「合理論」の「合理」と経済的な意味での「合理」を混同しているということだ。ちせつな間違いだが、この手の間違いがこの人の書くものには頻出するんだよねr。。まさにラブアンドピースである。ラスタ感覚さえ漂ってくる。

著者の政治評論には何の影響力もないが、

めんどくさいから[chomsky politics]で検索。なんだ、[chomsky linguistics]よ りヒット件数が多いじゃないか。「何の影響力もない」人の名が、なにゆえ"politics"でこれだけ引っかかってくるのかな?(02/11/28時点 で、chomsky+politics:70300hits, chomsky+linguistics:36300)
こうした形而上学的な言語理論が人文科学やコンピュータ・サイエンスに及ぼした悪影響は、それよりもはるかに大きい。
上の引用で、少なくともコンピュータ・サイエンスにおける Chomsky Hierarchyの影響を池田という人は知らないんだな、ということだけは分かる。形式言語の研究、認知系獲得の研究、心理学、言語変異、遺伝研究、 チョムスキーが影響を与えたハード・サイエンスの分野は実に広範に渡っている。例えば「正規表現」がチョムスキーの形式的言語研究の中で位置づけられた言 語クラスのことであることは、案外知られていない。また、なにをもって形而上学的だと言っているのかも分からない。存在論とか形而上学とか認識論とか大きな話を始めるが、細部を論ずることはないのだ、池田は。くるくるパーである。
池田氏はこのあとも偏執的にチョムスキー批判を書き続けているが、論評に値しない内容である。少なくとも、氏が学生時代に言語学を専攻しようとしたがチョムスキー全盛だったからやめたと言う部分と、いまごろになって輸入されているという記述は矛盾するのではないか。もうやめなさいよ。いい加減に見苦しいよ。実に偏執的だよ。見苦しい。

参考までに[chomsky hierarchy computer science]をYahoo USAで検索 02/11/28, 5420hits。こういうデタラメを言わないで済む知識の累積を基礎的教養というのではないかな。「形式言語 チョムスキー」のYahoo Japanでの検索結果及び「チョムスキー階層」の検索結果
ついでに検索。リンクの後の数字は、02/11/28におけるヒット数。検索エンジンは池田氏が「チョムスキーは無視されている」というアメリカのYahoo。
心理学 [chomsky psychology] 25400,
哲学 [chomsky philosophy], 40200
数学 [chomsky mathmatics] 19,
認知科学 [chomsky cognitive science] 16900,
生物学 [chomsky biology] 11500
このほか思いつく分野を試してみると面白いかも知れない。私はもうすっかりパンク気分である。ラブアンドピースかつラスタかつパンク!思いもよらないジャンルがあったものである。

08年 8月 8日 金曜追記
池田氏はこの後、このサイトを御自分のファイルからリンクして、「格文法が生成文法の一種だって、笑わせるなよ」などと凄まじいことを書いた後、当時の私の掲示板でどんどん嘘が暴かれるにつれ、御自分の文章を改編に改編を繰り返し、最終的にはこのファイルへのリンクを消してしまわれた。また、先ほど(08/08/14 21:43)氏の記事を読み直したところ、もともとの文には手を入れず、ただしその前後でチョムスキーに関する俗説を振りまいておられる。氏の情報収集力のなさを示す内容でしかないのだが。それにしても、一度はリンクしておいて、圧倒的な無知を自覚すると、リンクを外すとはなぁ。ある種の行動パターンを持った人間の行いとしては典型的なものであろう。それにしても、池田さん、恥ずかしくはないですか?
さらに追記。2009/8/19 ちょっと待てよ、と一年ぐらい前から考えていたこと。仮にレイコフがチョムスキーをしのいでいるのなら、ノーベル賞はレイコフのものじゃないのかなあ。もう何がなんだか分りません。アレな人って強いなあ。いくら論駁しても全く応えないんだから。最終的にはどんな泥仕合になってもいいから、「勝ち」を取りに行けば気が済むんだもんね。しかしこの方に部下がいて読者もいるということが怖い。お気の毒としか言いようが無い。大体レイコフは生成文法出身の研究者だよ。そんなことも知らないのかな。そしてまた、レイコフのメタファー理論を支持しないという池田さんは凄いね。ノーベル賞を取りそうな人の理論を論駁する理論家を更に支持しないと来たもんだ。凄いとしか言いようがない。何らかの病の臭いがする。

また、「今頃になってチョムスキーの理論が輸入されて」とも書いているが、馬鹿いっちゃいけない。60年代から生成文法は日本の研究者を引きつけ続けているし、また、日本語のデータが理論に影響もしている。それは今でも変わりない。馬鹿だ、本当に馬鹿だ。こんな人もいるんだなあ。もう知らないことに口を挟むのはやめた方がいいよ、池田さん。池田さんって何が専門なんですか?ディスプレイ前の無知層を騙すこと?

更に数年後、池田さんまたやってくれています。ニーチェ、フーコーその他いろいろ、権威付けに用いています。 恥ずかしくないのかな。[チョムスキー 池田信夫]で検索すると真っ先に出てくるでたらめ。この人がまともに扱える知識の領域ってあるのかな。情けないよ。副島と変わらないめちゃくちゃさだ。池田さん、一度は権威付けにチョムスキーを使っていながら、何年か後には政治思想がらみでその本職に攻撃を加えるとは恥ずかしいよ。悪いことは言わない、知りもしない分野に手を出すのはおやめなさい。本当に恥ずかしいよ。 何でこんな人が放置されているのかさっぱり分かりません。

更に数年後、またまた池田さんは偏執的にチョムスキーの批判をやっておられます。内容はもはや論評に値しないものですが、矛盾を一つ。「学生時代言語学を専攻しようとしたが、チョムスキー全盛だったのでやめた」というのと、「いまごろになってチョムスキーが輸入された」という発言には、どう考えても矛盾が生じます。行き当たりばったりでめちゃくちゃを書く人なんだなあ。あきれました。「本国では絶滅危惧種」というのももちろんウソで、まあ本当のことなんか期待しちゃいませんが、試しにグーグルででもGenerative Grammarを検索するとすさまじいヒットですよ(239000件)。ひどい嘘つきがいたもんだ。偏執的な虚言症患者だな。今になって対抗理論として格文法だの生成意味論だの出してきて、むなしいものである。せめてOTやCGやLFG,HPSGに言及して欲しいものである(意地悪してわざとアクロニムでしか書かない(笑))。ついでにこんな事も言っているらしいです。池田さんについてはおもしろいサイトがあったのでご紹介します。他にこんな所もありました。驚いたのは、グーグルで「池田信夫」を検索すると、「池田信夫 バカ」というオプションが出てくることです。公認のあれな人なんですね。
追記:2011/06/14 16:20
池田信夫さんはこんな事も書いているようですよ。驚きです。
私について「今すぐ死ね」と書いた記事は脅迫だ。 京都府警に通報し、きょう「受理した」と返事があった。お前のメールアドレス も通知したので、そのうち警察の捜査があるだろう。 はてなにも通知して、お前の発信者情報の開示を要求した。きのう近藤淳也氏か ら「調査中」との返事があった。 私についての記事をすべて削除して謝罪しろ。人間のクズ。 池田信夫

2011/06/30追記更にこんなページも発見。この程度の英文が読めなくて学者とは片腹痛い。だれか止める人はいないんだろうか。電波学者は本当に怖い。チョムスキーもレイコフも読んでいらっしゃるそうだが、なんならワタクシと読解能力を競いましょうか?人間のクズ、池田信夫さん。

更に池田氏の英語読解能力のなさを示すページ発見。むちゃくちゃにも程がある。悪質なアジテーターだとしか思えない。(2011/07/01追記)更に池田批判発見(こんなに批判がある人も珍しいな。2011/07/01追記)更にこんな所も発見(2011年7月2日追記)

よく考えてみれば、大体が生成文法は機械翻訳のために生まれた分野ではない。柄谷行人さんが「チョムスキーの研究は機械翻訳に根ざしている」という趣旨のことを書いておられたが、全くの誤解である。まあ、柄谷さんも学問には寄与しないでたらめばっかり書いている人だから仕方が無いが。あくまでもチョムスキーは「人間の認知能力の一つとしての言語」を研究しているのであって、機械翻訳には使えないとさえ発言している。また、機械翻訳の研究者で生成文法を使っている人がどれだけいるかも疑問だ。ほとんどの機械翻訳研究者は生成文法では翻訳が出来ないことに気がついているのでは無かろうか。知らないって強いなぁ。2012/07/12追記
I have been surprised since to read repeated and confidfent accounts of how work in generative grammar developed out of an interest in computers, machine translation, and related matters. At least as far as my own work is concerrned, this is quite false.もう面倒なので訳をつけませんが、Chomsky 1975, pp40からの引用です。英語読める人は読んでください。2012/10/03追記。


人間のクズ池田信夫さんに質問。「ベイカーズ・パラドックス」ってなんのことだか分かりますか?分かるはずですよね、生成文法に詳しいんだから(笑)。池田がレイコフを支持しないという理由に気がついた。もし支持すると言ってしまえばレイコフの理論について突っ込まれるからだ。チョムスキーもレイコフも分かっていない爆走ぶりである。知りもしない分野に口出しするのはやめて欲しいものだ。それから、チョムスキーは言語学を応用数学として始めたなどと書いているが、知らなかったなあ、そんなこと。テキトーなこと言うんじゃないよ、この人間のクズが。LSLTぐらいは読んだんだろうね、池田。そしたらあれが『応用数学」とやらではないことが分かると思うよ。池田の年齢からいっても馬鹿なのは治りようが無いな。クルクルパーの池田、少しは恥を知れ。格文法が生成文法じゃ無いとかメチャクチャなことをいって慌てて消したり、見苦しいことこの上ない。池田はもちろん知らないだろうが,今フィルモアはCGという文法理論を建築中だよ。それから彼の"The case for cace"は、チョムスキーによって,『真剣な言語研究であれば必ず内包している一面を取り出したに過ぎない」と評価されて、その後フィルモアも格文法には触れなくなっているんだよ。知らないことに口を挟むなよなあ。不治の病、馬鹿にかかっている池田よ、少しは自分の無知を認めなさい。頭が悪いんだから諦めなさい。私は馬鹿です、と宣言しなさい。馬鹿でキチガイであると。
2015/01/21追記
ピンカーの新著の訳本が出た。かつてはチョムスキーと同様に「経験論のドグマ」を繰り返し批判していた著者が、その逆のレイコフのメタファー理論に転じ、「遺伝的決定論」を批判している。認識論的には、ようやく(半世紀以上おくれて)ヴィトゲンシュタインに追いついた程度だが、アメリカ人の哲学的水準なんてこんなものだろう。
また頭が痛くなるようなことを言っている池田信夫であるが、ピンカーの本については完全に嘘。彼は生成学派から離れたことが無い。「ヴィトゲンシュタインにおいついた、そうだが,ヴィトゲンシュタインの何にどう追いついているかには記されていない.だって分かってないんだもんね,池田さん。研究書でも論文でも無く、啓蒙書を持ち出して議論するとは恐れ入る。嘘つきだなあ,この人。

と書いてから、有り難いことに日本語で読めるゲノム解析に関するチョムスキー階層についてのウェブページがあることを知らされた。
京大化学研究所・バイオインフォマティクスセンターのサイトの中にあるものだ
残念ながら上のリンクが消えてしまったので、易しく解説していらっしゃるところをリンクします。
もう一カ所、Wikipediaの解説


1984年のノーベル医学・生理学賞受賞者であるN.K.イェルネ(Niels Jerne)は、受賞講演で、その名も"The Generative Grammar of The Immune System"というタイトルの講演を行っている。(講演なので「ですます調」の方が良かったかな)講演原稿はpdfファイルで見ることが出来る
Grammar is a science that is more than 2000 years old, whereas immunology has become a respectable part of biology only during the past hundred years. Though both sciences still face exasperating problems, this lecture attempts to establish an analogy between linguistics and immunology, between the descriptions of language and of the immune system.

試訳:文法は2000年以上の歴史を持つ科学である。一方、免疫学はたった過去百年の間に生物学の確固たる一分野になったに過ぎない。この二つの科学は いまだ激しい問題に直面しているが、この講義では言語学と免疫学、つまり言語の記述と免疫系の記述の間にアナロジーを立てようと試みる。
という導入で始まる原稿中で著者はチョムスキーの提案として生成文法システムを取り上げ、非常に好意的な援用を行っている。
At this point, I shall make a quotation from Noam Chomsky (3) concerning linguistics: “The central fact to which any significant linguistic theory must address itself is this: a mature speaker can produce a new sentence of his language on the appropriate occasion, and other speakers can understand it immediately, though it is equally new to them … Grammar is a device that specifies the infinite set of well-formed sentences and assigns to each of these one or more structural descriptions. Perhaps we should call such a device a generative grammar … which should, ideally, contain a central syntactic component …, a phonological component and a semantic component.” That is the end of my quotation. For the size of the set of possible sentences in a language, Chomsky uses the word “open-endedness”, and I now think that “openended” is the best description also of the “completeness” of the antibody repertoire.

試訳:ここで、言語学に関するノーム・チョムスキーの著作から引用する。 「どんな有意義な言語学の理論でも、扱わなければならない中心的な事実は以下のことだ:成人の話者は適切な場面でその言語に属する新しい文を産出すること が出来、そして他の話者はそれを---発話者に対してと同様、新しい文であるのだが---即座に理解することが出来る。・・・文法はwell- formedな文の無限集合を特定し、その一つ一つに対して一つかそれ以上の構造記述を付与するデバイスである。おそらくそのようなデバイスを生成文法と 呼ぶことが出来るだろう。そしてそれは、原理的には、中核的統語部門、音韻部門、そして意味部門を内包するはずである」引用はこれまで。言語における可能 な文の数については、チョムスキーは「無制限」という単語を使っている。ここで私は、「無制限」が抗体のレパートリーの「完全性」を述べるのにももっとも 適切な表現だと思う。

そしてこの講演は、以下のチョムスキーと生成文法への言及で締めくくられる。
It seems a miracle that young children easily learn the language of any environment into which they were born. The generative approach to grammar, pioneered by Chomsky (4), argues that this is only explicable if certain deep, universal features of this competence are innate characteristics of the human brain. Biologically speaking, this hypothesis of an inheritable capability to learn any language means that it must somehow be encoded in the DNA of our chromosomes. Should this hypothesis one day be verified, then linguistics would become a branch of biology.

試訳:どんな環境の中に生まれた子供でも、その環境の言語を簡単に学習することは奇跡のように思われる。このことは、チョムスキーによって創始された文法 への生成的アプローチでは、この能力のある深い普遍的な特質が人間の脳に生得的な性質であるとすることによってのみ説明可能であるとする。生物学的な観点 から言えば、どんな言語でも学習可能な遺伝する能力の仮説は、それが我々の染色体の中のDNAに何らかの形でエンコードされているということを意味する。 いつの日かこの仮説が証明されるときが来たら、言語学は生物学の一分野になることだろう。


こういったチョムスキーの各分野への有効な影響に関するリンクは増殖予定。

それでさ、池田!Minimalistは理解出来たのかね?無理だよな。バカなんだから。




宮崎哲弥---宮崎哲弥『論座』7月号「週刊誌時評」より引用
学生時代に田中克彦『チョムスキー』(いまは岩波現代文庫に入っているはずだ)その他のチョムスキー批判の文献をしこたま読んだせいだろうか。どうもヴェ トナム反戦運動華やかなりし頃、アカデミズム、ジャーナリズムの世界に俄に拡がった、理論的な吟味なしのチョムスキー礼賛を彷彿[引用註:ほんとは難しい 漢字]させてしまうのだ。

でたよ。これだよ。田中克彦の悪影響は。
「学生時代に・・・批判の文献をしこたま読んだ」そうだが、「その他の文献」に何があるのか教えて欲しいものだ。その前に、批判の文献を読むために、まずチョムスキーの文献を「しこたま」読んだだろうから、何を読んだのか教えていただきたい。「理論的な吟味無しの」議論はご本人はしないのだろうから。まあどちらにせよ、宮崎さんという方はきわめてナイーブな方なのだろうな。むつかしい新書をたくさん読んでらして、勉強家ですね。すごいなあ。ぼくにわとてもまねできないよ。ヒョウロンカになりたいなあ。かしこそうに聞こえるし。かっこいいなあ。2013/03/26追記:ぼくもヒョーロンカになりたいなあ。やっぱり宮崎さんみたいに「評論家見習い」から始めた方がいいのかなあ?真面目な話、新書は面白い物が多いが、ポピュラーな物を出す必要があるために内容は専門的には薄い。ああいう物をいくらたくさん読んでも何らかの専門家になることは出来ない。雑学の大家になるだけだ。あ、だからヒョーロンカなのか。宮崎さん、とっくにこのファイルにはお気づきだと思いますが(ウィキで削除してるもんね)、公開質問状には答える気が無い=答えられない、と受け取って構いませんね?

2011/08/02追記:田中克彦の「チョムスキー」にだまされる人って池田某や副島某のように知性に問題がある人が多い感があるが、宮崎さんも同じなのだろうか?宮崎さん、英文でせめて"Aspects"の第一章ぐらいは読んでから発言してください。知性を疑われますよ。それとももう英文では読めなくなっていますか?本当にAspectsの第一章だけでもいいから読んでみてください。問題がはっきりします。2013/04/11まだ返事が来ません。何度も言いますが,英文でAspectsの第一章ぐらいは読んでください。そうじゃないと,宮崎さんも発言が疑わしいただの電波芸者になってしまいますよ。宮崎さんも池田と一緒に見たことのない虫にかまれたり、突然女になったり、大家族化したり、志茂田景樹がボーカルのバンドでプレイしたり、重力の大きな星で二人で暮らしたりしてください。

宮崎哲哉さんへの公開質問状

学生時代にチョムスキー批判の文献を「しこたま」読まれたそうですが、例えば何を読みましたか?
「理論的な吟味」無しの議論はなさらないのだろうから、チョムスキーの文献で何を読んだか教えてください。

上の質問状をウィキペディアに載せたところ、即座に削除されている。私の姉に言わせれば、「ああ、あのハウツーばっかり書いてる首の無い人ね」だそうだ。まだ若いのにぶくぶくに太ってみっともない。何でも知ってて何にも知らないヒョーロンカだ。物知りだが、全部上っ面の知識しか無い。宮崎哲哉も大馬鹿だ。卑怯者新たに発見。




2015/12/18

なぜ田中克彦はこんなに認知系に嫉妬深いのか


論理よりも、論理もどきで展開される『チョムスキー』だが、ほの見えるのは嫉妬である。自分より遙かに有名で、社会学にも通じ、その方面での著作もあり、言語学をリードする、そして何よりアカであるチョムスキーに嫉妬したのだ。「チョムスキー革命はあったか」という章で結論としてはなかったことにしたいようだが、現代の認知科学や脳科学を知る人ならそんな馬鹿な嫉妬に与することはないだろう。田中は悔しかったのだ。それだけだ。ワタクシの考えでは、社会学や社会心理学はその大きな部分が認知科学に吸収されてしまうだろう、100年以内には。社会学って科学なの?社会言語学は?社会という架空の存在を対象にしているんだから科学にはならないよな。社会系の人はまるでわざと分からないふりをするようにチョムスキーを受け入れない。なんでだ?

「反チョムスキー」ユウゲニストの踏み石構造「反チョムスキー」に「」が付いているのは、読みもしない聞き かじりアンチを指すため。ユウゲニストとは、経験的価値のない発言しか出来ない人々。ついでに書くと、反チョムスキーは言語学の中では珍しくないが、それ らはもちろんチョムスキーの言うことを理解した上での批判だ。田中克彦の「誤解に基づくチョムスキー」批判とは全く異なり、生産的である。



その後、田中克彦は「爆問学問」というテレビ番組で「人間は言語によって外界を認識している」という100年ぐらい前の古典的言語決定論を流布していることが判明。もうやめてくれよ。っていうか、少しは前線の勉強をしろよ。バカなのは仕方がないとしても、前線の知見を知ろうとする努力ぐらいはしてくれ。完全にウォーフの世界じゃないか。知らないことに口をはさむなよなあ。学史上なんにも影響を与えないまま消えていくんだろうね。なっさけない。電波学者は怖いよ。おまけに世界中の言語をフィールドワークしたと書いてあるが、ほんとかね?音声記号も書けない人にフィールドワークなんかできっこないと思うんだけどね。この人の書いたものにフィールドワークの実がなったものって出てこないけどね。虚言症電波学者、カツヒコここにありだ。何にしろ、ウソはいけませんよ、学者と呼ばれたいのなら。

ついでに:この「田中克彦の子供達」の稿を書くに当たって、あの人物も含めるべきか、ほんの一瞬だけ考えた。しかしやめた。あの人物はここで挙げた人たち とはまったく格が違って段違いにアレである。同列に並べたことで営業のネタに使いかねない。よって
脅迫状共々別稿でさらし者にしておく。これはもう本当についでに書いておくのだが、「欠陥」中であの馬鹿は「生成文法の最新バージョンが、句構造文法である」なんてことを書いていたが、全身脱力である。句構造文法は1950年代からあるよ。好意的に解釈してあげれば、たぶん「欠陥」が出た頃に世に出た、GPSGのことをおそらくは「月刊言語」あたりで斜め読みして「最新理論」だと思ったんだろうなあ。英語は高校生以下、日本語の読解力も怪しく、文章はめちゃめちゃ。そして論理的思考能力は犬並みの馬鹿である。「クルクルパー」という表現があるのはこの人物(本当にヒトか?)を指すためにあったんだなあとほのぼのしてしまった。何年の何月号だったか記憶にないが、「月刊言語」の「チョムスキー理論の功罪」という特集で、渡辺昇一(この人も相当怪しいんだが)が、「アメリカ構造主義の構成素分析は女子大生にも出来る」と書いていたのだが---えらく差別的だな、渡辺さん---これを日本語がちゃんと読めないあの馬鹿は何をどう読んだのか、「生成文法の書き換え規則は女子大生にも出来ると渡辺昇一が言っている」と書いていたっけ。渡辺さんは「チョムスキー理論には罪は見当たらない」と書いているのにね。心底疲れるよ。こういう人たちに付き合うのには。脳腫瘍が出来て寝たきりになった気分だ。ほんとにね、マスコミの有名とアカデミズムの有名を混同しちゃいけないよ。もう名前を出してしまったから書くが、渡辺昇一さんも上智では浮いているんですよ。「言語学者」って言っていながら、言語学関連の講義は持たせてもらえないの。誰も取りはしないの。なんでって?勉強不足で、新しい理論が全く分かってないから。伝統文法至上主義で、それ自体は悪いことじゃないんだけど、それで言語学者って言っちゃまずいよね。ニュートン力学だけで理論武装した人が「物理学者」って言わないでしょう?同じ事情です。主に何をしているかというと、文学部で英語の先生をやっています。言語学には全く触れていません。山本七平を先生と呼んだ段階でこの人はダメだ。なに、あの本。「日本人とユダヤ人」?書いてあることがしっちゃかめっちゃかである。意味が分からない方はこれをご一読あれ。浅見定雄先生は信用のおける方です。統一協会と戦う意思を持った真のインテリです。実を言うと、私自身「日本人とユダヤ人」を読んで半ば信じていた頃がありました。高校生の時ですが。しかしそれでも、日本語は自然に学習できるが、英語やドイツ語は教室で公式を教わるようにしてしか習得できない、という一節に赤で線を引いて、「そんな馬鹿な!」と書いていました。また、ニューヨークに住むユダヤ人が、差別を恐れて探偵付きのホテル住まいをしている、という一節にも、あり得ない、と書いています。そしてまた、イザヤ・ベンダサンという人は確実に日本人だろうという確信を持っていました。表現がいちいち日本語日本語していたからです。浅見先生の「にせユダヤ人と日本人」で、ウソが片っ端から暴かれていくのを読んで、心から快哉を叫び、また、自分も学問に対してはこういう人になりたいと思ったことを思い出します。この時期は、私が本多勝一さんにはまっていた時期とシンクロします。「金曜日」創刊後だんだん科学的におかしなことをおっしゃるようになってしまって、少し残念なのですが、私見では「日本人とユダヤ人」は、「アラビア遊牧民」を読んだ勢いで書かれたのではないかとすら思っています。「買ってはいけない」で、マイルーラが取り上げられてしまって、コンドームを使うと全く感じなくなってしまう私としては大変困った事態になった恨みもあります(笑)。それ以来付き合う女の子にはピルを飲んでもらって事態は解決されました。いいですよ。今の低容量ピル。女の子も生理が確実に来る日が分かるし、軽くなったと言っています。

田中カツヒコの批判をこのように書いていたら、大阪の岸という馬鹿が、「あれだけの人だから我が強いから嘘も書く」などと滅茶苦茶なことを言い始めた。そもそも「あれだけの人」というのが分からない。何ら業績のない馬鹿を馬鹿が尊敬している図である。田中克彦には素人向けの新書しかない。言語学にも社会言語学にも何ら寄与していないカツヒコをあがめているらしい。我が強いから嘘を書くに至っては基地外の発言としか思えない。嘘は嘘でしょうが。ちなみにこの岸という男は、左翼を名乗りながら資産家の娘と結婚して銀行で夫婦別姓にしようとして、受け入れられないものだから椅子を蹴飛ばして帰ってきたそうだ。社会学はそのうち認知系に吸収されてしまうだろう。馬鹿は怖い。他にも、「言語学が言語学を再帰的に定義するべきだ」などというくるくるパーでないと言えない発言もしている。何のことだかさっぱり分からない。馬鹿は怖い。2013/03/26追記。この岸という馬鹿は、子供の言語習得について「黒川さんなら社会はいらないって言うんだろうなあ」などと私の意見でも何でも無い憶測で物事を言っていたが、絶対に一次言語データは言語獲得には必要なのだ。入力がなければ獲得など出来るわけが無い。やたらに「政治的」発言を繰り返してくれた岸だが、これは社会系の人間に共通する問題点じゅあなかろうか?自らが政治的だったり社会の力学に敏感だからそんなの関係ない場所でも「政治」や「力学」のフィルターを通してしか物事を見られなくなっているのだ。どうでもいいや、あんな分野。ナラティブ研究なんて、出來の悪い語用論のパロディみたいなブランチもあるようだし、理論が立つとも思えない。社会学って経験科学になるのかな?これは本当に不思議に思う。


2011/07/28追記。
田中はやっぱり馬鹿である。漢字廃止論などと言う愚かなことを漢字を使って主張しているあたり基地外だ。それなら漢字に変わる新たな表記法を自作して見せろってんだ。基地外、馬鹿、嘘つき、勉強不足、老害とはこのことだ。もう本なんか出すなよ、田中のヴァカ。本当にこの人は知らない事に口を出したがる。言語学が汚れるから一切発言しないで欲しいものだ。田中さん、あんたが考えている言語学って一世紀遅れてるよ。もうやめな。 ガムあげるから。キャンディも欲しかったらあげるよ。大体が一ツ橋で言語学を教えていたのがもう怪しい。一ツ橋は言語学をやるために行く大学じゃないでしょう。ナイーブな学生相手に嘘をつき続けたんだろうなあ。もう本当に害にしかならないから早く死んでください。それが出来ないんならとっとと隠居して全発言を否定し読者に謝罪しなさい。2012/10/03追記。これは言い過ぎでしたね。誰にでも生きていく権利はあるし、どんな言論も制約されてはいけません。そもそもが田中克彦さんは学問的には死んでいるから、何の影響もないのです。冷静になって考えれば分かることでした。新書しかない田中さん。娯楽としての読書に勧めるのにはいいのかもしれないな。しかし、「言語が思考を制約して、また決定している」という古典的決定論は今ごろになってはまずいですよ。そしたら数学や物理学から、車の運転、チェス、将棋、麻雀、プログラミング、建築、料理、ナンパ、口説き、拒絶、再度の口説き、受容、抱擁、その後のベッドでの会話、痴話げんか、謝罪、仲直り、二度目の抱擁、絶頂、痙攣、一本のタバコを分けて吸う、「次はいつ会える」と聞く、「もうこれっきりにしよう」と答える、泣き出す女、もう一度激しいキスをしてまた始めてしまう二人、結局は別れずにずるずると付き合う二人、俺は何を書いているのか?ありとあらゆる知的行為が片っ端から言語の下位分野になってしまうでしょう?主張するのは勝手ですが、そこからなにが派生的に説明できるかを示さないと言いっ放しですよ。反論として書いておきます。定義上思考を持たない赤ん坊が、どうしてこれまた定義上思考そのものである言語を獲得できるのですか?田中さん、この問いに答えられますか?十分な明晰さを持って。晦渋に逃げないで。こういう議論においては、AはBである、だけではなくて、そこから「よってCが説明される」という理論の展開が不可欠なのですが、田中克彦さんには決定的にそれが欠けています。


012/08/26追記。
田中克彦さんは、「漢文には品詞が無い」などという明らかなナンセンスを書いているが、読んでわかるんなら品詞はあるじゃないの。ぐったりするよ。こういう馬鹿発言には。だいたい自然言語で字面だけ見て品詞がわかる言語なんてあるのかね?本当の馬鹿だ。

発見。チョムスキーが数理言語学をやっていたとは知らなかった。二期に切り分けられるのも知らなかった。素人が口を挟むとますますややっこしくなる。原典を読まないまま発言して欲しくないものだ。(その後コメントしたらまともな回答が帰ってきたので、この方は素人でもないし、原典を読んでいるようだ。失礼しました。)
で、田中が漢文には品詞がないなどと妄言を吐いているのだが、読んだ人のメンタルリプリゼンテーションにあるのだよ。紙やら字面が問題ではないのだ。バカだなぁ。で。この発言で分かるのは、田中こそが字面、すなわち印刷にとらわれているということだ。愚かだなあ。

2015/12/31

爆笑問題との対話を読んだ。/k/を一番奥だと発言しておられるが、それならフランス語の/r/やアラビア語の/x/(これは縦長のx)や声門閉鎖や摩擦はどうなるの?この人本当にものを知らない。自分が言語学会では笑いものなんだって事は分かっているだろうに。もうやめなよ。痛々しいよ。










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<たぶん続く>