『最新世界人名事典』(むさし書房 山吉長監修)より     【トップページ】

12.24 カミュ
 現代フランスの文学者。フランス領アルジェリアに生まれ、アルジェリア大学を卒業。1940年パリに出たが敗戦のためアルジェリアに帰り、小説「異邦人」を書き、赤裸の自然への愛と既成の観念に反逆した。41年パリに出て対ドイツ抵抗運動に参加し、また小説「ペスト」を書いた。実存主義者で、1957年ノーベル文学賞受賞。

12.23 柳沢吉保
 江戸時代初期の政治家。幼時より徳川綱吉に仕え、綱吉の将軍就任とともにこれに従った。綱吉の愛顧を受け、小姓より大名に列し、側用人となり、老中格・大老格と昇進し、権力を振るった。多くの悪評をこうむったが、政治家としての才能もあり、学問を奨励するなど功績があった。

12.22 フロイト
 オーストリアの精神病学者。最初法律学ついで植物学・化学を修め最後に医学を学んだ。のちフランスに留学して精神病について研究し、とくにヒステリーの起こる原因を研究した。人間の考え方あるいは行動すべてが性欲に基づくと主張した。精神分析学を確立し、精神病の治療をはじめ心理学や文学に大きな影響を与えた。主な著作は「精神分析入門」。

12.20 亀井勝一郎
 現代の評論家。函館の人。東京大学美学科を卒業。プロレタリア文学運動に入ったが転向して文学界同人となり古典と民族精神の自覚を説き、宗教的傾向さえ示した。著書には「大和古寺風物詩」「聖徳太子」など。

12.19 為永春秋
 江戸時代中期の人情本作者。本名佐々木貞高。江戸の貸本屋であったが、講談師をへて作家となり、「春色梅暦」など人情本を書いた。その作風は男女間の情事を描いて風俗を害するおそれもあったので、水野忠邦の天保の改革により、手錠の刑に処せられた。

12.18 マラルメ
 フランスの詩人。パリに生まれ、中学の英語教師として穏健な生活を送ったが、ボードレールの影響を受けて詩作した。近代印象派詩人の代表者として世界各国の詩人に与えた影響は大きい。代表作は長詩「半獣神の午後」。

12.17 与謝野晶子
 明治・大正時代の女流歌人。堺(大阪府)に生まれ、女学校を卒業し上京して歌誌「明星」に短歌を発表した。明星は歌人としてロマン的傾向の強い作品を発表し、近代短歌史上に大きな足跡を残した。与謝野鉄幹と結婚した。歌集には「乱れ髪」「舞姫」など。また「源氏物語」の口語訳は有名。

12.16 ノバーリス
 ドイツの詩人・小説家。本名はフリードリッヒ=フォン=ハンデンベルク。ドイツロマン派の詩人の代表。イエナライプチッヒ大学で法律を学び、役人となった。愛人を失い、その悲しみから「夜の賛歌」を書いた。ゲーテの「ウイルヘルム=マイスター」を読んで感激し、「青い花」(ハインリッヒ=フォン=オフターデインゲン)を書いた。

12.15 志賀潔
 明治・大正時代の細菌学者。赤痢菌の発見者。宮城県の人。東京大学医科を卒業。伝染病研究所に入り、北里柴三郎の指導のもとに細菌学を研究し、赤痢菌を発見した。のちドイツに留学し、エールリッヒに学び、帰国後、結核とライ病の治療法を研究した。のち招かれて京城大学総長などをつとめた。昭和19年(1944)文化勲章を受賞。

12.14 劉少奇
 中国の政治家。湖南省の人。社会主義青年団に参加し、革命運動と労働運動に没頭した。モスクワの東方大学に学びそののち党の要職につき、1945年七全大会で中央委員に選ばれた。中共中央委員会副主席。党内第1の理論家で毛沢東の有力な後継者。

12.13 細川勝元
 室町時代後期の武将。幕府の管領。応仁の乱における東軍の中心人物。山名宗全と勢力を争い、応仁の大乱を起こしたが、乱半ばで病死した。

12.11 ルイ=フィリップ
 フランスの国王。オルレアン公ジョセフ=フィリップの子。フランス革命に参加した。1830年七月革命でパリの民衆が復古王政を倒したのに乗じ、大ブルジョアジーに推されて王位についた。平民的な態度を装ったが、労働者と農民の反対を受け、暴動が起こってついに1848年二月革命によって共和政府が樹立したのでイギリスに亡命した。

12.10 良寛
 江戸時代後期の歌人。越後(新潟県)の出雲崎の名主の子に生まれたが、18歳のとき出家して禅をおさめ、全国に出遊して20年修行につとめ、越後に帰って寺も持たず説教などもせず、貧しい庵をつくって住んだ。名利を離れて村童たちと天真らんまんに遊び戯れ、詩歌を詠じ、心のままに一生を送った。その歌は万葉調を好み、用語や格調にとらわれることがなかった。「蓮の露」「良寛和尚歌集」など。

12.9 ローランサン
 フランスの女流画家。パリに生まれブラック・ピカソの影響を受けて立体派運動に参加した。1907年アンデバンダイ展後、立体派から遠ざかり、装飾的野獣派の研究を続けた。婦人らしい情感を持ち、女性の姿態を淡い白赤・緑・青・灰などの色調を持って甘美な情緒のうちに描き出した。代表作は「コンポジション」。

12.8 川端玉章
 明治時代の日本画家。京都の人。円山派の中島来章に学び、また各地を旅して写生し、洋画の手法を取り入れ、橋本雅邦と並び称された。東京美術学校教授、帝室技芸員となった。また別に川端画学校を開いた。代表作は「浜離宮」「桃源図」など。

12.7 ピサロ
 フランスの画家。パリに出てコローを訪ねてその指導を受け、またモネ・セザンヌの影響を受けた。素朴は田園の生活をはじめ、市街・港・市場・橋などを描き、とくに好んでパリ郊外を描いた。代表作は「ボントアーズ風景」「ルアン港」など。

12.6 北条実時
 鎌倉の政治家。金沢文庫の創設者。北条義時の孫。執権北条泰時の信頼を受け、評定衆越訴奉行となった。学問を好み、また書籍の書写蒐集につとめ、鎌倉に文庫を設けたが、のち金沢(神奈川県)に称名寺をたて、この境内に「金沢文庫」を設けた。

12.5 ツウィングリ
 スイスの宗教改革者。ウィーン・バーゼルで神学を研究し、チューリッヒの牧師となった。ローマ教会を批判し協会改革運動をおこし、スイス南部の山岳地帯でカトリックの人々と争って戦士。

12.4 水野忠邦
 江戸時代後期の政治家。浜松藩主。将軍徳川家慶を補佐して信任を受け、老中に任ぜられ、いわゆる天保の改革を行った。幕府の存続維持のために、人返し、株仲間の廃止と農村の衰亡を防ぎ、倹約・風俗の粛正を命じ、種々反動的な政策を断行したが、その余りにも厳格のために人々の反感を招き、多くに非難のうちに老中を免ぜられた。晩年山形に移され、不遇の中に没した。

12.3 
 イギリスの生物学者。ロンドンで医学を学び、海軍軍医となってオーストラリアに航海し、その間に動物に興味を覚え、生物の研究をはじめた。ダーウィンの「種の起源」を読んで感心し、ダーウィンに代わってこの説を世に広めることにつとめ、1863年「自然界における人間の地位」を発表して人間がサルから由来したと断言した。力強い文章で通俗的な自然科学の本を書きその普及に努めた。 

12.2 横光利一
 大正・昭和時代前期の小説家。福島県の人。早稲田大学英文科中退。大正12年(1923)文芸春秋同人となり「日輪」を発表して認められ、新感覚派運動の中心人物として活躍した。人間心理の追及にすぐれた。代表作は「旅愁」「機械」「時計」など。

12.1 荘子
 中国の戦国時代の思想家。名は周。その思想は道家に属し、すべてのものの根本となるものは無で、知を捨てて自然の道に身を任せるのが正しいと説いた。その思想は道家のそれとあわせて「老荘思想」と称し、東洋思想の1つの流れを形成した。

11.30 菊地武時
 鎌倉時代末期の武将。九州肥前(熊本県)の人。元弘の変に際し、後醍醐天皇に応じて九州探題北条英時を博多に攻めて戦死した。その子武重、武敏竹光以下、代々南朝に属した。

11.28 韓信
 中国の漢時代の武将。江蘇の貧しい家に生まれ、劉邦に従って趙・魏・燕・斉を討ち、漢の天下統一に功あり、漢の三傑と称せられた。武功により楚の王に昇進したが、漢の高祖(劉邦)の政略にかかって謀殺された。その少年時代の「韓信の股くぐり」の話は有名。

11.27 平惟盛
 平安時代末期の武将。重盛の長子。源頼朝が挙兵に際し、これを追討するため東下し、富士川をはさんで相対したが、水鳥の羽音に驚いて敗走した。のち源義仲を北陸に討ち、砺波山の一戦に夜襲せられて敗走した。平家西走の際これに従ったが、そののちの行動は不明。

11.26 項羽
 中国の戦国時代の武将。楚の将軍の家に生まれ、劉邦とともに秦を滅した。のち劉邦と争うようになり、垓下に戦ったが、四囲を敵にかこまれ、愛人の虞美人も自殺したので漢軍の前で自ら若い命を絶った。中国史上有名な武将。

11.25 空也
 平安時代中期の僧。踊念仏の開祖。醍醐天皇の皇子ともいわれるが明らかではない。僧となり諸国を遍歴して道路の改修などを行い、社会事業に尽くした。好んで市中に弥陀の名号を唱えて民衆に念仏をすすめ、世に市聖と呼ばれた。念仏を民間に流布した先駆者。

11.24 デュマ
 フランスの劇作家・小説家。パリで劇作に従い、数十編の名作を書いてパリ劇場の人気を集めた。通俗的ではあるが雄大な構想の小説を書いた。多作でしかも最も人気のある作家であったが、豪華な生活と劇場建設はどの野心により借財がかさみ、晩年には破産する状態であった。代表作は「モンテ・クリスト伯」「三銃士」など。

11.21 
 昭和時代初期の小説家。プロレタリア作家。秋田県の貧農に生まれ、苦学して小樽高商を卒業。のち銀行に勤務したが、社会主義思想を抱き、政治運動に参加した。拷問によって虐殺されるまで、多くの注目されるされる作品を書いた。代表作は「一九二八年三月一五日」「蟹工船」「不在地主」など。 

11.20 フェルミ
 現代イタリアの物理学者。ピサ大学に学び、フィレンツェ・ローマ大学教授となった。人工放射線元素をつくることに成功し、1938年ノーベル物理学賞を受けた。第2次大戦前ファシズムに反対してイタリアを追われ、アメリカに渡って研究を進め、原爆研究の指導的役割をはたしたことは有名。戦後再びイタリアにもどり、ローマ大学教授をつとめた。

11.19 山田長政
 江戸時代初期の南方渡航者。名は仁左衛門。駿河(静岡)の武士。貿易船に便乗してシャムに渡り、日本人町の頭領となり、シャム国王を助けて内乱を平定し、王に信任を得てその王女を妻とし、リルゴ王に封ぜられた。シャムの王位継承について争いが起こった際、毒殺された。

11.18 カサノーバー
 イタリアの冒険家。ベニスの役者の子に生まれ、僧侶の教育を途中で放棄し、その後機知と詐術を持って司祭・賭博者・バイオリニストとしてヨーロッパ各地を20年間も放浪した。ベニスで捕らえられたが、パリに逃れ、ヨーロッパの文化人と知己を得た。その詐術と恋愛の記録「回想録」は有名。

11.17 山極勝三郎
 明治・大正時代の医学者・病理学者。長野県の人。東京大学医科を卒業。ドイツに留学後東京大学教授となった。ウサギの耳翼にコールタールを繰返し塗布することによって皮膚癌を発生せしめ、世界最初の癌の人工発生に成功した。そののちネズミの肝臓癌の発生に成功した。また脚気・日本住血吸虫害についての研究でも有名。

11.16 ヘミングウェイ
 現代アメリカの小説家。イリノイ州に生まれ、新聞記者となった。第1次大戦に参加し、イタリア戦線で負傷した。戦後再び記者となった。かたわら短編小説を書いた。写実的で、簡潔な会話体の文章に優れている。代表作は「誰がために鐘は鳴る」「武器よさらば」など。

11.14 滝錬太郎
 明治時代の作曲家。大分県の人。東京音楽学校卒業後、母校の助教授となり、ドイツに留学したが、肺を病んで帰り、25歳の若さでなくなった。「荒城の月」「箱根八里」など不朽の名曲を残した。

11.13 李太王
 朝鮮の李王朝最後の王。高祖。大院君の子。1863年即位。大院君の引退後親政し、内は国政を改革し、外は開国を方針として努力したが、閔妃一派が国政を左右して成果をあげ得なかった。国号は韓と改めたが、1905年日本の保護国化し、7年日本に併合され、退位した。

11.12 平忠盛
 平安時代末期の武将。清盛の父。朝廷に仕え、検非違使左衛門大尉となった。山陽・南海二道の海賊を捕らえて功を立て刑部卿となり、昇殿を許された。伊勢平氏が中央に頭角を現す基礎をつくった。

11.11 トリチェリ
 イタリアの物理学者。名門の出身。ガリレオの招きでフィレンツェに来て教えを受け、ガリレオの死後その跡をつぎフィレンツェ=アカデミーの数学教授となった。1643年トリチェリの真空についての論文を書いた。この「トリチェリの真空」の実験から水銀気圧計を発明した。

11.10 坂田藤十郎
 江戸時代初期の歌舞伎役者。京都に生まれ、大阪荒木与治兵衛座で「夕霧名残の正月」の伊佐衛門に扮して一躍有名となった。近松門左衛門の脚本を得て一世の名優と称せられた。上方歌舞伎の代表的名優。

11.9 ドレフュス
 フランスの軍人。アルサスのユダヤ系の実業家の子に生まれた。1893年砲兵大尉のとき、ドイツに軍事機密を売った容疑で捕らえられ、軍法会議で流刑の宣告を受けた。この判決はユダヤ人に対する偏見であるとして、文学者ゾラなどの猛烈な反対を招き、政治社会問題を起こしたため、ついに判決が破棄され、復職が許された。

11.8 野口米次郎
 大正・昭和時代前期の詩人。愛知県の人。慶応大学卒業。アメリカに遊びポーに傾倒した。ロンドンで英詩「東海より」を発表し、「ヨネノグチ」の名で有名となった。帰朝後慶応大学で英文学を講じ、詩・評論を書いた。詩集に「山上立つ」「この手を見よ」、論書に「北斎」「日本詩歌論」などがある。

11.7 ソロモン
 古代ユダヤの王。ダビデ王の子に生まれ、前973年王位についた。エジプト女王を妻とし、エジプトを同盟国として軍備を充実し、エルサレムの宮殿などをつくって、いわゆる「ソロモンの栄華」の繁栄を表した。

11.6 徳富蘆花
 明治・大正時代の小説家。本名は健二郎。熊本県の人。京都の同志社の学び、トルストイに私淑した。明治31年(1898)「不如帰」を発表し、大衆の人気を得、随筆「自然と人間」、小説「思い出の記」で文名を博した。明治39年(1906)単身エルサレム巡礼の途に上り、またロシアにトルストイを訪問した。自ら汗する田園生活も営んだ。

11.5 ピオ12世
 現代のローマ法王。ローマに生まれ、グレゴリア大学・ローマ神学校に学び、司祭・法王庁枢機長官を経て1936年法王に選ばれた。第2次大戦中は中立の立場を持し、戦争の早期終結に努力したが、戦後はカトリック教国を率いて反共の政治活動に乗り出し、世界の注目を集めた。

11.4 宮沢俊義
 現代の法学者。長野県の人。東京大学法科卒業。東京大学教授となった。美濃部達吉学派の自由主義者で、憲法学の権威。憲法に関する著書が多い。

11.3 陶渕明
 中国の南北朝時代の詩人。名は潜、字は渕明。江西の出身。官職を辞して故郷に帰り、乱世をのがれて自然の美を歌った田園詩人。「帰去来の辞」はとくに有名。酒をのみ、花を愛し、清貧のうちに一生を送った。その詩は虚飾をすてて感情のあふれたもの。

11.2 柴田勝家
 安土桃山時代の武将。尾張に生まれ織田信長に仕え、第一の武将として武功を建て、越前(福井県)の北庄にあって北陸地方に勢威をはった。本能寺の変後、豊臣秀吉の声望高まるのを見て、これを除こうとして挙兵したが、賤が岳に敗れ、北庄にかこまれて自害した。

10.31 達磨
 インドの仏僧。中国の禅宗の開祖。南インドのバラモンの出身。仏教公布のため470年ごろ広東の南方に達し北に進して禅宗を開いた。河南の嵩山少林寺で壁に向かって8年間も坐り続ける修行をしたといわれる。

10.30 団琢磨
 大正・昭和時代初期の実業家。福岡藩士の家に生まれ、アメリカに留学した。帰って三井に入社し、三池炭鉱を経営し、三井合名の設立にあたり参事ついで理事長と進んだ。三井財閥の中心人物で財界の大御所。極右団体の血盟団の1人によって暗殺された。

10.29 鄭和
 中国明時代の武将。雲南出身の回教徒。明朝第3代の成祖永楽帝に仕え、永楽帝より宣宗の時代にわたって1405年以来、命令によって前後7回大船団を率いて南海方面に大遠征を行った。この遠征により西南アジアの30余国は中国に従い、中国と西南アジアとの通商貿易が盛んになった。

10.28 赤染衛門
 平安時代中期の女流歌人。三十六歌仙の1人。大江匡衡の妻であったが夫に死別後、尼となった。若いころから歌人として名があり、和泉式部とならび称せられる。屏風歌や歌合せにすぐれ、おだやかな作風で、妻としてまた母としての生活を歌ったものが多い。「後拾遺集」にえらばれ、他に「赤染衛門集」の歌集がある。 

10.27 キヨソネ
 イタリアの彫刻家。アレンツアーに生まれ、彫刻家として有名となった。日本政府に招かれて明治8年(1875)来日し、紙幣寮にあって有価証券の作図と彫刻に従事し、日本の彫刻界に大きな影響を与えた。在日17年鎌倉で病死した。 

10.26 蘇我蝦夷
 山と時代末期の豪族。馬子の子。山背大兄王を退けて田村皇子を帝位につけて舒明天皇として一子入鹿とともに蘇我氏の全盛期をなした。自らを天子に擬したといわれる。大化の改新に当たって入鹿とともに滅ぼされた。

10.24 林則徐
 中国の清朝の政治家。福建に生まれ進士に合格して役人となり両広総督・欽差大臣となった。イギリス支配下のインドからアヘンが輸入され、その吸引によって毒され、巨額の銀が海外に流出するのを見てアヘン禁止の令を発し、さらに広東でアヘン没収を断行してイギリスとの間にアヘン戦争を起こした。戦後左遷されたが、太平天国の乱の討伐に再び用いられ、途中病死した。

10.23 堂本印象
 現代の日本画家。京都の人。京都絵画専門学校卒業。西山翠照に学び、文展・院展に数回入選し、美術院賞を受け、帝展審査員・文展審査員となった。印象画塾「東丘社」を主宰した。

10.22 シュリーマン
 ドイツの考古学者。古代ギリシアのエーゲ文明の発見者。幼時からホメロスの詩に親しみ、これにひかれた。商業に成功して富を得たのち、トロイヤの遺跡の発掘を行いついにこれを発見して、ミケネ文明を明らかにし、クレタ文化発見の糸口をつくって、古代エーゲ文明を明らかにした。

10.21 楠木正行
 室町時代初期の武将。正成の長子。父の死後その志をついで南朝(吉野朝)に仕えて力を尽し、しばしば足利軍と戦ってこれを破ったが、ついで河内(大阪府)の四条畷で足利の武将高師直と戦って戦死。小楠公と称せられ、四条畷神社に祭られた。

10.20 義浄
 中国の唐代の僧。茫陽に生まれ、37歳のとき単身インドにおもむき、25年間滞在して仏教思想を研究、帰国後は経文を翻訳することにつとめた。とくに「律」の研究に力を注いだ。著書は「南海寄帰内法伝」。これは当時のインド研究の重要資料。

10.19 名和長年
 鎌倉時代末期の武将。伯耆(鳥取県)の人。隠岐(島根県)を脱出した後醍醐天皇を奉じて船上山に錦旗を立て、近国を席捲して上京した。その功により伯耆・因幡の守護に任ぜられた。建武の中興後、九州より東上した足利尊氏を京都に迎撃し、奮闘して討死した。

10.18 王維
 中国の唐代の詩人・画家。山西に生まれ、科挙の試験に合格して官についたが、まもなく辞して詩や画にはげんだ。その詩文は美しい自然を詠じ、「王右丞集」に収められている。また画も南画の開祖として、とくに山水画にすぐれていた。代表作は「江山雪斎図」。書家としてもまた一流であった。

10.17 石田三成
 安土桃山時代の武将。近江(滋賀県)に生まれ、寺の小僧であったが、豊臣秀吉に仕えて重く用いられた。秀吉の死後、徳川家康の勢力が増大するのを恐れて徳川征伐の兵をあげ、1600年(慶長5)関が原で天下分け目の戦いをいどんだが、敗れて京都で殺された。

10.16 李白
 中国の唐時代の詩人。字は太白。号を青蓮。蜀(今の四川)に生まれ、諸国を放浪した。その文才を認められて玄宗皇帝に仕えたが、その性格が勤めに合わず、長安を去った。流浪の酒仙として貧窮の間に自由奔放な詩を残した。詩聖杜甫に対して詩仙といわれる。「李太白」全集30巻がある。

10.15 高山右近
 安土桃山時代の武将。キリシタン大名。摂津(大阪)高槻の城主となり領内に教会堂を建て宣教師を優遇した。キリシタン禁令後、加賀の前田家に身を寄せ、1614年国外に追放されてマニラにおもむき、その地で病死した。

10.14 モルガン
 アメリカの動物学者。ケンタッキー大学を卒業。コロンビア大学教授となった。ショウジョウバエを材料として遺伝の研究をはじめ、その遺伝現象を徹底的に分析し、遺伝の動きを仮定することによってそれらの現象の多くをうまく説明することに成功した。1933年ノーベル医学賞受賞。遺伝学の大成者として有名。

10.13 三浦梅園
 江戸時代中期の思想家。豊後(大分県)の人。儒学を学んだが、中国の星学の書を読み、天球儀を作って研究した。のち天地に条理があることをさとり、一種の宇宙論とも言われる「玄語」を著わした。ほかに「贅語」「敢語」「価原」などを表した。

10.12 リットン
 イギリスの政治家。インドに生まれケンブリッジ大学卒業。海軍政務次官ベンガル州知事を経てインド総督に任ぜられた。1931年国際連盟満州国調査委員会委員長となり、満州事変の実地調査を行い、「報告書」を発表。

10.10 藤原不比等
 奈良時代の政治家。藤原鎌足の子。朝廷に仕え、大宝律令・養老律を制定し、大化改新の完成に尽した。没するにおよんで正一位太政大臣を送られた。長女は文武天皇夫人、次女は聖武天皇の皇后となり、藤原隆盛の基礎を築いた。

10.9 墨子
 中国の戦国時代の思想家。名はテキ。魯の人。孔子よりやや後の人といわれるが伝記は不明。勤倹をすすめ、広く人類の兼愛(博愛)を説いた。儒家とならび戦国時代に盛んに行われた。著書は「墨子」。

10.8 高橋由一
 明治時代初期の洋画家。下野(栃木県)佐賀藩士の家に生まれ、狩野派の絵を学んだが、洋画に転じ川上冬崖の指導を受けた。横浜のイギリス人ワーグマンにも師事した。明治新政府に職を奉じたが、まもなく辞して「点絵楼」という画の道場を開き、洋画の普及に努めた。代表作は「鮭」。

10.7 司馬遷
 中国の前漢時代の歴史家。陝西に生まれ父につぎ太史令の職につき、太初暦を制作した。30年の日月をかけて「史記」130巻を編修した。太史公と称せられた。

10.6 坂上田村麻呂
 平安時代初期の武将。帰化人の子孫と伝えられるが、桓武天皇に仕え、延暦年間に2度にわたって征夷大将軍として蝦夷征伐に大功を建てた。また薬子の乱にも功があった。その死後、京都宇治に墓地を与えられた。

10.4 オットー1世
 中世ドイツの皇帝。神聖ローマ帝国初代皇帝。936年東フランク王となり、諸侯と争って勝ち、ドイツ統一を目指して、国内からマジャール人・スラブ人を追い、北イタリアを占領した。キリスト教にも忠実であったのでローマ法王から帝冠をうけ、その勢力は法王を圧するものがあった。

10.3 出雲阿国
 戦国時代の女性で、歌舞伎芝居をはじめた人。出雲(島根県)に生まれ、出雲大社の巫女であったが、念仏踊りをしながら諸国をまわった。京都の鴨川原で踊り好評を博し、ここで踊りを教えることになり、歌舞伎踊りの発達のもとをつくった。

10.2 カミュ
 現代フランスの文学者。フランス領アルジェリアに生まれ、アルジェリア大学を卒業。1940年パリに出かけたが敗戦のためアルジェリアに帰り、小説「異邦人」を書き、赤裸の自然への愛と既成の観念に反逆した。41年パリに出て対ドイツ抵抗運動に参加し、また小説「ペスト」を書いた。実存主義者で、1957年ノーベル文学賞受賞。

10.1 芦田均
 現代の政治家。京都府の人。京都大学法科を卒業し、外交官となった。政界に入り、衆議院議員となり、幣原内閣厚相、片山内閣外相となった。進歩党総裁となり、昭和23年(1948)内閣を組織したが、昭和電工事件で総辞職した。憲法改正・再軍備論を強く主張している。外交史の研究家で法学博士。

9.28 キケロ
 古代ローマの政治家。アルピヌムに生まれ、青年時代ローマで哲学・法学を学んだ。シシリーの収税官となり、知事の腐敗を糾弾し、統領に選ばれた。シーザーの三頭政治時代には追放されたが、のち帰ってキリキアの知事となった。シ−ザーの死後アントニウスに反対したため殺された。「国家論」「法律論」などの著書がある。

9.26 醍醐天皇
 平安時代初期の天皇。宇多天皇の子。「延喜格」「延喜式」を作らせ「律令」の不備を補い、「三代実録」や最初の勅撰和歌集「古今和歌集」をつくらせた。この治世を延喜の治という。

9.25 ニコライ1世
 ロシアの皇帝。1825年帝位につき、絶対専制政治を行い、ハンガリア独立を弾圧し、ポーランド反乱を抑圧した。「ヨーロッパの憲兵」として各国政府から秩序維持の支柱と仰がれた。トルコ分割を企て、イギリス・フランスがトルコを援けたのでクリミア戦争となり、敗北した。

9.24 川合玉堂
 現代の日本画家。愛知県の人。幸野楳領、橋本雅邦の画風を学び、画家となり、東京美術学校教授、帝室技芸員となった。花鳥・山水画に優れ、日本画壇の大御所の1人であった。昭和15年(1940)文化勲章を受けた。代表作は「行く春」「暮雪」「夕立前」など。

9.22 楊貴妃
 中国の唐の玄宗の妃。名は玉環。745年入内して玄宗の妃となり、溺愛の余り国政を忘れさせるに至らしめた。安禄山の乱中、国政を乱すものとして妃を憎んでいた将兵のため殺された。

9.21 広瀬淡窓
 江戸時代後期の教育家。豊後(大分県)の人。儒学を学び、日田に私塾咸宜園を開いた。門弟前後4千余人、独自の学風で朱子学・老荘学などにとらわれず、天を敬い徳を修め学を習うを本旨とし、50年間教育に尽くした。また漢詩人としても有名。三浦梅園・帆足万理らとともに豊後の三先生と称された。

9.20 ユーリー
 アメリカの化学者。インディアナ州に生まれ、モンタナ大学で動物学を学びのち化学に転じた。デンマークのコペンハーゲンに留学し、のちジョン=ホプキンス大学・コロンビア大学教授となった。1931年「重水素」を発見し、その化合物の重水をつくった。1930年ノーベル化学賞受賞。 

9.19 米内光政
 昭和時代前期の軍人・政治家。岩手県の人。海軍兵学校卒業。第三艦隊司令長官・連合艦隊司令長官を経て昭和12年(1937)林内閣ついで近衛内閣の海相となり、昭和15年(1900)内閣を組織した。穏健な意見の持ち主で太平洋戦争には終始批判的で、海軍を代表して戦争の終結に努めた。

9.18 陸象山
 中国の南宋時代の儒者。名は九渕。象山はその号。江西の人。朱子と同時代に朱子に対立して心即性という唯心論を主張し、陸王学派の祖となった。朱子が読書を重んじ、主知的・経験的であるのに対して、直感的・主観的な徳行を重視した。著書に「象山文庫」「語録」など。

9.17 山部赤人
 奈良時代初期の万葉歌人。聖武天皇の吉野行幸などに供奉し、各地を旅行して歌を遺した。身分の低い宮廷歌人と見られるが経歴は不明。万葉集に長歌13、短歌37が収蔵されている。柿本人麻呂とならび称せられたが、その歌風は温雅平明、叙景に長じた。

9.16 リカード
 イギリスの経済学者。ロンドンの富裕な商人の子に生まれ、株式仲買人をして巨富を得た。たまたまアダム=スミスの国富論を読んで、「経済学」に興味をもち、経済学を勉強して「経済学および租税の原理」を著わした。経済学にいう「労働価値説」「分配論」「地代論」などを完成した古典経済学最高の大成者。

9.15 岩野泡鳴
 明治・大正時代の小説家・詩人。兵庫県の人。明治学院・東北学院に学び教師となったが、文学に志し、詩人として世に立った。まもなく小説に筆を執り、「耽溺」を発表して認められた。作風はロマン的な匂いのこい自然主義で、私小説・心境小説の源をなした。代表作は「泡鳴五部作」「征服被征服」。

9.14 バーバンク
 アメリカの園芸家。ランカスターの貧しい農家に生まれ、園芸家を志し、カリフォルニアのサンタ=ローザで花や果実など多くの植物についてたくさんの品種改良を行い、多くのすぐれた品種をつくり出すのに成功し、「サンタ=ローザの魔術師」と呼ばれ。スモモとアンズの雑種であるブラムコットなどが有名。その研究は学会からも社会からも認められず不遇であったが植物の品種改良上大きな功績を残した。

9.13 円山応挙
 江戸時代中期の画家。円山派の創始者。丹波(京都府)の農家に生まれ、京都に出て狩野派の石田幽汀に絵を学び、洋画の遠近法を習い実物写生に精進して独自の写生画風を大成し、円山派を開いた。京都第1の画家と称せられ、その門下も多い。代表作は「雪松図屏風」「保津川真景図屏風」など。

9.12 兎
 古代中国の伝説上の帝王。4千年前皇帝舜の命を受けて黄河の治水につとめ、洪水の難から人々を救い、その功により舜から位を譲られ、夏朝を開いたという。兎の子孫が皇位につき、殷に滅ぼされるまで、夏朝は400年余り続いたといわれる。

9.11 アミーチス
 イタリアの小説家。「愛の学校」(クオレ)の作者。はじめ軍人であったがのちに作家となった。代表作「愛の学校」は12歳の少年の1年間の生活を書いた日記で、世界各国語に訳されて広く読まれ、人びとの心に深い感銘を与えた。

9.10 宇野浩二
 現代の小説家。明治24年福岡に生まれ、早稲田大学英文科を中退し、童話、少女小説を書いた。「蔵の中」「苦の世界」で文壇に認められた。文学の鬼と称して文学に精進し、ユーモアの中に悲しみを漂わせた独自の文章を書いている。代表作は「子を貸し家」「思い草」「富士見高原」など。

9.9 マイヤー
 ドイツの医者・物理学者。はじめてエネルギー保存の法則を唱えた人。キュービンゲン大学で医学を学び、医者となり、東洋航路の船医となった。のち故郷に帰り開業医となったが、研究を続け、1842年「無生物界における力に関する考察」と題してエネルギー恒存について論文を発表したが、世に認められず、精神異常を来たし不幸の中に没した。

9.8 白河天皇
 平安時代末期の天皇。院政の創始者。後三条天皇の長子。1072年即位し在位14年で堀河天皇に譲位後も上皇または法皇として堀川・鳥羽・崇徳の3人43年にわたって院政を行った。院宣を出し、その勢威は天皇または太政官以上であった。豪奢をこのみ、仏教を深く信じ、寺院を多く建てしばしば法会を営んだ。

9.7 アダム=シャール
 ドイツの宣教師。中国名は湯若望。ケルンに生まれ、ジェイスイット派の宣教師として1623年中国に渡り、布教につとめた。明朝のために暦法を改正し、大砲を製造した。清朝にも仕えて重用され、中国文化の発達に尽くした功績は大きい。北京で死去した。

9.6 天草四郎
 江戸時代初期のキリスト教徒。島原の乱の首将。本名は益田時貞。九州島原半島を中心に、キリスト教徒の農民たちが幕府の迫害や藩主の圧制の抗して反乱をおこしたとき、推されてわずか16歳で首将の座についた。容姿すぐれ、救世主と仰がれ、3万7千の信徒を率いて原城にたてこもり、よく幕府軍と戦ったがついに力尽きて滅された。

9.5 エピクロス
 古代ギリシアの哲学者。エピクロス学派の祖。サモスに生まれ、前306年からアテネに学舎を建てて哲学を教えた。快楽主義を唱え、快楽は唯一の善であらゆる道徳の目的であると説き、心の平静を理念とした。

9.4 阿仏尼
 鎌倉時代の女流歌人。「十六夜日記」の作家。藤原為家の妻となり、夫の死後、出家して尼となり阿仏と称した。のち相続争いの訴訟のため鎌倉に下ったが、そのときの旅日記を「十六夜日記」という。また歌人としてもすぐれ「続古今集」に収められている。

9.3 ウェリントン
 イギリスの軍人・政治家。ダブリンに生まれ、士官学校を卒業。陸軍に入り、ナポレオン戦争で戦果をあげ、1815年ワーテルローでこれを撃破した。そののちトーリー党党首となり、典型的なイギリス紳士として国民の尊敬を集めた。

9.2 石川達三
 現代の小説家。明治38年秋田県に生まれ、早稲田大学英文科中退。昭和10年(1935)「蒼氓」により第1回芥川賞を受けて文壇に認められた。そののち風俗小説作家として活躍。代表作は「結婚の生態」「風にそよぐ葦」「四十八歳の抵抗」など

9.1 イワン4世
 ロシアの皇帝。ロシア帝国の基礎を確立した人。イワン3世の孫で、ロシアの勢力を広めるため、カザン・アストラカンを征服。ポーランド・スウェーデン・トルコにも軍を進めた。部下のイエルマークにシベリアを征服させた。また外国から学者・技術者・芸術家を呼びよせ、文化の発展にも力を尽くした。性質は冷酷で、完全な独裁君主で、人々から雷帝と称せられた。

8.31 大岡忠相
 江戸時代中期の政治家。江戸町奉行。幕府に仕え、伊勢山田奉行となったが、徳川吉宗に認められて江戸町奉行に登用された。越前守と称し、その裁断は明白で、人情にかない、大岡裁きの名を博し、名奉行と称せられた。のち寺社奉行となり、三河(愛知)大平の地に1万石に封ぜられ、諸侯に列した。

8.30 ホッブス
 イギリスの哲学者。オックスフォード大学で哲学を学び、諸国を訪ねデカルトも交際した。ベーコン以来の経験論に大陸の数学的理性主義を加えて社会を観察した。代表作は「レバイアサン」。社会には万人対万人の戦いが生ずるため、理性的な社会契約による国家形成の必要性の必要を説き、国家は絶対主権によって統一されねばならないと論じた。

8.29 大町桂月
 明治・大正時代の文学者。高知に生まれ、東京大学国文科を卒業、塩井雨江・武島羽衣と雑誌「花紅葉」を出版した。雑誌「太陽」「中学世界」に評論の筆をとった美文を以って知られ酒と旅を愛し、その紀行文は名文と評せられた。昆虫学者で文章家として知られる大町文衛は桂月の子。

8.28 イエーツ
 イギリスの詩人・劇作家。アイルランドに生まれ、アイランドの文芸復興の指導者として活躍し、文芸家協会や劇団を作るのに努力した。劇作には「カスリーン夫人」「幻の海」など。詩においても独特な作風を有し、アイルランドの神秘と幻想に満ちた抒情詩によって世界的に知られ「葦の中の風」「クール島の野生の白鳥」などがある。1923年ノーベル文学賞を受けた。

8.26 太安万侶
 奈良時代の学者。「古事記」の撰者。朝廷に仕え、元明天皇の命により稗田阿礼の語りつたえる日本古代の神話伝説や天皇の業績をまとめて「古事記」3巻を撰進した。また「日本書紀」の撰進にも関係した。

8.25 エンゲル
 ドイツの統計学者。フライブルクの鉱山専門学校を卒業し、1860年から20年間もプロシアの統計局長をつとめた。収入の中から支出される金額の率が貧富の階級によって異なることを発見した。すなわち貧乏人ほど支出の中で食物費の占める割合が大きいという「エンゲル係数」をつくった。

8.24 松平慶永
 江戸時代末期の政治家。越前福井藩主。春嶽と号した。文武を奨励し、藩政を非難したため井伊直弼より安政の大獄に隠居を命ぜられた。のち幕政に参与し、その刷新をはかり、公武合体に努めた。のち徳川慶喜に大政奉還を説き、時局の収拾にあたった。明治維新後、内国事務総督・民部卿・大蔵卿らを歴任した。

8.23 ゴーリキ
 ロシアの小説家・劇作家。ウクライナに生まれ、しばらく役所につとめたが、やがてペテルスブルグに出て創作に専念し、プーシキンに認められ文壇に出た。リアリズムの立場をとり、社会生活の醜さと矛盾を写実的に描いた。政府から圧迫を受け、イタリアに逃れさらにエルサレムにおもむき、不安と恐怖に悩まされて自殺した。代表作は「検死官」「死せる魂」など。

8.22 俊寛
 平安時代末期の僧。法勝寺の執行となり、後白河法皇に重く用いられた。平清盛の専権を恨み、首謀者として平家打倒の陰謀を京都東山鹿が谷山荘で協議した。このため平清盛の怒りにふれ、薩摩(鹿児島県)の喜界が島に流され、そこで悲劇的な最期をとげた。

8.21 アリストファネス
 古代ギリシアの喜劇詩人。アテネの近くに生まれ、劇作家となった。保守的な考え方を好み、急進的な政治家や思想家をきらってこれに鋭い風刺を浴びせた詩劇を多く書いた。代表作は「アカルナイの男」「蛙」「雲」「蜂」「女の会議」など。

8.20 児島惟謙
 明治時代の司法官。伊予(愛媛県)宇和島の人。幕末のころ坂本竜馬らと交わり、各地の勤皇の同志と倒幕に奔走した。のち明治政府に入り、司法官となり、各地の裁判所長、控訴院長をへて明治明治34年(1891)大審院長となった。たまたまロシア皇太子遭難の大津事件が起こり、加害者を不敬罪として極刑に処しようとしたとき、国法に従って処断し、司法権の独立不可侵を明確にした。のち貴族院議員となった。

8.19 トスカネリ
 イタリアの天文学者・地理学者。フィレンツェに生まれ、医者となったが天文・地理に興味を有し、西に向かって航海すればインドに行くことができると考えて1474年ごろ、このことをコロンブスに手紙で知らせ、また地図をつくった。これがコロンブスのアメリカ発見に役立つ結果となったといわれる。フィレンツェの大会堂の日時計を設置したことも有名。

8.18 観阿弥
 室町時代の能楽師。観世流の祖。伊賀(三重県)に生まれ、大和(奈良県)に住んだ。京都今熊野の能で足利義満に認められ、その保護を受けた。猿楽能を大成し、子の世阿弥とともに能の発展に尽くした功は大きい。代表作は「静か舞の能」「卒塔婆小町」など。

8.17 李成桂
 朝鮮の李朝初代の王。太祖。はじめ高麗に仕え、女真族を討って功績があり、倭寇を撃退し信望を集めたが、逆に高麗を破って軍政権を握り、高麗に代り建国し、都を漢陽(京成)におき李朝を開いた。

8.16 賀川豊彦
 現代の宗教家・社会運動家。明治21年神戸に生まれ、神戸神学校を卒業し、アメリカのプリンストン大学に留学。帰国後神戸の貧民窟に住んでキリスト教の伝道につとめた。体験記「死線を超えて」は絶賛をあびた。農民運動、消費組合運動、社会事業の第一戦に立ち、何度も外遊し、キリスト教的社会運動では「世界のカガワ」として有名。

8.15 モルトケ
 ドイツの軍人。プロシアの将軍。ウィルヘルム1世の信任を受けて参謀長となり、ビスマルクに協力して軍国主義政治を推進。プロシア軍を強大にし、普澳戦争・普仏戦争の勝利を収めた。明敏果断な天才的戦術家で、典型的な武人といわれ、戦術に関する著書も多い。

8.14 倉田百三
 対象・昭和時代前期の劇作家。広島県の人。第一高等学校を中退、京都の一燈園に入り、戯曲「出家とその弟子」を発表して文壇に有名となった。作風は宗教的で愛と信とを説く。評論「愛と認識の出発」は強い影響を与えた。

8.13 フローベル
 フランスの小説家。医者の子に生まれ、法律を学んだがのち文学に志し、簡潔で正確な文章を客観的描写を持って自然主義文学の代表的作家として活躍。代表作は「サランボー」「感情教育」など。

8.12 酒井田柿右衛門
 江戸時代初期の陶工。肥前(佐賀県)の人。はじめ喜三右衛門といい、陶工となり、苦心に苦心を重ねて独創的な金銀泥着色の方を発明した。夕日に照り映えた柿の実の美しさを見てその色を陶器に現そうとしたと伝えられる。以来柿右衛門の名は子孫代々これを襲名した。

8.11 ボッシュ
 ドイツの科学者。ケルンに生まれ、ケルン・ライプチッヒ大学に学んだ。フーバーが空中窒素固定法を完成して以来その工業化に努力し、アンモニアから硝酸を作り、爆薬に必要な硝酸の大量製造を可能にした。1931年ノーベル化学賞を受けた。

8.10 歌川豊国
 江戸時代後期の浮世絵師。江戸に生まれ、はじめ歌川豊春の門に入り、のち英一蝶に学び、豊かで美しい風俗画や役者絵で絶賛を浴びた。また山東京伝、滝沢馬琴の小説のさし絵を描いた。2代目豊国をはじめ多くの門人をそだて、歌川派をさかんにした。

8.8 シュトラウス
 ドイツの作曲家。ヨハン=シュトラウスという同名の音楽家の子として生まれ、ほとんど独力で音楽修行をし、自らオーケストラを組織してワルツを作曲、演奏し、全世界に名声をはせ、ワルツの王と称せられた。代表作に「美しき蒼きドナウ」「ジプシイ男爵」など。

8.7 大江広元
 鎌倉時代の政治家。鎌倉幕府の公文所の別当。学者として有名な大江匡房の曾孫で、京都に生まれ、朝廷に仕えた。源頼朝に招かれて鎌倉に行き、幕府のために画策する所が多かった。その建議により守護・地頭が設置された。博学で政治的手腕にもすぐれ、頼朝の死後も執権北条氏に重用された。

8.6 ペリクレス
 古代ギリシアの政治家。アテネの指導者。民主派の指導者として寡頭派と争い、内においても民主的な改革を行い、外に対してスパルタに強硬な態度で臨んだ。アテネの学問・芸術は盛んとなり、アテネの全盛時代を実現した。やがてアテネとスパルタとのペロポネスス戦争が起り、その戦中に病死した、

8.5 最上徳内
 江戸時代後期の探検家。出羽(山形県)の農民の子として生まれたが、数理・測量を好み、江戸に出て本多利明につき、天文測量航海の学を修めた。1784年(天明4)千島・樺太を視察調査して帰った。93年(寛政5)ラクスマン来航に際し、その応接にあたった。「蝦夷草子」などの著もある。

8.4 ピュリツアー
 アメリカの新聞経営者。ピューリッツアー賞の創設者。ハンガリアに生まれ、アメリカに移住し、セントルイスの新聞記者となった。のちニューヨーク=ワールド紙を買収し、イブニング=ワールドをも経営し、新聞界を支配した。

8.3 山崎宗鑑
 室町時代末期の俳人・連歌師。本名志那範重。武士の出で将軍足利義尚に仕えたが、中年より世を捨てて西国各地を行脚し、晩年讃岐に移って没した。奇才縦横で、当時有数の連歌師として俳諧連歌に重きをなした。「新撰犬筑波集」は有名。

8.2 タフト
 アメリカの政治家。合衆国第27代大統領ウィリアム=タフトの子。エール大学卒業後、オハイオ州会議員、上院議員となり、労働委員会としてタフト=ハートレー法によって有名となった。大統領選挙に数回出馬し、いずれも失敗に終わった。共和党領袖として保守党の中心人物として政界に重きをなした。

8.1 村山竜平
 明治・大正時代の実業家。三重県の人。明治初年大阪に出て商業を営んだが、明治30年(1897)「大阪朝日新聞」を創立し、のち「めざまし新聞」を買収して「東京朝日新聞」と改めた。報道本位の大衆紙面をつくり、その大衆化につとめ、またマリノニ式輪転機の輸入、活字の改良をはじめ海外通信網の確立、航空事業の奨励などつねに新聞事業における先駆的役割を果たした。前後45年東西両朝日を統率して世界的大新聞の地位を確立した。

7.31 ハイデッガー
 現代ドイツの哲学者・実主存義哲学の代表者。マルブルク・フライブルク大学の教授となり、哲学者フッセルの影響を受け、現象学を発展させ、さらに実存主義的な存在論を確立した。主な著書は「存在と時間」「カントと形而上学の問題」など。

7.30 高山右近
 安土桃山時代の武将。キリシタン大名。摂津(大阪)高槻の城主となり領内に教会堂を立て宣教師を優遇した。キリシタン禁令後、加賀の前田家に身を寄せ、1614年国外に追放されてマニラにおもむき、その地で病死した。 

7.28 和田英作
 現代の洋画家。鹿児島県の人。はじめ日本画をのち黒田清輝・久米桂一郎らに洋画を学び、東京美術学校卒業。フランスに留学後母校教授・校長となった。温和な作風で「野辺」「曇り日」。芸術院会員。昭和8年(1943)文化勲章受賞。

7.27 メリメ
 フランスの小説家。「カルメン」の作者。写実主義短編小説の名手と称せられた。作品はオペラで有名な「カルメン」をはじめ「コロンバ」「エトルリアの壺」など。歴史家・考古学者としてもすぐれていた。

7.26 寺島宗則
 明治時代前期の政治家。薩摩(鹿児島)に生まれ、オランダ医学を修めた。イギリス艦隊が鹿児島を攻撃した際、イギリスの捕虜となった。のちイギリスに留学し、帰って幕府の開成社に教鞭をとった。明治維新以後、明治政府に仕えて参与・外務大輔からイギリス・アメリカの公使にもなった。文部卿・法制局長・元老院議長などの要職を歴任した。

7.25 クック
 イギリスの探検家・航海家。1768年第1回の太平洋探検に出発し、南太平洋のタヒチ島を経てニュージーランドを発見し、ついでニューギニア・オーストラリア大陸を発見した。そののちの探検によりハワイ島を発見し、北アメリカ西北岸からベーリング海に入り、北極海にも進んだが、ハワイに帰って原住民のために殺された。

7.24 若山牧水
 明治・大正時代の歌人。宮崎県の人。早稲田大学文科に学び、尾上紫舟に師事し、平明純情なロマン的歌風で歌壇に進出した。旅に送る日が多く、各地を歴遊して自然に親しんだ。また酒を愛し、酔えば愛唱の詩を吟じ、歌を論じて夜を徹するという風であった。清新な紀行文にも異彩を放った。歌集は「別離」「死か芸術か」「黒土」など。

7.23 グレコ
 スペインの画家。ギリシア人でクレタ島に生まれ、ベニスでティチアーノに絵を学び、ローマに行って制作した。奔放な筆致と彩色の対比は近代画の先駆と称された。代表作は「オルガス伯の埋葬」「マリアの昇天」「十字架上にキリスト」など。

7.22 前野良沢
 江戸時代中期の医者・蘭学者。豊前(大分県)中津の藩医の家に生まれ、青木昆陽にオランダ語を学んだ。1717(明和8)江戸小塚原の刑場で罪人の死体解剖を見学し、オランダの医学書「ターヘル=アナトミア」の解剖図の正確なことを知り、杉田玄白らとその翻訳にあたり、4年後「解体新書」を出版した。蘭化とも号し、蘭学の普及に努めた。

7.21 スペンサー
 イギリスの哲学者。ダービーに生まれ、独学で勉強し、「エコノミスト」の編集に当たった。1851年「社会静学」を書き、社会学に進化論を適用適者生存、自由放任主義を唱えた。ほかに「心理学原理」「生理学原理」「社会学原理」などの著書が多い。 

7.20 吉野作造
 大正時代の政治学者。宮城県の人。東京大学政治科を卒業し、袁世凱に招かれ、清国北洋法政学堂教官をつとめた。北米留学後、東京大学教授となり政治学を講義した。政治評論に筆をとり、大正のデモクラシー運動に理論づけを行った。欧州大戦史、中国革命史、明治文化史などの研究家としても有名。「明治文化史全集」24巻を編集した。

7.19 鄭和
 中国明時代の武将。雲南出身の回教徒。明朝第3代の成祖永楽帝に仕え、永楽帝より宣宗の時代にわたって1405年以来、命令によって前後7回大船隊を率いて南海方面に大遠征を行った。この遠征により西南アジアの30余国は中国に従い、中国と西南アジアとの通商貿易が盛んになった。

7.18 乃木希典
 明治時代の軍人。長州藩士。高杉晋作に従って、幕末維新の戦争に活躍した。西南の役にも参加したが、日清戦争に歩兵第一旅団長として従軍。日露戦争には第二軍司令官として旅順攻略奉天会戦に功を立てた。のち学習院長となったが、明治天皇の葬儀の日夫人静子とともに自殺した。至誠尽忠の武人として国民の尊敬を集めた。

7.17 韓非子
 中国の春秋時代の思想家。韓の公子。荀子に学んだという。韓王の使者として秦に行き、李斯に謀殺された。国家を統治するには法律が必要であり、中央集権で行わなければならないという法家の思想を確立。著書は「韓非子」20巻。

7.16 山脇東洋
 江戸時代中期の医者。丹波(京都府)の医者清水東軒の子。京都の名医山脇玄修の養子となり、古法医学を唱えた人体の解剖を行いたいと考えたが、当時人体の解剖は禁ぜられており、1754年(宝暦4)死刑囚の解剖が許され、その結果に基づいて日本における最初の解剖図「臓志」を著した。

7.15 バード
 アメリカの極地探検家。バージニア州に生まれ、海軍兵学校卒業。海軍中佐で退役し、1926年飛行機ではじめて北極に到達した。28年には南極探検におもむき、リットル=アメリカを基地として29年南極を征服した。そののち4回極地探検を行い、その功により少将となった。1955年からアメリカのいわゆる冷凍作戦の最高指導者となったが、病気のため没した。南極探検史上バードの名は不朽。

7.14 坪田譲治
 現代の小説家・児童文学者。岡山県の人。早稲田大学英文科卒業。小川未明について雑誌「赤い鳥」に童話を発表。「お化けの世界」「風の中の子供」を書いて認められた。明快でユーモアに富む作品を多く書いた。作品としてほかに「子供の四季」「善太の四季」などがある。

7.13 抜都
 蒙古の武将。キプチャック汗国をおこした人。ジンギス=カンの孫。モンゴル征欧全総督として蒙古を出発し、カピス海の北から南ロシアに攻め入りポーランドを経て東ドイツに至り、東部ヨーロッパを征服した。ボルカ川の下流にとどまってキプチャック汗国を建設した。

7.12 夢窓疎石
 室町時代初期の禅僧。無窓国師・正覚国師と呼ばれる。伊勢(三重県)の人。後醍醐天皇の帰依を受けたが、南北朝対立後、北朝と足利尊氏の尊信を受けた。南北朝講和につとめ、戦争の罪悪を説いて人民のための徳政を施すべきことを説いた。尊氏にすすめて後醍醐天皇追善のため天龍寺を建立した。造園にすぐれ、西芳寺や天龍寺の庭園は疎石の構想したものといわれる。

7.11 メーテルリンク
 ベルギーの劇作家・詩人。「青い鳥」の作者。はじめ弁護士となったが、パリに出て詩劇「マレーヌ姫」を発表して有名となった。近代神秘主義・象徴主義の代表作家。代表作「青い鳥」のほか「ペレアスとメリサンド」「モンナ=バンナ」など。

7.8 小磯良平
 現代の洋画家。明治36年神戸に生まれ、東京美術学校に入り、藤島武二に学んだ。フランスに留学し帰朝後、猪熊弦一郎とともに新制作派協会を創設した。アカデミックな技巧派としてすぐれている。代表作は「裁縫女」「赤衣の女」「踊り子」など。

7.7 コンステーブル
 イギリスの画家。近代風景画家として有名。実家の水車小屋を手伝っていたが、絵の勉強をはじめ、主に風景画を描いた。明るい光と大気の微妙な調子を取り入れ、自然の刻々の変化を追及した。フランスの画家たちにより礼賛され、大きな影響を与えた。代表作は「刈草」「サリスベーの大寺のいなか家」など。

7.6 和宮
 江戸時代末期の皇女。孝明天皇の妹。名は親子。幼くして皇族と婚約したが朝廷と幕府が融和し、公武合体の実をあげるため将軍家茂の正室(夫人)に迎えられて江戸に下った。貞夫人として聞こえ、家茂病死後、剃髪して静寛院と称した。幕府崩壊に際して朝幕間の和につとめた。

7.5 ユークリッド
 古代ギリシアの数学者。エウクレイデスとも読む。ユークリッド幾何学と呼ばれる1つの学問に幾何をまとめあげた。プラトンの学校に学び、のちプトレマイオス1世に招かれてアレクサンドリアに行ったといわれるが、その経歴は不明。

7.4 宮本武蔵
 江戸時代初期の剣術家。播磨(兵庫県)の人。宮本無二斎の子。幼少より武術にはげみ、二天一流兵法の元祖となった。京都で吉岡一族を倒し、さらに豊前小倉の船島で岸柳佐々木小次郎を破ったことは有名。兵法家として、「五輪書」をのこした。画人としてもすぐれ、水墨画に鋭い気魄を示し一家をなした。熊本で没した。

7.3 プッチーニ
 イタリアの作曲家。ミラノ音楽院に学び、オペラ作曲家となった。イタリア学派の歌劇作家の第1人者で「トスカ」「蝶々夫人」らの世界的な傑作を多く残した。すべてが他聞に感傷的な美しいメロディを有している。

7.2 岡本綺堂
 大正・昭和時代の劇作家。東京に生まれ、新聞記者となり、劇評などを書いていたが、のち劇作者となり、歌舞伎役者市川左団次のために多くの作品を書いた。代表作は戯曲「修善寺物語」「番町皿屋敷」「鳥辺山心中」など。「半七捕物帖」も有名。

7.1 ランケ
 ドイツの歴史学者。ライプチッヒ大学歴史学教授となった。史料批判と客観的叙述に重点をおき、諸国家・諸民族の関連性を世界史の概念で把握した。近代史学の祖。著書は「ローマ教皇視」「世界史」など。

6.30 里見ク
 現代の小説家。有島武郎の末弟。横浜に生まれ、東京大学英文科中退。「白樺」創号に「お民さん」を発表し、ついで「晩初恋」を発表して文壇に認められた。その作風は耽美的、享楽的な面もあるが、その心理描写、表現技巧に優れている。代表作は「多情仏心」「安城家の兄弟」など。

6.29 ダントン
 フランスの革命家。ジャコバン派の中心人物。革命の指導者。ジャコバン党の恐怖政治に反対したためロベスピュールにより処刑された。

6.28 金田一京助
 現代の言語学者。アイヌ語研究家。岩手県の人。東京大学言語学科を卒業し、東京大学教授となった。アイヌ研究家として知られ、アイヌ叙事詩「ユーカラの研究」はその代表的なもの。昭和29年(1950)文化勲章を受章。著書は「アイヌの研究」「アイヌ文学」「国語研究」など。また石川啄木の親友で、「石川啄木」の著がある。

6.27 ボアソナード
 フランスの法学者。明治初期、日本の立法事業に参画した人。パリ大学卒業。パリ大学講師。1873年(明治6)招かれて日本に来て以来95年(明治28)まで20余年、日本の立法事業に貢献した。80年(明治13)の刑法、90年(明治23)民法などはその起草になるもの。日本の西洋法学移入のために尽くした。

6.26 橋本左内
 江戸時代末期の志士。越前(福井)藩の藩医の家に生まれ、蘭学・医学を緒方洪庵・杉田玄白に学び、のち藩校明道館の学監となった。藩主松平慶永を援けて江戸・京都の間に活躍し、藤田湖東・佐久間象山などと交わり、国事に奔走した。井伊直弼の政治を批判したため安政の大獄にかかって処刑された。

6.25 フレーベル
 ドイツの教育家。ペスタロッチに私淑し、幼児教育について研究し、1837年世界最初の幼稚園を設立し、作業および遊戯による児童教育を提唱した。著書の「人間教育」は教育の宝典として有名。

6.24 山極勝三郎
 明治・大正時代の医学者・病理学者。長野県の人。東京大学医科を卒業。ドイツに留学後東京大学教授となった。ウサギの耳翼にコールタールを繰返し塗布することによって皮膚癌を発生せしめ、世界最初の癌の人口発生に成功した。その後ネズミの肝臓癌の発生に成功した。また脚気・日本住血吸虫についての研究でも有名。

6.23 ゴールズワージー
 イギリスの小説家・劇作家。ロンドン近郊に生まれ、オックスフォード大学に学び、弁護士の資格を得たが、文学を愛好し小説家となった。人道主義者で、好んで社会主義問題を取り上げた。芸術的天分も豊かで、詩人としてその素質に恵まれている。1921年国際ペンクラブ会長、23年ノーベル文学賞受賞。代表作は小説「フォーサイト物語」、戯曲「銀の箱」など。

6.22 森永太一郎
 明治・大正時代の実業家。佐賀県の人。明治21年(1888)サンフランシスコに行き菓子製造技術を学んで帰り、東京に日本最初の洋菓子の店を営み、事業を拡張し、大正9年(1910)森永製菓会社を創立し、業界に君臨した。

6.21 リリエンタール
 ドイツの技術者。初めて飛行機を作った人。早くから飛行機の研究に熱中し、蒸気機関による飛行機で失敗した。そののちグライダーの研究に入り、1896年グライダーによる滑空飛行に成功したが、同年滑空墜落死した。「飛行機の父」と称せられる。グライダーの研究で空気力学の基礎を樹立した。

6.20 横光利一
 大正・昭和時代前期の小説家。福島県の人。早稲田大学英文科中退。大正12年(1923)文藝春秋同人となり「日輪」を発表して認められ、新感覚派運動の中心人物として活躍した。人間心理の追及にすぐれた。代表作は「旅愁」「機械」「紋章」「時計」など。

6.19 欧陽修
 中国の宋代の政治家。江西に生まれ進士に合格して官吏となったが、王安石の新しい改革、新法に反対して職を辞した。また学者としてもすぐれ、古文を復興し、華美な唐代の詩風を嫌って新しい詩風を開いた。著書は「新唐書」「新五代史」など。

6.18 仁徳天皇
 古代の伝説上の天皇。応神天皇の子。第16代の天皇とされるが、歴史的にその存在は不明。都を大阪におき、民衆の税を3年免除して民力を復興させ、非常に恵み深い天皇と称せられた。

6.17 サラザール
 現代フランスの哲学者・文学者。パリに生まれ、エコール=ノルマルの哲学科出身。第2次大戦に出征し、ドイツに捕らえられたが、脱走して対独抵抗運動に参加。戦後は雑誌「現代」により実存主義を唱え、小説、戯曲、シナリオ、評論など多方面に活躍。近代人の不安と虚無とを語り、空虚となったブルジョア的立場を批判している。代表作は小説「嘔吐」「壁」「自由への道」、戯曲「閉ざされた部屋」「実存主義はヒューマニズム」。

6.16 式亭三馬
 江戸時代後期の滑稽本作者。江戸の版木屋の子に生まれ、本屋に奉公し、のち古本屋・売薬屋などをした。早くより黄表紙・洒落本・滑稽本などを書いた。江戸町人の動作や会話を精細に写してその生活を川柳的に皮肉ったものが多い。代表作は「浮世風呂」「浮世床」。

6.15 モーム
 現代イギリスの小説家・劇作家。はじめ医学を学んだが文学に転向し、第1次大戦ごろから新進作家として認められた。東洋的神秘への憧れと現代文明の頽廃に対する批判をその特色とした。代表作は「月と6ペンス」。

6.14 嵯峨天皇
 平安時代初期の天皇。桓武天皇の第2皇子。蔵人所・検非違使の創設などの官制の改革を行ったが、文化人としてもすぐれ、特に詩文にすぐれた。歌集に「経国集」があり、書道に秀で橘逸勢・空海とともに三筆の一と数えられた。

6.13 好太王
 朝鮮の高句麗の王。392年高句麗第19代の王となり、南の新羅とくんで百済を攻めてこれを滅ぼし、百済を助けた日本軍を破った。19世紀末、朝鮮・満州の国境の輯安でその碑が発見され、好太王の事跡が明らかになった。

6.12 中野重治
 現代の小説家・文学評論家。福井県の人。東京大学独文科を卒業。在学中から社会運動に参加した。のちプロレタリア文学の指導者として活躍。戦後「新日本文学界」「日本民主主義文化連盟」の結成に尽した。著作には「中野重治詩集」「鉄の話」「楽しき雑談」など。

6.11 則天武后
 中国の唐時代の皇后。宮中に仕える侍女から高宗に愛され、皇后を追ってその地位に登り、武后と名乗った。病弱の高宗に代わって天下の権をすべて集め、自ら聖神皇帝と唱えて国号を周と称した。やがて病気で倒れ、再び唐が勢力を復活した。

6.10 狩野元信
 室町時代末期の画家。狩野派の始祖正信の子として京都に生まれ、父の正信について絵を学んだ。和漢の画を研究して新しい画風を作り出し、狩野派様式を創始した。室町幕府に仕え、山水、人物、花鳥などを描いた。代表作に京都妙心寺や大仙院の襖絵など。

6.9 司馬光
 中国の北宋時代の政治家・学者。通称は司馬温公。山西の人。王安石の新法に反対し、保守派の先頭に立って活躍。退いて修史に専念したこともあったが、哲宗即位後、宰相となり、新法を退けて旧法を復活した。また学者としてもすぐれ、中国歴代王朝の興亡を記述した「資治通鑑」を著わした。

6.8 高島嘉右衛門
 明治時代の実業家・易者。茨城県の人。江戸の木材店に奉公し、のち材木商を営み、鉱山の経営にあたったが、明治維新後、鉄道・国道工事・ガス工事を行い、北海道炭鉱、鉄道会社社長となった。また易学にもくわしく「高嶋易断」の著書がある。

6.7 クーベルタン
 フランスの体育家。オリンピック大会の功労者。1889年パリ博覧会の際、体育会議を開催し、スポーツの国際化を主張。94年国際オリンピック委員会を組織して委員長となり、1896年ギリシアのアテネに第1回オリンピック大会を開催した。1925年まで委員長をつとめ、オリンピックの発展に尽くし、オリンピックの終身名誉総裁に推された。

6.6 黒岩涙香
 明治時代の新聞記者・小説家。高知県の人。慶応義塾を中退して新聞記者となり、評論に筆をふるい、「万朝報」を創刊して主筆となった。海外の小説を翻訳して人気を博した。翻訳小説に「噫無常」「巌窟王」、評論に「天人論」などがある。

6.5 李成桂
 朝鮮の李朝初代の王。太祖。はじめ高麗に仕え、女真族を討って功績があり、倭寇を撃退し信望を集めたが、逆に高麗を破って軍政権を握り、高麗に代わり建国し、都を漢陽(京城)におき李朝を開いた。

6.4 末吉孫左衛門
 江戸時代初期の貿易商人。京都に生まれ、徳川家康の朱印状を受け、フィリピンやシャムとの貿易に活躍した。その船は「末吉船」として有名。大阪の駅(冬の陣・夏の陣)に徳川方のために功あり、河内の国の志紀・河内の2郡の代官となった。またその子孫は代々銀座の役人をつとめた。

6.3 李世民
 中国の唐第二代の皇帝。太宗。高祖李渕の子。英明で、父を助けて兵を挙げ隋を滅し、唐朝を創建した。626年即位し、房玄齢らの名臣を登用して財政・兵制を整え、武威を四方に振い大唐帝国を建設した。その治世は貞観の治と称され、後の治世の模範とされた。

6.2 安田靱彦
 現代の日本画家。神奈川県の人。東京美術学校卒業。小堀靱音の門に入って大和絵を学び、歴史画とくに武者絵に優れた。横山大観らと日本美術学院を再興した。代表作は「黄瀬川の陣」「風神雷神」など。昭和23年(1948)文化勲章を受けた。

6.1 ギャラップ
 アメリカの心理学者。世論調査所長。アイオワ州立大学で心理学を専攻。ノースウェスタン大学で新聞学、広告学を講じ、のちコロンビア大学教授となった。1953年世論調査所を創設。大調査網と調査技術とにより、いわゆるギャラップ調査として世界的にその権威を誇った。著書は「民主主義の鼓動」など。 

5.31 鈴木大拙
 現代の仏教家。石川県の出身。東京大学英文科を卒業し、のち学習院教授、東京大学講師をへて、大谷大学教授となった。仏教とくに禅について研究し、禅宗の英文による紹介者としてとくに海外に有名。数回に渡って欧米に渡り、コロンビア大学、ウレルモント大学の客員教授となった。

5.30 曹操
 中国三国時代の魏の王。後漢末、黄巾の賊の乱に際し、これを平定して功があり、後漢の宋相となり政治の実権を握った。呉の孫権、蜀の劉備と赤壁に戦って破れた。政治家としてもすぐれ、民政に力を注ぎ、文学者を全国から集めたりした。その死後曹丕が文帝として魏の国を再建した。

5.29 沢庵
 江戸時代初期の僧。但馬(兵庫県)の人。若くて僧となり、大徳時・妙心寺に参禅し、境の南宗寺・大徳時らの住持となった。詩歌にもすぐれ、貴族・武人の間の交友も多かった。紫衣問題に関連して出羽(山形県)に流されたが、のち徳川家光の帰依を受け、家光の建てた品川東海寺に住し、ここで没した。

5.28 ドガ
 フランスの画家。パリに生まれ、美術学校に学び、古典派の絵に傾倒したが、しだいに印象派になった。油絵・デトランプ・パスニールなど種々のの素材を用い、その色彩は日本の版画の影響を受けているといわれる。代表作は「踊り子」。晩年は視力を失い、彫刻に熱中したが、孤独のうちに悲惨の死を遂げた。

5.27 額田王
 山と時代末期の女流歌人。大海人皇子(天武天皇)に愛されて十市皇女(大友子妃)を生んだ。のち天武天皇にも愛された。感情豊かで強く、それを表現する技巧にもすぐれ、荘重優美な歌調を生んだ。「万葉集」の女流歌人として有名。

5.26 ゲイッケル
 イギリスの政治家。労働党首。オックスフォード大学を卒業し、ロンドン大学講師となり、1945年労働党より下院議員に当選、50年アトリーな威嚇の経済相、次いで蔵相となった。55年アトリーの引退後労働党首。

5.25 神近市子
 現代の女流評論家。長崎県の人。東京女子英学塾を卒業し、教師、新聞記者を経て、婦人運動を指導。無政府主義者大杉栄と親しく、マルクス主義者になった。戦後は自由人権協会員、民主婦人連盟理事となり、新聞、雑誌、放送などに活躍。著書は「結婚論」「女性思想史」「世界人類史物語」など。

5.24 キーツ
 イギリスの詩人。ロンドンに生まれ生活苦と病苦に戦いながら「エディミオン」「つれなきたおやめ」などの傑作を生んだ。病勢のつのった体でイタリアに渡ってローまで客死した。ロマン派の代表的詩人。

5.23 三善康信
 鎌倉時代初期の政治家。京都公家。母が源頼朝の乳母であり、頼朝の伊豆配流中も頼朝に京都の消息を絶えず報じたとも言われる。頼朝の関東平定後鎌倉へ行って問注所の執事となってその軍政をたすけた。頼家、実朝の代にも家老として重きをなした。

5.22 ハーン
 ドイツの科学者。フラアンクフルト=アム=マインに生まれ、カイザーウィルヘルム=ゲーゼルシャフト科学研究所長となった。放射性元素の分析を行い、ウランが崩壊して大きさの似た2つの元素ハリウムとクリプトンになることを発見した。1944年ノベール化学賞を受けた。

5.21 源信
 平安時代前期の僧。大和(奈良県)に生まれ、出家して叡山に入り、天台宗を修めた。名利を求めることを好まず、隠居して恵心僧都と号した。著述に専念し、「往生要集」を著わし、念仏唱導の先駆をなした。また仏像・仏画にもすぐれていた。

5.20 スウィフト
 イギリスの小説家。ダブリンに生まれ、はじめ牧師となり、のち政界に進出したが失脚し、アイルランドに戻って政府の政策を痛烈に皮肉って有名な「ガリバー旅行記」を書いた。晩年は発狂して悲惨な死を遂げた。

5.19 萩原朔太郎
 大正・昭和時代初期の詩人。群馬県の人。北原白秋に傾倒し、室生犀星とともに感情詩社をおこし、雑誌「感情」を発刊。病的なまでに鋭利な感覚と虚無的悲哀の交錯する自由詩を創造した。詩集に「月に吠える」「青猫」「蝶を夢む」など。

5.18 ケネー
 フランスの経済学者。重農主義の始祖。ルイ15世の侍医をつとめたが、経済に興味を覚え、農民のみが生産階級であると考え、農業を重んぜよと主張。「経済表」を書いて、資本の分配生産の過程を分析した。経済学の歴史上重要な人物。

5.17 昭憲皇太后
 明治天皇の皇后。名は春子。京都の公家一条家に生まれ、1868年(明治元)皇后となった。和歌を近衛忠興、高崎正風に学び、多数の和歌を作った。華族女学院に送った「金剛石」、東京女高師に送った「磨かずば」らは有名。「昭憲皇太后御集」がある。

5.16 ピタゴラス
 古代ギリシアの数学者。サモス島に生まれ、有名な科学者タレスについて学び、エジプトに留学し、南イタリアのクロトンにおもむき、宗教的哲学的なピタゴラス学派を樹立し、政治的にも活躍した。この学派は厳重な戒律に服し、禁欲生活を送ることで有名。その性格は神秘に富んだものであったが、、数学音階理論の研究を行った。特に「直角三角形の斜辺の平方は他の二辺の平方の和に等しい」という有名なピタゴラスの定理を確立した。

5.15 梅若万三郎
 大正・昭和時代の能楽師。能の第一人者。東京に生まれ、幼児より観世流能楽師として能の発展に尽くした。梅若流によったこともあったがのち、観世流にもどった。芸術院会員となり、昭和21年(1946)文化勲章を受けた。23年、実子万佐也が梅若万三郎を襲名した。

5.14 ダイムラー
 ドイツの機械技術者。世界最初の自動車製作者。はじめイギリスのマンチェスターにあるホイットワース工場につとめ、のちケルンのガス発動機会社の技術長をつとめた。ガソリン=エンジンを作り、これを四輪車に利用して1886年世界最初の自動車を製作した。

5.13 野口雨情
 大正時代の詩人。名は清吉。茨城県の人。早稲田大学英文科卒業。「枯れすすきの船頭小唄」を発表して有名となり「波浮の港」「十五夜お月さん」など素朴で情緒豊かな民謡・童謡を作った。

5.12 マラルメ
 フランスの詩人。パリに生まれ、中学の英語教師として穏健な生活を送ったが、ボードレールの影響を受けて詩作した。近代象徴派詩人の代表者として世界各国の詩人に与えた影響は大きい。代表作は長詩「半獣神の午後」。

5.11 直木三十五
 大正・昭和時代初期の小説家。大阪の人。本名は植村宗一。早稲田大学を中退し、「文芸春秋」の同人となり、主として時代小説を書き、大衆作家として活躍した。代表作は「南国太平記」。なお大衆文学の向上のために直木賞が設けられている。

5.10 シェリング
 ドイツの哲学者。テュービンゲン大学に学び、ヘーゲルらの哲学者とまじわり、イエナ大学に招かれ、のちヘーゲルの後任としてベルリン大学教授となった。ロマン主義哲学の代表者。晩年には神秘主義的傾向をとり、神話および宗教を哲学の最高機関と考えた。主な著書は「先験的観念論の体系」「人間的自由の本質に関する哲学的研究」など。

5.9 和辻哲郎
 現代の哲学者。兵庫県の人。京都大学教授から東京大学教授となった。倫理学の権威。ニイチェ・キルケゴールらの哲学をはじめ中国・インドの仏教からキリスト教までを広く研究し、日本思想史にも造詣が深い。著書は「ニーチェ研究」「倫理学」「古寺巡礼」など。

5.8 三井八郎右衛門
 江戸時代初期の実業家。三井財閥の祖。名は高利。八郎右衛門は通称。伊勢松阪の酒造家越後屋の子に生まれ、家業を継いだが、京都と江戸に「越後屋」呉服店を出して以来、手広く金銀両替店を経営、京都・大坂にも支店を持った。1691年(元禄4)に幕府の御用金融に従事し、豪商三井家の土台を築いた。

5.7 クック
 イギリスの探検家・航海家。1768年代1回の太平洋探検に出発し、南太平洋のタヒチ島を経てニュージーランドを発見し、ついでニューギニア・オーストラリア大陸を発見した。その後の探検によりハワイ島を発見し、北アメリカ西北岸からベーリング海に入り、北極海にも進んだが、ハワイに帰って土人のために殺された。

5.6 鈴木三重吉
 明治・大正時代の小説家。広島県の人。東京大学英文科を卒業。夏目漱石の門に入り、「千鳥」を雑誌「ホトトギス」に発表して認められた。ロマンチックな美しい詩情に満ちた文章を書いた。童話を執筆し、児童雑誌「赤い鳥」を創刊。代表作は「山彦」「お三津さん」「桑の実」。「世界童話集」「アンデルセン童話集」などがある。

5.5 ベルツ
 ドイツの医学者。ドイツ医学を日本に紹介した内科医。ライプチッヒ大学を卒業。1875年(明治8)日本に招かれ、東京大学で生理学・内科学を講じた。在日29年、日本人の人類学的・病理学的特徴の研究に没頭した。また脚気についても研究した。日本婦人と結婚し、よく日本風俗を理解した。1905年(明治38)帰国した。

5.4 藤田東湖
 江戸時代末期の思想家。水戸藩士。名は彪。彰考館総裁藤田幽谷の子。藩主徳川斉昭の側近にあってその信任最も厚く、藩政改革に努力した。尊皇攘夷派の一方の代表者として活躍したが、江戸の大地震で圧死。幕末水戸学の代表者。

5.3 ディフォー
 イギリスの小説家。「ロビンソン=クルーソー」の作者。冷静な客観的手法に想像力と風刺を生かし、極めてユニークな筆致で描いた。イギリス近代小説の開祖の一人と称せられた。

5.2 宮本顕治
 現代の政治家・文芸評論家。山口県の人。東京大学経済学部卒業。文芸評論家となったが、日本共産党員として革命運動に入った。昭和7年(1932)投獄され、戦後出獄し、政治運動と文芸活動に再び活躍を始めた。日本共産党に有力幹部。著書は「人民の文学」「民主革命の諸問題」「革命の展望」など。

5.1 ポー
 アメリカの小説家・詩人。ボストンに生まれ、バージニア大学を中退し、雑誌記者として各地を転々としたが、飲酒癖のためアルコール中毒で没した。代表作は詩集「ヘレンに捧ぐ」。推理小説「黒猫」「黄金虫」「モルグ街の殺人」など。

4.30 前原一誠
 明治時代初期の政治家。長州藩士で吉田松陰の門に入り、のち藩命により長崎に学び、幕末国事に奔走した。明治新政府になって参議・兵部大輔に任ぜられたが、下野し、不平士族の反政府派の中心となり、明治9年(1876)萩の乱を起こしたが、敗れて捕らえられ斬罪に処せられた。

4.29 ホッブス
 イギリスの哲学者。オックスフォード大学で哲学を学び、諸国を訪ねデカルトとも交際した。べカルト以来の経験論に、大陸の数学的理性主義を加えて社会を観察した。代表作は「レバイアサン」。社会には万人対万人の戦いが生ずるため、理性的な社会契約による国家形成の必要を説き、国家は絶対主権によって統一されねばならないと論じた。

4.28 菱川師宣
 江戸時代初期の浮世絵師。俗名吉兵衛。安房(千葉県)に生まれ、江戸に出て土佐絵を学び、浮世絵を書いた。肉筆画も版画も描き、ことにその独特の力強い画風によって版画の芸術的価値を高めた。浮世絵の創始者と称せられた。

4.27 デモステネス
 古代ギリシアの政治家・雄弁家。はじめ修辞学を習ったが、どもりで雄弁でなく、努力して非常な雄弁となった。マケドニアのフィリップ2世の南下に対して反抗を続けたが、逃亡の途中マケドニア軍に捕らえられ、自ら毒を仰いで死んだ。

4.26 菊地武時
 鎌倉時代末期の武将。九州肥前(熊本県)の人。元弘の変に際し、後醍醐天皇に応じて九州探題北条英時を博多に攻めて戦死した。その子武重、武敏武光以下、代々南朝に属した。

4.25 マラー
 フランスの革命家。熱心な共和主義者で、「人民の友」を発刊してフランス革命を指導した。1892年国民公会ではダントン・ロベスピェールとともに革命に三巨頭と称された。恐怖政治をもって革命を救おうとしたが、反動派の改撃の的となり、自宅で入浴中ジロンド党員の少女に短刀で殺された。

4.24 林芙美子
 昭和時代前期の小説家。山口県の人。女中・女工・事務員・女給などをして各地を転々としたが、この貧しい半生の自伝小説「放浪記」を発表して文壇に認められた。人生の哀愁を円熟した技巧で描いた。代表作は「晩菊」「浮雲」など。「めし」はその絶筆。

4.23 コロー
 フランスの画家。パリに生まれ、絵を学び、イタリアに遊学し、ヨーロッパを周遊し、多くの風景画や肖像画を描いた。光と空の感情を青・緑・灰色を縦横に使って印象的に詩情豊かに表現した。代表作は「踊るニンフ」「水浴のディアナ」「アラスの道」「書を読む女」など。

4.22 品川弥二郎
 明治時代の初期の政治家。長州藩士。吉田松陰の松下村塾に学び、尊王討幕運動に活躍した。維新後、明治新政府に仕え、イギリス、ドイツに留学した。のち松方内閣の内相となり、反政府派を弾圧して総選挙に大干渉を行い、反動的政治家と非難された。

4.20 タレス
 古代ギリシアの哲学者。ミレトスに生まれ、科学・哲学について深い知識を有し、ピラミッドの測定法を教え、日食を予言したといわれる。最初の哲学者であり科学者であった。「万物は水から出来て水に帰る」と論じた。

4.19 倉田百三
 大正・昭和時代前期の劇作家。広島県の人。第一高等学校を中退、京都の一燈園に入り、戯曲「出家とその弟子」を発表して文壇に有名となった。作風は宗教的で愛と信とを説く。評論「愛と認識の出発」は強い影響を与えた。

4.18 クールベ
 フランスの画家。オルナンに生まれパリで絵を学んだ。ルーブル博物館に通って写実派の絵を学び、オランダに行って写実主義(レアリズム)の画風を確立した。代表作は「オルナンの埋葬」「石割り」など。1848年、二月革命の際共和党員となり君主制に反抗を続け、71年パリ=コミューンに参加、コミューン崩壊後スイスに亡命して死亡した。

4.17 津田梅子
 明治・大正時代の女子教育家。農学者津田仙の子として生まれ、7歳のとき日本最初の女子留学生としてアメリカに渡った。11年間勉強して帰り、華族女学校・東京女高師の教授となった。のち自ら女子英学塾(のちの津田塾大学)を開いて校長となり、女子教育に尽力した。

4.16 リンネ
 スウェーデンの生物学者。牧師の子に生まれ、小さいときから植物を好みウプサラ大学で医学を学んだ。イギリス・オランダをまわり、かえってウプサラ大学教授となった。1735年「自然分類」という本を出し、生物分類学の祖となった。

4.15 本田光太郎
 明治・大正・昭和時代前期の物理学者。愛知県の人。東京大学理科を卒業。ヨーロッパ留学後、東北大学教授、付属金属材料研究所長となった。鉄鋼や鉄合金の研究を行い、強力な磁石鋼KS鋼を発明した。次いで新KS鋼を発明。昭和12年(1937)第1回文化勲章を受けた。鉄鋼研究の父と呼ばれ、日本物理学の開拓者。

4.14 マテオ=リッチ
 イタリアの宗教家。イエズス会の宣教師。ローマ大学で数学・天文学を学んだ。インドをへて1583年中国の広東に入り、以来北京に教会を建設し中国語の教科書を作り、中国にあって終生キリスト教の伝道に従った。中国人と衣食住をともにし、中国人に天文地理学・物理・数学などを教え、中国人の尊敬を集めた。

4.13 野口雨情
 大正時代の詩人。名は清吉。茨城県の人。早稲田大学英文科卒業。「枯れすすきの船頭小唄」を発表して有名となり「波浮の港」「十五夜お月さん」など素朴で情緒豊かな民謡・童謡を作った。

4.12 タキトウス
 古代ローマの歴史家。ローマに生まれ、ここで修辞学を学んだ。政治家として執政官から統領となった。その著「ゲルマニア」はゲルマン民族の最古の資料として重要。その他「アグリコラ伝」「年代記」などの著がある。

4.11 平塚雷鳥
 明治・大正時代の婦人運動家・評論家。東京に生まれ、日本女子大学を卒業。明治44年(1911)婦人文化運動機関紙「青鞜」を発刊。大正8年(1919)市川房江・奥むめおらと「新婦人協会」をおこし、婦人参政運動に参加。のち著述に従った。著書は「らいてうの言葉」「現代の男女へ」など。

4.10 スコット
 イギリスの南極探検家。海軍軍人。1901年-4年南極探検隊を指揮して南極内地を測量し、エドワード7世地方を発見し、ロス海を測量した。1910南極に達したが、帰途極地の悪天候と測量欠乏のため志望。スコットの極地到着はアムンゼンに遅れること1ヵ月であったが、南極について最初の科学的調査をした功は大きい。

4.9 シャハト
 ドイツの銀行家・政治家。デンマークに生まれ、キール大学を卒業。第1次大戦後ワイマール国立銀行頭取となり、レッテンマルクを創設して通貨を安定させ、インフレを克服した。その後ナチスと結んで国立銀行総裁となり、経済相をかねて軍需工業の拡張や輸出市場拡張にめざましい業績をあげナチスの経済政策の指導者となった。戦後、戦犯裁判を受けたが、無罪となった。

4.8 茅誠司
 現代の物理学者。神奈川県出身。東北大学物理学科を卒業。北海道大学教授となり、強磁気性結晶体の磁化曲線を測定して磁句説の正しいことを証明し昭和17年(1942)学士院賞を受けた。文部省科学教育局長、東京大学教授をつとめた。理学博士、日本学術会議会長、東京大学々長。

4.7 カブール
 イタリアの政治家。トリノに生まれ愛国の熱情に燃え、議会に入りイタリア統一を強調した。サルジニア王国のビクトリオ=エマヌエレ2世のもとで首相となり、イタリア統一のために尽力した。愛国者ガリバディと協力し1861年イタリア統一を完成した。

4.6 小栗風葉
 明治・大正時代の小説家。愛知県の人。上京して尾崎紅葉の門に入り「恋慕流し」「鬘下地」を発表した。人生の暗い面をとりあげ、変化の多いローマン的な作風によって認められた。代表作は「青春」「恋ざめ」など。

4.4 カロッサ
 ドイツの小説家・詩人。バイエルンに生まれ、ミュンヘン大学で医学を学び、第1次大戦に軍医として従軍した。古典的・調和的な作風によって現代のゲーテと称された。ドイツ国民文学の代表として尊敬された。代表作は「幼少時代」「ルーマニア日記」「医師ギオン」など。

4.3 野々村仁清
 江戸時代初期の陶工。丹波(京都府)の人。京都御室の仁和寺前に窯を開いて陶器を作った。その作品は高雅優美な気品をそなえ、いわゆる京焼きの祖と称せられた。

4.2 ラックスマン
 ロシアの軍人。最初の来日使節。江戸時代末、日本の漂流民幸太夫らの送還を機会に、ロシア皇帝エカチェリーナ2世の国書をたずさえて1792年(寛政4)日本に通商を求めて北海道の根室に着いた。翌年松前で幕府と通商を交渉したが、拒絶され帰った。帰国後陸軍大将に進んだが、その後の消息は不明。

4.1 湛慶
 鎌倉時代の彫刻家。運慶の子。父子そろって当代の彫刻界を代表する名工。洗練された技法で「千手観音像」を得意とした。

3.31 イエルマーク
 ロシアのシベリア征服者。知力・体力にすぐれ、ボルガ川流域で盗賊団の長となった。部下を率いてウラルを越え、タータル人を撃破してシベリアに侵入した。ロシアは、ここに広大なシベリアを領土にすることができた。

3.30 巨勢金岡
 平安時代初期の画家。光孝・宇多天皇につかえ、絵画に秀で、しばしば宮中に召されて障子絵・屏風絵などを描き、画名高かった。伝統的な唐絵を日本化することに第一歩を進めた。朝廷から官位をもらい子孫は巨勢の家系を継いだ。代表作は「紫宸殿賢聖像」。

3.29 オリオール
 フランスの政治家。パリ大学を卒業し、弁護士となり、社会党に入って政界に登場。1936年ブルーム内閣の蔵相をつとめた。第1次世界大戦中はイギリスに亡命したが、戦後、新憲法制定後、国民議会の議長となった。1947年代4次共和国初代の大統領に選ばれ、54年その職を失った。財政通でフランス政界の重鎮。

3.28 石川雅望
 江戸時代後期の国学者・狂歌師。宿屋飯盛とも称した。国学・儒学を独習し、さらに狂歌を蜀山人に師事し、狂歌四天王のひとりに数えられた。国学の研究にも力をそそいだ。著書は「源注世滴」「雅言集覧」など。

3.27 ガーシュイン
 アメリカの作曲家。ニューヨークに生まれ、ピアノを独習し、流行曲の宣伝ピアニストとなり、また作曲をはじめた。交響的ジャズ「ラプソディ・イン・ブルー」を作曲して成功。現代音楽史に不滅の足跡を残した。代表作は「パリのアメリカ人」「ポギーとベス」など。

3.26 一万田尚登
 現代の政治家。明治26年大分県に生まれ、東京大学法科卒業。日本銀行に入り、理事に昇進、昭和23年(1948)総裁に就任。戦後の経済再建にあたった。29年鳩山内閣の蔵相をつとめた。32年岸内閣の蔵相。

3.25 稲生若水
 江戸時代中期の生物学者。医者の家に生まれ、医学・儒学を学び、のち大坂に出て本草の研究に努力した。「庶物類纂」1000巻の大著を完成した。

3.24 アービング
 アメリカの文学者。ニューヨークに生まれ、ヨーロッパに長く住み、スペイン公使をもつとめた。軽快でユーモアに満ちた作品を多く書き、文章も明るく美しい。代表作は「スケッチ=ブック」。

3.23 浅野総一郎
 明治・大正時代の実業家。富山の人。明治維新以後、上京して商業を営み、渋沢栄一に知られて浅野セメント(日本セメント会社)をはじめ、また東洋汽船会社もつくった。第1次世界大戦後、関東大震災でセメント・運輸とともに巨利を博した。「事業狂」と称せられ、各種事業に活動し、新興浅野財閥を形成した。

3.22 ルイス
 アメリカの労働運動家。炭鉱夫。1911年全米炭鉱労働組合副会長となり、19年大ストライキを指導。20年以来同会の会長となった。35年労働総同盟AFLを脱退して、産業別組合会議CIO議長となった。46年AFLに復帰したが、47年再び脱退。アメリカ労働運動の最大の闘士。

3.21 新村出
 現代の言語学者。東京に生まれ、東京大学文科を卒業し、東京高等師範教授をへて京都大学教授となった。言語学の大家で、文学博士、学士院会員。著書は「辞苑」「言苑」「現林」を編集したのをはじめ「南蛮記」など。

3.20 セネカ
 古代ローマの哲学者。スペインのコルドバに生まれ、ネロ帝の教育者であった関係からその総理大臣となったが最後はネロの強制により自殺した。ストア哲学の実践者としても有名。

3.19 荷田春満
 江戸時代前期の国学者。京都稲荷神社の神官の家に生まれ、幼少より神道国学を学んだ。契沖の影響を受け、国学においても古語・古文によって古典の意義を解明すべきことを主張した。国学の発展の上に大きな役割を果たした。主な著書は「日本書紀訓釈」「万葉集童蒙抄」など。神道にも詳しく復古神道を唱えた。また歌人としても有名。

3.18 ポアンカレ
 フランスの政治家。弁護士から政界に入り、雄弁と広い教養により重きをなし、1912年内閣を組織し、13年大統領になった。クレマンソーと相並んで第1次大戦記のフランスを代表し戦争を完遂した。対独強硬政策をとり、またフラン暴落を防いでフランス財政の危機を救ったことは有名。科学者ポアンカレはその兄。

3.17 高崎正風
 明治時代初期の歌人。旧薩摩(鹿児島県)藩士。幕末国事に奔走し、明治維新後明治政府に仕え、宮内省に出仕し明治21年(1888)御歌所の長となった。のち枢密顧問官をつとめた。温雅流麗な和歌をよんだ。明治天皇の歌友として有名。

3.16 ハーン
 ドイツの化学者。フランクフルト=アム=マインに生まれ、カイザーウィルヘルム=ゲゼルーシャフト科学研究所長となった。放射性元素の分析を行い、ウランが破壊して大きさの似た2つの元素ハリウムとクリプトンになることを発見した。1944年ノーベル化学賞を受けた。

3.15 銭屋五兵衛
 江戸時代末期の豪商。加賀(石川県)の人。両替商・木材商・醸造業らを営むとともに千石積以上の持船18隻を数え、機敏な商才で巨富を博した。鎖国中に大胆密貿易を行ったともいわれる。河北潟干拓の失敗から捕らえられ、牢中で病死した。

3.14 ツウィングリ
 スイスの宗教改革者。ウィーン・バーゼルで神学を研究し、チューリッヒの牧師となった。ローマ教会を批判し教会改革運動をおこし、スイス南部の山岳地帯でカトリックの人々と争って戦死。

3.13 田安宗武
 江戸時代中期の国学者。将軍徳川吉宗の第三子。田安家を称した。古典の研究に努め、賀茂真淵らに和歌を学んだ。有職故実にも長じた。万葉風の和歌をよくした。

3.12 カニシカ
 古代インドの王。クシャナ王朝第3代の王。2世紀後半在位し、東はガンジス川中流から西はアフガニスタンにまでおよぶ大王国を建設した。プルシャプラに都をおき、仏教を奨励し、保護した。この時代にガンダーラ美術が開花した。

3.11 川端龍子
 現代の日本画家。和歌山県に生まれ、白馬会、太平洋画会に洋画を学び、アメリカに留学した。帰国後日本画に転向。「青龍社」を起して主宰した。室内の装飾を目的とする従来の日本画に反対し、華やかな色彩をもつ独特の画風で日本画に新境地を開いた。芸術学院会員。代表作は「鳴神」「魚紋」 

3.10 ケナン
 アメリカの外交家。ウイスコンシン州に生まれ、プリンストン大学卒業後国務省に入り、ヨーロッパ各地に在勤。特にソ連通の外交官としてトルーマン政府対ソの外交政策の立案にあたった。1948年訪日、賠償取立中止、工業水準の引き上げなどを勧告。52年駐ソ大使に任命されたが、ソ連政府より本国召還を要求され、53年退いた。

3.9 藤山愛一郎
 現代の政治化・実業家。藤山雷太翁の長男。慶応大学理財科卒業。青年時代から渋沢敬三とともに財界2世の代表人物と期待された。白糖工業・日本化学の社長・東京商工会議所会頭を歴任した。昭和32年(1957)岸内閣の外相。

3.8 コンステーブル
 イギリスの画家。近代風景画家として有名。家業の水車小屋を手伝っていたが、絵の勉強をはじめ、主に風景画を描いた。明るい光と大気の微妙な調子を取り入れ、自然の刻々の変化を追及した。フランスの画家たちにより礼賛され、大きな影響を与えた。代表作は「刈草」「サリスベーの大寺の田舎家」など。

3.7 加藤高明
 明治・大正時代の政治家。愛知県の人。東京大学法科を卒業、岩崎弥太郎の女婿となった。三菱の社員から、外務省に転じ、イギリス公使をはじめ4度にわたり外相をつとめた。のち憲政会を組織して総裁となり、大正13年(1924)には護憲3派内閣を組織した。「普通選挙法」を制定するとともに「治安維持法」を制定した。首相在職中に病死した。

3.6 シャトーブリアン
 フランスの小説家。詩人。ルソー・ミルトンらの影響を受け、ロマン主義運動の中心となって活躍。感受性に富み、奔放で飾りの多い美文を書いた。フランス革命のため一時アメリカに亡命したが、ナポレオン時代にフランスに帰って政界に入り、1814年には外相をつとめた。代表作は「アタラ」「ルネ」「殉教者」など。

3.5 田辺元
 現代の哲学者。東京に生まれ、東京大学哲学科卒業。京都大学教授となり哲学講座を担当した。この間ドイツに留学した。絶対弁証法の哲学者で西田哲学に次ぐ今日と哲学の巨頭。著書は「科学概論」など多数。昭和25年(1950)文化勲章受賞。

3.4 スタハーフ
 ソ連の労働者。経歴は不明。1930年ドンバスの炭鉱採炭夫となり、35年実働6時間で102dという驚異的採炭記録を出した。第二次5ヵ年計画中の政府はこの成果を利用してスタハーノフ運動を推進し、作業能率増進運動に発展させた。「ソ連英雄」の称号を与えられたが、第2次大戦中に戦死したといわれる。

3.3 金原明善
 明治時代の事業家。社会事業家。静岡県の人。家の全財産を投じて天竜川の改修を企て、これを完成した。明治政府より与えられた賞金も全額社会事業に投じた。のち東京で化粧品を営み免囚保護事業、済生会を援助した。

3.2 オパーリン
 ロシアの生化学者。細胞酵素の研究家。生命とはどんなものか、またどのようにして生まれたかということを研究して、1936年「生命の起源」を出して注目された。ロシアアカデミー会員。

3.1 佐藤一斎
 江戸時代末期の儒者。名は担。中川竹山、皆川淇園の門に入り、ついで林述斎に学んだ。幕府の儒官となり、昌平坂学問所に入り、官学の復興に尽くした。朱子学、陽明学だけでなく、西洋科学や海防についても理解があり、その門下から佐久間象山が出た。その著「言志四録」は有名。

2.29 ジャクソン
 アメリカの政治家。合衆国第7代大統領。サウスカロライナの貧農の出で法律を学び弁護士となった。西部の農民や北部の労働者の支持によって民主党から大統領に当選した。工業資本家を抑え、一方では南部の策動を抑えていわゆるジャクソン=デモクラシーを推進した。

2.28 奥むめお
 大正・昭和時代の婦人運動家。明冶28年、福井に生まれ、日本女子大学を卒業。新婦人会を設立し、婦人参政権運動につとめた。東京・大阪に働く婦人の家を経営し、雑誌「婦人運動」を主宰した。戦後、参議院議員にもなった。著書は「婦人問題十六講」「新女性の道」など。

2.27 マルピーギ
 イタリアの生物学者。はじめ医学を学んだが、のちに生物学を修めた。生物のからだの微細なつくりについて多くの研究があり、とくに毛細血管を発見してハーブェイの血液の循環についての理論を完全なものにした。昆虫のマルピーギ氏官はその名を記念してつけられたもの2.26 浜田弥兵衛
 江戸時代初期の商人。長崎の人。長崎商人末次平蔵所属の朱印船船長。貿易のため台湾に渡ったが、オランダの役人に船と貨物を接収された。このことに憤慨し、1628年武装した部下を率いて台湾に渡り、暴力をふるってオランダ人総督を人質として交渉を行い、接収物品の変換と補修を求め、目的を果たしたといわれる。

2.25 リカード
 イギリスの経済学者。ロンドンの富裕な商人の子に生まれ、株式仲介人をして巨富を得た。たまたまアダム=スミスの国富論を呼んで「経済学」に興味を持ち、経済学を勉強して「経済学及び租税の原理」を著わした。経済学にいう「労働価格税」「分配論」「地代論」などを完成した古典経済学最高の大成者。

2.24 三浦環
 明治・大正・昭和時代前期の声楽家。東京に生まれ、東京音楽学校卒業。日本最初のオペラ「オルフォイス」の主役を歌った。帝国劇場歌劇部のプリ=マドンナとなった。ヨーロッパ・アメリカの各地で上演し、とくに「お蝶夫人」を歌い好評を博した。日本の代表的女流声楽家。

2.23 ライエル
 イギリスの地質学者。近代地質学の父。スコットランド生まれ、オックスフォード大学で法律を学び弁護士となったが、地質学に興味を持ち、ヨーロッパやアメリカを旅行し「地質学原理」2巻を著わした。近代地質学の基礎を打ち立て、地学協会会長となったが晩年失明した。

2.22 宮城道雄
 大正・昭和時代の邦楽家。明治27年神戸に生まれ、幼児失明し、中島検校の門に入り、筝曲を学んだ。洋楽の様式を取り入れて邦楽に新しい道を開いた。東京音楽学校教授・芸術院会員となった。昭和31年列車から墜死した。代表作は「春の海」「秋の調べ」など。

2.21 メンジース
 オーストラリアの政治家。弁護士・検事総長・貿易相などを歴任した。メルボルン大学卒業。自由党党首となり、1951年首相となった。熱烈な反共親米論者。

2.20 大森房吉
 明治・大正時代の地震学者。福井県の人。東京大学物理学科を卒業し、濃尾地震の発生以来、地震の研究に専念した。東京大学教授となり、日本の地震学を世界的な水準のものとした。大森地震計、大森公式の考案など、その功績は大きい。

2.19 ベスプッチ
 イタリアの航海探検家。フィレンツェに生まれ、はじめ商人としてスペインに行き、コロンブスと交わった。1499年から3回にわたってポルトガル政府の命令で南アメリカのベネズエラ方面を探検した。「アメリカ」とは彼の名をとってつけられたもの。

2.18 リムスキー=コルサコフ
 ロシアの作曲家。貴族の出身で海軍に入ったが、音楽を研究し、ペテルブルク音楽院の作曲科楽器科の教授となり、ロシア国民音楽のために活躍した。とくに管弦楽法にすぐれた。代表作はオペラ「錦鶏」「白雪姫」、交響組曲「シェヘラザード」など。

2.17 秦佐八郎
 明治・大正時代の細菌学者。島根県の人。伝染病研究所に入り、北里柴三郎のもとでペスト菌の研究を行った。明治40年(1907)ドイツに留学し、化学療法の研究を行い、エールリッヒとともに「サルバルサン」を発見した。日本に帰って北里研究所副所長慶応大学教授となり、熱帯地方の伝病の研究の努力した。

2.16 グルー
 アメリカの外交官。ハーバード大学を卒業して外交官となり、デンマークスイス公使、国務次官、トルコ大使を経て1932年日本駐在大使となり、太平洋戦争開戦に至るまで10年間日米関係の調整に努力した。戦後は民間にあって日本に対するアメリカの世論の啓蒙に尽くした。「滞日10年」「日本報告」などの著書がある。

2.15 荻原重秀
 江戸時代中期の政治家。徳川綱吉に用いられ、勘定奉行となり、悪化した幕府の財政窮乏を打開するため、貨幣を改鋳した。このため貨幣の価値は半減し、経済界は混乱した。新田の開発などで不正もあったので、新井白石のため職を追われた。

2.14 ハーブェイ
 イギリスの生理学者。血液が身体をめぐっているということを発見した人。ケンブリッジ大学に学び、のちイタリアのパド大学に入り医学を学んだ。イギリスに帰り、ジェームス1世・チャールズ1世の侍医となった。1628年「心臓と血液運動の解剖学的研究」という論文を発表し、血液が体内を循環するという原理を明らかにした。またすべての生命は卵から生まれるということを見つけた。

2.13 堺利彦
 明治・大正時代の社会主義者。福岡県の人。小学校教員から新聞記者となり、「万朝報」に入って幸徳秋水、片山潜らと日露戦争非戦論を唱えた。のち「平民新聞」を発刊し、社会運動に活躍した。共産党に関係したため投獄されたが、のち「売文社」を起し、政府の弾圧下によく奮闘した。のち日本大衆党の中央委員ともなった。

2.12 イブン=バッタ
 サラセンの大旅行家。アフリカのモロッコに生まれ、30年間にアフリカ・西アジア・中央アジア・インド・中国・ジャワ・スマトラ・セイロンなど、8万キロにわたる大旅行を行った。その旅行記は学術上も貴重な資料とされている。

2.11 石原純
 大正時代の物理学者。明治21年東京に生まれ、東京大学物理学科を卒業。ドイツに留学し、帰国後東北大学教授となり、理論物理学を専攻した。アインシュタインの来日の際その解説者として全国を回った。物理学および自然科学の普及につとめた。また歌人としても有名で、新しい形式の短歌を唱えた。

2.10 エーベルト
 ドイツの政治家。ワイマール共和国初代大統領。ハイデルベルグに生まれ、第1次大戦機のドイツの社会民主党主として、戦時中和平運動に活躍した。戦後1918年首相となり、1919年ワイマール共和国初代大統領に推された。右翼と左翼から攻撃され、その政治は成功しなかった。

2.9 宇田川榕庵
 江戸時代後期の植物学者・化学者。美濃(岐阜県)の大垣藩医の子に生まれ語学に優れた。「菩多尼詞経」を著わし、西洋植物を伝え、「植学啓原」を著わしてはじめて植物学の体系を建て、舎密開宗により化学を紹介した。

2.8 シャルドンネ
 フランスの化学者。人口絹糸の発明者。パリの理工科学校を卒業し、技師となったが、化学に興味を持ち、人絹の研究に没頭した。1889年パリの世界博覧会に出品して世界の注目を集めた。また硫化ゴムを発明した。

2.7 加賀千代女
 江戸時代中期の俳人。加賀(石川県)の表具師の娘に生まれ、幼い時から俳句を学んだ。早く夫と子に死別して尼となり、俳諧に心を打ち込んで暮らした。その句は「千代尼句集」「松の声」などに収められている。

2.6 チマブエ
 イタリアの画家。フィレンツェに生まれ、頽廃的なビザンチン芸術を打破して、新たな息吹を画界に吹き込んだ。代表作は「聖母と天使」。西洋絵画の祖と称される。

2.5 安井算哲
 江戸時代初期の暦学者。渋川春海とも言う。幕府の碁師の家に生まれたが山崎闇斎に指示し、また天文暦術を研究した。古くから用いられた宣明暦の誤差著しいのを憂え、朝廷に建言し、改暦に従い、1684年(貞享1)完成した。のち幕府の天文方となった。

2.4 テニソン
 イギリスの詩人。ケンブリッジ大学に学び、在学中より詩を書いた。親友の死を悲しんで、追憶の詩「イン=メモリアル」を作り、哀歌「イノック=アーデン」を発表してビクトリア朝詩壇を圧倒した。1850年ワーズワースのあとをうけて桂冠詩人のなった。男爵に列せられ、死後はウェストミンスター寺院に葬られた。

2.3 メンデルスゾーン誕生
 1809年。結婚披露宴でお馴染みの「結婚行進曲」。ドイツの作曲家ヤーコプ・フェリックス・メンデルスゾーンが、ハンブルクの富裕な銀行家の家庭に生れた。

2.2 行基菩薩入寂
 749年(天平21)。それより4年前、わが国最初の大僧正位を授けられた薬師寺の僧。聖武天皇の東大寺大仏建立の際しても、費用の大部分は行基菩薩の勧進によって集められたという高徳の僧であった。行年82歳。

2.1 ウェスチングハウス
 アメリカの発明家。ニューヨークに生まれ、1868年ウェスチングハウスブレーキという空気制動機を発明した。鉄道の信号装置を改良し、大交流電機・変圧器・誘導電動機などをつくりだし、電車の発達・鉄道の電化に尽くした。発明家・技術者であるとともに実業家として成功した。

1.31 加藤友三郎
 明治・大正時代の軍人・政治家。広島県の人。海軍兵学校を卒業し、累進して海軍大将となり、大正3年(1914)海相、大正11年(1921)首相となった。1922年ワシントン会議に全権委員となり、5ヵ国軍縮条約を締結した。

1.30 アービング
 アメリカの文学者。ニューヨークに生まれヨーロッパに長く住み、スペイン公使をもつとめた。軽快でユーモアに満ちた作品を多く書き、文章も明るく美しい。代表作は「スケッチ=ブック」。

1.29 上島鬼貫
 江戸時代初期の俳人。摂津(兵庫県)伊丹の人。家は豊かな酒造家で、俳諧に夢中になった。談林派の俳諧が軽くてまじめさの欠くことに不満をもち、「まことの外に俳諧なし」と俳句に真実をもとめ、すぐれた俳句を作った。

1.28 シュライデン
 ドイツの植物学者。最初は法律を学んで弁護士となったが、のち医学を修め、イエナ大学の植物学・医学教授となった。晩年はドレスデン居住し、定職がなかった。1838年に発表した論文「植物の発生に関する研究」において、植物の体は形の上でも、また働きの点でも1つ1つの細胞がもとになってできていると説いて一躍有名となった。

1.27 モーツァルト誕生
 1756年。ドイツの作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが、ザルツブルクに呱々の声をあげた。ロマン・ローラン曰く「モーツァルトは音楽によって世界を征服した」

1.26 岩佐又兵衛
 江戸時代初期の画家。武将荒木村重の子に生まれたが、父の死後、母の姓の岩佐を名乗った。織田信長に仕えたこともあったが、幼いときから絵をこのみ、京都で土佐光則に大和絵を学び、画家となった。のち福井で松平忠昌に仕えたが、将軍徳川家光に招かれて江戸に出た。家光の命により三十六歌仙の額を描いた。浮世絵の祖といわれ浮世又兵衛とも称せられるが、現在まで1作も発見されず、その説は疑わしい。

1.25 第1回冬季オリンピック
 1924年。常春のギリシャに冬季スポーツは元来なかったが、復活第8回のオリンピックがパリで行われた年、モンブランの麓シャモニーにおいて最初の冬季競技が催された。

1.24 岸田俊子
 明治時代の婦人運動家。中島俊子、湘煙ともいう。京都に生まれ、中島信行らの自由民権運動に加わり、各地を回って自由民権、男女同権を説いた。明治女性政治活動家の先駆者。詩文集「湘煙記」がある。

1.23 マネ誕生
 1832年。フランスの画家で印象主義の父と呼ばれ、モネやルノアール、シスレーやピサロにも影響を与えたエドゥアール・マネが、パリに生れている。

1.22 ストリンドベリ誕生
 1849年。スウェーデンの文豪オーガスト・ストリンドベリがストックホルムで生まれた。 

1.21 ソロー
 アメリカの詩人。ハーバード大学に学び、エマーソンと知りその影響を受けた。人里離れた湖畔に小屋を作り、自然と交わりながら人生の意義を理解しようとした。文明批評や社会批評に筆をとり、アナーキズムを根底とする汎神論を唱えて大きな反響を呼んだ。主著は「森の生活」。コンコードの詩人の1人。

1.20 尾上柴舟
 明治・大正時代の歌人・国文学者。岡山県の人。東京大学国文科を卒業。浅香社に入り、落合直文に和歌を学んだ。明治38年(1905)「車前草社」を起し、のち歌誌「水甕」を主宰した。その間東京女高師・学習院の教授をつとめ、「平安朝仮名の研究」で文学博士となった。歌集には「銀鈴」「静夜」「永日」など。

1.19 発明家ワット誕生
 1736年。蒸気機関の改良で有名なジェームズ・ワットが、スコットランドのグリーノックで生れた。

1.18 外山正一
 明治時代の教育家。静岡県の人。幕府の命によってイギリスに留学して帰り、まもなく森有礼に従ってアメリカに渡り、帰って東京大学教授・総長をへて、明治31年(1898)伊藤内閣の文相となった。つねに進歩主義を鼓吹し、学制の整備と育英事業に尽力した。また詩人として新体詩の先鞭をつけた。

1.17 蔡倫
 中国、漢時代の紙の発明者。湖北に生まれ、後漢の宦官であったが、木の皮などを材料にしてはじめて紙をつくったといわれる。漢の文化、中国の文化に大きな功績を残した。

1.16 ストリンドベリ
 スウェーデンの小説家・劇作家。ストックホルムに生まれ、ウプサラ大学卒業後、戯曲・小説を書いた。異常に深刻な心理分析、女性嫌悪などを特色とした問題作が多い。代表作は「女中の子」「痴人の告白」「父」「令嬢ユリ」など。

1.15 大英博物館の濫觴
 1759年。それより6年前、ハンス・スローン卿が国会に寄贈した大コレクションを中心に、モンターギュ侯の旧邸を陳列館として、ジョージ2世が開設したのが始まり。

1.14 ニューコメン
 イギリスの発明家。蒸気機関の発明者。炭坑用の排水用ポンプに興味を持ち、気圧を利用してポンプのピストンを動かすことを思いつき、1712年最初の気圧式蒸気機関を発明して各地の鉱山の排水作業に広く利用された。

1.13 東京の最低気温
 1876年(明治9)。この日記録したマイナス9度2分が最低。

1.12 川合玉堂
 現代の日本画家。愛知県の人。幸野楳領、橋本雅邦に画風を学び、画家となり、東京美術学校教授、帝室技芸院芸術院会員となった。花鳥・山水画にすぐれ、日本画壇の大御所の1人であった。昭和15年(1940)文化勲章を受けた。代表作「行く春」「暮雪」「夕立前」など。

1.11 和銅改元
 708年(和銅1)。武蔵の国秩父郡が朝廷に自然銅を献上した。それより10年前、文武天皇の2年3月と9月とに、因幡の国と周防の国から銅鉱を献上したことはあったが、自然銅の発掘は最初のこととて、元明天皇は大変喜ばれ、「東ノ方武蔵国ニ自然ニ作成ル和銅デ仕在リト奏シテ献焉」(『続日本記』)と詔を発して、年号を和銅と改められた。

1.10 シュペングラー
 ドイツの思想家。第1次世界大戦直後に「西洋の没落」を出版して一躍世界的名声を博した。文化を有機体として考察し、そこに生成・繁栄・衰退・没落があるとし、西洋文化の没落が迫っていることを予言し、注目を集めた。

1.8 大原孫三郎
 大正・昭和前期時代の実業家。岡山県の人。早稲田大学を卒業して実業界に入り、中国銀行頭取・倉敷紡績会社社長となり関西財界に重きをなした。私財を投じて大原社会問題研究所、倉敷労働科学研究所、大原美術館を設立して社会事業、文化事業に尽した。

1.7 ジョイス
 アイルランドの小説家。ダブリンに生まれ、ジェスイット派の教育を受けダブリン大学卒業後パリで医学・音楽を学び、その後大陸各地を放浪した。フロイトなどの精神分析を応用し、現代文学に大きな影響を与えた。代表作はホメロスの「オデュッセイア」の構造を模した「ユリシーズ」。

1.6 式亭三馬没
 1822年(文政五閏)。滑稽本『浮世風呂』『浮世床』2編の名作に、当時の人情風俗を余すところなく描き出した三馬。閏1月のこの日、47歳で没した。

1.5 水師営の会見
 1905年(明治38)。「庭に一本棗の木」、昔の小学唱歌が懐かしい。壮絶悲惨極まりない旅順攻防戦のあと、乃木大将とステッセル将軍が、昨日の敵は今日に友として、互いに固い握手を交した。

1.4 末次平蔵
 江戸時代初期の貿易商人。長崎の人。豊臣秀吉・徳川家康から朱印状を受けて南洋各地と貿易を行い、巨万の富をつくった。貿易を営むかたわら、長崎の代官となり、島原の乱の平定に功をたてた。

1.3 フス
 ボヘミアの宗教改革者。チェコ人の農家に生まれ、ブラーク大学で学び、のち同大学の学長となた。僧職に入り、ウィクリフの説に強い共感を覚え教会改革運動を推進した。そのため破門され、1414年コンスタンツの会議で異端者とされ、処刑された。このローマ教会の処置に反抗してボヘミアでは反乱が起った。このフス戦争は25年の長期にわたった。

1.2 サンド
 フランスの女流作家。本名はデトバン男爵夫人。平凡な田舎貴族との結婚生活を嫌ってパリに出て文学を志し、多くの芸術家と交友をつづけた。特に詩人ミュッセや作曲家ショパンとの恋愛は有名。田園の美しい牧歌的な生活を描き、またルソーの影響を受け、人道主義的な作品を書いた。代表作は「アンジアナ」「魔の沼」「愛の妖精」。

1.1 清浦奎吾
 明治・大正時代の政治家。肥後(熊本県)の壮の家に生まれ、還俗して広瀬淡窓に漢学を学んだ。司法省に入り検事となり、警察・司法畑の要職を経て、山県有朋の信任を受け、法相、農商務相を歴任し、枢密顧問官、同議長をつとめ、大正13年(1924)官僚超然内閣を組織したが、政党と民衆の反撃によって4ヶ月で倒れた。


12.31 スパーク
 ベルギーの政治家。社会党首領。ブラッセルから下院議員に選出され、逓相・外相となり1938年社会党内閣を組織。第2次大戦中はロンドンに亡命し、戦後46年再び首相・外相となった。ロンドン第1回国連総会議長をつとめ、その後ベルギー代表として外交界に活躍、北大西洋条約を成立させた。

12.30 中山晋没
 1952年8昭和27)。大正時代、流行に流行った『カチューシャの歌』を処女作として、『波浮の港』『東京行進曲』『証城寺の狸囃子』『鶯の夢』など、成人から子供まで、数多くの愛唱歌を残して、作曲家中山晋平が、65歳でこの世を去った。

12.29 石井漠
 現代の舞踊家。秋田県の人。舞踊詩研究所を設立。洋舞(バレー)界に革新的風潮をもたらした。欧米を視察、帰って石井舞踊研究所を創立した。奔放な跳躍と自然の調律に基づく大胆な傾向を取り入れ、飛躍とリズムに重きをおいている。日本バレー会の大御所。

12.28 モサデク
 イランの政治家。名門の出で、フランスに留学し、かえって財務次官となり州知事・蔵相となった。国王の不興を買って政界を去ったが、第2次大戦および戦後にかけて「イラン民族戦線」の指導者として登場し、1951年首相となった。石油国有化を断行して注目をあびたが、53年国王派のクー=デターによって失脚、禁固3年の判決を受けた。

12.27 『ピーターパン』初公演
 1904年。童話劇の傑作、ジェームス・バリーの『ピーターパン』が、ロンドンの劇場で、この日初めて脚光を浴びた。

12.26 山路愛山
 明治・大正時代に評論家。本名弥吉旧幕臣。東洋英和学校に学び、キリスト教の宣教師となったが、評論家として、信濃毎日新聞社主筆に招かれ、ついで「独立評論」を創刊して日露の開戦を唱え、自ら帝国主義の信者であると主張した。国家社会党を組織し、左派社会主義者と論戦した。晩年史論家として「豊太閤」「源頼朝」「足利尊氏」論を書き、鋭い歴史感覚を示した。

12.25 クリスマスの日定まる
 386年。キリスト降誕の日については古来諸説紛々としていたが、273年、ローマのアウレリアヌス皇帝が、冬至祭を12月25日と定めたことがある。その後、太陽の神ミトラを崇拝するローマ人が、いつの間にか、太陽再生の冬至祭をキリスト降誕の日と結びつける習慣を生み出した。さて、386年のこの日、「黄金の口をもった男」といわれるセント・ヨハネス・クリソストモスが、生地アンティオキアにおいて、「この日に対する愛は、今日生まれ給ひし者に対する愛の最も著しいしるしである」と説教したことから、クリスマスの期日が一定した。

12.24 和井内貞行
 明治時代の養殖事業家。秋田県の人。魚の生息しなかった十和田湖に養魚を試み、明治17年(1884)コイ・フナ・イワナなどの放流に失敗した。苦心の末明治36年(1903)支笏湖のヒメマス野卵の移植に成功した。そののち全財産を投じて苦心の経営を行い、ますの養魚に成功し、十和田湖の和井内マスと呼ばれるに至った。また十和田湖国立公園設置に努力した。

12.23 ファーブル誕生
 1823年。『昆虫記』の名著で広く知られたフランスの博物学者ジャン・アンリーファーブルが、サン・レオンで産声をあげた。

12.22 ボッカチオ
 イタリアのルネサンス期の詩人・小説家。イタリア商人を父とし、フランス人を母としてパリに生まれた。詩人を志したが、中世的な教養を受けず、世俗的な愉快な読物を書き、近代散文の父と呼ばれた。晩年はギリシア・ラテン文学の研究にふけった。代表作は「デカメロン」。

12.21 村田春海
 江戸時代中期の歌人。賀茂真淵に国学を学び、皆川淇園に儒学を学んだ。和歌にすぐれ、歌人として名をなした歌風としては古今和歌集以来の優美さを尊重した。また仮名遣五十音を研究した。歌文集に「琴後集」がある。

12.20 ビャクネス
 ノルウェーの物理学者。オスロ大学を卒業。パリに留学して応用数学を研究し、ストックホルム・オスロ大学教授ついでライプチッヒ大学地球物理学研究所長となった。とくに気象学の権威で、天気予報に革命をもたらした。海流の力学的計算法を考案した海洋学者としても有名。

12.19 わが国最初の霧笛
 1879年(明治12)。霧深い津軽海峡の航海安全のために、本州東海岸の北端尻屋崎の灯台に、20秒おきに4秒間吹鳴する霧笛が設けられた。

12.18 世界最初の義務教育
 1619年。宗教改革で有名なマルティン・ルターが、小学校教育の義務制を主張し、6歳から12歳までの子供を対象に、チューリンゲンの首都ワイマールで実行に移したのが最初。約1世紀の後、プロイセンの国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム1世の命によって実施された、近代義務教育制度に先鞭をつけたもの。

12.17 ポアンカレ
 フランスの数学者・物理学者。パリ大学数学天文学教授をつとめた。数学では整数論・関数論・微分方程式確率論・位相幾何学などで業績があり、物理学においては量子論・天体力学に不朽の名をとどめた。哲学者としても有名で、科学のための科学を主張したフランス科学哲学の代表的学者。著者は「科学の価値」「科学の方法」など。

12.16 箕作麟作
 明治時代前期の法学者。津山藩の藩医の家に生まれ、洋学を治めて幕府に仕えた。明治維新後「明六社」に加った。フランス留学後、新政府に出仕して西洋法律の翻訳と成文法の起草に尽した。そののち司法次官・貴族院議員となった。

12.15 ヒンデミット
 現代ドイツの音楽家。フランクフルト音楽院に学び、のち歌劇の指揮者、ビオラ奏者として活躍。卓越した理論家として有名。現代アメリカにおいて後進の指導に当たっている。代表作は「画家マチス」「カルディヤック」など。

12.14 厨川白村
 明治・大正時代の英文学者・評論家。京都に生まれ、東京大学英文学科を卒業し、京都大学教授となった。欧米の近代文学を日本に紹介した。また恋愛至上主義を主張し、大正時代後期の若い人々に深い影響を与えた。主な著書は「近代文学十講」「近代の恋愛観」など。

12.13 小島烏水没
 1948年(昭和23)。日本アルプスの先駆的な紹介者として、また日本には珍しい山岳文学者として、さらに浮世絵のすぐれた研究者として知られた烏水小島久太が、この世を去った。

12.12 ディドロ
 フランスの啓蒙思想家。「百科全書」の編集者。啓蒙主義の第一線思想家を集めて1751年から72年までを要して「百科全書」の編集を完成した。これはフランス革命以前のフランス社会に大きな影響を与えた。啓蒙的著作のほかに「私生児」「ラモーの甥」などを書いた。

12.11 ベルリオーズ誕生
 1803年。「ベルリオーズが理解されるのは、ワグナーより半世紀は遅れるだろう」と評されたほど、規模が大きく表現の自由な、フランスのロマン主義作曲家ルイ・ベルリオーズが、グルノーブルに近い、ラ・コート・サン・タンドレの医師の子として生れた。

12.10 世界人権宣言
 国際連合第3回総会において、賛成48ヵ国、反対ナシ、棄権8ヵ国の全会一致をもって成立した。思想・宗教・報道等個人の基本的自由及び労働権その他経済的・社会・文化的な面における諸種の生存的権利を規定して、人権保護の基準を示した。以来、この日を人権デーとする。

12.9 南宋の忠臣、文天祥刑死
 1282年(元・至元19)。滅びゆく宋朝を守って、最後まで奮闘した文天祥。広東省潮州で元将張弘範に捕らえられ、元の都北京に送られた。その人物を惜しんで鄭重に帰順を勧められても節を屈せず、この日、惜しまれながら死刑に処せられた。時に47歳。獄中の作『正気歌』は、幕末維新の志士が盛んに愛誦。

12.8 シベリウス誕生
 1865年。フィンランドの作曲家で、郷土を讃えた音楽詩『フィンランディア』で知られるヤン・シベリウス。内陸地方の小さな町タヴァステフスで誕生。

12.7 ペスタロッチ、孤児院を開設。
 1798年。フランス大革命の余波を受けて、スイスにもヘルベチア共和国が成立したが、スタンツ地方の住民が新政府に反抗して内乱を起こし、4百人もの孤児が生じた。共和国政府は、これら孤児の教育を、愛の教育者ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチに委ねた。ペスタロッチは、戦火いまだ収まらぬスタンツ地方に乗り込み、ここに孤児院を開いた。

12.6 ハウプトマン
 ドイツの小説家・劇作家。彫刻家や俳優を志したが、創作家となった。イプセンの影響を受け、社会劇を創始し自然主義の劇作家としての地位を確立のち新浪漫主義を経て象徴派に転じた。1912年ノーベル文学賞を受けた。代表作は「日の出前」「沈鐘」など。

12.5 伊東己代治
 明治時代の政治家。長崎に生まれ、伊藤博文に認められ、憲法起草に参画した。伊藤内閣の書記官長。農商相をつとめたのち枢密顧問官となり、「憲法の番人」と自称し、官僚政治家の典型的存在であった。

12.4 カーライル誕生
 1795年。イギリスの批評家トーマス・カーライルが、スコットランドはダンフリースシャーの石工の子に生れた。『フランス革命』『衣装哲学』『英雄および英雄崇拝論』等、物質主義・功利主義を激しく批判する、チェルシーの哲人カーライルの評論は、イギリスの誇るべき古典となっている。

12.3 キャベンデイッシュ
 イギリスの科学者・物理学者。水素の発見者。ケンブリッジ大学卒業後、電気理論の研究と実験を続け、水素を発見、地球の平均密度の測定をはじめ、数多くの研究業績を残した。変わり者で生涯独身で他人との交際も好まず、大部分の研究を発表しなかったので、これらの業績は埋もれてしまった。のちにその業績はマックスウェルによってようやく世に紹介された。

12.2 火星3号火星に軟着陸
 1971年。この年の5月18日の火星2号に続いて、同月28日に打ち上げられた、ソ連の無人火星探査機火星3号は、少し予定よりは遅れはしたが、この日、無事火星の表面に軟着陸して、5日までテレビ写真を送ってきたと、7日付のタス通信が報道した。

12.1 お年玉はがき発行
 1949年(昭和24)。当時、郵税は2円。これに共同募金1円を加算した年賀はがきは大好評、たちまち1億8千万枚の予定数を売り尽くした。

11.30 スウィフト誕生
 1667年。『ガリヴァー旅行記』の諷刺作家、ジョナサン・スウィフトがアイルランドのダブリンで生れた。

11.29 川上眉山
 明治時代の小説家。大阪に生まれ、大学予備門(東京大学)在学中に尾崎紅葉らと硯友社を起した。「大盃」を書いて認められ、「うらおもて」「書記官」で好評を博した。明治41年創作上の苦悶から突然自殺した。作品はその他「ふところ日記」「観音岩」など。

11.28 エンゲルス誕生
 1820年。カール・マルクスとともに、科学的社会主義の創始者として偶像的崇拝を受けているフリードリッヒ・エンゲルスが、西独ライン地方のバルメンに、大紡績工場主の長男として誕生した。

11.27 セルシウス誕生
 1701年。グレゴリオ暦採用を主張し、摂氏寒暖計にその名を留める物理学者にして天文学者、アンデルス・セルシウスが、スウェーデンのウプサラに生れた。

11.26 小村寿太郎没
 1911年(明治44)。日清・日露両戦役の頃の外交を担当し、日英同盟・ポーツマス条約・条約改正など、輝かしい業績を残した小村寿太郎。57歳の生涯を終えた。 

11.25 女子嗜輪会てなんだろ?
 1900年(明治33)。お下げリボンに海老茶の袴、颯爽風を切って走るハイカラさんの自転車乗り。明治開化、流行の波に乗って、こんな名の同好会が結成され、発会式を挙げた。

11.24 木下利玄
 明治・大正時代の歌人。岡山県の人。東京大学国文科卒業。佐々木信綱の門に入り、竹柏園の歌風を学んだ。のちに志賀直哉・武者小路実篤らと雑誌「白樺」を創刊して同人となった。伝統的な格律の尊重とともに、口語・俗語を取り入れて短歌形式に清新さを加えた。歌集は「紅玉」「一路」「立春」など。

11.23 宝永山誕生
 1707年(宝永4)。富士山の東南、6合目から7号目にかけて、なだらかな稜線に瘤のような変化を見せている宝永山は、この日から12月9日にかけての大爆発によって生じた。

11.22 ジード誕生
 1869年。『狭き門』『田園交響曲』等、数々の作品で20世紀前半の青年層を魅了したアンドレ・ジードが、パリの裕福な家庭で産声をあげた。

11.21 第1回早慶戦
 1903年(明治36)。三田綱町の慶大グラウンドにおける華々しい打撃戦の結果、11対9で慶応の勝ち。勝利投手は桜井弥一郎、敗戦投手は河野安通志。

11.20 ラーゲルレーフ誕生
 1858年。女性最初のノーベル賞受賞者(1909年)であり、アカデミー最初の婦人会員となった、スウェーデンの作家セルマ・ラーゲルレーフが、モルバッカの文学的雰囲気に満ちた家庭で呱々の声を挙げた。『ニルスの不思議な旅』は、わが国でも愛読されている。

11.19 レセップス誕生
 1805年。地中海と紅海とを結ぶ全長160キロのスエズ運河を開鑿し、紀元前からの人類の夢を実現したフェルディナン・レセップスが、パリ郊外のヴェルサイユで生れた。

11.18 ギルバート誕生
 1836年。ロンドンのサヴォイ座で上演された、作曲家サリヴァンとの合作になる喜歌劇、サヴォイ・オペラの劇作家ウィリアム・ギルバート。

11.17 ゴローニン
 ロシアの航海者。ロシア軍艦ディアナ号艦長となり、ロシア沿岸の測量に従い、カムチヤッカより南下し、南千島で北海道松前藩によって幽囚された。のち釈放された。日本幽囚中、通司にロシア語を教えた。著書に「日本幽囚記」など。

11.16 最初の官立幼稚園
 1876年(明治9)。お茶の水女子大学の前身東京女高師のまた前身、東京女子師範の中に、付属幼稚園が開設。

11.15 津田真道
 明治時代初期の学者。名を真一郎。蘭学を箕作阮甫に、兵学を佐久間象山に学び、オランダに留学し法学を修めた。帰国後開成所教官となった。「明六社」を創立して一般の啓蒙にあたった。元老院議官となり、国会開設後は代議士として政界に出て衆議院副議長をつとめた。

11.14 モネ誕生
 1840年。印象派の首領として仰がれたフランスの画家クロード・モネがパリで生れた。

11.13 オドアケル
 中世ゲルマンの武将。西ローマ帝国を滅したゲルマン傭兵隊長。476年ゲルマン傭兵を率いて西ローマに攻めこみ、西ローマ帝国を滅した。のち東ローマ帝国の軍に破られ殺された。

11.12 辰野金吾
 明治・大正時代の建築家。佐賀県の人。工部大学(のちの東京大学)で建築学を修め、ヨーロッパに留学し、帰国後東京大学教授となった。退官後建築事務所をおこした。その設計したものに「日本銀行」「東京駅」がある。

11.11 川上音二郎逝く
 1911年(明治44)。自由民権論華やかなりし明治20年代。演説使いの自由童子、オッペケペー節の浮世亭○○、書生仁和加に壮士芝居、更に歌舞伎座上演の新派劇に到るまで、川上音二郎48歳の多忙な人生が終った。

11.10 軍艦三笠の進水式
 1900年(明治33)。日露戦争後における連合艦隊の旗艦として勇名を馳せ、今も横須賀の白浜海岸に保存されている軍艦三笠が、イギリスはバーローのアームストロング造船所において進水し、命名式を行なった。

11.9 ウー=ヌー
 ミャンマー(ビルマ)の政治家。初代首相。旧名タキン=ヌー。ラングーン大学を卒業。1943年バー=モ政権の外相となり、第2次大戦後、反ファシスト人民自由連盟を組織し、制憲議会議長などをへて1948年1月ビルマ独立とともに連邦初代首相となった。

11.8 内藤鳴雪
 明治・大正時代の俳人。江戸に生まれ、昌平校に学んだ。愛媛県庁や文部省に勤めたが、退官して正岡子規に俳句を学んだ。学問と風格によって重きをなした。著書は「鳴雪俳句鈔」「鳴雪俳話」など。

11.7 桃中軒雲右衛門没
 1916年(大正5)。デロレン祭文とかチョンガレ節・チョボクレなどと軽蔑されていた寄席演芸の浪花節を、1907年(明治40年)、東京の本郷座にかけて1ヶ月満員札止めの記録を作り、そのまた6年後には、東京の歌舞伎座で単独興行を打つなど、一躍、大劇場の芸にまで育て上げた不世出の浪曲師桃中軒雲右衛門こと岡本峰吉は、44歳の壮年でこの世を去った。

11.6 リシュリュー
 フランスの政治家。1614年三部会に議員となって政界に入り、ルイ13世のもとに宰相としてその絶対主義の確立につとめた。皇族や大地主を抑圧し、治績を挙げた。アカデミー=フランセーズを創立し、文化の保護に当った。絶対制の典型的な現実政治化。

11.5 島村抱月没
 1918年(大正7)。恩師坪内逍遥巣主宰する文芸協会にあっては『早稲田文学』を編集し、協会分裂後は、中村吉蔵・松井須磨子らと芸術座を組織して演劇実践に情熱を傾けた新劇運動の先駆者、島村抱月。この年流行したスペイン風邪には勝てず、48歳の生涯に幕を閉じた。

11.4 升田幸三
 現代の将棋家。広島県の人。木見金次郎の門に下り、鬼才と称された。勝利への道は攻めにありとして豪放な猛攻を得意とした。棋界の実力第1人者として昭和32年(1957)王将位9段位に・名人位を獲得した。天才的棋士。

11.3 ムリリョ
 スペインの画家。マドリードでベラスケスの指導を受け、ティチァーノ・ルーベンスの影響を受けて柔らかい筆使いで温和な色彩を持った宗教画を描いた。代表作は「聖ベルナールの夢幻」「聖フランシスコとその教園」「聖カテリナの婚約」など。

11.2 北原白秋没
 1942年(昭和17)。58歳。近代詩・短歌・俳句・民謡・童謡と、凡そ詩人として及ぶ限りの世界に翼を伸ばし、珠玉の作品を限りなく残して、この世を去った。 

11.1 国産最初のオールトーキー映画封切
 1929年(昭和4)。水谷八重子・井上正夫主演の『大尉の娘』、東京で上映。

10.31 ルター、宗教改革を宣言
 1517年。ドイツの宗教家マルティン・ルターは、金と権力に腐敗しきった宗教界を一新すべく、宗教改革95か条の痛烈な弾劾文を、ヴィッテンベルクの城教会の門扉に張り出して、プロテスタント運動の第1歩を踏み出した。

10.30 高野長英自殺
 1850年(嘉永3)。ドイツ人シーボルトの門人として西洋医学を学び、広く世界に眼を向けるべく、渡辺崋山らとともに開国の必要を説いた高野長英。幕府に睨まれ、伝馬町の獄舎に繋がれたが、1844年(天保15)の火災に紛れて脱走、顔を灼いて人相を変え、沢三伯と名乗って洋書翻訳を業にしていたところを探知され、青山百人町の隠れ家を襲われて自殺した。47歳。

10.29 第1回宝くじ発売
 1945年(昭和20)。日本勧業銀行発行の第1回宝くじは、1枚10円、1等賞金10万円。売上はわずか2500万円。

10.28 ハーヴァード大学創立
 1636年。アメリカで最古の伝統を誇るこの大学の創立法案がマサチューセッツ州植民地議会で可決成立した。その時の予算は400ポンド。1638年、牧師ジョン・ハーヴァードの遺産780ポンドと320冊の蔵書が寄付されて、大学の基礎が固まり、遺産寄贈者の名を記念してハーヴァード大学と命名された。

10.27 ミシンの発明者シンガー誕生
 1811年。アメリカのボストンで生まれたアイザック・シンガーが、初めて実用的な縫製用ミシンを発明したのは、40歳の時であった。

10.26 榎本武揚逝く
 1908年(明治41)。73歳。明治新政府唯一人チャクキチャキの江戸っ児として、海軍中将から海軍卿、ロシア特命全権公使・清国特命行使・外務大臣・逓信大臣・農商務大臣・文部大臣と要職を歴任した榎本武揚。ことにロシア公使として結んだ千島樺太交換条約や、外務大臣として処理したロシア皇太子襲撃の大津事件などに冴えた手腕を見せた。

10.25 ピカソ誕生
 1881年。近代画壇の鬼才パブロ・ピカソは、この日、南スペイン、アンダルシアの海岸、マラガの町に生れた。

10.24 和算の大家関孝和死す
 1708年(宝永5)。67歳。上州藤岡に生れた関新助、5代将軍綱吉に仕えて納戸組頭となったが、生来数学が好きで、日本式の数学、和算を改良して、初等代数学に相当する円理法などを発見した。これはニュートン(1642〜1727)やライプニッツ(1646〜1716)など、西欧の数学者が微積分法を考え出したのと、ほぼ時を同じくするものであった。

10.23 元田永孚
 明治時代の教育家。肥後の人。漢詩・漢文を学び、漢字にくわしく、明治4年(1871)宮内省出仕となり、傍ら明治天皇の侍読・侍講をつとめた。のち枢密顧問官となった。ヨーロッパ風の教育に反対し、忠孝を中心とする道徳教育を主張し、「幼学綱要」を著わした。明治23年(1888)発布された「教育勅語」の起草をしたといわれる。

10.22 チマブエ
 イタリアの画家。フィレンツエに生まれ、頽廃的なビザンチン芸術を打破して、新たな息吹を画界に吹き込んだ。代表作は「聖母と天使」。西洋絵画の祖と称される。

10.21 マジェラン海峡発見
 1520年。ポルトガルの探検家フェルナンド・マジェランが、人類最初の世界一周航海の途中、大西洋と太平洋を結ぶ海峡が、南アメリカの南端に通じていることを発見した。

10.20 室鳩巣
 江戸時代中期の儒学者。江戸に生まれ、木下順庵に儒学を学び、加賀侯前田綱紀に仕えた。のち新井白石に推されて幕府の儒官となり、徳川吉宗の侍読として信任を受けた。朱子学の大家であったが、産業民生についても実用的な意見を出した。吉宗から駿河台に邸をもらい、世に駿台先生と称された。「駿台雑話」は、国文で書かれた随筆集。

10.19 セネカ
 古代ローマの哲学者。スペインのコルドバに生まれ、ネロ帝の教育者であった関係からその総理大臣となったが最後はネロの強制により自殺した。ストア哲学の実践者としても有名。

10.18 後藤祐乗
 室町時代後期の金工。本名を四郎兵衛。美濃(岐阜県)の人。足利義政に仕え、刀装具の彫刻を業とした。装剣彫金工の後藤本家の始祖。子孫は歴代四郎兵衛のなを世襲した。

10.17 ノーベル文学賞川端康成に
 1968年(昭和43)。1949年の湯川秀樹、65年の朝永信一郎に続いて、わが国では初のノーベル文学賞が、元ペンクラブ会員川端康成に贈られた。

10.16 ユージン・オニール誕生
 1888年。近代アメリカの代表的な劇作家であったユージン・グラッドストーン・オニールが、旅役者を父としてニューヨークに生れた。『地平線の彼方』『アンナ・クリスティ』『奇妙な幕間狂言』の3作品がピューリッツァ賞を獲得している。

10.15 新渡戸稲造没
 1933年(昭和8)。72歳。クラーク博士の薫陶を受けたキリスト教主義の教育者として自ら太平洋の橋たらんと志した日米親善の先覚者、新渡戸稲造。カナダのバンクーバーで開かれた太平洋問題会議に出席しての帰途、病を得て、ヴィクトリア市の病院でこの世を去った。

10.14 ペトラルカ
 イタリアのルネサンス期の詩人。古典文学を学び、ヨーロッパ各地を遍歴して多くのソネットを書いた。それらはいずれも恋人に捧げたものといわれる。晩年は山荘にこもって古典研究に生活を送った。代表作は「アフリカ」「小曲集」など。 

10.13 わが国最初の麻酔手術
 1805年(文化2)。紀州出身の京都の外科医華岡青洲が、蘭方医学の麻沸湯という麻酔薬を用いて、藍屋利兵衛の60歳になる母親の乳癌を切除したのが最初の記録。以来、尿道結石・脱疽症・痔ろう・兎瘻口と次から次へ成功させ、天下第一華岡先生の名は全国に鳴り響いた。

10.12 コロンブス、陸地発見
 1492年。8月3日、スペインのパロス港を出帆したコロンブスの船団は、70日間の不安な航海の挙句、この日の朝、ついに陸地を発見、サンサルバドルの島々に西インド諸島の名を与えた。この日をアメリカではコロンブスデーと呼んで記念している。

10.11 漫画家岡本一平没
 1948年(昭和23)。63歳。『人の一生』『どぜう地獄』『へぼ胡瓜』など独特の筆使いとユーモラスな文章で一世を風靡した一平。その奥さんが『かの子撩乱』の歌人・小説家岡本かの子、坊ちゃんが「爆発だあ!」の岡本太郎。

10.10 ヴェルディ誕生
 1813年。『リゴレット』『アイーダ』『トロヴァトーレ』『ラ・トラヴィアタ』『フェルスタッフ』等、イタリアオペラ数々の傑作を生み出したジュセッペ・ヴェルディが、北イタリア、ロンバルディア地方のパルマに生れている。

10.9 サン・サーンス誕生
 1835年。『動物の謝肉祭』で馴染の深いフランスの作曲家、シャルル・カミーユ・サン・サーンスがパリで生れた。

10.8 国立公園第1回選定
 1932年(昭和7)。その前年施行の国立公園法に基づき、この日、北海道の大雪山と阿寒、東北の十和田、関東の日光、中部の富士と日本アルプス、近畿の吉野及び熊野、中国四国の瀬戸内海と伯耆大山、九州の阿蘇と雲仙に霧島の12ヵ所が、わが国最初の国立公園として選定された。もっとも、戦時中は一たんこれを解消して、1947年(昭和22)、6月、改めて阿蘇・富士箱根伊豆・日光・瀬戸内海の4ヵ所が決定し、順次選定を拡大して27ヵ所に及んでいる。

10.7 頓阿
 室町時代初期の歌人・僧侶・俗名を二階堂貞宗。幼少より和歌を好み、藤原為世について学んだ。叡山に登り、西行に習って諸国を歩いた。「新拾遺集」を撰した。歌集は「草庵集」。

10.6 尾崎行雄逝く
 1954年(昭和29)。戸籍上は1859年(安政6)11月20日、実は安政5年に相模の国津久井郡又野村に生れた尾崎行雄は、1890年(明治23)7月1日の第1回総選挙に三重県から立候補して当選して以来、1953年(昭和28)4月19日の第26回総選挙に落選するまで足掛け64年間、代議士としての議席を保持し、憲政の神様と称された。これですっぱりと政界から縁を切ったが、国会初の名誉議院・終身年金第1号を送られて、この日、95歳の大往生を遂げた。

10.5 大谷光瑞没
 1948年(昭和23)。73歳。明如上人光尊の子として生れ、真宗本願寺派第22世の法主となった鏡上人光瑞は、すこぶる進歩的な人物。父の死によってヨーロッパの遊学先から帰国の途中に試みた中央アジア探検の旅は、さらに大谷探検隊の派遣となって発展し、近年話題の中心となっているシルクロードの流砂に消えた楼蘭王国探検の先鞭をつけたものである。

10.4 引越し蕎麦を配った外人さん
 1875年(明治8)。この日付の『朝野新聞』を見ると、相州浦賀宮下町の、安斎伝六という人の家作を借りて越してきた1人の外人、海軍省雇の教師某は、引越しの当日、ご近所に挨拶の引越し蕎麦を配ったので大評判、なかなか開けた日本通の先生だと歓迎された、とある。

10.3 デモクリトス
 古代ギリシアの哲学者。イオニア植民地に生まれ、多大の財産を東洋への研究旅行に費した。故郷に帰り、研究に没頭し、1つの真理を発見するためには全ペルシアを与えても惜しくはない意気込みを見せた。古代ギリシア初期の最も優れた学者といわれるがその考えの一部分しか判明していない。

10.2 ゲーテとナポレオンご対面
 1808年。ドイツの文豪にフランスの英雄、ずいぶん毛色の違った2人の偉人が、中部ドイツのエルフルトで顔を合わせた。ゲーテ59歳、ナポレオン39歳。かたい握手を交わしてナポレオンはいった。「私『若きヴェルテルの悩み』の愛読者でした」。さすが、ペンは剣よりも。

10.1 110番
 1948年(昭和23)。犯罪検挙のスピード化と防犯の万全を期して、警視庁では110番の呼出電話を設けた。110番をかけさえすれば電話した地点がわかる。消防署の119番も同じ

9.30 司馬光
 中国の北総時代の政治家・学者。通称は司馬温公。山西の人。王安石の新法に反対し、保守派の先頭に立って活躍。退いて修史に専念したこともあったが、哲宗即位後、宰相となり、新法を退けて旧法を復活した。また学者としてもすぐれ、中国歴代王朝の興亡を記述した「資治通鑑」を著わした。

9.29 ネルソン誕生
 1758年。トラファルガーの海戦に、ナポレオンのフランス・スペイン連合艦隊を撃滅、英国の海上支配権を確保し、潜函ヴィクトリー号上で戦死した不滅の名将、ホレイショ・ネルソンは、この日、ノーフォーク州の片田舎バーナム・ソープで誕生。

9.28 チョーサー
 イギリスの詩人。宮廷に仕え、フランス文学を学び、外交上の使命を帯びてイタリアに渡り、そののち公職に多忙の生活を送るかたわら創作をつづけた。代表作は「カンタベリー物語」。

9.27 わが国最初の英字新聞
 1885年(明治18年)。日本人が編集した最初の英字新聞、『アングロ・ジャパニーズ・レヴィユ』が、この日、大阪で発行された。

9.26 ガーシュイン誕生
 1898年。『ラプソディ・イン・ブルー』を始めとする、シンフォニック・ジャズの傑作を次々と発表し、ポール・ホワイトマンのオーケストラを使って、アメリカの現代音楽に新しい生命を吹き込んだジョージ・ガーシュインが、ニューヨークのブルックリンで産声をあげた。

9.25 野村望東尼
 江戸時代の女流歌人。福岡藩士の女で野村貞貫と結婚。大熊言道に和歌と書を学んだ。夫の死後出家し尼となった。高杉晋作ら勤皇の志士をかくまいその運動を援助したため幕府に捕らえられた。歌集は「向陵集」。

9.24 大日本相撲協会成立
 1925年(大正14)。徳川時代から江戸相撲に対抗して、長い伝統を誇っていた大阪相撲が解散し、東京大角力協会が大阪角力協会を合併する形で、大日本相撲協会が設立された。ごひいきの客をタニマチというが、この隠語は、大阪谷町在住の外科医某に由来する。

9.23 タイムカプセルの試み
 1939年ウェスティングハウス電気会社の発案で、長さ7フィート6インチ、直径9インチ、合金製の筒の中に、時計・電球・煙草・文房具・化粧品・写真機・穀物・織物・石炭・出版物等を収め、25ヶ国語の説明書を添え、5千年後、すなわち6939年に取り出すようにと、この日の正午、ニューヨーク万国博覧会の一隅、50フィートの地下に埋めた。

9.22 ハーグリーブス
 イギリスの発明家。紡績機械の発明者。ランカシアに生まれ、はじめ貧しい職工であったが、苦心に苦心を重ねて多軸紡績機を発明し、自分の娘の名をとって「ジェニー機」と名付けた。この発明はアークライトに利用され、さらにこのジェニー機の発明が紡績職工の失業の原因になると非難され、不幸な一生を送った。

9.21 ノーベル平和賞、ラルフ・バンチ博士に決定
 1950年。祖父はアメリカ南部の黒人奴隷であったが、カルフォルニア・ハーヴァード両大学を卒業して政治学者となった彼は、当然、人種問題・植民地問題の権威として活躍し、戦後は、国連事務局の信託統治部長・パレスティナ委員会事務局長を歴任、ベルナドット調停官暗殺の後は、自ら調停官代理として紛争の解決に努めた。ノーベル平和賞が黒人に与えられたのはこれが最初。

9.20 宮沢賢治逝く
 1933年(昭和9)。神秘壮大な宇宙観と農民への深い愛情などと、勿体ぶったことはいわずとも『雨ニモ負ケズ』の詩、『風の又三郎』の童話で、誰にも愛され、すべての者を愛した詩人が、38歳の若さで死んだ。

9.19 正岡子規逝く
 1902年(明治35)。漱石・紅葉・露伴・子規と、明治の文運興隆に貢献した4人が4人、慶応3年と生れ年を同じくしている。人間にもヴィンテイジ・エイジがあるらしい。

9.18 『古事記』編纂の詔勅
 711年(和銅4)。元明天皇が勅を下して、わが国最初の国史編纂に着手せしめられたのがこの日。詔を承った太安万侶は、かねてから稗田阿礼に命じて誦習させておいた「帝記」「旧辞」を撰録して、翌年正月28日、『古事記』3巻を完成奏上した。その間わずか4ヶ月余り、実に迅速なもの。

9.17 「幾山河超えさりゆかば」若山牧水没
 1928年(昭和3)。44歳。終焉の地は、歌碑の建つ沼津市千本松。

9.16 浜田弥兵衛
 江戸時代初期の商人。長崎の人。長崎商人末次平蔵所属の朱印船船長。貿易のために台湾に渡ったが、オランダ役人に船と貨物を接収された。このことに憤慨し、1628年武装した部下を率いて台湾に渡り、暴力をふるってオランダ人総督を人質として交渉を行い、接収物品の返還と補修を求め、目的を果たしたといわれる。

9.11 D・H・ローレンス誕生
 1885年。人生の根本はセックスにありと観じ、『チャタレイ夫人の恋人』その他の作品で一世の耳目を聳動させたイギリスの小説家、デーヴィッド・ハーバート・ローレンスが、ノッティンガムシャーの炭鉱町イーストウッドに、一介の炭鉱夫を父として呱々の声を挙げた。ただし教養のある母親が、作家としての彼の未来を開いたといわれる。

9.10 トリアッチ
 イタリアの政治家。イタリア共産党書記長。ゼノアに生まれ、トリー大学を中退し、社会主義運動に参加。ムッソリーニのファシスト政権樹立とともに国外へ逃れてアメリカに亡命生活を送った。1944年ファシスト政権崩壊とともに帰り200万の共産党員を従え戦後の政界に大きく浮かび上がった。世界的に有名な革命家。ソ連外における最大の共産党指導者といわれる。

9.9 獅子文六
 現代の小説家。本名岩田豊雄。横浜の人。慶応大学文科を中退し、フランスに遊び、演劇を学んで帰り、明治大学講師、文学座幹事をつとめた。ペーソスとユーモアに富む作風を持って文壇にその地位を確立。代表作は『てんやわんや』『大番』など。

9.8 ドヴォルザーク誕生
 1841年。「ヴァイオリンさえあれば牢獄も楽し」と言われるボヘミアンの1人として、チェコスロバキアのネラホゼヴェスの旅籠屋に呱々の声を挙げたアントニオ・ドヴォルザーク。スラブ民族特有の、また東洋人の心にも通じる、もののあわれ的な感情の『新世界交響曲』や『ユーモレスク』などの傑作を残した。

9.7 飛鳥山に桜を植える
 1720年(享保5)。近年はすっかり桜の名所を上野公園に奪われたが、花のお江戸のその中でも、「長屋の花見」を始めとして、江戸落語の世界では最もなじみの深い王子の飛鳥山に、初めて桜の苗木を植えたのがこの日。8代将軍吉宗が、かねて江戸城内で栽培していた高さ5,6尺の苗木270本を、荒川の流れを東に望み、麓に滝野川のせせらぎを聞く景勝の地に、3日がかりで植えさせたのである。

9.6 憲法草案起草を勅命
 1876年(明治9)。この日、明治天皇は、元老院議長有栖川宮熾仁親王を召され、憲法草案起草を勅命を下された。同時に、議官柳原前光・福羽美静・神田孝平・細川潤二郎・中島信行等を国権取調委員として任命され、諸外国の憲法とわが国古来の慣習とを参酌して制定すべしとの御意が示された。いわゆる欽定憲法制定の発端。

9.5 木村栄
 明治・大正時代の天文学者。石川県の人。東京大学理科を卒業。明治32年(1899)岩手県水沢町に新設された緯度観測所長となり、昭和16年(1941)まで在職した。その間明治35年(1902)緯度の変化を観測、研究してそれまで用いられていた緯度変化を表わす公式に乙項と呼ばれる1項を加えなければならないことを発見し、世界的に有名となった。昭和12年(1937)第1回文化勲章を受けた。

9.4 杜甫
 中国の唐時代の詩人。字は子美。河南に生まれ、志を立てて都長安に上ったが、進士の試験に落第し、貧しいし詩人の生活を送った。玄宗皇帝に詩を捧げて認められ、官についたが、安禄山の乱が起こって官を捨て各地を流浪し恵まれない一生を終った。李白とならぶ唐の代表的詩人。

9.3 近代工業の父、本木昌造逝く
 1875年(明治8)。この日、幕末から明治にかけて、私財を擲ち、長崎飽の浦の製鉄所、東京築地の活版所、石川島の造船所など、近代工業の草分けとなった大企業を次々と創設、日本の産業の基礎を築いた本木昌造が逝った。52歳。

9.2 岡倉天心逝く
 1913年(大正2)。52歳。天心が、日本人以上に日本の美術を愛した、アーネスト・フェノロサの感化の下に、政府を説いて、図面取調掛や全国宝物取調局、古社寺保存法等の法制を整えさせ、近代美術振興の為には、芳崖・雅邦・光雲らと東京美術学校や日本美術院の開設の奔走した働きは目ざましい。

9.1 震災記念日・防災の日
 1923(大正12)の9月1日に発生した大地震は、わが国未曾有の大震火災となった。以後、毎年この日には、小学児童は梅干1つの日の丸弁当を持参することを義務づけられて、この日の惨害と被災者の苦難を記念することが長く続いた。現在の防災の日は、震災のみならず、広く災害防止・避難準備の心がけを新たにする為に定められたもの。

8.31 エジソンの白熱電燈に特許権
 1887年。エジソンが電燈を発明したのは8年も前のことであったが、さらに工夫改良を加えて初めて特許権を獲得したのがこの日である。ニューヨークのメロン・パークにあったエジソン研究所には、100人に余る所員が力を合わせて改良に努力していたが、発明後間もない1880年10月5日に研究所を訪れたフランスの名女優サラ・ベルナールは、昼を欺く煌々たる電灯の輝きに感激し、所内をはしゃぎ廻って、大切な気化器をこわしはせぬかと、所員一同ハラハラしたというエピソードがある。

8.30 シェーレ
 スウェーデンの化学者。14歳のときに薬局に弟子入りして化学の親しみ多くの物質を発見した。1770年ウプサラ大学教授となり、73年「火と空気」という論文を書き、その中で酸素ガスが空気中にあることを述べた。また塩素を発見し、バリウム・カルシウム・塩酸・アンモニア・亜ヒ酸・乳酸を見つけた。

8.29 セーター
 セーターを着たまま、両手首をしばり、このセーターを裏返しにできるか。これは、連続変形を考えればよいので、「トポロジー大手品」と言ったりする。両手首をしばったまま、セーターを首からはずすと、手の周りに円筒状にセーターが巻きついていることになる。この筒を裏返しておいて、首から通すとセーターは裏返っている。

8.28 大伴家持逝く
 785年(延暦4)。大納言旅人の子として生れ、武門大伴氏の長として育った家持は、ともかく東宮大夫従三位中納言の官位に進み、鎮守将軍・征東将軍の軍歴をも経たが、何分ともに、武人や政治家には向かぬ、デリケートな神経の持ち主であった。それは、「うらうらに照れる春日に雲雀上がり心悲しもひとりし思へば」とか「わが宿のいさき郡竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも」などの万葉歌に見られる繊細な感覚に現れている。すでに大伴氏に昔の勢威なく、振興の藤原氏に押されて、一門の危機を感じた家持が、氏人の奮起を促すべく、先祖の功績を讃えて詠い上げた長歌「族を喩す歌」の一節が「海ゆかば水漬けく屍 山ゆかば草むす屍」である。

8.27 運動
 野球をするのも、デモをするのも、運動だけれど、数学では、姿を変えずにうつすことを、運動という。それには、平行にずらす移動と、どこかの点を中心にまわす回転とを、組み合わせればよい。それで、移動と回転、つまりは「ずらすこと」と「まわすこと」が、この世界を支配する。

8.26 わが国最初の海洋気象台
 1920年(大正9)。文部次官田所美治・兵庫県知事清野長太郎の斡旋によって、神戸の海運業者が資金を寄付して開設した神戸の海洋気象台が、文部省所轄の下に観測事業を始めた。

8.25 浜名湖、海続きとなる
 1498年(明応7)。この日、東海道全般を襲った大地震はマグニチュード8.6。伊勢大湊で溺死者5千人、伊勢志摩で1万人、駿河の志多郡で流死2万6千人という大きな被害を出したが、その大津波のために浜名湖と海との境目の陸地が決潰して、海続きとなった。そこを「今切」と呼ぶが、それ以前は、琵琶湖を「近つ淡海」と呼ぶのに対して「遠つ淡海」と呼んでいたように、浜名湖は浜名川で海にそそぐ完全な淡水湖であった。

8.24 ポンペイ最後の日
 79年。イタリアはナポリの東南約20`の海岸に沿うポンペイの町は、紀元前から殷賑を極めた都市。殊にローマの貴族たちの別荘地として賑わい、アウグストゥスが皇帝となって以来は豪奢な歓楽都市として栄えた。紀元前63年の2月3日にも、ヴェスヴィアス火山が大鳴動を発し、その地震のためにポンペイの町は崩壊したが、しかしそれから百数十年、昔にまさる繁栄を誇るほどに復興していた。ところがこの日、突如としてヴェスヴィアス火山は大噴火を起こし、ポンペイの町を深さ14bにも及ぶ火山灰や土砂で埋め尽くしたのである。

8.23 量子論理
 量子力学では、Aを観測するとBに影響が出るので、AとBと同時に観測できないことがある。その場合は、日常の論理がなりたたない。それで、(A and B) or Cと(A or C) and (B or C)とは区別しなければならない。

8.22 ドビュッシー誕生
 1862年。印象派の詩人マラルメの作品をそのまま音の世界に持ちこんだ管弦楽、『牧神の午後への前奏曲』で作風を確立した印象主義の始祖、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーが、パリ郊外、サン・ジェルマン・アン・レーの瀬戸物屋の息子として生れた。

8.21 ロボット
 人間の能力のある部分を拡大した数学モデル、ないしはその実現。一番気味の悪いのは、ノイマンが考えた自己増殖機構のモデルだろう。そのロボットは、与えられた材料で、自分とそっくり同じロボットを作り出す。そして、材料の供給が止まらないかぎり、無限に自己を再生産し続ける。

8.20 一
 ギリシャ時代は、1を数の中に入れず、数は2から始めた。複数だから、数が問題になる。そして、1とは、数えるためのモトになるものだった。1が並ぶことで、数が生まれる。その意味では、数を生み出すモトでもあるまい。いまでは、1どころか、0から数を始めるが、0の場合は、いくら並べても数を生みださない。

8.19 グライダーの軍事利用を献言した二宮忠八
 1894年(明治27年)。当時、日清戦争に従軍、京城郊外の野戦病院に勤務していた看護卒二宮忠八、かつて四国丸亀の衛戍病院に勤めていた頃に模型を作り始めて、明治26年には、人間が乗って飛べるグライダーを仕上げていた。その後、日清の国交が切迫すると共に、忠八にも余裕がなくなり、一時研究を中止していたが、何とかこれを偵察や通信に利用したいものと考え、それまでの研究の結果や設計図を揃えて、時の混成旅団長大島義昌まで採用を願い出た。しかし、今日の役に立たねばと言うのが、何時の世も変わらぬ軍部の短見。「せっかくの発明ではあるが、未完成のものは採用することが出来ない。殊に今は軍事多忙であるから、次の機会にせよ」と、すげなく却下された。その時、忠八の建白書を披見却下したのが、後になって航空思想の普及に奔走した髯の長岡外史将軍。

8.18 第1回全国中等学校優勝野球大会の決勝戦
 1915年(大正4)。戦後の六三制教育制度の採用とともに高校野球と名は改まったが、五年制の中学の当時は、東の早慶戦に対して全国野球ファン人気の的となった西の中等学校野球大会が、大正4年8月、大阪朝日新聞社の主催によって始められた。大正13年、甲子の年に甲子園球場が完成する以前の第1回大会は、大阪府下と夜中のグラウンドで催された。全国10地区の予選に出場52校から勝ち残った10校のチィームが連日熱戦を展開、京都二中・秋田中学の2チィームがこの日決勝戦を挑んだ。ともに母校の名誉をかけ、球史に花を飾るべく息づまるような接戦、2対1のスコアで真紅の大旆は京都二中ナインの上に輝いた。

8.17 千円札お目見得
 1945年(昭和20)。敗戦に伴なう戦後の狂乱的なインフレは、百円札の尺祝いなどという馬鹿げた風習をも生んだが、そのインフレマインドを沈静させるために発行されたのがこれ。日本武尊の千円札の砦も破られて、間もなく聖徳太子1万円札のお出ましとなる。

8.16 日本水泳人全米選手権大会を席捲
 1949年(昭和24)。この日から19日まで4日間、ロサンゼルスのオリンピックプールで開かれた全米選手権は、まさに日本選手の独壇場。400bでは古橋の4分33秒3、800bでは古橋の9分35秒5、1500bでも同じく18分19秒と、予選決勝を通じての最高タイム。6人の選手が6種目中5種目を制覇する有様であった。敗戦国でオリンピック参加も許されない日本選手であっても、強いものは強いとして、これを招いて長所を学ぶアメリカ。この心がけの違いが、かつての水泳王国日本を落日の涯に追い落としたのである。

8.15 第1次世界大戦後の復活オリンピック大会
 1920年。大戦中しばらく途絶えていた国際オリンピック競技大会が、ベルギーのアントワープで開催の第7回大会で復活した。国王アルベール、王妃エリザベス及び皇太子ご来臨で挙行されたこの日に開会式では、大戦前の1914年、クーベルタン男爵が考案制定した白地に五輪の旗が初めて掲揚された。参加国の選手がそれぞれに国旗を掲げて入場し、代表による宣誓式が行われたのも、この時が最初である。

8.14 塩原太郎没
 1816年(文化13閏)。愛馬黒(アオ)との涙の別れの人情噺でお馴染みの塩原太郎が74歳でこの世を去った。そもそも江戸は本所2丁目に住む薪炭商塩原屋太郎の立志伝を人情噺に仕立て、三遊亭円朝が高座で語ったのが評判となり、三世河竹新七が『塩原多助一代記』という歌舞伎に脚色して、歌舞伎座の芝居にかけたのが明治25年の1月。初演の役者は、5代目菊五郎が多助と道連れ小平の両役、尾上栄三郎のお栄・お花の両役に、尾上松助が百姓角右衛門と空樽買の久八に又旅おかくの3役、尾上菊之助の原丹三郎に圓次郎といった顔触れであったが、作中の人物の子孫がそれぞれ健在であった当時、事実と相違するモデル問題がいろいろと紛糾した事であった。

8.13 わが国最初の国際水泳競技会
 1898年(明治3)その前の夏、当時水府流太田派水練の達人溝口幹樹が、約百bの距離を1分20秒で泳いだのを見た横浜在留の外人たちが、「なんだそんな程度か」と笑ったとか笑わなかったとか。噂を耳にした太田派の面々、「それじゃあ、在留外人と堂々一戦を交えて、優劣を決めようじゃないか」と、挑戦状を送ったのが事の始まり。いよいよ約束の当日、横浜の西波止場外人水泳場で、100・200・440・880ヤード、それぞれに7名ずつの選手を出して技を競ったが、この日は快晴、東京から特別仕立ての汽車に乗って見物人が詰めかけ、海は船がぎっしり、陸には黒山の人だかりという盛況。さて、負けるな負けるなの声援で始まった競泳は、100ヤードを1分20秒で日本溝口の勝ち、続く440ヤードも日本溝口、最後の呼び物自由形880ヤードでは、大接戦の末、イギリス人アービンに1着を取られたが、全競技については日本の優勢ということで、わが国最初の水上競技会は閉幕した。

8.12 級数
 18世紀の大数学者オイラーは、1-1+1-1+1-…を計算するのに、途中の計算で、1と0とがかわりばんこに出るので、なかをとってロとした。それでも、そのことを使って、正しい結果を出したものだ。数を無限にたしていく級数の計算は、近代数学の基礎になったものである。

8.7 十返舎一九没
 1831年(天保2)。弥次郎兵衛・喜多八の『東海道中膝栗毛』で有名なユーモア作家十返舎一九こと重田市次郎貞一は、さぞかし普段から面白い人物だったろうとは思いの他、藤間流の名取りのであった娘マイを見染めたさる大名が、側女に差し出すようにと申し出たのも断固拒絶、彼の取材旅行に同行したら、どんなに楽しかろうと無理やりついて来た人も、ただ黙々と歩き続け、茶店に腰を下ろしても一言も口をきかず、手帳にメモを取るばかりの有様にすっかり閉口したというほど、生真面目な堅物であった。

8.6 ニチボー貝塚258連勝でストップ
 1966年(昭和41)。女子バレーボール界では、昭和34年1月16日の日本組合選手権大会で、明治生命チームに勝って以来、世界選手権はもとより、東京オリンピック優勝まで175連勝して、東洋の魔女の名をほしいままにしたニチボー貝塚は、新チームになっても引き続き83連勝していたが、この日、世界選手権の選考会で、フルセットの末ヤシカチームに破れ、連勝記録をストップした。

8.5 モーパッサン誕生
 1850年。田山花袋、徳田秋声、正宗白鳥ら、明治後期の自然主義作家に大きな影響を与えたフランスの小説家ギイ・ド・モーパッサンが、トゥール・シュール・アルクに誕生。

8.4 はづき
 陰暦の気候で、木の葉の黄落し始める意の葉月とも、稲の実の登る月の略ともいう。十二律では、南呂。英語のAugustは、ローマ皇帝Augustusが、この月にはいつも戦勝したことによるという。

8.3 コロンブス第1回探検の旅に出発
 1492年。米大陸発見で有名なイタリア人クリストファ・コロンブスが、スペインの女王イザベルの命により、サンタマリア号、ピンタ号及びニーニャ号3隻の船と150人の乗組員を率いて、パロスの港を出発した。イタリアの天文学者トスカネリから、地球は丸いものと教えられたコロンブスは、遠く南アフリカの喜望峰を東へ回らなくても、逆に西へ西へと進めば必ずインドに到着出来るものと信じて、女王イザベルの援助を懇請すること6年、念願達してようやくこの日の出発を迎えた。そして艱難の末、10月12日に西インド諸島のサンサルバドル島に到着、翌年3月15日、無事帰国して世人を驚かせたのである。

8.2 歩行者天国
 1970年(昭和45)。光化学スモッグにおびえる世論に応えて、東京都知事美濃部亮吉は、姉妹都市ニューヨークのリンゼイ市長に倣って、この日曜日から毎週日曜日の一定時間を、銀座・新宿・池袋・浅草4つの盛り場から、自動車を締め出すこととし、一時的にではあるが、一酸化炭素ゼロという健康的な環境を都民に保障した。

8.1 八朔・田実の祝
 陰暦の8月朔が正しい。台風シーズンの二百十日・二百二十日と共に、秋の農家の3大厄日とするが、一方には、早稲の新穀を朝廷に献上する田の実の節即ち八朔の祝というものも、13世紀、後嵯峨・後深草天皇の頃から始まっていた。 八朔に酢のきき過ぎし膾かな 許六

7.31 括弧
 式を扱うのに、ある部分をカッコにまとめることがなければ、数学は成立しなかったろう。藤森良蔵の「考え方」では、カッコにまとめたものを、ビンに入れたというので、ビンヅメと呼び、それを文字におきかえてしまうことを、カンヅメと呼んだ。

7.30 幻の東京オリンピック決定
 1936年(昭和11)。第11回オリンピック大会がナチスドイツの手によって開かれた年、オリンピック委員会は、次の第12回大会を東京で開くことを決定した。しかし、その翌年日華事変の拡大によって東京大会は空しくお流れとなり、1964年の第18回大会までお預けとなった。

7.29 実数
 実数というと、「現実の数」のように思われている。しかし、3.141592…や1.414213…の「…」のずっと先のほうを見た人はだれもいない。

7.28 地方蔑視の官報
 1888年(明治21)。この日付の官報が、青森県下の状況を報告した中に、演劇その他の興行に関して、「本県の如き稍〃無神経の人民なれども之を喜ぶものの如し云々」の文章があった。これを見た青森県民は収まらない。如何に官尊民卑とはいえ侮辱も甚だしいと県庁へねじ込んだ。その結果、8月17日付の官報に、「稍〃無神経の人民なれども之を喜ぶ」というのは、「人民においても稍〃これを喜ぶ」の誤りであると訂正記事を出したが、一片の正誤ぐらいでは勘弁ならぬと、津軽郡では、大道寺郡長以下全官吏が、辞表を県知事に提出したという。

7.27 コスモロジー
 宇宙をどう見るかという、宇宙観のこと。ルネサンス期から近代科学が生まれたのには、数学的なコスモロジーが成立することによってだ、という説が有力になっている。それも「科学」というより、「魔術」の影響が強かった、と説く人もある。 

7.26 直径
 図形を平行線にはさんだときの、平行線の幅。円は、どちらの方向にも、一定の直径をもっている。こんな図形は円にかぎるかというと、そうでもない。正三角形をふくらました図形でもよくて、それはロータリー・エンジンに使われている。

7.25 大伴旅人死去
 731年(天平3)。「価ひなき宝といふとも一坏の濁れる酒にあにまさめやも」と歌い、盛唐の李白にも比すべく限りなく酒を愛した万葉の歌人、大納言大伴旅人が、67歳でこの世を去っている。

7.24 児島明子ミス・ユニヴァースとなる
 1959年(昭和34)。伊東絹子が3位に入賞してから6年目、カリフォルニアのロングビーチで催されたコンテストに、初めて日本人から1位が出た。アジア地域からとしても最初の1位入賞であるが、日本人の女性もそろそろ8頭身になって来たというわけか。

7.23 中村裕逝く
 1984年(昭和59)。イギリスのストークマン・デビル・ホスピタルのグットマン博士に就いて身体障害者の機能開発に関する研究を積んで帰国して後、チャリティや同情よりも、障害者が自分の力で生きていく道を拓く為に献身的な努力を重ね、作家水上勉の命名による「太陽の家」を建設し、1964年(昭和39)には、オリンピック東京大会に続いて、パラリンピックの東京大会を実現し、さらに職業機能を競うカビリンピックを主催するなど、57歳の生涯を身体障害者自立の為に捧げ尽くした。

7.22 夏土用
 陰陽五行の説によって、春夏秋冬の四季を木火金水の四気が支配する期間とし、四季それぞれの終わりの18日と4分の1を、土気の支配する所と配分した。即ち土用とは、土気盛んな土旺の意である。従って、四季それぞれに土用があるのだが、土気の最も盛んな夏の土用のみが、一般には知られている。そこで、夏の土用入りから土用明けまでは、暑熱甚だしい時期なので、農家の厄日とする土曜第3日の土曜三郎を始め、土用波・土用干・土用灸・土用餅・土用蜆・土用丑の鰻・土曜芝居等々、暑気による災害や心身の衰えを防止しようとする民俗習慣が数多く生れた。 病む人を思ひやらるる土用哉 蚊足 

7.21 ハリス来日
 1856年(安政3)。アメリカ初代の総領事タウゼント・ハリスが下田港に来航した。当時のハリス日記に「余は日本渡来第一の印象に於て、日本人の風采と儀容に非常に感服した。喜望峰以東の諸国の中でも、日本人は最も優秀な国民である事を信じて疑わない」とある。

7.20 バイキング1号火星に軟着陸
 1976年。その前年の8月20日に打ち上げられたアメリカの火星探査機が、11ヵ月後のこの日、北緯23.5度、西経47.4度のクリュセ盆地斜面に軟着陸、風景写真をカラー撮影した。

7.19 中納言在原行平没
 893年(寛平5)。平城天皇の皇子阿保親王の第3王子。美男で名高い業平の兄。「わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつ詫ぶと答へよ」。若い頃ある事件に連座して、須磨の浦にる流謫の日々を送っていた頃に詠んだ歌がこれ。

7.18 幡随院長兵衛の最期
 1657年(明暦3)。芝居や講談でお馴染みの町奴、幡随院長兵衛が、旗本奴の首領水野十郎左衛門の為に、入浴中を襲われて、36歳の命を落とした。

7.17 算木
 古代中国の数学は、奈良時代には日本に伝わった。今昔物語にある話では、数学者になりそこなった老人が、「算木を並べて人だって殺せる」と宮中の女房どもに自慢したところ、彼女たちはそれを信用しなかった。それで彼が算木を並べると、彼女たちは急に笑いだして、笑い死にしそうになったという。残念ながら、その秘法は伝わっていない。

7.16 アムンセン誕生
 1872年。ノルウェイの探検家ロアルド・アムンセンがベズデンに生れた。北極・南極の探検に果たしたアムンセンの功績は多いが、1928年5月、イタリアのノビレ少将の乗った航空機イタリア号が北極からの帰途行方不明となったと聞くと、6月17日水上飛行機を駆ってベンゲルを出発、スピッツベルゲン方向へ捜索に向かったまま行方不明となり、9月2日、愛機の部品が発見されたことによってその遭難が確認された。但し、当のノビレ少将は、スウェーデンの飛行家に救援されて無事であった。

7.15 ミス・ユニバースと八頭身
 1953年(昭和28年)。アメリカはカリフォルニアのロングビーチで開催されたミス・ユニバース・コンテストにおいて、日本から初めて参加した伊東絹子が見事3位入賞。これから六頭身の日本人の間で八頭身が流行語となった。

7.14 盂蘭盆・魂祭
 餓鬼道に堕ちて苦しむ母を救おうと、仏の教えを乞うた目連尊者が、夏安居の行を終えた衆僧に供養して、母を善処に転生させたという伝説に基づく。盂蘭盆の語源、Ullambanaは、逆さ吊りの苦しみに倒懸の意。もとは陰暦の行事であったから、月遅れの8月15日や陰暦の7月15日に行う地方もある。靖国神社のみたま祭も、招魂社といった明治初期に、維新の戦没者を慰霊するために営んだ、仏教的な魂祭に由来する。 迎え火や父に似た子の頬の明り 子規

7.13 散逸構造
 自然の法則では、エントロピーが増えて乱れていくはずなのに、逆に一時的には秩序が作られていくことがある。これは、外へエントロピーを吐きだして、一時的に部分秩序を作るのである。こうしたものを、散逸構造という。生命というのは、こうした構造のこととも言える。そして、いつかはその秩序も寿命がきて死ぬ。

7.12 イーストマン誕生
 1854年。乾版やロールフィルム、天然色フィルムを発明し、コダックカメラを考案して、写真の大衆化に尽くしたジョージ・イーストマンが、ニューヨーク州のウォータビルに生れた。

7.11 国旗制定の幕府令
 1854年(嘉永7)。幕府の老中阿部正弘が、「大船建造については異国船に紛れざるやう日本総船印は白地の丸用ひ候様仰せ出だされ候」という幕府令を出した。それより先、薩摩藩主島津斉彬が、昌平丸・大立丸2隻の軍艦を建造して幕府に贈った時、外国船と区別するため、国旗掲揚の必要を建言して、日の丸の旗を奨めた建議がいれられた結果、ここに国旗制定の端緒が開かれた。

7.10 ベルヌーイ
 ライプニッツの新しい数学、微積分学を発展させたのは、ベルヌーイ家の若い兄弟、ヤコブとヨハンだった。ところが、この兄弟は仲が悪くて、互いに自分のほうが数学がよくできると信じていた。争いあっていた兄が死んだあと、弟のヨハンはヨーロッパ数学界に君臨したのだが、イギリスのニュートン一門とも争い、ついには自分の息子のダニエルと、流体力学の業績をめぐって争った。

7.9 森鴎外逝く
 1922年(大正11)。軍医総監・帝室博物館総長という顕職にありながら、自然主義主流の傾向に対立し、現実主義と理想主義の調和の上に数々の傑作を残して、漱石と並んで明治文壇の巨匠と仰がれる林林太郎森鴎外が61歳でこの世を去った。

7.8 米国、警察予備隊設置を指示
 1950年(昭和25年)。マッカサー元帥が、吉田首相に書簡を送って警察予備隊7万5千人の創設と、海上保安庁8千人の増員を指示。

7.7 七夕・星祭り
 牽牛(鷲座α星)と織姫(琴座α星)とが、天の河を渡って、天帝に許された年に1度の逢瀬を楽しむという、ロマンティックな空の伝説が生まれたのは、3千年昔の中国、周の世の初め。これが日本に伝わって、宮廷の行事となったのは、聖武天皇の734年(天平6)が最古の記録。元は陰暦の行事であったから、月遅れの8月7日や陰暦の7月7日に行う地方もある。 七夕は降ると思ふが浮世かな 嵐雪

7.6 浅間山大噴火
 1783年(天明3)。信州の浅間山大噴火。「いつとてか我が恋やまむ千早ぶる浅間の嶽の煙絶ゆとも」と『拾遺集』にあるように、富士山以上に活動の激しい浅間山、とりわけこの年は未曾有の大噴火。6日から8日にかけての3日間は特に猛烈を極め、被害は伊豆・下総・陸奥の遠方に及び、麓の村々では死者3万5千、信濃一帯に降り積もった火山灰は深さ3b、武蔵の国あたりでも10数a。有名な天明の大飢饉を惹き起こしたが、今も観光の名所になっている「鬼押し出し」は、そのときに熔岩の塊である。

7.5 最初の学士院恩賜賞
 1911年(明治24)。理学博士木村栄の緯度観測上の功績に対して。

7.4 計算
 たまには、数学者のなかに、計算の名人がいる。ノイマンなどは、コンピューターを発明したとき、「これで、世界で2番目に計算の上手なやつが生まれた」といったほどだ。

7.3 小野妹子を隋へ派遣
 607年(推古15)。聖徳太子が、小野妹子を正使、鞍作福利を通訳として中国に使いを派遣。当時の中国は隋の文帝が南北統一を成し遂げ、次いで煬帝が万里の長城を増築し大運河を開く国力充実の時。これと対等の国交を開こうとする太子も、仏教を盛んにし、十七条憲法の精神に基づいて高度の文化国家を建設しようという熾んな意気ごみ。以来、隋唐の文化が大いに我が国に輸入されてすばらしい進歩を遂げることとなった。

7.2 パストゥールの予防注射成功
 1881年。ジェンナーの種痘にヒントを得たフランスの科学者ルイ・パストゥールは、他の伝染病にも応用しようと考え、先ず、家畜に多い脾脱疽病の病原菌に対する免疫血清を作り、これを注射した羊と注射しない羊各24頭に、強い病原菌をうつす実験を、ペエリー・ル・フォールの牧場に招いた多数の学者の前で行なった。その結果は大成功。注射しなかった羊がことごとく斃れたのに対し、注射した羊は何事もなかったという。 

7.1 日本世界の最長寿国となる
 1978年(昭和53)。この日付の新聞各紙の報道によれば、昭和52年度における日本人の平均寿命は男子72.69歳で世界首位、女子77.95歳でスウェーデンと同率首位(但し、外国の統計は昭和51年度)となったと、厚生省の発表があった。

6.30 イタイイタイ病訴訟判決
 1971年(昭和46)。富山地裁は、神通川流域に多発したイタイイタイ病の主因は、三井金属鉱業神岡鉱業所から排出されたカドミウムによる中毒であると認定し、住民側の全面勝訴を宣告した。新潟水俣病・四日市ぜんそく・熊本水俣病と併せて、四大公害裁判の最初の判決であった。

6.29 姓は丹下、名は左膳
 1935年(昭和10)。時代小説では林不忘、現代小説では牧逸馬、外国物では谷譲次と、3つのペンネームを使い分けて一世を風靡した流行作家、長谷川梅太郎が36歳でこの世を去った。

6.28 ルーベンス誕生
 1577年。フランドルの大画家であり、バロック絵画の代表的な作家、ペーテル・ルーベンスが、アントァープの法律家の子として、ドイツのヴェストファリアのジーゲンに呱々の声をあげた。

6.27 ヘレン・ケラー誕生
 1880年。2歳のときの患いに、見えず聞こえず物言えぬ三重苦を背負いながら、サリヴァン女子の厳しい訓練に耐えて自分の言葉を獲得し、欧米・日本等、世界の各地を講演して廻って、盲唖の人々に力強い励ましとなったヘレン・アダムズ・ケラーが、アラバマ州のタスカンビアに生れた。

6.26 ばらつき
 確立を生かじりした人は、ギャンブルをするのに、すぐに期待値を計算したがるが、ギャンブルは期待値にたいして行うものでなく、ばらつきにかけるものだ。1000円投資して、だれも1000円かえしてもらえるのなら、あほらしくてギャンブルはできない。平均した期待値としては500円でも、うまくすると100万円になるかもしれんから、賭けをする。

6.25 昭和天皇プロ野球をご覧
 1959年(昭和34)。昭和天皇の相撲好きは、学習院院長乃木希典仕込みで有名だが、この日、初めて後楽園球場へお成り、巨人阪神戦のプロ野球をご覧になった。最終回、巨人の長島三塁手阪神の村山投手から奪った本塁打は、後々までの語り草。

6.24 ブラウン運動
 酔っぱらいがウロウロするようにして、熱は伝わっていく。ここで、孤独な酔っぱらい本人に感情移入する人と、盛り場の酔っぱらいの右往左往を連想する人とがあるが、後者のほうが熱伝導のイメージに近い。アインシュタインが解析して以来、現代の確率過程論の中心のテーマである。

6.23 国木田独歩没
 1908年(明治41)。明治の理智的ロマン派を代表する作家国木田哲夫が、38歳の若さでこの世を去った。

6.22 直径
 図形を平行線にはさんだときの、平行線の幅。円は、どちらの方向にも、一定の直径をもっている。こんな図形は円にかぎるかというと、そうでもない。正3角形をふくらました図形でもよくて、それはロータリー・エンジンに使われている。

6.21 期待値
 確率的な現象については、平均値のことを期待値という。運命のクジの胴元である運命の女神にとっては、さまざまの人間の利得について、平均を掌握していられる。ただし、運命の女神の前にたつ一人の人間にとっては、それははかない期待にすぎない。

6.20 林子平誕生、そして没
 1738年(元文3)〜1793年(寛政5)。『海国兵談』『三国通覧図説』を著して、西欧列強の脅威に曝された島国日本の鎖国に夢を覚ますべく警鐘を鳴らし続けた幕末の先覚者林子平が、55年を隔てた同日に生れ死んでいる。「親もなし妻なし子なし板木なし金もなけれど死にたくもなし」号・六無斎友直辞世の狂歌。

6.19 パスカル誕生
 1623年。「人間は考える葦に過ぎない」の語で知られたフランスの科学者であり哲学者であるブレーズ・パスカルが、北仏クレルモンに呱々の声をあげた。

6.18 Q.E..D.
 「これぞまさに、われわれの証明せんとすることであった」という、決まり文句のラテン語の頭文字。証明の最後に、「証明終わり」のしるしにつける。もっとも長い証明をたどってきて、最後にQ.E..D.と来ると、うむを言わさず説きふせられた気分で、ちょっともわかった気にはならない。

6.17 ルーレット
 ルーレットで玉を転がすとき、玉の転がった距離はさまざまである。しかし、グルグルまわった後の位置については、そのさまざまな場合が重なり合うので、円周上のどこに止まるか、その確立は均等になる。

6.16 天元術
 算木を使う代数学は、中世の中国で世界最高の水準に達し、天元術と呼ばれた。しかし、算盤の普及とともに、もっと実用的な算術が流行して、明時代には天元術はすたれていた。室町時代の日本は急速に算盤が普及したあとで、朝鮮から天元術を輸入した。古い文化の保存につとめていた挑戦では、時代遅れの天元術が残っていたのである。そして、天元術の発展として、算木が筆算に変わって、日本に和算が生まれた。

6.15 北村季吟没
 1705年(宝永2)。『枕草子春曙抄』『源氏物語湖月抄』『徒然草文段抄』等々、俳諧師を表看板に掲げながら、この人ほど古典の注釈に多くの業績を残した学者はいない。享年82歳。

6.14 五輪旗の制定
1914年。この日パリで開かれたオリンピック委員会の席上、赤・白・黒・黄・緑の5色の輪を結び合わせて、世界の5つの大陸が、オリンピック精神の下に手を繋ぐことを象徴する大会旗が制定された。 

6.13 北里柴三郎没
 1931年(昭和6)。ロベルト・コッホに師事して、相弟子ベーリングとともに破傷風の血清療法を発見した世界的な細菌学者。80歳で逝去。

6.12 清水次郎長没
 1893年(明治26)。街道一の大親分清水次郎長こと山本長五郎が74歳でこの世を去った。20日付『朝野新聞』には、「吾れ年少気鋭、敢て一歩も人に譲らず、故を以って闘争搏撃殆んど吾が半生を埋めたり、此間吾れの得たるもの絶えてなし、只僅かにあるものは渾身の瘢痕と他の剛臆を知るとの事是れ云々」と、臨終に際しての言葉が紹介されている。

6.11 リヒャルト・シュトラウス誕生
 1864年。ドイツの作曲家リヒャルト・シュトラウスがミュンヘンで生れた。日本の建国2600年記念式典に交響曲『祝典音楽』を贈った彼は、大戦後、ナチスへの協力を問われて裁判にかけられたが、無罪の判決。

6.10 恵心僧都源信入寂
 1017年(寛仁1)。『往生要集』を著して、日本の小釈迦如来と唐土にも讃えられたほど、浄土信仰の流布に尽力し、紫式部が『源氏物語』の中で、横川僧都のモデルとしたといわれる高僧。この日76歳でこの世を去った。

6.9 スティーブンソン誕生
 1781年。1825年、ストックトン・ダーリントン間の世界最初の鉄道に、彼自身が改良した蒸気機関車を走らせたイギリスの発明家、ジョージ・スティーブンソンが、ニューカッスル近郊の炭鉱の機械夫を父として生れた。

6.8 シューマン誕生
 1810年。ドイツの作曲家ロベルト・シューマンが、ザクセンの本屋の子として誕生。後に妻となった少女ピアニスト、クララとの愛情が、『幻想小曲集』『謝肉祭組曲』を始め数々の名曲を生んだ。

6.7 ゴーギャン誕生
 1848年。印象派の絵にあきたらず、南太平洋のタヒチ島に渡って、その風光と土民の生活の中に生涯を終ったフランスの画家ポール・ゴーギャン、パリに生れる。

6.6 プーシキン誕生
 1799年。小説『エヴゲーニー・オーネギン』『大尉の娘』などで知られたロシアの詩人アレクサンドル・セルゲーウィッチ・プーシキンが、貴族の子としてモスクワに生れた。

6.5 怪談噺の元祖初代林屋正蔵没
 1842年(天保13)。四世鶴屋南北の『東海等四谷怪談』が大当たりを取った文化文政頽廃気の風潮を受けて、寄席の落語に怪談を取り入れた正蔵、さて、生前の遺言どおり火葬にしようと火をつけたところ、大音響とともに花火が散って、お棺の中からボンボン花火が打ち上げられた。

6.4 張作霖爆死
 1928年(昭和3)。当時の北京政府の大元帥張作霖が、国民政府軍との戦いに敗れて奉天に引き上げる途中、列車を爆破されて不慮の死を遂げた。これが関東軍の仕業とは、日本国中知らぬが仏。
 

6.3 甕割り柴田
 1570年(元亀1)。近江の国蒲生郡長光寺の城にたて篭った織田の勇将柴田勝家は、六角入道佐々木承禎の大群に囲まれ、その日の飲み水にも事欠こうとするこの日、決死の出陣を明日に控えて、水甕を槍の石突きでつき破り、きれいさっぱり水を空にして士気を鼓舞した、講談お馴染みの逸話。

6.2 尾形乾山没
 1743年(寛保3)。琳派の総師緒方光琳の弟で、日本三大陶工の1人に数えられる乾山が、81歳で逝去。東京上野の鶯谷という地名は、入谷村に住んだ頃の乾山が、京都から御供をして来た輪王寺の座主覚尊法親王のために、わざわざ京都から多くの鶯を捕らえて来て、輪王寺の奥庭に放して差し上げたことに由来すりという。

6.1 気象台開設
 1875年(明治8)。東京赤坂の菱町三番地に、工部省の事業としてわが国最初の気象台を設置し、地震や空中電気の観測とともに気象の定時観測を開始した。千代田区大手町にある気象庁の前身。

5.31 ティーク誕生
 1773年。風刺的で空想的な童話劇『長靴をはいた牝猫』で知られたドイツの作家、ルードヴィッヒ・ティークがベルリンで生れた。

5.30 三遊亭歌笑事故
 1950年(昭和25)。とかく暗く沈みがちであった日本の社会に、桁外れの爆笑を招いてくれた『歌笑純情詩集』。この日、日比谷公会堂での例の奇妙な声と怪奇な表情で一席弁じたあと、雑誌社の座談会にも顔を出しての帰り途、銀座通りを横切ろうとして米軍のジープにはねられ、32歳を一期にこの世をおさらばした。小さな身体で劇場一ぱいの声を張り上げる、笠置シズ子の『東京ブギ』も、敗戦国民に取っての励ましであったことを思い合わせる。

5.29 清十郎打首の刑
 1662年(寛文2)。近松門左衛門の傑作『五十年忌歌念仏』で有名なお夏清十郎。そのモデル、播州姫路の旅籠屋但馬屋九左衛門方の手代清十郎が、主人の1人娘お夏と恋仲になり、手に手をとって大坂表へ駆け落ちをしようと船に乗るところを捕らえられ、この日、かどわかしの罪で打首の刑に処せられた。

5.28 曾我兄弟の仇討
 1193年(建久4)。幕府の将軍頼朝が、富士の裾野に巻狩りを試みた機会を狙い、父河津祐泰の仇、工藤左衛門尉祐経を討ち取って本懐を遂げた十郎祐成・五郎時致の兄弟。歌舞伎芝居の好材料として長く大衆に親しまれ、赤穂浪士・伊賀越の仇討ちとともに日本三大仇討ちに数えられる。

5.27 アイスキュロス
 古代ギリシアの詩人。ギリシアのエレウスシスに生まれ、若いころペルシア戦争に参加して勇名をはせた。90編の作品を書いたが、わずか7編しか残っていない。作品には『しばられたプロメテウス』『テバイに向う七人』などがある。ギリシアの三大悲劇詩人のひとりで、悲劇の父と称せられる。

5.26 三浦環没
 1946年(昭和21)。歌劇『蝶々夫人』のプリマドンナとして、世界に名を知られたわが国最大のオペラ歌手、三浦環が63歳でこの世を去った。明治17年に、芝桜川町の公証人、柴田猛甫の長女として生れた環、虎ノ門の東京女学館から上野の音楽学校に進んだ頃には、紫の大きなリボンをヒラヒラさせ、当時流行の自転車を乗り廻し、東京中の評判となった新しい女であった。

5.25 郵便ハガキ5割値上げで1銭5厘
 1899年(明治32)。1873(明治6)12月1日に、市内半銭・全国1銭の郵便ハガキが初めて発売されて以来、27年目に5割値上げして発売。それから1937年(昭和12年)4月、日中事変に際して2銭に値上げされるまで38年もの長い間、軍隊では、一般召集兵に対して、一方では陛下の赤子などと持ち上げながら、「お前らは1銭5厘で、いくらでも代わりがある」と、人権無視も甚だしい古参兵の決まり文句が横行していた。

5.24 伊達政宗没
 1636年(寛永13)。男のお洒落はダンディ。奇妙に似た日本語の伊達男の語源となったといわれるスタイリスト、奥州仙台62万石の城主、伊達政宗が70歳でこの世を去った。

5.23 重さとかさ
 重さとかさは、よく混同される。昔は米をかさではかったが、今では重さではかる。風呂で湯があふれるのは、かさのせいだが、重い人が入るとたくさん湯があふれそうな気がする。それに、ふとったときに、2`ふとったとは言うが、2gふとったとは言わないではないか。人間は水と近い密度なのだが、水ぶくれは軽そうで、筋肉がひきしまっていると重そうな感じがする。

5.22 巌頭の辞
 1903年(明治36年)。「万有の真相は唯一言にして悉す。曰く不可解」の言葉を残して、第一高等学校生徒藤村操が、日光華厳の滝に18歳の身を投じた。

5.21 野口英世没
 1928年(昭和3)。かつての日本が誇りとした病理学者野口英世が、当時の顕微鏡では絶対に見えることのない黄熱病病原のウィルスを逐って感染し、アフリカ黄金海岸のアクラで、53歳の生涯を閉じた。ニューヨークのウッドローンと終焉の地アクラに建つ記念碑には、「その努力は科学に捧げつくされた。人類の為に生きた彼は人類の為に死んだ」とある。

5.20 嘘つき
 「私は嘘をついていない」と主張されても、なんの効力もない。彼が正直で本当に嘘をついていないのか、じつは嘘つきで「嘘をついていない」というのが嘘なのか、たしかめようもないからだ。反対に、「私は嘘をついている」と言われたら、もっと困る。それが本当なら嘘になるし、もしも嘘なら、否定の否定で本当になってしまうからだ。これは、クレタ人の逆説として、昔から知られている。この論法を利用して、理論学や集合論の定理が、証明できたりする。

5.19 宮本武蔵没
 1645年(正保2)。62歳。二刀流の遣い手として天下無双の剣を誇ったばかりか、墨絵にも非凡な才能を発揮した、二天一流兵法の開祖。

5.18 ラッセル誕生
 1872年。イギリスの哲学者バートランド・ラッセルが、ホイッグ系の名門の政治家ジョン・ラッセルの孫として生れた。第1次大戦にも反対してケンブリッジ大学講師の職を失ったラッセルが、徹底的な平和主義者として、90歳を超える老体に鞭打って、原爆反対街頭行進の先頭に立っていた姿を忘れない。

5.17 記号
 数学では、いろんな記号が使われて、数学ぎらいを困らせるが、記号でものを処理することがなければ、人間は数学を、いやそればかりか、文化を生みだせなかったろう。文化とは、記号の織りなす世界を夢想することでもある。

5.16 ヒューズ誕生
 1831年。電話機に使われるマイクロフォンを発明し、無線電信を研究して、ヘルツやマルコーニの発明にヒントを得たイギリスの物理学者デーヴィッド・ヒューズがロンドンに生れた。マイクロフォンとは、発明者ヒューズが名づけた名称。

5.15 ピエール・キュリー誕生
 1859年。妻のマリーがあまりにも有名になったので影がいささか薄いようだが、この日、パリの医者の子として生れたピエールが、ポーランド生まれの女子学生マリー・スクロドフスカと結婚したのは1895年。それから1906年、ピエールが交通事故で不慮の死を遂げるまでの11年間、この夫婦の協力こそ、20世紀の物理学会のみならず、世界の文化に大きな変革をもたらすものであった。

5.14 田山花袋没
 1903年(昭和5)。小説『布団』1篇の不思議な魅力が、日本の近代文学に自然主義運動の焔を燃え上がらせたとも言われる田山花袋。60歳。

5.13 ファーレンハイト誕生
 1686年。液体の氷点・沸点を測定して気圧による変化を究明、初めて水銀を用いた寒暖計を製作して華氏温度Fに名を留めるドイツの物理学者ガブリエル・ファーレンハイトが、ダンチッヒで生れた。

5.12 フォーレ誕生
 1845年。『鎮魂弥撒曲』で知られた近代フランスにおける最も魅力的な作曲家の1人、ガブリエル・フォーレが、ピレネー山脈の麓、パミエで生れた。

5.11 ダリ誕生
 1904年。幻想的写実主義と呼ばれるスペインの画家サルヴァドール・ダリが、カタロニアのフィゲラスに生れた。

5.10 二葉亭四迷没
 1909年(明治42)。『浮雲』その他の創作やロシア文学の翻訳で知られた明治の文学者、本名長谷川辰之助が46歳でこの世を去った。

5.9 マイヤー誕生
 1796年。百科全書を始め数々の古典を出版して、文化の大衆化を計ったドイツの出版業者ヨーゼフ・マイヤー。全集本の予約出版なども、マイヤーが考案になる新しい販売法であったという。

5.8 青砥藤綱
 鎌倉時代中期の御家人。「富て侈らず、威有て猛からず、有楽を好まず、身のためには財宝みだりにちらさず」(弘長記)といわれ、夜中鎌倉滑川に銭10文を落としたとき、50文の費を投じて松明を求め、これを探したという逸話が残っている。

5.7 ブラームス誕生
 1833年。バッハやベートーヴェンとともに、ドイツ音楽の三大Bと称されるヨハネス・ブラームスが、ハンブルクの貧しい楽師の子として生れた。

5.6 フロイト誕生
 1856年。精神分析学の開祖ジクムント・フロイトが、チェコスロバキアのフライベルクで誕生した。

5.5 冷泉為恭死す
 1864年(元治1)。幕末における大和絵の大家にして有職故実の権威であった宮中絵所の絵師本姓岡田為恭が、美術探求のためには勤皇佐幕の差別もなく京都所司代酒井若狭守と親しくしていたことを誤解され、男の本厄42歳を一期に、大和の丹波で、過激派の浪士達の兇刃に仆れた。

5.4 女性登山隊マナスル登頂
 1974年(昭和49)。日本の男子登山隊が初登頂してから18年後。女性として8千b級の高山登頂の成功したのは世界最初。従来の記録は1970年。エヴェレスト登頂隊に加わった女性のサウスコル7985bが最高であった。

5.3 ブリッジ
 日本では碁や将棋ほどではないが、世界的には、チェスについでブリッジがさかんで、国際試合もあるし、ケ小平が国際賞を受けたりしている。数学者には、ウィなーのようにブリッジばかりしていた人もいるし、好きな人がよくいる。フランスには、ボレル双書という、数学の権威ある双書があったが、そのシリーズで一番ぶ厚い本は、御大ボレルの書いた「コントラクト・ブリッジの数学的理論」だった。

5.2 聖武天皇崩ず
 756年(天平勝宝8)。東大寺の盧遮那仏に象徴されるように、仏教の哲理による中央集権政治を達成した聖武天皇が、56歳でこの世を去られた。数々の文化財に、大陸との文化交流を物語る正倉院の御物は、その77日の忌日に、天皇遺愛の品々などを、光明天皇が大仏に捧げられたことに始まる。

5.1 メーデー
 春の遅いヨーロッパでは、5月1日を冬から春への季節の変わり目として、昔の人々は、若草の野辺に出て花を摘み、歌い踊る楽しい祝日としていた。5月が青春そのものであったのである。メイの語はまたサンザシの花を指す。メイ・デュー即ち5月1日の朝露に濡れると幸福が訪れるといういい伝えもあった。働くものに幸いを招こうと願う労働者の祝日メーデーは、やはり、花飾りも美しいメイ・ボールの下で歌い踊る楽しいものであってほしい。
 焼跡に垂込め居りし労働祭 波郷

4.30 トラピスト修道院設立
 1898年(明治31)。函館に近い湯之川村上湯之川に、わが国最初のトラピスト女子修道院が設立された。トラピストとは、ベネディクト教団の一派シトーの分かれである修道院の一派で、その起源と名称は、フランスのノルマンディ地方オルヌ県にある改革修道院ラ・トラップに由来する。

4.29 世界最初の電車
 1851年。アメリカ合衆国の首都ワシントンとメリーランド州ボルティモアとの間に開通した電車がそれ。但しこの時の電車の動力は、後の電気自動車と同じく蓄電池によるものであった。

4.28 マジェラン非業の最期
 1521年。マジェラン海峡に不朽の名をとどめるポルトガルの航海者、フェルディナンド・マジェラン。人類最初の世界一周も7分通り成功を収めたフィリッピン諸島において、原住民の襲撃をうけ、毒矢に当って最期を遂げた。2年前の9月20日、120トン足らずの小船5艘に、280人の船員が乗組んで、スペインのサンルカル港を出発したが、丸3年を費やして帰国した時、世界一周を成し遂げて郷里の土を踏んだ者は、わずか18人であった。

4.27 ブラジル第1回移民出発
 1908年(明治41)。ハワイ移民の元年者に遅れること40年、今度は更に遠い南米ブラジル向けの農業移民団783名が、笠戸丸に乗って、この日、神戸を出帆した。

4.26 ドラクロア誕生
 1798年。19世紀のフランス画壇に反古典主義の旗を翻して、ロマンの風潮を巻き起こした画家、ウージェーヌ・ドラクロアが、パリの郊外サン・モリスに生れた。

4.25 マルコーニ誕生
 1874年。無線電信を発明した物理学者、グリエルモ・マルコーニが、北イタリアのボローニャで誕生。

4.24 『ロビンソン・クルーソー』発表
 1719年。イギリスの小説家ダニエル・デフォーが、当時評判となっていたスコットランドの船乗りアレクサンダー・セルカークの体験談に基づいて、この名作を発表。あまりに生々しい実感のこもった描写に、読者はみなこれが実話だと信じて疑わなかった。

4.23 ゲーム
 ゲームにあっては、相手方がどんな手を使うかわからない。そのいろいろな可能性とその確立に応じて、いちばん損をしない戦術を考えるのが、ゲームの理論である。ノイマンは、ポーカーのハッタリの分析から、この理論を考えたともいう。いまでは、数理経済学の重要な理論になっている。しかし、ベトナム戦争のとき、アメリカ国防省はゲームの理論で戦術をたてたが、データが不足して失敗した。

4.22 入れ子
 十進記数法は、入れ子の構造になっている。それは、インド的なのかもしれない。インドの世界像では、小世界が千集まると中世界になり、その中世界が千集まると大世界になり、さらに大世界が千で宇宙が作られる。個体が集まっては類になり、その類がまた個体になって、入れ子の構造が続いていく。

4.21 寄席の始まり
 1790年(寛政2)。浄瑠璃の作者立川焉馬が、狂歌師の蜀山人や宿屋飯盛、黄表紙作者の山東京伝らを、向島の茶屋の招いて、毎月21日に昔噺の会を開いたのが、今日の寄席の始まり。

4.20 天一坊、獄門にかかる
 1729年(享保14)。大岡裁きで有名な天一坊事件。将軍吉宗の落とし胤と偽った天一坊宝沢が、鈴ヶ森の仕置場で獄門にかけられ、さしも天下を騒がせた大事件もここに落着した。時に24歳。当時吉宗は36歳だから、13歳の落し胤とは早熟に過ぎよう。

4.19 逆
 「逆も真なり」というが、逆は真でないことが多いので、わざわざ言うのであって、コトワザではない。「AならばB」の逆が、「BならばA」であって、「頭のよい人」は「数学もよくできる」かもしれないが、「数学のよくできる人」が「頭のよい人」とはかぎらない。

4.18 孔子逝く
 紀元前479年(周敬王41)。釈迦・キリストと並んで人類最高の聖人に数えられてはいるが、他の2人とは違って、孔子には全くカリスマ的な要素がない。きわめて現実的な政治コンサルタントとしての73歳の生涯を終った。孔子の教えは、仁即ちヒューマニズムを根幹としての政治倫理である。

4.17 徳川家康没
 1616年(元和2)。「啼かずんば啼くまで待とう時鳥」、徳川幕府300年の基を築いた、いかにも家康らしい喩え。75歳でこの世を去った。

4.16 アナトール・フランス誕生
 1844年。ユダヤ人の砲兵大尉ドレフュスに関するスパイ嫌疑事件を弁護して軍国主義と戦った、小説家にして批評家、アナトール・フランスが、パリの本屋の独り息子として生れた。

4.15 聖徳太子『三経義疎』完成
 615年(推古23)。この日完成した『法華経義疎』4巻をもって、『勝鬘経義疎』1巻、『維摩経義疎』3巻と併せ、前後5年間をかけた聖徳太子の仏教研究3部作が完成した。

4.14 高杉晋作没
 1867年(慶応3)。久坂玄瑞と共に松下村塾の双璧と称せられた幕末の傑物高杉晋作が、王政復古を目前にしながら29歳の若さで命を落とした。

4.13 石川啄木逝く
 1912年(明治45)。いわゆる生活短歌を首唱した天才歌人、石川啄木が27歳の若さでこの世を去った。

4.12 武田信玄没
 1573年(元亀4)。天下統一の志こそは遂げなかったが、越後の上杉謙信と並んで、甲斐の武田信玄は、戦国を代表する武将。信玄の埋蔵軍資金や秘湯はともかく、「風林火山」の標語や、「人は城なり」として撫民政策に努め、甲斐の国内に城砦を築かなかったことなどは、すこぶる教訓に満ちたもの。行年53歳。

4.11 マッカーサー元帥罷免
 1951年。この日の午前1時、トルーマン合衆国大統領は記者会見において、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥の指揮官としてのすべての権限を解除し、後任にリッジウェイ中将を任じる旨の発表を行った。その16日、マッカーサー元帥は、6年前に来日したときと同じ愛機バターン号に乗って羽田を立った。まこと「老兵は消え行くのみ」。

4.10 今上陛下のご成婚
 1959年(昭和34)。皇太子継宮明仁殿下25歳と、日清製粉社長正田英三郎長女美智子様24歳との結婚式が執り行われた。千数百年来の慣例を破って、皇族・華族でない民間からのお輿入れとあって大人気。それから暫くは、全国の各家庭で生れた女の子に、美智子妃のお名前にあやかることが流行した。

4.9 ボートレール誕生
 1821年。詩集『悪の華』で知られたフランスの詩人、シャルル・ボートレールがパリに誕生した。

4.8 太田道灌江戸城を築く
 1457年(康正3)。武蔵の国豊島郡千代田村に築いたのが始まり。後に京都へ上った道灌が、「わが庵は松原続き海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る」と詠んで、田舎侍と軽蔑する公卿達を驚かせた話は有名。

4.7 ワーズワース誕生
 1770年。コールリッジとの共著『叙情民謡集』によって、イギリスの近代ロマン主義文学の誕生と記念される詩人ウィリアム・ワーズワースが、カンバーランドのコッカマスの弁護士の家に生まれた。

4.6 蜀山人没
 1823年(文政6)。本名は大田覃、通称を直次郎という、百表五人扶持の貧乏旗本。南畝・四方赤良・寝惚先生・山手馬鹿人・巴里亭・滄洲楼・など20近いペンネームを使って、狂歌ばかりか狂詩・黄表紙・落し咄・洒落本・評判記など、往くとして可ならざるなきユーモリストぶりを発揮して、75歳でこの世を去った。

4.5 高田屋嘉兵衛没
 1827年(文政10)。北洋漁業の開拓者として、また、日露両国の外交に大きな功績を残した貿易商人として有名な高田屋嘉兵衛が、59歳でこの世を去った。

4.4 北条時宗没
 1284年(弘安7)。元寇の国難を、台風のお蔭とはいえ無事切り抜けたことによって、頼山陽から「相模太郎胆斗ノ如シ」と讃えられた鎌倉幕府北条家8代の執権時宗が、34歳でこの世を去った。

4.3 心頭ヲ滅却スレバ火モ自ラ涼シ'。快川禅師寂
 1582年(天正10)。甲斐の国恵林寺の住職快川が、武田勝頼の滅亡に伴って、織田信長のために寺を焼かれ、宗徒百余人と共に火焔の中に最期を遂げた時、残した言葉がこれ。

4.2 高村光太郎没
 1956年(昭和31)。彫刻家光雲の子として生まれた光太郎は、彫刻家としてよりも詩人として大きな業績を残した。詩集『道程』に見るデカタンの世界から、白樺派に属してのヒューマニズムはともかく、敗戦後、戦争協力を恥じての『暗愚小説』の他、『智恵子抄』が有名。没年、73歳。

4.1 千社札の鼻祖、天愚孔平没
 1817年(文化14)。江戸赤坂御門松平出羽侯に仕え、300石を取った萩野喜内、生来高慢で奇行に富み、世人が天狗と呼んだのをそのまま天愚斎と名乗り、しかも、明代に倭寇の俘虜となって日本へ来た孔子65代の後裔、孔胤椿の妾の子孫であるとして孔平と称した。神社・仏閣に参詣すると、自分の名を石版刷りにした紙片を長い竹竿で高く貼り付ける売名行為。これが今日の千社札の始まりという。

3.31 ハイドン誕生
 1732年。オラトリオ『天地創造』を始め、『驚愕』『軍隊』『告別』などのすぐれたシンフォニー、『皇帝』『雲雀』などの美しい弦楽四重奏曲を生み出して、パパ・ハイドンと愛称されたオーストリアの作曲家ヨーゼフ・ハイドンは、ハインブルクから18キロほど離れたローラウの町の車大工の子として誕生した。

3.30 天徳内裏歌合
 960年(天徳4)。この日、村上天皇は、内裏の清涼殿において、華やかな歌合を催された。1ヶ月前から準備されたこの歌合は、歌題から演奏の曲目まで、天皇自身が撰定されたもので、文学としての和歌はもとより、その場を構成する服飾・工芸・薫香・楽舞・植栽から飲食に及ぶ、王朝文化の粋を尽くしたものとして、永く後世の模範となった。

3.29 伊達掘完成
 16661年(万治4)。徳川幕府の外様大名の財力を弱めようとの策略ではあったが、奥州仙台61万5千石の藩主伊達綱宗が、10ヶ月の日子と4万9,500両の経費を注ぎ込んで、隅田川の水を両国橋の袂から引き入れ、御茶ノ水から市ヶ谷に到る大運河を完成したのがこの日。今の神田川がこれである。

3.28 西山宗因没
 1682年(天和2)。芭蕉でさえもが「宗因はこの道の中興開山なり」と讃えた談林俳諧の祖にして、西鶴の師でもあった西山宗因が、78歳でこの世を去った。

3.27 「金剛石もみがゝずば」
 1887年(明治20)。「珠のひかりはそはざらむ人も学びてのちにこそまことの徳はあらはるれ」昭憲皇太后御製のこの唱歌が華族女学校に与えられたと、この日付の『郵便報知新聞』に見える。

3.26 『新古今集』成る
 1205年(元久2)。『古今集』から始まった勅撰和歌集の八代目、『新古今集』が、後鳥羽上皇を中心に、源通具・藤原有家・同定家・同家隆・同雅経ら、当代一流の歌人が鳩首凝議、推敲を重ね、4年にしていったん完成したのがこの日。さらに6年の月日をかけて、ようやく現在伝わっている形に落ちついたものである。

3.25 青木繁没
 1911年(明治44)。神話や天平文化に取材した、独自のロマンティックな絵画に天才の閃きを見せた青木繁が、精神的・経済的不遇のうちに、30歳の若さで病没した。

3.24 概数
 いろいろな量を表すには、2桁でだいたいよい、と言う説がある。人口が12万人とか、予算が2.3億円とかいった調子である。偏差値が62.4とかいった、3桁めはあまり意味を持たない。アメリカでは野球の打率も0.31程度で、日本のように0.312などとやらないそうだ。首位打者をきめたりするときだけ、あまり意味はないけれど、仕方ないから3桁目を考える。入試もそんなものかもしれない。

3.23 検算
 計算というのは、よく間違うものだ。それで、間違いを発見しなければならないのだが、いくら計算を見なおしてみても、たいてい見つからない。べつのやり方で計算してみて、答えをくらべるのも、ひとつの方法だ。たいていは、なんらかの方法で、答えが正しそうか、あやしいか、その見当をつける。きまった方法でなくても、答えがしっくりしているかどうか、違和感を感ずる鼻が大事だ。

3.22 ファン・ダイク誕生
 1599年。ルーベンスの学んで助手を勤め、ルーベンスに次ぐフランドル派の大家となったベルギーの画家、特に肖像画に優れたアントニィ・ファン・ダイクが、アントワープで呱々の声をあげた。

3.21 春分
 太陽が黄経零度にある日、春の最中、昼夜平分となる。陰陽二気に過不足のないこの時期に、帝釈天が人間の善悪を記録する日といわれ、彼岸の中日には、一層信心が増す。国民の祝日としての春分の日は、1949年(昭和24)に始まったが、自然を讃え、生物をいつくしむ点で、彼岸に慈悲恩愛の趣旨と共通している。 虻飛んで春分の日の歓喜満つ 翔

3.20 イプセン誕生
 1828年。『ペール・ギュント』『人形の家』『海の夫人』『ヘッダ・ガブラー』その他数多くの戯曲で、近代演劇の父とたたえられるノルウェイの文豪ヘンリック・イプセンが、シーエンの田舎町に生まれた。

3.19 加藤春慶没
 1249年(建長1)。通称藤原四郎景正。主人久我内大臣通親の子道元が渡宋するのに従って、彼の地で製陶を学ぶこと5年、良質の陶土を求めて尾張の国春日井郡東瀬戸山の土を発見し、南宋舶来の天目釉を用いて焼き始めたのが光沢のある硬質の古瀬戸。陶器をおしなべて瀬戸物というのは、春慶を日本陶器の元祖とすることから。

3.18 マラルメ誕生
 1842年。ドビュシーの作曲を得、一層有名になった代表作『牧神の午後』で知られるフランス印象派の先駆的詩人ステファヌ・マラルメがパリで誕生。

3.17 人力車営業許可願提出
 1870年(明治3)。情けないかな日本人の発明は人力車だけという時代が長く続いたが、もと福岡藩士で東京箔屋町で料理屋を営んでいた和泉要助、西洋から輸入された馬車にヒントを得て発明したのが人力車。呉服町の八百屋鈴木徳次郎と本白銀町1丁目の高山幸助という友人2人とともに、この日、東京府庁に宛てて人力車営業許可願を提出した。これは一種の独占事業で、この3人の承諾がなければ他の者は営業叶わぬ事であったが、翌々年の2月には、東京市中だけで早くも1万1千台を突破する大人気。

3.16 オイラー
 いままでで、いちばん多産だった数学者。それで、数学のどの分野にも、「オイラーの定理」がある。オイラーに時代には、キマジメな証明などしなくても、計算を背景に定理を洞察するだけで、数学者は充足していた。そのかわり、オイラーのような、天才的な計算力と洞察力を必要とした。19世紀になって、証明が重視されたのは、もはやオイラーのようにはやれなくなったからでもあった。オイラーは計算しすぎて、晩年には失明したが、それでも数学を生産し続けた。

3.15 遺題承継
 和算の本では、最後には問題をつけて、その解法は示さずに出す。次の著者は、その解法を本にして、また最後に問題を出す。江戸時代の詰将棋の本と同じ流儀である。こうして、いつまでも続いていく。これは、問題を作ったら、解いたところまで、ぜんぶを書かないでおれない、ヨーロッパ風のやり方と違う。社会と著者の関係というより、あとに続くだれかと自分の関係、といった感じがする。

3.14 アインシュタイン誕生
 1879年。相対性原理で知られ、晩年は平和活動や人権擁護運動に尽くしたアメリカの物理学者アルベルト・アインシュタインが、南ドイツのウルムに誕生した。

3.13 ヘボン誕生
 1815年。幕末から明治にかけて33年の日本滞在中に、病院を開設して貧民の施療にあたり、和英辞典の編纂やバイブルの日本語訳、さらにヘボン式で知られた日本語のローマ字綴り法を定めるなど、日本の近代化に測り知れぬ大きな力を尽くしたジェームス・ヘプバーンが生れた。

3.12 二月堂お水取り
 2月20日から始まった、東大寺二月堂修二会のお松明行法の最終日。翌13日の午前2時(12日の夜の丑三刻に相当)、若狭の国の遠敷明神から送られると伝える若狭井の水を汲み上げて、仏前の香水として供えるのが、お水取りの儀式。籠りの僧が大松明を振りかざして石段を駆け上がり、二月堂の廻廊舞台で大車輪に振りまわす籠松明の火の粉は壮観。関西では、このお水取りがすめば春になるといい習わしている。 水取りやこほりの僧の沓の音 芭蕉

3.11 武田勝頼死す
 1582年(天正10)。織田信長との戦いに敗れた勝頼は、武田家の運命ももはやこれまでと諦め、天目山に登って一族郎党とともに壮烈な最期を遂げた。歌舞伎の「本朝二十四孝」で有名な妻の八重垣姫も、侍女もろとも夫の後を逐って、天目山の花と散った。

3.10 伊勢神宮の始まり
 紀元前5年(垂仁25)。垂仁天皇の先代崇神天皇は、大和の笠縫邑に天照大神を祀る社を建て、初めて祭政分離を実行し、日本の国もようやく原始社会から一歩抜け出して、ある程度の政治機構を整えることとなったが、垂仁天皇は宗教上の中心をさらに遠く離すべきだと考え、天皇の命を受けた倭姫命が、適当な土地を求めて、大和から近江、美濃の国と辿って、伊勢の国度会の土地に到り、五十鈴川の川上に神宮を建てたのが創始と伝えている。

3.9 学習院の前身、学習所開設
 1847年(弘化4)。平安時代の昔には、式部省所轄の唯一の国立学校たる大学寮を始め、氏族それぞれに、勧学院・奨学院などという私学を設けて、公家の子弟教育は盛んであったが、徳川時代も末になって、新しい時代に備えるべく、光格・仁孝2代に亘って計画の練られていた学習所が、この日、孝明天皇の手によって漸く実現、京都御所健春門の前に開設された。

3.8 ニコライ堂開堂式
 1891年(明治24)。東京神田駿河台にあって、ビザンチン風の壮大なドームの鐘の音に、たっぷり異国情緒を味あわせてくれるニコライ堂は、革命以前のロシアが、ギリシャ正教を日本に普及するために投資して建てたもの。ロシア人シュチュルポフの設計に、イギリス人コンドルが修正を加えたものであった。

3.7 実数
 実数というと、「現実の数」のように思われている。しかし、3.141592…や1.144213…の「…」のずっと先のほうを見た人は誰もいない。

3.6 ミケランジェロ誕生
 1475年。画家として、彫刻家として、また、建築家として、さらに詩人として、ルネッサンスイタリアの大芸術家、ミケランジェロ・ブォナルロティが、北イタリアのフィレンツェに近いカプレーゼで呱々の声をあげた。

3.5 山本宣治死す
 1929年(昭和4)。生物学者にしてわが国最初の左翼代議士であった山本宣治が、七生義団の暴漢に襲われ、41歳でこの世を去った。

3.4 平等院の鳳凰堂落慶供養
 1053年(天喜1)。槙尾山の緑を背に、宇治川の水に影を映して、極楽浄土もかくやと思わせたであろう平等院の堂塔伽藍の中でも、たびたびの兵火をまぬかれて、現代にもその美しい姿を残している阿弥陀堂、俗称鳳凰堂が完成して、関白左大臣藤原頼道の手によって盛大な落慶供養の営まれたのがこの日。

3.3 お江戸日本橋開通
 1603年(慶長8)。今でこそ高速道路の蔭に隠れて見る影もなくなったが、日本国中に通じる道路の1里塚の基点、すなわち日本の中心としても架けられた日本橋が、この日開通した。

3.2 帝国大学令公布
 1886年(明治19)。幕府の昌平黌・開成所・医学所が接収して、大学東校・南校が開かれてから17年目。法学部・理学部・文学部・医学部・工学部の5学部と大学院よりなる総合大学としての東京帝国大学を設置する旨、「帝国大学令」がその前日に発令され、この日の官報で発布。

3.1 わが国のラジオ放送第一声
 1925年(大正14年)。東京芝浦の高等工芸学校図書室に設けられたJOAKしばうら仮放送所から、出力わずか220ワットの電波が日本の空に流れた。

2.28 千利休死す
 1591年(天正19)。表千家・裏千家・武者小路千家その他、現存する茶道すべての開祖、利休居士千宗易が、太閤秀吉に詰腹を切らされて、71歳でこの世を去った。

2.27 カルーゾ誕生
 1873年。イタリアの生んだ、偉大なテナー、エンリコ・カルーゾが、ナポリの町に呱々の声をあげた。生来の美声と豊かな声量、ドラマティックで抒情的な表現、1921年にこの世を去って以後も、空前絶後のテナーとしての名声は、長く消えることがなかった。

2.26 ユゴー誕生
 1802年。『レ・ミゼラブル』で私たちに忘れることの出来ない印象を残しているフランスの文豪ヴィクトル・ユゴーが、スイス国境に近いブザンソンの町に生れた。叙事詩・抒情詩・劇詩・諷刺詩と、近代詩のあらゆる面を兼ね備えた、19世紀最大の詩人ユゴーは、同時にまた共和党指導者の1人として、正義・自由・友愛の精神による社会改革の偉大な実践者であった。

2.25 ルノアール誕生
 1841年。光と色彩を嘆美する印象派の画家、ピエール・オーギュスト・ルノアールが、リモージュの仕立屋の子として生れた。

2.24 直木三十五没
 1934年(昭和9)。「直木賞」にその名を留める大衆作家直木三十五こと植村宗一、44歳で早世した。

2.23 アルミニウム電気分解法の発見
 1886年。グリーンランドから産出する氷晶石を使ってアルミニウムの原石を溶かす電気分解の方法を発見したのは、アメリカはオハイオ州生まれのチャールズ・ホールという24歳の青年。何しろ天然のアルミニウムは非常に稀少な鉱物で、ナポレオン三世などは、特製の表着の釦と、フォーク1本とをアルミニウムで作らせて得意になっていたほど。金や白金以上の貴金属扱いであったから、これは実に大きな発見であった。

2.22 ショーペンハウアー誕生
 1788年。ドイツの哲学者アルトゥール・ショウペンハウアーがダンツィヒに生れた。31歳にして完成した代表的な著作『意思及び表象としての世界』は、カントの認識論、プラトンのイデア論及びインドのヴェーダ哲学における汎神論と厭背観を綜合したものである。

2.21 和気清麻呂没
 その前月の20日、70歳でこの世を去った姉広虫のあとを逐うように、民部卿造宮大夫従三位和気清麻呂が、67歳で没した。称徳天皇の御代、弓削道鏡が天皇の寵愛をほしいままにして法王の位につき、果ては皇位をも窺おうととする野心を見抜いて、姉と力を併せ、宇佐八幡の神託に言寄せて、その野望を暴露した為に、却って大隈の国へ流された話は有名。光仁天皇の御代となって、道鏡は下野の国薬師寺の別当に左遷され、清麻呂は召還されて名誉を恢復したが、さらに桓武天皇を補佐して、平城京を廃し、長岡京、更に平安京に遷都する大改革に大いに力を尽くした。そういえば、桓武天皇も清麻呂も共に百済の王族の血を引いて、日本人離れした合理的な思想の持ち主であったことで納得がいこう。

2.20 アメリカ初の人間衛星船を飛ばす
 1962年。ソ連に遅れること10ヶ月。この日の午前9時47分、ケープカナベラルから打上げられたフレンドシップ7号が、グレン中佐を乗せて地球を3周、4時間56分後にプエルトリコの首都サンファンの北西384キロの沖合いに無事着水した。

2.19 コペルニクス誕生
 1473年。地動説を首唱し、従来の常識を覆す新しい進展を示すことを「コペルニクス的転回」という、カントの名言を生み出すもととなったポーランドの天文学者ニコラス・コペルニクスが、プロシアのトルンに生れた。あの進歩的な宗教改革者マルティン・ルターさえもが、コペルニクスの研究を、僧院長の身分にあるまじきこととして、「何という馬鹿な事だ。天体を逆転させようと思っている」と罵ったし、親友の勧めによって出版することとした不朽の名著『天体の回転について』も、その第1冊が刷り上がったのは、1543年5月23日、死去前日であった。

2.18 雪舟等楊没
 1506年(永正3)。備中の国都窪郡赤浜に生れ、京都に上って相国寺の僧となった雪舟は、画僧周文に学んで一家の風をなし、周防の大内氏の庇護を受けて明に渡り、北京の礼部院中堂の壁に筆を揮ったと伝えられる。その雪舟が87歳の生涯を終えたのは、周防の雲谷庵においてであった。
(8月8日説あり)

2.17 歌劇『蝶々夫人』初演
 1904年。アメリカの劇作家ベラスコの戯曲に、イタリアの音楽家プッチーニが曲をつけた、お馴染みのこの歌劇が、ミラノのスカラ座で初演の幕を開けた。

2.16 西行法師入寂
 1190年(建久1)。「願わくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月の頃」。西行は自詠の歌そのままに、陽暦4月1日、まさしく桜の盛りの満月の頃、河内の国弘川寺で73歳の大往生。

2.15 散逸構造
 自然の法則では、エントロピーが増えて乱れていくはずなのに、逆に一時的には秩序が作られていくことがある。これは、外へエントロピーを吐きだして、一時的に部分秩序を作るのである。こうしたものを、散逸構造という。生命というのは、こうした構造のこととも言える。そして、いつかはその秩序も寿命がきて死ぬ。

2.14 平将門死す
 940年(天慶3)。平安京における摂関藤原氏の専制政治に不満をもつ地方の不平分子を糾合した、関八州における平将門、四国九州を胯にかけた藤原純友。その一方の雄、いわゆる天慶の乱の首謀者平将門は、平貞盛・藤原秀郷の連合軍と下総の国猿島での合戦の最中、たまたま流れ矢に当って戦死した。東京の神田明神の祀られているのを見ても、関八州における将門の人気が知られよう。

2.13 かっぽれ梅坊主没
 1927年(昭和2)。「かっぽれかっぽれ甘茶でかっぽれ」。江戸吉原の幇間(たいこもち)平坊主・梅坊主兄弟が編み出した滑稽舞踊。兄の平坊主は、明治4年に29歳で夭死したので、弟の梅坊主こと松本梅吉が元祖を代表している。行年74歳。

2.12 ラストエンペラー退位
 1912年。世祖以来10代270余年にわたって、満州民族による中国支配を続けてきた大清帝国も、当時わずか7歳の宣統皇帝が位を退くことによってその歴史に終止符を打った。このラストエンペラー愛新覚羅・溥儀氏は、日本軍閥の大陸政策に利用されて満州国皇帝となり、日本の敗戦とともに市ヶ谷の軍事裁判にも証人として喚問されるという、一生に2度の大きな悲劇を味わうこととなった。

2.11 文化勲章制定
 1937年(昭和12)。文化の発達に関して功績著しいものに与えるという趣旨で制定。そしてその4月、長岡半太郎以下9名に第1回の受賞があった。

2.10 レムゼン誕生
 1846年。オルトスルホベンズイミド、やさしく言えば砂糖の5百倍の甘味を持つサッカリンを発明したアメリカの有機学者アイラ・レムゼンが、ニューヨークに生まれた。

2.9 アメリカ、8時間労働を実施
 1943年。中世の親方徒弟制度の工業社会にあって、無制限に労働を搾取されていた労働者が、ようやく個人の権利に目覚めて、労働時間の短縮を求め始めたのは、18世紀の終り、産業革命のイギリスであった。1806年には10時間制を獲得し、さらにロバート・オーエンの研究によって、8時間労働が妥当との結論が出たのは1838年。しかし、それが世界各国に認められたのは1919年、第1次大戦後のヴェルサイユ条約第13篇に、1日8時間または1週間48時間制が規定されたのが最初。しかも最も民主的な共和国アメリカでさえ、8時間労働制を実施したのは1943年のこの日であった。それに比べると明治初年、大阪造幣寮における7時間労働は、全くもって立派というの他はない。

2.8 ラスキン誕生
 1819年。理想主義の芸術評論家であり、人道的な社会運動家であったジョン・ラスキンが、ロンドンの富裕な輸入業者を父、厳格な清教徒を母として誕生した。

2.7 ディケンズ誕生
 1812年。『オリヴァー・トゥイスト』『クリスマス・カロル』『二都物語』などで知られたイギリスの作家チャールズ・ディケンズが、海軍経理局の下級官吏を父として、ポートシーに生れた。

2.6 ラマヌジャン
 インド人の天才で、正規に数学を学んでいないのに、不思議な公式をいくつも見つけた。守り神の女神ナマジリが夢で知らせてくれるのだともいう。たまには女神が誤ることもあったが、たいていは普通の数学者が苦心して証明を考えると、正しい公式だった。なかには、半世紀も解けなかった大問題もある。第1次大戦中にイギリスに招かれたが、菜食と粗服から結核になり、故郷に帰ってまもなく女神に召された。

2.5 あいこ
 じゃんけんを2人でするとき、偶然だけにたよっていると、3回に1回くらいは「あいこ」になる。ずいぶん多いようだが、それでも、あいこが9回も続くのは、じゃんけんを2万回続けていくうちに1回くらいしかない。まず、そんなことはない、と思ってよい。しかし、新婚の夫婦が、どちらが朝さきに起きるかを、じゃんけんで決めると約束すると、金婚式くらいまでには、そんなことが起こっても、不思議はない。ただ、それまでこの約束が守られる可能性は、もっと少ないので、こんな計算は意味がないかもしれない。

2.4 全国に1里塚
 1604年(慶長9)。夙く奥州平泉の藤原氏が白河から率土浜まで1里ごとに笠卒塔婆を立て、近くは織田信長が機内諸国に1里塚を築いて榎を目印に植えたこともあったが、徳川二代将軍秀忠が、江戸の日本橋を基点として、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海・の七道、即ち全国に1里塚を築くことを命じたのはこの日。 

2.3 本阿弥光悦没
 1637年(寛永14)。本業の刀剣鑑定はともかく、書画・彫刻・陶器・蒔絵・印刷・茶の湯と、美術工芸百般に間口の広い起用人、安土桃山・江戸初期の文化の花を洛北鷹ヶ峰に燦爛と開いた本阿弥光悦こと多賀次郎三郎。80歳でこの世を去った。

2.2 二宮金次郎12歳の社会事業
 1799年(寛政11)。縄を綯ったり草鞋を作り、薪も拾えば他家の賃仕事もして、病身の父と幼い弟たちを養っていた金次郎。ある日、子守をして得た2百文をしっかり握って家路を急ぐ途中、朝から松苗1本も売れないと愚痴をこぼしている苗木売りに出会って、ハタと思い出したのが5歳の時の酒匂川の洪水。1町6反の田畑を流されての今の貧乏。手にした2百文をポンと投げ出して2百本の松苗を買い、酒匂川の土手に植えたという。栴檀は双葉より香ばしい尊徳先生の見上げた公徳心。

2.1 円蔵の妻故郷へ帰る
 1893年(明治26)。国定忠治の子分日光円蔵の女房は、23歳の時に郷里の桑名をとび出し、流れ流れて上州長脇差円蔵と連れ添ったが、喧嘩の殴りこみを受けた時にも、夫を床下に隠して相手と応対したほどの気丈な女。身体の7ヵ所の刀傷を残して、92歳の老婆がピンシャンとして故郷へ戻ったと、この日付の『読売新聞』に見える。

1.31 アメリカも人工衛星打上げ
 1958年。その前年の10月4日、ソヴィエト連邦が人工衛星の打上げに成功したのに遅れること3ヶ月余。合衆国も、科学観測衛星エクスプローラー1号の打上げに成功して、地球を取り巻くバンアレン帯発見の端緒となった。日本最初の人工衛星は、更に12年後の1970年2月11日、東大宇宙航空研究所のラムダ4S型五号機「おおすみ」。

1.30 聖雄ガンジー凶弾に死す
 1948年。非暴力の革命に精魂を傾け、イギリス支配からの脱却、インド・パキスタン両国の平和な統一に、79年の身命を捧げ尽くしたマハトマ・ガンジーが、狂信的な右翼分子、ヒンズー・マハサバ党員のために、ニューデリーのビルラ氏邸で暗殺された。 

1.29 坪内逍遥没
 1935年(昭和10)。『小説神髄』を著わして日本文学に写実主義を導入し、文芸協会を主宰して演劇改良を指導し、シェークスピア劇を全訳するなど、偉大な足跡を残して、77歳の生涯を閉じた。

1.28 『古事記』完成
 712年(和銅5)。わが国最古の史書『古事記』3巻が完成して、元明天皇に献上された。

1.27 天野屋利兵衛没
 1727年(享保12)。「天野屋利兵衛は男でござる」。吉良上野介を討ち取って主君浅野内匠頭の仇を報じるべく、臥薪嘗胆する赤穂浪士を助けて、幕府禁制の武器を調達した泉州堺の侠商天野屋利兵衛没が、66歳でこの世を去った。

1.26 買物
 買物をするのに四則計算は必要、という。しかし、引き算は、1000-730程度で、2340-730なんかは、まずしない。割り算は、2か3で割る程度で、7人でワリカンなんて、やる気がしない。足し算と、簡単な掛け算はするが、このごろのスーパーのレジで計算されたのを、計算しなおすのは、かなりマメな人だ。それよりは、店が信用できそうか判断するほうが、買物には役に立つ。

1.25 『朝日新聞』創刊
 1879年(明治12)。この日、大阪の江戸堀で第1号を発行したのが今日の『朝日新聞』の始まり。但し、政党や官権の機関紙として政治評論を主とした『東京日日新聞』『朝野新聞』などの所謂大新聞とは違って、『読売新聞』『かなよみ新聞』『浪花新聞』などと同じ、社会の雑報や布告の説明を主とした大衆的な小新聞に属するもので、今日の『朝日新聞』のイメージとは大違い。

1.24 不思議の国のアリス
 この物語の作者キャロルは数学者だった。アリスびいきの女王が、キャロルの別の本を買い求めたら数学書だったので面くらったと言う。いまも数学者は、アリスとともに、不思議の国へ旅だちたいと、いつも考えている。

1.23 八甲田山雪中死の行軍
 1902年(明治35)。この日、八甲田山麓田代村に向かって雪中行軍を試みた弘前第八師団第五連帯第二大隊の山口少佐以下215名は、帰営予定の24日にも帰らず、25日になっても消息なく、ついに3千人の捜索隊を出す騒ぎとなり、209名の凍死が確認されるに到った。

1.22 泥棒の公選
 1877年(明治10)。この日付の『東京日日新聞』によると、阿波の国板野郡の西条塚という60戸の小村落、昨年来、農作物の盗難が絶えず、一向現場が抑えられないので、どうも村内の者の仕業に違いないと睨み、ある日、村内の者が集まって、これはと思う容疑者を無記名投票したところ、60票の中、15票が阿部某に集中して、他はすべて白票。この男が堂々当選して、ついに白状に及んだという。

1.21 計算親方
 中世のヨーロッパでは、アラビア渡りの計算は特殊な技能だった。それで、計算をうけおう計算親方があった。計算をおぼえるためには、どこかの親方の弟子になって、何年か修行すると一人前で、親方になれたものだ。こうした、計算親方の数学が、ルネサンス数学の基盤となった。

1.20 帰納法
 1でなりたてば2、2でなりたてば3と、つぎつぎにやっていく。どこかでなりたてばその次もなりたつ、ということがわかれば、1からはじめて一般にnまで達して、なりたつことが証明できる。しかし、この証明法をあいまいなことに適用してはいけない。財産が1円しかない人は貧乏である。財産n円の人が貧乏だとしたら、あと1円増えても仕方がないので、財産n+1円の人も貧乏のはずだ。そうかといって、財産が1億円ある人を貧乏とは言えまい。

1.19 荻生徂徠没
 1728年(享保13)。「梅が香や隣は荻生惣右衛門」と茅屋町の隣家にすむ俳人宝井其角が詠んだ徳川時代筆頭の漢学者が、63歳で逝った。

1.18 東京・京都・大阪三府の人口
 1884年(明治17)。同日付の『朝野新聞』によると、東京府99万9,623人、京都府84万951人、大阪府158万5,696人とある維新当時の痛手が未だ回復せず、東京府が100万に未たぬ事は別として、これくらいの人口なら、環境問題・交通問題・住宅問題ありとあらゆる厄介な問題はなかろうものを。

1.17 昭憲皇太后女子服装改良のご先見
 18887年(明治20)。この日、宮内省から大臣・勅任官・華族たちのそれぞれ伝達された「婦女服制の事に付いて皇后陛下思召書」の要旨を抜粋すると、文運の進める、昔日の類ひにあらねば、独り坐礼のみに用ふること能はずして、難波の朝の立礼は、勢ひ必ず興さゞるを得ざるなり。さるに今西洋の女服を見るに、衣と裳と具ふること本朝の旧制の如くにして、偏へに立礼に適するのみならず、身体の動作、行歩の運転にも便利なれば、その裁縫に倣はむこと当然の理なるべし」とある。日本女性の坐る生活から立つ生活への変遷を見通し、行動に便利なツウ・ピースの洋装を奨励されたもの。先見実に敬服すべし。

1.16 アメリカ合衆国禁酒法実施
 1920年。その前年の1月16日と10月28日と、アメリカ連邦議会上下院を再度通過した禁酒法が、1年後のこの日実施されて、アルコールを含む飲料の、醸造・運搬・販売・飲用の一切が全国的に禁止された。その結果、殺人メチール酒の横行、酒の密造や密売を巡ってギャングの抗争、所詮ローリング・トゥエンティーの社会混乱を招いて、1933年12月5日には、遂に廃止された。

1.15 双葉山69連勝でストップ
 1939年(昭和14)。それまで七場所に跨って無敵の69連勝を続けてきた名横綱双葉山こと穐吉定次は、この年の春場所(今までは初場所)の4日目、関脇安芸海左外掛けの奇襲にバッタリ倒れた。国技館内は熱狂の渦。場所数も興行日数も少ない当時、丸3年に余る連勝の大記録がストップ。

1.14 萱野三平切腹
 1702年(元禄15)。忠臣蔵の芝居では、お軽い勘平の早野勘平でお馴染みになっている萱野三平、主君浅野長矩切腹の悲報を、早馬飛ばして国許の赤穂へ伝える途中、西国街道沿いに父七郎左衛門が住む、摂津の萱野村を通り過ぎた時、たまたま母の葬列に出遭うという悲運が重なったが、三平が義士に加わって主君の仇を報じようとしていることを知った父は、己が主君大島伊勢守に迷惑がかかると大反対。却って大島家に仕官の途を開いて引き留めようとした。忠と孝の板挟みとなった三平、遂にこの日、内匠頭切腹の一周忌に、腹を切って主君の後を逐うこととなった。時に28歳。

1.13 橋本雅邦没
 1908年(明治41)。狩野芳崖と共に、フェノロサの指導を受けて、日本画の革新を志し、東京美術学校創立と共に教授となったが、後輩の岡倉天心や横山大観と共に教職を退き、野に下がって日本美術院を創設、後進の指導に力を尽くした。行年74歳。

1.12 ペスタロッチ誕生
 1746年。教育の原点たる「人間愛」に生涯を貫いた、スイスの偉大な教育者ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチが、チューリッヒの医者の家に呱々の声をあげた。

1.11 伊豆七島を東京府に編入
 1878年(明治11)。「静岡県管下の伊豆ノ国八丈島始メ七島、自今東京府二管轄仰セツケラレ候条、この旨布告候事。明治十一年一月十一日、太政大臣三条実美」。この一片の太政官布告で、住民の意思も静岡県側の言い分を聞くこともなく、いとも簡単に管轄換えが行われた。

1.10 嘘つき
 「私は嘘をついていない」と主張されても、なんの効力もない。彼が正直で本当に嘘をついていないのか、じつは嘘つきで「嘘をついていない」というのが嘘なのか、たしかめようもないからだ。反対に、「私は嘘をついている」と言われたら、もっと困る。それが本当なら嘘になるし、否定の否定で本当になってしまうからだ。これは、クレタ陣野逆説として、昔から知られている。この論法を利用して、論理学や集合論の定理が、証明できたりする。

1.9 カントル
 無限には、0,1,2,…と数えていくときのドンドン無限と、直線上に点がべったりと存在するようなベッタリ無限とがある。数学用語としては、前者は可算無限後者は連続無限という。19世紀末に、この可算無限と連続無限を区別して、「無限の理論」を作ったのはカントルである。しかしそれは、無限批判派の数学界主流に入れられず、カントルは精神病棟に失意の身をゆだねることになった。しかし、その理論が集合論となった。

1.8 ウォレス誕生
 1823年。セレベス島とボルネオ島との間、バリ島とロンボク列島との間を境として、アジア系の動物とオーストラリア形の動物との分布状態がはっきり区別される事を発見し、ウォレス線にその名を留めるイギリスの博物学者アルフレッド・ウォレスが、モンマスシャーのアスクで生まれた。

1.7 昭和天皇崩御
 1989年(昭和64)。この日、午前6時33分、87歳6ヶ月のご高齢で崩御。天皇は、1901年(明治34)4月29日、皇太子であられた大正天皇の第一皇男子としてご出生、迪宮裕仁親王となられた。1921年(大正10)11月25日、ご病弱であられた父陛下を補佐して摂政となり、大正15年12月、大正天皇崩御の後を享けてご即位、昭和の時代が始まった。ご在位62年余は、史実不明の神話時代は除いて、歴代天皇の中でも最も長いが、摂政の期間を加えると70年に近く、まさに20世紀日本盛衰の歴史と共にあられたご生涯。

1.6 ジャンヌ・ダルク誕生
 1412年。イギリスとの百年戦争に苦しむフランス軍の先頭に立って、見事祖国の名誉を挽回し、19歳の若さで火焙りの刑に命を落としたジャンヌ・ダルクが、東北部の国境近いドムレミ・ラ・ピュセルに生まれた。家業を手伝って農耕・牧牛・針仕事に精を出し、熱心に教会に通うだけの、本名さえ伝わらぬ平凡な村娘に、「オルレアンへ行って国を救え」との神のお告げがあったのは、うら若い16才の時であった。

1.5 小楠公自決
 1348年(正平3)。その3日前、吉野如意輪堂の壁に「帰らじとかねて思へば梓弓亡き数に入る名をぞ留むる」の一首を残し、僅か3千の手勢を率いて河内の四条畷に出陣した楠正行は、高師直・師泰兄弟8万の関東勢に立ち向かい、再三再四師直の本陣に迫りながら、身動きもならぬ矢傷に、弟正時と刺し違えて、壮烈な最期を遂げた。時に23歳。

1.4 ブライユ誕生
 1809年。パリに程近いクープレーに呱々の声を上げた。盲人学校の教師として学習の便宜を図ろうと、ルイ・ブライユ自身が3歳のときに失明した経験を生かして考案、20歳の時に公表した点字が、今も世界中で目の不自由な人々に光明を与えている。

1.3 トゥタンカーメンの墓発掘
 1922年。ナイル川の左岸、王陵の谷から、エジプト第18王朝のトゥタンカーメン欧の墓を発見したのは、イギリスの考古学者ハワード・カーターとカーナヴォン卿。その墓の上に重ねて、ラメス6世の墓が後ろからきずかれていたので入り口がわからず、盗掘の難をまぬがれていた。第1・第2の封戸・前室と進んで辿りついた玄室には部屋一ぱいの木槨があり、木槨四重の中の石棺にはまた、三重の棺があったが、最後の黄金製の棺の中に、麻布に包まれた金のマスクをした18歳のトゥタンカーメン王のミイラがあった。前室・財宝室・副室に納められた無数の副葬品は、王が在世中に宮廷で使用した豪華な金銀の財宝で、カイロ博物館に保存されているが、この発見は、全世界に大きな衝撃を与えた。

1.2 コンピュートピア
 コンピューターにとりつかれる人が、増えてきた。いろいろなことが、コンピューターと対話するだけですむ。本当にカワイイ機械チャンだ。しかし、そのうちに、人間同士のややこしい付きあいが忘れられて、コンピューターとだけ対話する孤独人間が増えるのではないか、と心配である。また、コンピューター管理の超管理社会の到来を心配する人もある。

1.1 満年齢採用
 1950年(昭和25)。大晦日に生まれたばかりの赤ちゃんが、一夜明けた元日には、もう2歳という数え年はおかしいというのでこの年から満年齢を採用した。ただし本文では、この年以前の日本人の没年は数え歳に従っている。古来、よほど身分の高い人でなければ、生年月日は不明という理由による。


12.31 年越大祓・大晦日
 陰暦が用いられていた頃の節分の追儺とは少々趣旨が異なるが、陽暦の現代でも、1年の終わりの大晦日には、新年を明日に控えて、心改まるもののあることは否めない。神道の大祓式は、六月祓以後の半年に積もり積もった罪や穢れを払い捨てて、清新な気分で新年を迎えるもの。仏教の寺々で撞かれる除夜の鐘も、百八煩悩を消滅して、常楽光明の新年を迎える趣旨。キリスト教徒にも、年を送る大晦日の行事があるが、儒教にはそれらしいものがない。

12.30 わが国最初の地下鉄開通
 1927年(昭和2)。この日、わが国最初の地下鉄が、東京と上野と浅草との間、2,600bの軌道を走った。

12.29 山田耕筰没
 1965年(昭和40)。『からたちの花』『待ちぼうけ』『この道』『赤とんぼ』。北原白秋その他の詩を、わたしたち日本人の心に一層深く刻み込んだのが、山田耕筰作曲するところの、しみじみとしたメロディ。この日、79歳でこの世を去った。

12.28 師走
 1年の事を為終(しは)つ月であるとか、年末に方々の家で僧を迎えて仏事を営む(昔の仏名会)ので、僧侶が東西に奔走する師走す月であるとか、歳終(としは)つ月であるとか、諸説紛々として結論がない。十二律では、大呂。英語の December は、ローマ暦で、新春3月から10番目の月の意で、Decem(10)が語源。

12.27 パストゥール誕生
 1822年。「あらゆる生物は生物からしか発生しない」という信念の下に、誰一人気づかなかった微生物の存在を解明し、近代的な醸造学や病理学の基礎を築いたフランスの科学者ルイ・パストゥール。ドールのなめし革職人の子として誕生。

12.26 〈番外編〉 記号
 数学では、いろんな記号が使われ、数学ぎらいを困らせるが、記号でものを処理することがなければ、人間は数学を、いやそればかりか、文化を生み出せなかったろう。文化とは、記号の織りなす世界を夢想することである。

12.25 クリスマス・降誕祭
 ギリシャ正教を除く、他の一般のキリスト教徒は、この日をキリスト降誕の祝日としている。24日の前夜祭から28日にかけての5日間、クリスマスカードやプレゼントの贈答、クリスマストゥリーを囲んでの晩餐などに、喜びを分かち合う。殊に子供にとって、サンタクロースのプレゼントは欠かせぬものとなっている。
  長崎に雪めずらしやクリスマス 風生

12.24 最初の月周回飛行
 1968年。この日の21日午前7時51分に月着陸有人飛行計画のアポロ8号は、この日の午前4時59分、ロケットを逆噴射して4分後、月の軌道に乗って周回飛行を始めた。

12.23 東京タワー完工式
 1958年(昭和33)。高さはパリのエッフェル塔を凌ぐ333b、総工費28億円をかけて完成した。1000人を収容する展望台まで120bを1分間の超スピードであがると、南は大島、北は筑波・赤城、西は日本アルプスまでが一望の下に見えるというので大人気。

12.22 為永春水没
 1843年(天保14)。『春色梅児誉美』4篇によって人情本第一人者の地位を確保したが、市井の青年男女の恋愛を写実的に描く風俗小説が、天保の改革の禁に触れて、手鎖50日の刑を受けたのが因で、翌年病没した。54歳。

12.21 わが国最初の実地測量地図
 1800年(寛政12)。その年の閏4月19日、蝦夷地に向かった伊能忠敬は、大小2種の北地地図を作成して江戸に帰り、この日、幕府の勘定所へ届け出た。驚くべき迅速さ。

12.20 岸田劉生没
 1929年(昭和4)。わが国ジャーナリズムの先覚者岸田吟香を父とするだけあって、近代日本の洋画壇に遺憾なく鬼才を発揮した岸田劉生が、39歳の若さでこの世を去った。宝塚少女歌劇創設以来の歌劇作家岸田辰弥は、劉生の兄であった。

12.19 大岡忠相没
 1751年(宝暦1)。八代将軍吉宗の引き立てを蒙って江戸南町奉行となり、人情味溢れる大岡裁きで江戸ッ子の人気を独占、虚実織りまぜた政談に今なお話題を提供している大岡越前守忠相。三河西大平1万石の小大名にまで出世して、この日、75歳の生涯を終えた。

12.18 平賀源内没
 1779年(安永8)。漢学・国学はもとより、蘭学から薬学・医学、さらには電気工学から物理化学の研究、果ては滑稽本や洒落本、歌舞伎の脚本作家と間口が広く、正に変幻自在、マルチ人間の元祖ともいうべき平賀源内が、51歳でこの世を去った。

12.17 華族も士族も職業の自由
 1871年(明治4)。この日の『太政官日誌』に、「華族士族、官にあるの外は、自今、農工商の職業を相営み候儀、差許され候事云々」とある。明治維新は一種の民主革命であり、旧幕府の職禄を離れ、しかも新政府の官員になれなかった公家や武士たちの生活の道として、職業の自由が認められたわけ。ところがあいにく「士族の商法」、失敗するもの後を絶たず、いろんな悲喜劇が生じた。あたかも終戦後、旧華族の資産を覘って、狐狼が横行したのと同じである。

12.16 アメリカ独立戦争の発端
 1773年。その頃、イギリスでは、東印度会社の倉庫にストックされている1700万ポンドの紅茶の捌け口に困り、窮余、アメリカ植民地に輸出して高い関税を吸い上げようとした。本国議会へ代議士を送ることもできず、一方的に搾取されることにかねがね不満を抱いていた植民地の人々は、この夜、インディアンに変装して、ボストン港に碇泊中の貨物船に乗り込み、積荷の紅茶を海中に叩きこんだ。この事件が2年後に起こる独立戦争の引金となる。

12.15 エッフェル誕生
 1832年。パリのエッフェル塔を設計した建築家アレクサンドル・ギュスターフ・エッフェルが、ディジョンで生まれた。もともと航空力学の研究者であったエッフェルが、1889年に開かれた万国博覧会の呼び物として作られたこの塔の設計を引き受けたのは、高さ300bの頂上から、いろいろな物体を落として、落下速度を実験するのが目的だったから。

12.14 赤穂浪士、討入り
 1702年(元禄15)。大石良雄以下四十七士が、本所の吉良邸に討入ったのは、14日の夜、寅の上刻という。太陽暦では1月31日に相当する15日の午前3時。昔は正寅の刻、つまり午前4時までは前の夜というわけで、浪士討入りの記念日は14日となっている。

12.13 中江兆民逝く
 1901年(明治34)。わが国自由民権運動の歴史に、不朽の名を留める兆民中江篤介が、55歳で永眠した。死体は解剖に付して医学の進歩に役立ててほしいと遺言したほどの合理主義者。青山斎場で行われた葬儀にも、一切宗教上の儀礼は用いず、「告別式」という言葉も、この時に始まったといわれる。

12.12 わが国最初の日刊新聞
 1870年(明治3)。神奈川県今井関盛良が、長崎にいた本木昌造に依頼して活字と印刷機とを取り寄せ、昌造画派遣した長崎製鉄所付属活版伝習所の社員陽其二を編集長とし、横浜本町6丁目に本社を構えてこの日、1枚摺りの日刊新聞『横浜毎日新聞』をはじめて発行した。(8日説あり)

12.11 脚色料をはずんだ川上音二郎
 1902年(明治35)。この日付の『都新聞』を見ると、シェークスピアの名作『オセロー』上演の企画を立てた音二郎が、脚色を小説家江見水蔭に依頼して、脚色料1千円を渡したとある。これは破格の高額。作家を優遇しようとの音二郎の心意気。翌年2月11日、明治座での開演が、わが国における新劇の幕開けであった。

12.10 3億円強奪事件
 1968年(昭和43年)。この日、日本信託銀行国分寺支店から、東芝府中工場従業員のボーナスに当てる2億9,430万7,500円を積んで出た現金輸送車が、白バイの警官を装った白ヘルメット姿の男に車ごと奪われた。稀に見る高額の強奪事件ではあり、数々の物証を残しているにもかかわらず、事件はついに迷宮入り、時効となった。人身傷害を伴わぬあまりにも鮮やかな手口に、一般大衆は口アングリ。

12.9 夏目漱石逝く
 1916年(大正5)。『我輩は猫である』『坊ちゃん』『三四郎』『草枕』等の名作を残し、近代日本の知性を代表する作家として懐かしまれる。50歳。

12.8 太平洋戦争勃発
 1941年。真珠湾攻撃の戦果を伝えるラジオの臨時ニュースが、やがて破滅に導かれるであろう世界戦争への突入を、心なくも勇壮に伝えた。

12.7 佐野常民没
 1902年(明治35)。明治10年、西南戦争の勃発に際し、元老院議官佐野常民は、大給恒とともに博愛社を創設、官軍賊軍の看護に当った。やがて明治20年、この博愛社が日本赤十字と改まり、常民は初代社長となったが、この日、81歳でこの世を去った。

12.6 水戸黄門逝く
 1700年(元禄13)。水戸藩主徳川光圀が、73歳でこの世を去った。「この印籠が目に入らぬか」の黄門漫遊記は全くの作り話。水戸藩領内を巡視したり、江戸に出府するほか、他国へはほとんど足を踏み出さなかった光圀だが、『大日本史』の編纂を始め、国民道徳の向上、産業の奨励、社会福祉の振興、官紀の粛正等に尽くした業績が余りにも偉大だったために、そんな伝説も自ずと生じたのであろう。

12.5 ディズニー誕生
 1901年。ミッキー・マウスやドナルド・ダックなど、可愛い主役が活躍する漫画ばかりか、『白雪姫』『ピノキオ』『ダンボ』『バンビ』等の童話の世界、『砂漠は生きている』『生命の神秘』など自然科学映画に至るまで、子供はもとより成人をも含めて、世界中の人々を魅了した漫画映画の製作者、そして、1966年12月15日の死後も、ディズニー・ランドで楽しませてくれるウォルト・ディズニーが、シカゴで誕生した。

12.4 津田左右吉死す
 1961年(昭和36)。日本及び中国の古代史学者として、その精密な考証と鋭い批判とが軍国時代の国体史観として相容れず、著書はしばしば発行禁止となり、大学の職は逐われ、裁判にかけられたこともある苦難に満ちた生涯を88歳で閉じた。

12.3 ヒル誕生
 1795年。イングランドのキッダミンスターに生まれたロウランド・ヒル。ロンドン市内で行われていたペニイポストの制度を全国に及ぼし、重さ半オンスを越えない郵便物は、全国均一に1ペニイで配達する、近代的な郵便制度を創始した。

12.2 12月2日が大晦日
 1872年(明治5)。それまでの太陰暦に換えて、日本でも太陽暦を採用することとなったこの年、暮れの12月3日を明治6年1月1日と切り換えた。そのため、明治5年は12月2日が大晦日。12月は30日まである大の月であったから、28日も繰り上がり、年末の貸借決済は大忙し。

12.1 郵便ハガキ紙発行
 1873年(明治6)。「郵便ハガキ紙並封嚢発行規則」によると、今の往復端書のように2つ折のハガキ紙が、市内用半銭、市外用1銭。100枚以上買えば、5分引き、200枚以上は1割引とある。

11.30 成島柳北没
 1884年(明治17)。わが国新聞界の先覚者、成島甲子太郎が48歳で没した。幕末の旗本として、騎兵奉行・外国奉行・会計副総裁等の要職を勤めたが、江戸開城とともに世を遁れ、隅田川のほとり、柳橋の北に隠棲して柳北と号し、文筆の道に生きた。明治5年、欧米漫遊から帰ると、7年、『朝野新聞』を創刊、傍ら『花月新誌』を編輯して、硬軟両派に健筆を揮った。

11.29 ロンドン・タイムズ新鋭印刷機を導入
 1814年。『ロンドン・タイムズ』が、従来の手刷機械に代えて、蒸気機関を応用した高能率の印刷機を使い始めた。発明者はドイツ人技師フレデルック・ケーニッヒ。従来の手刷りは1時間150部が精いっぱいであったが、この機械では1100部。世界の印刷業界にセンセーションを巻き起した。

11.28 エンゲルス誕生
 1820年。カールマルクスとともに、科学的社会主義の創始者として偶像的崇拝を受けているフリードリッヒ・エンゲルスが、西独ライン地方のバルメンに、大紡績工場主の長男として誕生した。

11.27 東大赤門、竣工
 1827年(文政10)。11代将軍家斉は、すこぶる付きの子沢山、わが娘を嫁がせると、嫁ぎ先の邸には、目印として朱塗の門を建てさせた。本郷の東大の敷地は、当時加賀百万石前田家の邸。当主の斉泰が、家斉の娘を奥方として迎え、そのために建てた赤門がこの日竣工した。まさか後世、この赤門が、学歴社会の象徴になろうとは。

11.26 日本野球連盟、2リーグとなる
 1949年(昭和24)。てんやわんやのストーブリーグを経て、2リーグ15チームが結成された。翌25年、セ・リーグは既成チームの中で最も弱かった大陽ロビンズが松竹ロビンズと改まって優勝。パ・リーグでは、阪神タイガースから若林・土井垣・別当ら主力選手を引き抜いた新参の毎日オリオンズが優勝。東京巨人軍が、セ・リーグの常勝チームとなるのは2リーグ分裂以後。

11.25 三島由紀夫割腹
 1970年(昭和45)。本名平岡公威。戦後派文学一方の旗頭として大きな期待を荷っていた。この日、自らが主宰する盾の会会員4名と共に、東京市谷本村町の陸上自衛隊東部方面総監部に乗り込み、総監に面会してクーデターを呼びかけたが果たさず、割腹自殺して45歳の人生を終わった。

11.24 『種の起源』初版
 1859年。チャールズ・ダーウィン不朽の名著が、この日、出版された。それより50年早く発表されたラマルクの『動物哲学』と並んで進化学説の古典。

11.23 カナダの日本びいき
 1905年(明治38)。この年、極東の小さな島国日本が、健気にも世界に強国ロシアと戦い、しかも勝ったというので、世界中の人気が日本に集まった。中でも熱烈だったのはカナダ。ノーザン鉄道が、トーゴー、クロキと2つの駅に日本の将軍の名をつけたばかりか、駅逓省までが新しく開いた郵便局をトーゴー局、クロキ局と命名したと、23日付の『東京日日新聞』が報道している。

11.22 ケネディ暗殺さる
 1963年。遊説の為テキサス州ダラスを訪問したアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが、何者かに狙撃されて死去した。直ちに容疑者L・H・オズワルドが逮捕され、ダラス市警から拘置所に連行する途中、ジャック・ルビーに射殺され、真相は謎に包まれたままとなった。合衆国史上、リンカーン・ガーフィイルド・マッキンレーに次ぐ4人目の大統領暗殺。

11.21 一休禅師入寂
 1481年(文明13)。頓知の一休さんでお馴染みの一休宗純が、88歳で大往生を遂げた。少年時代の頓知話はもとより、『一休諸国咄』という書物もあり、歌舞伎に脚色された一休と遊女地獄大夫の話など、とかく話題豊富なお坊さんであった。

11.20 帝国ホテル開業
 1890年(明治23)。有名なライト設計になる帝国ホテル旧館より以前の、最初の帝国ホテルが落成開業したのがこの日。首都にホテルのないのを対外的な恥と考えた外務大臣井上馨が発案し、宮内省賛助の元に26万円の資金を集め、渡辺謙設計になる、ルネッサンス式煉瓦造3階建、建坪740坪、70室という、こぢんまりしたものであった。

11.19 松茸大豊作
 1873年(明治6)。この日付の『東京日日新聞』を見ると、京都方面では夏以来雨が続き、伏見の稲荷山から東山一帯にかけて松茸の生育がすばらしい。出始めの頃は100匁(375c)6銭であったものが、ついに1銭5厘に値下がりしたとある。インフレ甚だしい終戦直後でも、100匁100円程度であったことを考えると、アア、松茸は何処へ行ったのか。

11.18 パデレフスキー誕生
 1860年。世界的なピアニストでありながら、ポーランド独立に際しては亡命先のアメリカから急遽帰国して戦い、独立後は初代大統領として母国の建設の奔走し、引退後は再びアメリカで楽壇に復帰。真に人間らしい英雄イグナツ・ヨーゼフ・パデレフスキーの鮮やかな出処進退を、どこかの国の政治屋達に見習わせたいもの。

11.17 8時間労働制決議
 1919年。第1回国際労働会議は、この日、8時間労働制を決議した。イギリスでは1908年から実施していたが、わが国ではずっと遅れ、1947年(昭和22)に施行された労働基準法に、「使用者は、労働者に1日8時間、1週間に48時間を超えて労働させてはならない」と規定。今日なお空文に近い。

11.16 開化とはシャンパンを飲むこと
 1875年(明治8)。この日付の『評論新聞』が、ロンドン・タイムズから転載した記事。近頃日本では開化という言葉が大流行だが、ある日1人の日本人が、横浜にある英国人の邸を訪ねた。そこでシャンパンをご馳走すると、たちまち大きなコップで3杯も飲み干し、大声で、「私は開化が大好物でございます」という。主人が「開化とは何のことですか」と尋ねるとその男、「開化とはシャンパンを飲むことでございます」。

11.15 坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺さる
 1867年(慶応3)。土佐の生んだ大人物、海援隊の坂本龍馬と、その盟友、陸援隊の中岡慎太郎とが、京都河原町の醤油店近江屋の2階で会津藩士の襲撃を受けた。龍馬は即死、慎太郎は翌々日絶命。王政復古まであと1ヶ月足らず、33歳・30歳、有為の生命を失った。

11.14 パストゥール化学研究所設立
 1888年。狂犬病の予防注射、ワインやビールの防腐剤などを発明して、世界の科学に大きく貢献したルイ・パストゥールは、かつてパリのプティ・パリジャン紙が募集した19世紀の偉人の人気投票で、第2位のヴィクトル・ユゴーに10万票の大差をつけて、133万8千4百票を集めたが、この研究所設立に際しても、358万6千フランの寄付金がたちどころに集まったという。

11.13 スティーブンソン誕生
 1850年。『宝島』や『ジギル博士とハイド氏』などの傑作で知られるイギリスの小説家、ロバート・ルイス・スティーブンソンが、灯台技師の子としてエディンバラに生まれた。

11.12 ロダン誕生
 1840年。ルネッサンスの後の世界で、最大の彫刻家と讃えられるオーギュスト・ロダンがパリで生まれた。

11.11 電算機とソロバンの一騎打
 1946年(昭和21)。東京日比谷のアーニーパイル劇場において、電子計算機とソロバンの日米対抗試合が行われた。アメリカの選手はGHQのトーマス・クッド二等兵、日本の選手は東京貯金支局の松崎喜雄さん。3回戦の結果は、昔ながらのソロバンの勝ち。

11.10 東京に馬車鉄道敷設の許可
 18880年(明治13)。種田誠一・谷口道之らが設立した東京馬車鉄道会社が、新橋・日本橋間の目抜き道路にレールを敷いて馬車を走らせる許可を取った。その開通は翌々年の6月25日だが、「何事も早きを旨の世の中に馬を添えてこそ曳け」の狂歌がある。

11.9 太陽暦採用
 1872年(明治5)。持統天皇の4年(690)、初めて中国の元嘉暦と儀鳳暦とを採用して以来、大衍暦・宣明暦と、中国暦が続き、1685年(貞享2)から貞享暦・宝暦暦・寛政暦・天保暦と日本独自の改暦が行われたが、すべて月の運行による太陰暦が、1082年間にわたって用いられてていた。革新の意気に燃える明治政府は、西欧諸国にならって太陽暦を採用することを決断、この日、明治5年の12月3日を6年の1月1日と定める旨の詔勅が出された。曰く「蓋シ太陽暦ハ太陽ノ纏度ニ従テ月ヲ立ツ。日子多少ノ異アリト雖モ季候早晩ノ変ナク、四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ、七千年ノ後僅カニ一日ノ差ヲ生ズルニ過ギズ。之ヲ太陰暦ニ比スレバ、最モ精密ニシテ其の便不便モ固ヨリ論ヲ俟ザルナリ。依テ自今旧暦ヲ廃シ、太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン」。

11.8 X線の発見
 1895年。ドイツの物理学者ヴェルヘルム・コンラート・レントゲンは、ミュンヘン大学の研究室で、真空放電管の研究に没頭していた。前日、真空管を卓上の書物の上に置いたまま、昼食のために食堂へ行くことがあったが、この日、郊外へ出て1枚の風景写真を撮って帰った。暗室に入って乾版を現像したところ、どうしたわけか風景の真ん中に鍵の形が映っている。「妙なことがあるものだ」小首をかしげながら暗室を出て、何気なく卓上の書物の頁を繰ると、写真に写っているのとそっくりの鍵が出てきた。「そういえばあの乾版はこの本の下にあったのだ。なるほど。ウンなるほど」。推理を進め実験を重ね、真空放電管から放射される謎の光線、X線すなわちレントゲン線を発見するに到った。

11.7 隕石を神に祀る
 1492年。プロシアはアルザスのエンジシャイム村の麦畑に、大音響とともに360ポンドの隕石が落下し、地中5,6フィートまでもぐった。得態の知れぬ恐ろしさに、どうしてよいか王宮へお伺いを立てたところ、オーストリア皇帝マキシミリアン1世のお耳に達し、宮廷の学者一同協議の上、掘り出して教会に安置せよとの仰せ。エンジシャイムの村長、礼服姿も恭しく神妙に十字を切り、真黒い不気味な石を地中から掘り出し、教会の聖水で洗い清めて祭壇に安置、村民こぞって礼拝することとした。

11.6 滝沢馬琴没
 1848年(嘉永1)。『南総里見八犬伝』『椿説弓張月』など、300余編1000冊に余る作品を物した博学無比の馬琴、82歳でこの世を去った。74歳以後は両眼失明、嫁に口述筆記させてこれらの大作を完成した。恐れ入る他はない。

11.5 礼服に洋式採用
 1872年(明治5)。太政官布告第373号を持って、大礼服・通常礼服に洋服を採用し、従来の直垂・狩衣・裃などの和服が廃止された。それより前、1866年(慶応2)には、陸海軍の平服に様式を採用しているが、上着を筒袖、ズボンを股引と呼んでいたくらいで、そんな洋服を着せられた水戸藩士西野宣は、「行末を思えば心細袴、涙を払う袂だになし」と歎いた。

11.4 嘉永大地震
 1854年(嘉永7)。この日、東海・東山・南海三道の諸地方を襲ったマグニチュード8.4の大地震によって起こされた津波は、伊豆の下田に碇泊中のロシア軍艦ディアナ号を大破沈没させた。これを見た下田の人々は荒波を押し切って救助船を出し、乗務員と積荷の陸揚げに必死の働きを示した。そのディアナ号に乗っていたのが、千島・樺太領有問題について、幕府の代表川路聖謨と折衝中の使節プチャーチン。日本人決死の働きに感動し、船に積んでいた六十斤加農砲4門・三十斤加農砲18門・二十斤加農砲30門を幕府に譲って感謝の意を表した。

11.3 湯川秀樹ノーベル物理学賞を受く
 1949年(昭和24)。わが国最初のノーベル賞受賞者として、中間子理論の湯川秀樹が選ばれた。税金なしの3万ドル、当時の為替レートで1,080万円はありがたい。

11.2 オイルショックでトイレットペーパーパニック
 1973年(昭和48)。この年10月に始まった第四次中東戦争に、中東6ヵ国がイスラエルを支持する諸国への石油輸出を停止し、さらにアラブ石油輸出国機構10ヵ国が、25%の生産制限を決定した。基幹産業の殆どすべてを石油に依存している日本は大恐慌。街からはネオンが消え、テレビ・ラジオも時間短縮。ガソリンスタンドは日曜祝日休業のありさま。企業は先行き見越しで原材料のストックの狂奔。そこは敏感な大阪の奥さん達、この日、千里ニュータウンの大丸ピーコックでは、午前10時開店と共に、行列していた主婦ら200人が店内に雪崩れこんで、トイレットペーパーや洗剤・砂糖を買い漁り、パニックは忽ち全国に広がった。

11.1 曾我廼家五郎逝く
 1948年(昭和23)。門閥で固められた歌舞伎の世界を飛び出し、同志十郎とともに、摂津伊丹の劇場で「愉快の親玉・喜劇の生粋」の看板を掲げたのが1904年(明治37)。以来、新作に新作を連発する曾我廼家の喜劇は全国を風靡し、72歳でこの世を去るまで、一境漁人のペンネームで100に余る脚本を発表した。その伝統は、藤山寛美率いる松竹新喜劇に受け継がれている。

10.31 初の日米野球試合
 1907(明治40)。ハワイのセントルイス大学野球ティームが、慶応大学の招きに応じて来朝、初の日米対抗試合を催した。もっとも、このときのセントルイスティーム葉アメリカ人だけでなく、ポルトガル人・中国人なども混じるティームであった。その招待費用に8千円もかけた慶応大学では、1円・50銭・30銭の入場料を取って帳尻を合わせたが、これがわが国の野球試合有料観覧の嚆矢である。

10.30 尾崎紅葉没
 1903年(明治36)。寛一お宮の「金色夜叉」で知られた紅葉山人、行年37の若さながら、泉鏡花・徳田秋声・小栗風葉・柳川春葉の四天王を始め、多くのすぐれた門人を輩出した。

10.29 初代中村歌右衛門没
 1791年(寛政3)。78歳。近年は歌右衛門といえば女形の名優と相場が決まっているが、初代は何と実悪の名優。日本駄右衛門や加古川本蔵、弁慶などを当り役に、今日・大坂・江戸3ヶ津に芝居を打って位無量の評判を取った。

10.28 パンダ来たる
 1972年(昭和47)。この年の日中国交正常化を記念して、中国政府から送られて来た雌雄2頭のパンダ、ランランとカンカンが上野公園に到着した。アライグマ科の大熊猫、ジャイアントパンダは、日本開闢以来の珍獣とあって、それからのパンダ・ブームは凄まじかった。

10.27 吉田松陰刑死
 1859年(安政6)。幕末の先覚者松陰は、30歳の若さで、維新の幕開けを見ることなく小塚原の刑場の露と消えた。が、彼が松下村塾で育てた人材は枚挙に遑がなく、維新の鴻業はまさにその遺産といえよう。「身はたとえ武蔵野野辺に朽ちぬとも とどめおかまし大和魂」

10.26 伊藤博文遭難
 1909年(明治42)。佐久間象山・吉田松陰・橋本佐内・坂本竜馬・西郷隆盛・大久保利通・後藤象二郎等、先輩大物が次々とこの世を去って後、農民上がりの足軽林利助、後の伊藤博文に、初代内閣総理大臣として、憲法を制定し立憲政治を創始するという希代の盛運がころがりこんだ。だが、好事魔多し、全朝鮮総督として満州視察の途中、日韓併合を憤る朝鮮の志士安重根の狙撃を受け、ハルピン駅頭に69歳の生命を散らした。
 

10.25 島原の乱勃発
 1637年(寛永14)。苛酷な租税の取立てに苦しんだ肥前の国島原有馬村の農民が、代表を立てて代官所に陳情したところ、有無を言わさず引っ捕らえられたのが24日。翌日100余名の農民が代官所を襲撃したことが発端となり、百種一揆と宗門一揆、さらに豊臣の残党の叛乱が加わって、徳川300年最大の内乱が勃発した。

10.24 わが国最初の鉄道トンネル工事
 1870年(明治3)。この年の7月に始められた大阪・神戸間の鉄道工事の中、今の東海道線住吉駅から西へ800bばかりの地点で、この日着工したのが石屋川トンネル。1921年(大正10)に撤廃されたが、単線で河の底を貫通する、長さ60b、幅4.6bの小さなもので、それでも翌年7月まで9ヶ月の日子と4万両の大金を要した。 

10.23 わが国にも陪審裁判
 1928年(昭和3)。1923年(大正12)、陪審法が制定されて以来初めて、この日大分地方裁判所で陪審法廷が開かれた。木工職人藤岡某がその情婦に対して起こした傷害事件を殺人未遂の罪に問うたものである。36人の候補から選び出された12人の陪審員、翌24日にかけて評議した結果、殺人の意思なしと答申、裁判所もそれを採択して翌25日、単なる傷害事件として懲役6ヶ月の刑を即決した。

10.22 平安遷都
 794年(延暦13)。桓武天皇がこの日、山城の国葛野郡宇太村の地に新造の平安京に移られ、以後、明治2年10月、東京に都移りするまで、1075年にわたるわが国の首都が定められた。それから1001年目の明治28年、桓武天皇を祀る平安神宮の時代祭りが始まった。

10.21 ノーベル誕生
 1833年。ノーベル賞で知られるスウェーデンの科学者、アルフレッド・ノーベルが首都ストックホルムに生まれた。ダイナマイト・無煙火薬・起爆剤と次々に恐ろしい爆発物を発明し、実験中に弟を爆死させてもひるむことなく、「恐れを知らぬノーベル」と評判されたが、この仕事の鬼も、その死に際しては仮死状態のまま土葬されることを恐れ、「必ず静脈を切開し完全に死んだことを認めてからではなくては棺に納めるな」と強く言い置いたという。又、
彼が火薬工業で築いた168万ポンドの財産すべてを、人類の平和と進歩に功績のあった人々に分かち与えるように遺言して、ノーベル賞の制度を設けたのは、自分の発明にかかる火薬が、戦争の惨禍を拡大したことに対するせめてもの罪滅ぼしであった。

10.20 二宮尊徳逝く
 1856年(安政3)。自らは貧困のどん底から立ち上がって、万民の幸福のために生涯をささげた二宮金次郎が、70歳でこの世を去った。尊徳自身が手がけて財政を立て直した地方が605ヵ所村、その報徳精神に学んで自ら再建に成功した地方が322ヵ町村。中でも、村に1人の貧乏人なく、1文の借財もない理想郷を築き上げたのが200ヵ町村。遠く遠州一関から九州熊本まで、その感化は及んだという。

10.19 魯迅逝く
 1936年。近代中国の偉大な作家魯迅こと周樹人が、55歳でこの世を去った。半封建的な農民生活を描いた代表作『阿Q正伝』は、中国新文学の勝利を決定的にした古典である。 

10.18 仁徳陵着工
 379年(仁徳67)。この月の5日、河内の国石津原に行幸した仁徳天皇は、自らの墓とすべき土地を選定し、この日着工された。これが、奥行き486b、前方の幅305b、公園の幅249b、三重の濠をめぐらす世界最大の古墳百舌鳥耳原中陵。着工のこの日、野原から走り出した1匹の鹿、働く人夫たちの中へ飛び込んでバッタリ仆れた。調べてみると耳の中から1羽の百舌鳥が飛び立ち、鹿の耳の中が食い荒らされていたという。百舌鳥耳原の地名の由来である。 

10.17 日本人最初の電報発信
 1867年(慶応3)。幕府の留学生としてオランダの派遣されていた医師の伊藤玄伯、同じくアムステルダムに滞在する友人赤松大三郎に当てて、「明日お訪ねするからお待ち下され」という電報をニューウェデク市から打った。これが日本人最初の記録で、オランダ政府発行の頼信紙に日本語訳を添えて、東京の逓信博物館に保存されている。

10.16 宝塚温泉落成式
 1886年(明治19)。同月15日付の『大阪日報』は、兵庫県武庫郡伊曾志村字宝塚に建設の温泉場が明16日落成式を行う旨を報道し、「近来、大阪神戸等より続々土地買入を望むもの多く、為に同所の地価頓に騰貴せしが、持主は兎角に売惜しみて手放しかぬる模様なり」と書いている。それでも、ここに郊外電車が集中し、遊園地・動物園・野球場までが建設され、温泉浴場の余興演芸として始められた少女歌劇が全国の少女の憧憬の的となり、海外まで進出するタカラヅカになろうとは、夢にも思えなかった。

10.15 グレゴリオ暦施行
 1582年。それまでは紀元前46年にローマ帝ユリウス・カエサルが制定したユリウス暦が使われていたが、ユリウス暦の1年365日4分の1は、地球が太陽の周りを1週する365,2422日の太陽年より11分14秒も長かった。そのため、128年年間に1日が不足することとなり、ユリウス暦施行の当初は3月25日であった春分が、16世紀頃には3月11日と、14日もずれていた。そこでローマ法王グレゴリオ13世は、このずれを訂正し、かつ春分を3月21日と定めるために、10日間を切り上げることとし、ユリウス暦の10月5日を10月15日と定め、4年に1度必ず置かれていた1日の閏を、400年間に3回省くことと定めた。そこで、グレゴリオ暦の1年の長さは、365,2425日となって、太陽年との差が、25,9秒に縮まった。

10.14 新橋・横浜間鉄道開通
 1872年(明治5)。当時の陰暦では9月12日、ハイカラな赤煉瓦の新橋駅に明治天皇の行幸を仰いで、盛大な開通式を挙行したが、その年の暮れに採用された太陽暦に換算して、10月14日を鉄道開通記念日としている。因みに、新橋・横浜間29キロを時速32キロ、52分もかかって走ったが、車輌もレールもイギリス製、運転手や技師もイギリス人であった。

10.13 銭湯で犬の入浴まかりならぬ
 1873年(明治6)。この日、東京府知事大久保一翁は、「湯屋銭湯へ畜犬引き参り浴せしめ候者これあるやの風聞相聞こえ候につき、万一左の所業に及び候者これ有らば、急度さしとめ申すべく、もし相用ひず候節は、速やかに邏卒番人へ告知致すべき事云々」とのお達しを出した。犬を銭湯に入れるとは、ペットブームの昨今にもちょっと例のない無茶。

10.12 俳聖芭蕉、旅に死す
 1694年(元禄7)。前月27日、奈良から大坂に廻って、斯波園女の家の句会に臨んだ芭蕉は、園女心尽くしの料理に舌鼓を打ったが、食中毒かかって29日の夜から病床に就き、10月5日、御堂前花屋仁右衛門の裏座敷に移ったものの、去来・支考・惟然ら門人徹夜の看護の効なく、この日、「旅に病んで夢は枯れ野を駆けめぐる」の一句を残して、その生涯を閉じた。

10.11 渡辺崋山自殺
 1841年(天保12)。三河の国田原藩1万2千石、三宅土佐守に仕えた崋山は、貧しい藩の財政の下、病身の父を養う世過ぎの道として画業を選んだが、高野長英・江川太郎左衛門らとともに洋学を学び、広く西洋の近代文明を取り入れようとした開化主義が幕府の忌諱に触れ、小笠原開発問題に絡んで投獄された。幸いかつての漢学の師松崎慊堂がその無実を主張、老中水野越前守に訴え、保釈されて郷里に蟄居する身となったが、主君に災いの及ぶことを恐れて、49歳を一期に自ら命を絶った。

10.10 高村光雲没
 1934年(昭和9)。皇居前の楠公像、上野の山の西郷さんの銅像などで馴染の深い、近代日本の代表的な彫刻家高村光雲が83歳でこの世を去った。詩人高村光太郎はその子。

10.9 セルバンテス誕生
 1547年。「才智あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」、要するに蟷螂が斧を揮って竜車に向かう喩えを地で行った、狂想的な正義の騎士ドン・キホーテを主人公とした風刺小説で知られるスペインの文豪ミグエル・デ・セルバンテスは、アルカラ・デ・エナーレスの町の貧しい外科医、手っ取り早く言えば床屋さんの子として生まれた。

10.8 小笠原諸島、東京府に編入
 1880年(明治13)。終戦後の講和条約で、アメリカの信託統治に組み込まれていた小笠原諸島。そもそも、1593年(文禄2)、豊臣秀吉の命によって、信州深志の城主小笠原貞頼が探検し、小笠原島と命名したのが日本領となった最初。明治維新後、内務省の所管となっていたが、この日、東京府に移管された。

10.7 エドガー・アラン・ポー不遇の死
 1849年。詩集の『大鴉』、唯一の長編『ゴードン・ピム物語』、短編の『アッシャー家の崩壊』や『黒猫』、推理小説『黄金虫』に『モルグ街の殺人』、どれ1つを取り上げても、アメリカ近代文学史の金字塔でないものはない。しかし、死後の栄光に比べて、生前のポーは恐ろしくみじめな境遇にあった。旅行者のみなし子として浮世の荒波に揉まれ、病弱と貧困と妻の死と、その苦しみをわずかに酒と文学にまぎらせていたが、この月の3日、いつものようにボルティモアの酒場で深酒を過ごしたポーは、発作を起こして倒れ、病院へ舁ぎこまれたまま、誰1人看護する身よりもなく、凶暴な発作と囈言の4日間を過ごしたこの日の夜明け前、息を引き取った。享年40歳。

10.6 黒岩涙香没
 1920年(大正9)。『岩窟王』『噫無常』『鉄火面』『幽霊島』など、長短100篇に近い翻訳小説で、明治大正の文壇に独自の地位を築いた黒岩涙香が、この日59歳で永眠した。

10.5 日本人最初のヒマラヤ登攀
 1936年(昭和11年)。立教大学の学生で組織した登山隊が、海抜6,861bのナンダ・コットの頂上を極めた。ヒマラヤ連峰の中では目立つ高山ではないが、何しろ富士山の約2倍、この初の快挙に記念切手が発行された。

10.4 完全英訳のバイブル出版
 1535年。マイルズ・カバーデールという人が出版したこの最初の英訳聖書は、木版の黒いドイツ文字で刷られた大型本。大英博物館とホーカム・ホールの2ヵ所のみに現蔵される稀書。

10.3 ハイカラ排撃論
 1881年(明治14)。この日付の『東京日日新聞』には、時の文部権大書記官浜尾新が、東北諸県を巡回しての所感として、「女教師女生徒らの風体に半男半女の姿ありて、靴を穿き、袴をつけ、意気揚々として生かぢりの同権論などなす者あり。それ故か心ある者は女子を学校へ出すをきらひ云々」と、ハイカラ排撃論を展開している。いわゆる鹿鳴館時代の欧化主義に対する反動ではあろうが、後には東京帝国大学総長にもなるほどの人物がこの石頭では。

10.2 ガンジー誕生
 1869年。あらゆる暴力を否定し、インド2億の民を、数百年にわたる奴隷的な状態から解放しようと、投獄に次ぐ投獄にもめげず努力を続けたマハトマ・ガンジー。第2次世界大戦の終了とともに、インド、パキスタン2国の輝かしい独立を勝ち取ったが、その後も、宗教的な反目を続ける両国を、平和的な統一に導こうと心を砕き、1948年の1月、非業の最期を迎えるに到ったこの聖雄は、ポルバンダルの名家の子として生まれた。

10.1 超特急燕号運転開始
 1930年(昭和5)。この日から走り始めた特急燕号は、丹那トンネル開通以前の東京・神戸間601キロを、下り9時間、上り8時間55分の超(?)スピードで連絡、人々を驚かせた。

9.30 ディーゼル事故死
 1913年。ドイツからイギリスへわたる客船がイギリス海峡を航行中、1人の先客が船上から姿を消した。このミステリアスな失踪事件の主は、トラックや汽車・汽船のディーゼル・エンジンに不朽の名を残す、ドイツのエンジニア、ルドルフ・ディーゼルで、イギリス海軍省から相談役として招かれて渡英する途中の謎の転落事故であった。55歳。

9.29 日曜権妻が流行
 1891(明治24)。この日付の『郵便報知新聞』を見ると、“日曜権妻”という記事がある。当時、20円内外の月給を貰い、独身で下宿住まいをしている学生上がりの官員さんの間に、土曜から日曜にかけて、文字通りの一夜妻を、月々3円ぐらいの手当てで契約することが流行っていたという。昔の国司の正守に対する権守と同じく、正妻に対する権妻の意である。

9.28 後楽園完成
 1629年(寛永6)。今でこそ後楽園といえば、プロ野球の東京ドームか遊園地しか思い出さない人が多いが、元をただせば江戸小石川の水戸藩邸に、徳川頼房・光圀親子が作らせ、明の学者朱舜水が命名した天下の名園であった。神田上水を引いて流れを通じ、滝をかけ池を湛え、島を作り山を築いて、すこぶる変化の妙趣に富んだこの名園が、今も史蹟名勝に指定されて健在であることをお忘れなく。

9.27 日本最初の地下鉄起工式
 1925年(大正14)。今も渋谷と浅草との間を走っている地下鉄銀座線の起工式がこの日。すぺいんのバルセロナに次いで世界で14番目で、最も古いのは1863年に開通したロンドンの地下鉄。何しろ電車のない時代だから、トンネルの所々に煙出しの穴を空けて、蒸気機関車で走らせた。

9.26 小泉八雲没
 1904年(明治37)。日本を愛し、山陰松江を愛し、日本の女性小泉節子と結婚して日本に帰化した、イギリスの文学者小泉八雲ことラフカディオ・ハーン。55歳で没。仏式で葬ってほしいと遺言。

9.25 俵藤太秀郷死す
 991年(正暦2)。但しこの没年は不確実であるが、美女の頼みで三上山の大百足を射殺して竜宮に招かれたという、御伽草子『俵藤太物語』の主人公として伝説に事欠かぬ人物。もともと粗暴な男で、罪を犯して下野の国に流されていた時、関東では、中央政府の腐敗と国司の不正に憤って、民衆の為に兵を挙げた、平将門の乱が起こった。秀郷好機到来とばかりに将門を訪れて協力を申し出たが、喜んだ将門、折柄梳いていた髪を結びもせぬまま烏帽子をかぶって狼狽て出迎えたり、秀郷をもてなす酒食の席で、飯粒をポロポロ膝にこぼす始末。これには秀郷もすっかり呆れて、将門頼むに足らずとなし、反対に平貞盛に力をかして、将門を下総の国辛島で討ち取った。

9.24 西郷隆盛自決
 1877年(明治10)。51歳。征韓論に敗れて能事畢れりとなし、陸軍大将兼参議の顕職を捨ててさっさと野に下り、故郷鹿児島に帰ってからの隆盛は、政治に対する野心を一切払拭した筈であった。しかし私学校生徒らの熱意にほだされて蹶起すると、一時は九州大半を制する勢いであったが、思いもかけぬ徴兵制官軍に阻まれて、ついに城山の露と消えた。隆盛が残した名言は数多いが、次の言葉は政権の座にある者の、正に肝に命ずべき至言であろう。「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、些かとも私を挟みては済まぬものなり。いかにも心を公平に操り、正道をふみ、広く賢人を選挙し、能く其の職に任ふる人を挙げて政柄を執らしむは即ち天意なり。夫れゆゑ真に賢人と認むる以上は、真に我が職を譲る程ならでは叶わぬものぞ。故に何ほど国家に勲労あるとも、其職を任へぬ人を官職を持って賞するは善からぬ事の第一なり。」

9.23 ビールの醸造所、札幌に開業
 1876年(明治9)。札幌地方がビールの原料となる大麦や、ホップの栽培に適していることに着目したのは、北海道開拓使、黒田清隆。呑兵衛で、虎と綽名された黒田伯爵、お手柄と評判。

9.22 リンカーン奴隷解放を宣言
 1862年。奴隷制度の廃止問題で惹き起こされたアメリカの南北戦争は、初め、奴隷制度の継続を主張する南部諸州のアメリカ連邦軍が優勢で、合衆国の首都ワシントンを脅かす勢いであったが、グラント将軍の努力で持ち直した北軍は、ついにミシシッピーの中心部ニュー・オルリーンズを攻略して形勢が逆転した。この時に当り、合衆国大統領アブラハム・リンカーンは、奴隷解放令を公表、1863年1月1日を期して、各州の奴隷は、借金を返した上で、市民権と自由を獲得すべしと宣言した。

9.21 H・Gウェルズ誕生
 1866年。SF小説の元祖として知られるハーバート・ジョージ・ウェルズは、イギリスはケント州ゴロムリーのクリケット選手を父として生れた。反物屋の小僧や小学校の助手、そして奨学金を得ての理科大学卒業。ウェルズの活動は、単なる小説家といつよりは、生物学者・物理学者・社会学者・哲学者・歴史家という広い分野にわたり、常に民衆の代弁者として、自由で常識的なイギリスの知識階級を象徴するものであった。

9.20 喜多川歌麿没
 1806年(文化3)。近頃でこそ葛飾北斎や東洲斎写楽の名が喧伝されているが、かつては、浮世絵の美人画といえば、喜多川歌麿に止めをさした。初めは鳥山石燕の弟子として、豊章の号で役者絵を描いていたが、29歳の頃、美人画に転向して歌麿と号し、版元蔦屋重三郎が後楯となって、ぐんぐん才能を伸ばして行った。たまたま1804年(文化1)に発表した『太閤五妻洛東遊観之図』が、幕府を誹謗したという廉で50日手鎖の刑に処せられ、精神的に大きな打撃を蒙った結果、失意のうちにこの日、54歳で没した。

9.19 平民に苗字を許す
 1870年(明治3)。同日付の『太政官日誌』には、「今より平民にも苗字差し出され候事」という太政官布告の写しが載せられている。四民平等の文明開化主義というよりは、戸籍整理の必要から出たことであろう。しかし、今さら差し許すといわれたって、これまで熊さん八つぁんで来たものを、何をベラボーめ、面倒くせえやとなかなか苗字を名乗る者がいない。ついに政府もしびれを切らし、5年後の明治8年2月には、強制的に苗字をつけさせる太政官令が出された。

9.18 『ニューヨーク・タイムズ』創刊
 1851年。ヘンリー・J・レーモンドが、友人2人と協力、この日『ニューヨーク・タイムズ』を創刊した。当初、1部4n1kで売り出したが、正確なニュースと鋭く理想的な社説とでたちまち信用を博し、10週目には2万部、1860年には『トリビューン』の4万5千部を凌ぐ10万部に達したという。

9.17 コレラ大流行
 1879年(明治12)。この日の『東京日日新聞』は、この夏から全国的に流行したコレラ患者の数が、9月15日現在で、13万8,953人に達し、7万6,342人が死亡したと報道している。その流行は以後も収まらず、最終的には、翌年1月14日付の同誌が、12月27日現在の患者総数16万8,314名、志望10万1,364名、死亡率60%強、全快者はわずか28%余りの4万7,875人と報告。しかし、コレラをコロリと呼び変えたほどの大流行を見た1958年(安政5)には、死者28万421名であったという。

9.16 大森貝塚の発見
 1877年(明治10)。アメリカの科学者エドワード・シルヴェスター・モース博士が、今の東京都大田区大森で貝塚を発見、わが国最初の近代的な考古学的調査を始めた。

9.15 関ヶ原の戦い
 1600年(慶長5)。石田三成率いる西軍8万、徳川家康指揮する東軍7万5千、天下分け目の戦いが、この日の辰の刻(午前8時)霧深くそぼ降る雨の中で始まった。東軍には太閤子飼の加藤・福島らの勇将も加わり、同じ大坂方とは言いながら、新参の石田・小西の指揮に服さぬ者が多く、勝敗の帰趨は初めからきまっていた。その上、秀吉の養子となっていた金吾中納言小早川秀秋が寝返ったとあっては如何ともし難い。未の刻(午後2時)には既に勝敗は決して、西軍の死者実に8千。薩摩の島津義弘が、敵中を縦断、僅か80名で身を持って逃れた武勇が唯一の語り草となっている。

9.14 虫歯の原因、発表
 1683年。オランダの博物学者アントーン・ファン・レーウェンフークが、歯の間に寄生するたくさんの微生物を顕微鏡下に発見、初めて虫歯の原因をつきとめ、その結果を学会に発表した。

9.13 乃木希典夫妻殉死
 1912年(大正1)。明治天皇の御大喪が行われたこの日、乃木希典夫妻は、「出でまして帰ります日のなしときく今日の御幸にあふぞ悲しき」という静子夫人の辞世を残し、大帝の御後を慕って自刃した。

9.12 塙保己一没
 1821年(文政4)。『群書類従』530巻、『続群書類従』1000巻、『史料』403巻を始め、25種2千数百巻の書物を編纂校訂した盲目の大学者が、76歳でこの世を去った。門人中山信名の『温故堂塙先生伝』に「温故堂塙大人、名は保己一、氏は荻野といふ。塙はその師須賀一検校の本姓を冒されしなり。その先、参議小野朝臣篁卿より出で、世々武蔵国児玉郡保木野村に家居す」とあるように、百姓宇兵衛の子として生まれた寅之助が、5歳の時の患いが因で7歳の年には失明。江戸には太平記読みという職業があると聞いて、たかだか40巻の『太平記』なら、全部誦んじるのも大して難しくはあるまいと決心して、13歳の春、父の許しを得て、絹商人に連れられて江戸へ出たというのだから、記憶力には自信があった。道すがら同行の絹商人と、江戸へ出たら互いに一かどの人物になって名を挙げようと約束を交わした当の相手が、後の江戸町奉行根岸肥前守であったというから面白い。

9.11 目玉の松ちゃん逝く
 1926年(大正15)。剣戟の親玉、目玉松之助の人気をほしいままにして、1909年(明治42)以来、約1千本の映画に出演し、草創期の日本映画界を風靡し尾上松之助が、この日、52歳でその大きな眼を閉じた。

9.10 初代竹本義太夫死す
 1714年(正徳4)。64歳。大坂天王寺村南堀越生れの通称五郎兵衛が、四天王寺西門前の料亭徳屋の主人清水理兵衛について浄瑠璃の手ほどきを受けた。理兵衛の浄瑠璃は、旦那芸とはいいながら、当時大坂を風靡していた井上播磨掾の従弟にあたり、理兵衛もちょいちょい芝居の床を勤める程のよい喉。五郎兵衛も、師匠が道頓堀で、新作の『上東門院』を語った時にワキを勤めたのが初舞台であった。やがてこの五郎兵衛が竹本義太夫となって、近松門左衛門や竹田出雲と手を握り、道頓堀の竹本座にたてこもって、上方浄瑠璃の覇者となったことは喋々を要しない。浄瑠璃の中の義太夫節即浄瑠璃ということになったのだから大したもの。

9.9 映画『羅生門』、グランプリを獲得
 1951年(昭和26年)。ヴェニスで催された第12回国際映画祭において、黒澤明監督の『羅生門』が、日本映画として初めてグランプリを獲得した。これはひとり映画界のみならず、敗戦の痛手から立ち上がろうとして苦しみもがいてた当時の日本国民にとって、大きな朗報の1つであった。 

9.8 「君が代」演奏の初め
 1870年(明治3)。この日、東京越中島において、明治天皇は薩長土肥四藩の兵を閲兵されることとなっていたが、あいにく天候が時化て、天皇のお立会いの傍まで潮が押し寄せる有様、残念ながら閲兵は中止。洋式の軍服に鉄砲をかついで連日訓練に励んできた四藩の将兵がっかりというところだが、唯一記念すべきは、薩摩の軍楽隊が、天皇のご臨場を迎えて、「君が代」を演奏したことである。但し、林広守作曲の今のメロディではなく、イギリスの軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンの作曲。

9.7 吉川英治没
 1962年(昭和37)。明治・大正・昭和を通じて、大衆作家といえば先ずこの人の右に出るものはいまい。1892年(明治25)、横浜の生まれで、横浜ドックのカンカン虫(船舶などの錆落とし職人のこと)をはじめ、活版職工・行商・輸出ブローカー・牛めし屋、さまざまな苦労を嘗め尽くした挙句の大衆作家である。雑誌キング連載の『剣難女難』、大阪毎日連載に『鳴門秘帖』で名が売れた頃は、まだまだ興味本位の大衆小説であったが、『新書太閤記』『宮本武蔵』『新・平家物語』などの歴史小説を書くに及んで、遥かに高い境地に達した。行年70歳。

9.6 安藤広重没
 1858年(安政5)。江戸は八重洲河岸の火消屋敷に、定火消同心安藤源右衛門の長男として生まれた広重は、13歳にして父を失い、少年の身でその職を継いだが、生来好きな絵筆が忘れられず、27歳の時、同心の職を弟に譲って浮世絵師の道を歩み始めた。葛飾北斎・歌川国貞とともに、幕末の江戸浮世絵に最後の華を飾った三大家の1人、一立斎広重は、『東海道53次』『富士見36図』等の風景画に絶品を残して、この日、62歳の生涯を閉じた。

9.5 巌谷小波没
 1933年(昭和8)。64歳。明治一流の書家で漢詩人の十六居士の三男として生まれた巌谷季雄は、医者か教師にしようとする親の方針に背いて文学の道を選び、尾崎紅葉の硯友社の同人となった。1891年(明治24)、博文館の『少年文学』叢書第1編として発表した『黄金丸』は、明治創作童話第1号である。以来、『少年世界』『少女世界』『幼年時代』『幼年画報』などの雑誌を主宰して健筆を揮い、数百篇の童話を作ったが、1903年以後は、川上音二郎とともにお伽芝居を始め、国内はもとより、中国・満州・ハワイまで足を伸ばしてお伽話を口演、大正・昭和のよい子たちの魂を、すっかりとりこにしてしまった。

9.4  義人、田中正造逝く
 1913年(大正2)。下野の国安蘇郡小中村に生まれた田中正造は、19歳の若さで名主となった。しかし、持ち前の義侠心から領主六角家の悪政を批判して名主の職を逐われ、維新開化の世を迎えてからも、県令三島通庸の施政に反対、上京して県民の苦しみを政府に訴えて投獄された。しかし、県民の信望は正造の一身に集まり、1890年(明治23)、第1回帝国議会に議席を占めた。1891年の第2回帝国議会以降は、足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川に流入し、沿岸の人民に多大の被害を及ぼすことについて幾度か政府に対策を促した。しかしそれは容れられず、1900年(明治33)には、県民が大挙上京しようとして警官隊と衝突、多くの犠牲を出した。代議士としての責任を痛感した正造は、1901年の選挙には立候補を辞退し、一介の自由人として、議会の開院式からお帰りの天皇に、直訴を企てるに到った。この日、73歳で世を去るまで、足尾鉱毒問題に奔走すること実に20余年。葬儀には5万の県民が、蜿蜒と長蛇の列を作った。

9.3 王貞治、ハンク・アーロンの記録を破る
 1977年(昭和52)。この日、後楽園球場で対戦したヤクルトの鈴木投手から、巨人軍の王選手が今季第40号のホームランを右翼外野席に打ち込んだが、これは米だいりーぐ元ブリュワーズのハンク・アーロンの755本を抜く756本の世界記録であった。

9.2 わが国鳥類保護の始まり
 1890年(明治23年)。この日、三重県知事成川尚義の名により、県内において燕を捕獲することが禁止された。燕は農作物の害虫を捕食する益鳥であるからと、その保護を願い出た農家の主張が聞き届けられた結果である。これがわが国における鳥類保護制度の最初。

9.1 竹久夢二没
 1934年(昭和9)。「私は詩人になりたいと思つた。けれど私の詩稿はパンのかはりにはなりませんでした。ある時、私は文字のかはりに絵の形式で詩を書いてみた。それが以外にもある雑誌に発表せられることになり、臆病な私に心は驚喜した」(『夢二画集』春の巻序文、明治42年、26歳。)「宵待ち草」の詩情そのままの絵で、明治・大正にかけて少女の紅涙をしぼり尽くした竹下夢二は、この日の朝、信州富士見の高原療養所で、誰一人、肉親の看る者なく、最後の呼吸を引き取った。51歳。

8.31 エジソンの白熱電燈に特許権
 1887年。エジソンが電燈を発明したのは8年も前のことであったが、さらに工夫改良を加えて初めて特許権を獲得したのがこの日である。ニューヨークのメンロ・パークにあったエジソン研究所には、百人に余る所員が力を合わせて改良に努力していたが、発明後間もない1880年10月5日に研究所を訪れたフランスの名女優サラ・ベルナールは、昼を欺く煌々たる電燈の輝きに感激し、所内をはしゃぎ廻って、大切な機械をこわしはせぬかと、所員一同ハラハラしたというエピソードがある。

8.30 マッカーサー元帥厚木着陸
 1945年(昭和20)。日本占領の連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が、愛機バターン号から、とうもろこしのパイプを銜えたままの無造作なスタイルで飛行場に降り立った。これから1951年4月、朝鮮動乱の処理に関してトルーマン政府と衝突し、罷免されて日本を去るまでの6年間、日本の封建制打破に大鉈を揮った元帥の功績を、日本人といえども忘れてはなるまい。ことに彼が、日本を四等国と呼び、日本人の精神年齢を12歳と酷評したことも、その後のわが国に育った民主政治の未熟さを見れば、残念ながら成程と首肯せざるを得まい。

8.29 メーテルリンク誕生
 1862年。チルチル、ミチルの『青い鳥』で日本の子供たちにもこの上なく親しまれているベルギーの詩人モウリス・メーテルリンクが生まれた。この神秘主義の詩人が、若い頃は法律家志望であったというのも面白い。

8.28 ゲーテ誕生
 1749年。ドイツの生んだ最大の文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが、フランクフルト・アム・マインに生まれた。ゲーテがその最高傑作『ファウスト』を完成したのは、76歳の晩年であった。

8.27 ヘーゲル誕生
 1770年。19世紀最大の哲学者ゲオルク・ウィルヘルム・ヘーゲルが、この日、ドイツのシュトゥトガルトに誕生した。弁証法的な思考というものは、2千年もの昔、孔子の門人子夏が書いた『詩経大序』にも明らかに見られるが、ヘーゲルといえば弁証法を思い出すほど、彼の完成した弁証法は、ドイツの観念主義哲学の最高峰たるヘーゲル哲学の根幹をなすものである。

8.26 ライオン宰相浜口雄幸死す
 1931年(昭和6)。政友会の放漫財政を鋭く攻撃する獅子吼とその魁偉な風貌からライオン宰相と呼ばれ、昭和初年の不況に際して思い切った緊縮財政を断行し、行政改革・財政整理の大鉈を揮った、最後の誠実な政党政治家浜口雄幸が、その前年の11月14日、東京駅で兇漢に狙撃されて重傷を負い、遂に恢復することなく、62歳でこの世を去った。

8.25 種子ヶ島に鉄砲伝来
 1543年(天文12)。大隅の国種子ヶ島に漂着したポルトガル船の乗組員が島の領主種子島時尭に謁見した時、大枚2千両を奮発して2挺を手に入れた。2千両の大金を手にしたポルトガル人も驚いた事であろうが、時尭は早速家来に命じて、射撃の方法や弾薬の作り方を学ばせ、さらに鉄砲の製法まで研究させて、その翌年には鉄砲製作に成功した。わが国への鉄砲伝来は決してこれが最初ではないが、鉄砲を一般に種子ヶ島と呼ぶようになったのは、鉄砲製造の由来があってのことである。

8.24 石川五右衛門、釜茹で
 1594年(文禄3)。『続本朝通鑑』のこの日の条には、「頃年、石川五右衛門といふ者あり。或はぬすみ或は強盗してやまず。秀吉京尹前田玄以をして遍く之を捜らしめ、遂に石川を捕らふ。且つその母並に同類20人許りを縛り、これを三条河原に烹殺す」とある。

8.23 白虎隊の最後
 1868年(慶応4)。江戸城も明け渡され、彰義隊の叛乱も鎮めた薩長土肥濃5藩の官軍は、奥羽平定に軍を進め、8月21日、二本松藩と会津藩の国境方成峠を突破して潮のごとく会津盆地に攻め入り、会津若松城に総攻撃をかけた。15歳から17歳までの少年で結成された白虎隊も、3日間にわたる激戦にすっかり討ち減らされ、この日、生き残った二番隊20人の少年たちは、飯盛山に登って焔に包まれた若松城を眺め、自分たちの運命ももはやこれまでと、枕を並べて壮烈な最期を遂げた。

8.22 島崎藤村没
 1943年(昭和18)。「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ」「名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実一つ」と、万人の胸にしみ入る繊細な感情に溢れた詩を作り、明治新体詩を完成して、以後は、『破壊』『夜明け前』など多数の長編小説を書き上げ、戦時中も畢生の大作『東方の門』と取り組んでいた藤村が、この日72歳の生涯を閉じた。

8.21 猪苗代湖が突如出現
 1611年(慶長16)。この日、会津地方を襲った大地震は、マグニチュード6.9、家屋の破壊2万余戸、死者3,700人を出したが、山崩れで会津川・只見川を塞ぎ、南北60キロの範囲に多数の沼を作った。猪苗代湖が出来たのはこの時である。

8.20 東京の没収地払下げ
 1869年(明治2)。明治維新に際して、新政府は旧幕府側の大名や旗本の屋敷、神社寺院などの土地を没収した。そのため、東京市中には広大な空き地が生じ、狐狸、野犬はもとより追い剥ぎが出るという物騒な有様。空地のまま置くよりは民間に払い下げて、桑、茶、野菜の畑にした方がよいというわけで、この日、市中の土地916万6,770余坪が一般に売り出された。その値段を例示すると、麹町・虎ノ門・霞ヶ関方面で、1千坪につき25円、飯田町・番町・永田町あたりが20円、市谷・四谷・青山・牛込などが15円というから、坪(3.3平方メートル)当たり、2銭5厘から1銭5厘という安値。当時の米価を1升5銭とすると、今日の平均米価1升700円は、1万4千倍ということになり、米価を物価の基準とする限り、番町の当時坪2銭は、280円が今日の適正価格ということになる。ところが、昭和63年4月1日国土庁が発表した公示価格では、千代田区三番町が坪当たり4,059万というから、米価を基準にして算出した適正価格の14万倍弱というベラボウな高値。明治2年の地価2銭に対しては、約20億倍という天文学的な倍率を示している。

8.19 鼠小僧次郎吉刑死
 1832年(天保3)。50年も前に処刑されたその道の先輩稲葉小僧の話と綯い交ぜにして、講談や芝居、さらにはテレビドラマに義賊としてお馴染みの鼠小僧次郎吉は、江戸中村座の木戸番の子に生れたが、成長して鳶人足として働くうち、好きな博打に身を持ち崩し、借金に追われて文政6年、27歳の時、武家屋敷に忍び込んだ。これを手始めに、広くて不用心な武家屋敷ばかり覘って28ヵ所32度も忍び込み、文政8年いったんお縄を頂戴して、入れ墨、江戸処払いの刑に処せられた。ところがまたもや江戸に舞い戻り、今度は71ヶ所90度も武家屋敷を荒らすという大泥棒となった。しかして天網恢恢疎にして漏らさず、ついに捕われてこの日、鈴ヶ森で獄門の露と消えた。時に36歳。

8.18 発売禁止の書物の広告
 1876年(明治9)。同日付の『東京曙新聞』にその広告が見える。「成島柳北先生著『柳橋新誌』2冊、服部誠一先生著『東京新繁盛記』5冊。該籍ハ、明治七年三月ヨリ追次、弊舗に於テ発兌セシヨリ以来、江湖諸君ノ愛顧ヲ蒙リ、印刷シタル数既ニ一万余部ニ至レリ、実ニ弊舗ノ僥倖也。然ルニ本年二月官命アリ、該籍ハ本月卅一日ヲ限リ発売ヲ禁ズト、我輩想像スルニ巻中尠シク条例ニ触ル、アリテノ故ナルベシ。江東該籍ヲ愛観スルノ諸賢ハ楮寸ヲ惜マズ速ニ購求シ賜ヘ、光陰ハ矢砲ノ如シ、発售ノ規刻経過シテ後之ヲ弊舗ニ求るも十日ノ菊、銀座三丁目、山城屋政吉」とある。発禁まで14日、買うなら今のうちだと急き立てる商魂は大したもの。

8.17 文明開化は女性の海水浴風景
 1889年(明治22)。この日の『朝野新聞』を見ると、「頃日大磯に滞留する旅客中には官吏学生の種類多く、殊に驚くべきは、婦人連の大胆にも浴場に游泳し、塩気強き大濤の畏ろしき音にて打ち来るにも構はず、細君令嬢並びに女教師女生徒らしき連中が身に薄き金巾の西洋寝巻を纏ひ首に大なる麦藁帽子を冠り、三々五々相携へて余念もなく海中に遊び戯るゝ事なり。荒波の急に注ぎ来る時などには、慣れぬ婦人は狼狽の余り先ず誰にても手近く立ちたる人に縋りて扶けらるゝ場合もあれば、之が媒介となりて如何なる椿事の起こるやも知れず」とある。ちょうど100年昔、むしろ微笑ましい女性風俗であるが、「如何なる椿事」とは、ちょっと余計なお節介。

8.16 ベーブ・ルース逝く
 1948年。アメリカのプロ野球、ニューヨーク・ヤンキーズの3番打者で、1シーズン60本の記録を打ち樹てたホームラン王、ベーブ・ルースが54歳でこの世を去った。本名は、ジョージ・ハーマン・ルース。ニコニコ笑うベビー・フェースがこのニックネームを生んだ。

8.15 粋な警部さん
 1880年(明治13)。仙台市二日市町で綿の打ち直しを営む庄司恭蔵さんの家では、2,3人の職人達が綿を打ちながら、「おらがおっ母は巡査の女房、出来たその子は棒振り虫よ」と歌っているところへ警棒を振り振りやって来たのが1人の巡査。当時の巡査には明治維新で食禄を離れた不平分子が多かったものだから、必要以上に官憲を振りかざして溜飲を下げているという困ったものが多かった。そこへ巡査の子がボーフラだという歌が耳に入ったから堪らない。「其方共が今歌っておったのは、われらを愚弄する失敬至極の歌じゃ。以後屹度慎め」と一席説諭を始めた。そこへ通りかかったのが上司の警部。「貴公は何を説諭しとらるるか?」と訊かれて、巡査が説明したところ、「何、そんなことは捨てておき給え。コレコレ職人共、歌が好きなら我等も一句教えてやろう」と歌い出したのが、「四等巡査と何とかやらは、朝から晩まで立ち通し」と笑いながら口ずさんで、先程の巡査を連れて行ってしまったという粋な話が、この日付の『朝野新聞』に載せられている。

8.14 秀吉の馬標千成瓢箪始め
 1567年(永禄10)。美濃の国稲葉城に斎藤龍興を攻めた、織田信長の先陣を承った木下藤吉郎、1千の手勢を弟の木下小一郎に預けて稲葉山の麓に待機させ、自らは蜂須賀小六以下数人の家来と共に裏山伝い、まんまと裏木戸から忍びこんで一の丸の真下に出た。そこで家来に背負わせて来た薪に松明の火を放つと、一の丸の建物からパッと火の手が上がる。その焔を背にして、小六が持参の酒を飲み干した赤瓢箪を竿の先につけて、カラカラと打ち振るのを合図に、待ち構えた小一郎1千の兵が一斉に城内へ攻め込んだ。かくて14日の夜もあけ離れた8月15日、さすがの斎藤龍興も城を明け渡して降伏することになるのだが、これが始まりで秀吉は、戦勝の度毎に1つずつ瓢箪を殖やして行ったのがお馴染みの千成瓢箪。

8.13 城ヶ島灯台点燈
 1870年(明治3)。神奈川県三浦市、いわゆる三浦三崎の突端に浮かぶ城ヶ島の西端、長津呂崎に建てられた燈台に、この日初めて火が灯った。高さ9メートル、15,000ワットの白い閃光が、15秒ごとに燦いて、15浬の沖を照らす四等燈台。さほど大規模なものではないが、「雨は真珠か夜明けの霧か」唄に名高い城ヶ島の夜景にひとしお詩情を添えることとなった。因みに、わが国洋式燈台の1番は、明治2年正月の観音崎、2番は同年12月の野島崎、3番は明治3年6月の樫野崎。城ヶ島燈台は4番目であった。

8.12 マーメイド号、単身太平洋横断
 1962年(昭和37)。大阪の冒険野郎堀江謙一が、挺身6メートル足らずの小型ヨットに乗って、5月12日、西宮のヨット・ハーバーを出帆、途中、5回も時化に遭いながら、見事太平洋を単独横断し、93日目のこの日、サンフランシスコ湾に到着した。そしてそれから27年後、1989年4月16日のサンフランシスコを出発、今度は挺身僅か2.8メートルの超小型ヨットを操って、136日と10時間、8月30日には見事西宮港に帰着、往復横断を完成した。

8.11 ハワイ移民元年者の通信第1号
 1868年(慶応4)。この年は9月8日改元して明治元年となるのだが、その4月25日に横浜を出帆してハワイへ渡航したいわゆる元年者の移民からこの日横浜に手紙が届いたことが27日付の『もしほ草』に見える。差出人は雇夫取締の牧野富三郎。出帆以来35日目、無事ホノルルに到着、マウイ、ハワイ、ラナイの島々に、30人、10人と分散して砂糖製造の仕事についたが、手当ても食事もよく、噂に聞いたよりよほど良い所だ、酔っ払いや乱暴者は1人もいない穏やかな土地柄で、以前からいた仙太郎という日本人が言葉の不自由な自分達の面倒を見てくれるし、気候は暖かくて西瓜やマンゴー、葡萄、桃などが絶えず実っていると、良い事ずくめの手紙ではあったが、やはりパイオニアとしての苦労は大変なものであったろう。

8.10 井原西鶴逝く
 1693年(元禄6)。談林派俳諧の急先鋒として、一昼夜に23,500句の大矢数を興行した早読みの俳句、『好色一代男』『好色五人女』『武家義理物語』『武道伝来記』『日本永代蔵』『世間胸算用』など、人の世の裏表を余すところなく抉り出した浮世草子の鋭い筆致、わが国の文学の歴史に大きな足跡を残した西鶴こと平山藤五は、人生50年というわけで「浮世の月見過ごしにけり末二年」の句を辞世に52歳の生涯を終えた。

8.9 明治新政府の断髪令
 1871年(明治4)。♪ザンギリ頭を叩いて見たら文明開化の音がする。「士農工商四民の斬髪勝手たるべき事」という太政官布告が出て、明治新政府が形の上からも文明開化に乗り出したのがこの日。何百年来のチョン髷をそう簡単には切り落とせないものと見えて、明治5年頃の男性風俗には、総髪で洋服に足駄、散髪に着物で靴履き、茶筅髪に両刀をたばさむなど、各人各様、さまざまであった。

8.8 金大中誘拐さる
 1973年(昭和48)。アメリカから帰国の途中、日本に立ち寄って、東京九段下のホテル・グランドパレスに宿泊していた韓国元大統領候補者(当時)金大中が、この日の午後1時半頃、5人組の韓国人に誘拐されたが、5日後の13日、ソウル市の自宅に無事戻された。現場に韓国大使館員金東雲の指紋が残されていたというのに、主権国日本の警察が手も出せぬままに政治決着したというまことに奇妙な事件。

8.7 江戸町火消の登場
 1720年(享保5)。江戸の消火組織には、幕府直属の定火消と諸大名が負担する大名火消とがあったが、江戸の華と言われるほどに火事の多い八百八町、とても防ぎ切れるものではないというので、例の目安箱から市民の声を取り上げた八代将軍吉宗の命により、従来有名無実であった町火消を拡張、「いろは」四十七組の組織が発足した。

8.6 広島に原子爆弾
 1945年(昭和20)。この日の午前8時15分、広島市上空で原子爆弾が炸裂した。この爆弾は、軍事的破壊力のみならず、戦争終結のための威嚇としての意味が大きかったのではあろうが、瞬時にして20余万人の人命を奪い、40余年を経た今も、引き続き命を失いつつある幾万の原爆症患者を残した。

8.5 郵便貯金始まる
 1874年(明治7)。当時の駅逓頭前島密は、民間の小さな資本を吸収して生産に振り向けるのが国策の急務と考え、併せて勤倹節約の美風を養うという建前の下に、イギリスの制度を手本として、カナダ、ベルギーに続く、世界で4番目の郵便貯金制度を8年5月から実施すべく「貯金預規則」を公布した。因みに明治8年末の預金者総数1843名、金額15,224円であった。

8.4 日英国交の始まり
 1613年(慶長18)。はるばる極東の日本を訪れたイギリスの通商使節ジョン・せーリス一行は、駿府城において大御所徳川家康に謁見し、国書を捧呈して、ここに日英の国交が開かれた。それより13年前、豊前の国に漂着したポルトガル商船のパイロットに、ウィリアム・アダムズなる英人がいた。これが家康の信任を蒙って、相州三浦に領地を賜り、三浦按針と名乗って数学、航海術、世界貿易の事情など、家康の顧問を勤めていたが、そのアダムズの報告書に基づいて、イギリス政府は対日貿易の道を開くべく、セーリス一行を乗せた商船クローブ号を肥前の平戸に送ったのである。アダムズの報告書には、「日本という国は、天産も豊かな、財産に富んだ東洋の文明国であるから、将来のためぜひ国交を開く必要がある。それにつけても日本は節義を重んずる国であるから、特に礼を厚くして来航せられたい」とあった。

8.3 佐倉宗吾処刑
 1645年(正保2)。下総の国公津村の名主木内惣五郎(佐倉宗吾)は、近郷百ヵ村の割元名主を勤める信望厚い人物であったが、寛永19年(1642)堀田正盛が佐倉藩13万石の領主としてお国入りして以来、幕府の方針に従った新税の取立てが厳しく、その上、正保元年の凶作も加わって農民は塗炭の苦しみ。私財を投げ出し、村民の滞納税を肩代わりして納めても追いつかず。近隣の村々の名主が揃って税金の軽減を領主に訴え出ても、帰って重い咎めを蒙るだけ。ひそかに意を決した宗吾は、正保2年3月4日、老中職にあった領主正盛を伴に、隅田湖畔に鷹狩を催した三代将軍家光に直訴を企てて捕らえられ、この日、18歳の息子宗平ともども打首の刑に処せられた。

8.2 俳人上島鬼貫(おにつら)没
 1738年(元文3).78歳。摂津の国伊丹に生れ、池田宗旦・西山宗因ら談林の影響を受けた鬼貫は、同時代の蕉門の俳人とは異り、磊落洒落な性格と相俟って、飄逸でズバリと来る独特の句風を築いた。「なんと今日の暑さはと石の塵を吹く」「そよりともせいで秋立つことかいの」。三伏・立秋の頃の暑さを見事に実感させる鬼貫の句は、『サラダ記念日』の大先輩か。

8.1 わが国最初の保険会社開業
 1879年(明治12)。渋沢栄一・蜂須賀茂韶・伊達宗城・岩崎弥太郎らの発起で創設された海上保険会社が、この日、東京の南茅場町で営業を開始した。資本金は60万円。因みに生命保険の最初は明治14年、火災保険は同21年である。

7.31 クラーク博士誕生
 1826年。アメリカの科学者ウィリアム・スミス・クラークが、マサチューセッツ州アッシュフィールドの貧しい医者の子として誕生。極めて厳格なピューリタンの家庭に育ったクラークは、アマスト大学を卒業した後、ドイツに留学、帰国後は母校の教授として学生の信望を集めていたが、南北戦争に際してはリンカーンの義勇軍に参加して砲煙の中に2ヵ年を過ごし、大佐にまで昇進する熱血漢でもあった。1876年(明治9)、北海道開拓使長官黒田清隆の招きを受けて、マサチューセッツ州立農学校校長の椅子を去り、札幌農学校の外人招聘教師として1ヵ年の契約で日本に赴任。黒田長官の反対にも、「私はキリスト教以外の道徳を知らぬ」と言い切って、熱烈な清教徒的信念に基づいて施したクラークの教育は見事に実を結び、内村鑑三・新渡戸稲造ら、明治思想界の中核となる逸材を育て上げた。翌年4月16日、母国に帰るクラークが、別れを惜しむ教職員・学生に向かって馬上から叫んだ言葉、それこそは今も日本人すべての心に残る、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」(青年よ大志を抱け)の至言であった。

7.30 幸田露伴没
 1947年(昭和22)。明治最大の文豪幸田露伴が81歳で逝去した。尾崎紅葉と並べて紅露時代、樋口一葉と並べて一葉露伴時代と呼ばれた程に、それぞれに時代を劃する程の作品を物した、すこぶる学殖豊かでスケールの大きい作家であるが、その深遠な内容が、とても近頃の研究者の手には負えないので、すっかり漱石・?外の蔭に隠れてしまった。兄は千島探検で有名な郡司大尉、弟成友は歴史学者、妹2人は草創期の音楽家と、世にも稀な秀才一族。

7.29 パリ凱旋門竣工
 1836年。赤毛布の皆さんお馴染みの凱旋門が、パリのエトワール広場に竣工、世界最大の雄姿を現した。12の道路が放射状に広がる広場の中央に、シャンゼリゼ大通に正対して、地上45メートル。四面に雄渾な彫刻を施した凱旋門は、ナポレオン一世が帝位について間もなく、1806年に起工したが、1814年、パリが陥落してナポレオンがエルバ島に流された時に中断、1825年、ブルボン家のシャルル十世の手によって再開され、そしてこの日、オルレアン王ルイ・フィリップの手によって完成されたという皮肉な由緒を持っている。

7.28 レクラム誕生
 1807年。ドイツの出版業者アントン・フィリップ・レクラム誕生。1867年、古典文学書の版権が自由になると、ゲーテの『ファウスト』を第1号として、星1つ40ペニヒ、その頃の為替相場で20銭という廉価版の小型書籍を刊行し、世界の文学書を網羅して、大いに読者の人気を博した。今日、我が国に氾濫している文庫本は、そもそもこのレクラム文庫に倣ったもの。

7.27 鉄砲伝来異説
 1541年(天文10)。通説にはこれより2年後の8月25日、種子ヶ島に漂着したポルトガル人が、島主種子島時尭に鉄砲2挺を2千両で売り、射撃法や弾薬の製法を教えたのが初めで、鉄砲の事を種子ヶ島と呼ぶようになったと伝えているが、新井白石の『采覧異言』には、それより2年早く、豊後の神宮寺浦に漂着したポルトガル人が、国主大友宗麟に鉄砲を贈ったことが記されている。

7.26 ポツダム宣言
 1945年。望みなき15年戦争末期、日本の運命を決定するポツダム宣言が、ハリー・トルーマン、ウィンストン・チャーチル、蒋介石、米英華三国首脳の名において発表された。ポツダムはベルリンの西南、ハーフェル川に沿う風光美しい古都。プロシア時代のフレデリック大王が愛したサン・スーシ宮殿がある。

7.25 山形で最高気温の記録出る
 1933年(昭和8)。この日、山形県において、寒暖計の水銀は、摂氏40度8分を示した。これが我が国における最高気温の記録である。山形盆地特有のフェーン現象が招いたとは言いながら、さすが大暑。

7.24 大デュマ誕生
 1803年。フランスの文豪アレクサンドル・デュマ・ペールが北仏ヴィエール・コトレに生まれた。父は剛勇名高い将軍。黒岩涙香訳の『巌窟王』でわが国にもお馴染みの『モンテ・クリスト伯』を始め、『三銃士』『ブラジュロンヌ子爵』など、波瀾万丈のロマンスに飛んだ大衆小説で親しまれ、著書300種に及ぶ。『椿姫』『私生児』『女友達』等メロドラマティックな近代小説の作家デュマは、大デュマの私生児として1824年7月28日に生まれている。

7.23 和学講談所着工
 1793年(寛政5)。江戸麹町裏六番町に和学講談所設立の工事が始まった。設立者は盲目の大学者塙保己一。幕府の援助が得られたとは言え、全盲の実で刻苦勉励を続け、「番町で眼明き眼暗に道を聞き」の川柳どおり、多数の門人に講義を続ける傍ら、『群書類従』『続群書類従』『武家名目抄』『塙史料』ほか多数の編纂著述を残した。

7.22 メンデル誕生
 1822年。オーストリアの植物学者ヨハン・メンデルがシレジアに誕生。もともとは僧職を志して正司祭になったが、29歳の年にウィーン大学に入学して植物学を修め(1854年に卒業)、46歳にしてブリューンの僧院長になってからも研究を継続した。有名な遺伝の法則は、僧院の庭に栽培した豌豆を、225回も人工交配し、12,980の雑種を作り出した実験の結果である。1865年に自然科学協会に提出した「植物雑種の実験」という歴史的な論文は、遺伝学の権威ダーウィンすらが目に留めず、植物生理学の大家ネーゲリもみとめず、メンデルの死後16年を経た1900年、オランダのド・フリースやドイツのコレンス、オーストリアのチェルマーク等の研究が、偶然にもメンデルと同じ結果を生み出すに到って、初めてその正当性が証明された。学問、殊に基礎的研究とは常にかくの如きか。

7.21 通学定期第1号
 1896年(明治29)。この日付の『時事新報は』、山陽鉄道会社(JR山陽本線の前身)が、我が国最初の通学定期券を発行した事を報道している。この私鉄は他に率先して、食堂車や寝台車を連結するなど進歩的な経営方針をとっていたが、更に、沿線の学校に通う児童のために、下等に限って月極めの定期切符を発行した。その運賃算出の方法は、通常の往復賃銭の半額を25倍し、更にこれを半額にしたものであったという。

7.20 アポロ11号、初の人間月面着陸
 1969年。この月の16日に打ち上げられたアメリカの有人飛行船アポロ11号は、この日の午後4時17分42秒(米東部夏時間)、月の「静かの海」に着陸し、アームストロング船長とオルドリン飛行士の2人が、人類最初の足跡を月面に印し、24日無事帰来した。

7.19 中納言在原行平没
 893年(寛平5)。平城天皇の皇子阿保親王の第3子。美男で名高い業平の兄。「わくらわに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつ侘ぶと答へよ」。若い頃ある事件に連坐して、須磨の浦に流謫の日々を送っていた頃に読んだ歌がこれ。謡曲『松風』のテーマとなったようなロマンスが、その侘び住居の中でも生れたが、紫式部は、そのモデルとして、『源氏物語』須磨・明石の巻を描いた。「どらな子を阿保親王は二人持ち」と古川柳にひやかされているが、行平・業平兄弟は、そんなものではない。業平は、摂関藤原氏の独裁体制に果敢に挑戦したし、行平は、太宰府の長官として壱岐・対馬の食糧問題や租税問題を解決したり、在原氏の私学としての奨学院を設立するなど、立派な業績を残している。

7.18 純金の名刺で贈賄
 1897年(明治30)。この日付の『郵便報知新聞』は、「台湾住民にして我が国籍に入りたる者も、清国政府に対すると同一の感情を抱き、何事にも贈賄の手段を用ゐ居る由なるが、直接貨幣の贈与することを憚る場合には、種々の物品を贈り、または純金にて製市たる名刺を通じ、暗に賄賂の意を示し、面談を求むることも少なからずと云う」という記事を載せている。その前々年、台湾に総督府を置いて民生を施行して以来、中国人の賄賂常習には驚いたらしいが、爾来100年近く、日本の政官界も立派な賄賂天国…いや、これは失礼。政治献金大国に成長した。

7.17 江戸を東京と改称
 1868年(慶応4)。明治天皇の詔勅によって、江戸を東京(とうけい)と改称する旨、太政官から布告があった。その年の3月15日、官軍が江戸に進駐して以後10月13日の行幸に先立って、江戸市民の人心を安定するために、西の京都と対等の東京(とうけい)という名が付けられたのである。

7.16 ミス・ユニヴァースと八頭身
 1953年(昭和28)。アメリカはカリフォルニアのロングビーチで開催されたミス・ユニヴァース・コンテストにおいて、日本から初めて参加した伊藤絹子が見事3位に入賞。これから六頭身の日本人の間で八頭身が流行語となった。

7.15 磐梯山大爆発
 1888年(明治21)。この日の午前7時、雷の轟くような鳴動が始まって45分後、猛烈な爆風が起こり、山上半分を吹き飛ばして、後に東西1200メートル、南北1500メートルの大きな火口を残した。その爆発物によって麓の長瀬川は上下8キロに渡って埋没し、今の檜原湖・小野川湖・秋元湖などを作った。被害は死者461名・負傷57名、家屋の倒壊45戸・埋没48戸、牛馬の斃死57頭、被災地域は、五ヶ村、462戸、被災者2891名に及び、8263町歩の田畑が損害を受けた。

7.14 パリ祭
 1789年。この日、パリの市民がバスティーユの監獄を襲撃占領して、多数の政治犯を解放した。これがフランス革命の始まりで、その記念日を日本ではパリ祭と呼ぶ。当時のフランスは、ブルボン王朝歴代の専制政治に財政は逼迫し、自由民権の思想が澎湃として沸き立っていた。その難局に立ったルイ16世は、チュルゴーやネッグルら学識経験者を用いて進歩的な政策を執り、1614年以来開かれなかった三部会を召集して世論を取り上げようとしたり、また、一院組織を主張して、貴族・僧侶らの支配階級と対立し、新たに国民会議を開いて平民階級の主張を認め、貴族・僧侶を説得して国民会議に参加させるなどの誠意を示したが、オーストリアの皇室から嫁いで、華やかなりし王朝の夢を捨て切れぬ王妃マリー・アントワネットは、王に奨めて兵力をもって議会を圧迫する暴挙に出た。これが一般市民や農民の反感を買い、革命党首デムーランらの先導によってその不満は爆発暴動化し、この月の12日から、パリの街には官民相搏つ市街戦が起きたのである。バスティーユ監獄染料の報が伝わると、忽ち各地で農民は蜂起し、遂には国王を退けて共和制がしかれることとなった。

7.13 江戸の札差組合発足
 1724年(享保9)千石以下の旗本や御家人の禄米を担保として現金を融通する金貸業を札差というのは、担保に取った米俵に手形札を差して、担保物件の証としたところから出ている。米百表(40石)当り金3分、つまり年利10%乃至20%を取っていたわけだが、違法な高利を貪る者もあった。そこで江戸南町奉行大岡忠相が、当時、札差株を所有する109名に免許を与えて、蔵前で札差組合を作らせ、管理を厳しくした。蔵前とは幕府の禄米蔵の前の意。(21日節あり)

7.12 子午線制定を公布
 1886年(明治19)。この日、万国子午線会議の結果、イギリスのグリニッジ天文台の子午儀の中心を通る子午線をもって、地球経度の本初子午線とし、これに伴って我が国では、明治21年1月1日を期して、東経135度の時を日本の標準時とする旨が勅令51号をもって公布された。兵庫県明石市相生町の人丸山の上に立っている子午線標識は、昭和3年、昭和天皇御即位を記念して建造されたものである。

7.11 国旗制定の幕府令
 1854年(嘉永7)。幕府の老中阿部正弘が、「大船建造に就いては異国船に紛れざるやう日本総船印は白地日の丸用い候様仰せ出され候」という幕府令を出した。それより先、薩摩藩主島津斉彬が、昌平丸・大立丸2隻の軍艦を建造して幕府に贈った時、外国船と区別するため、国旗掲揚の必要を建言して、日の丸の旗を奨めた建議が入れられた結果、ここに国旗制定の端緒が開かれた。(9日説あり)

7.10 最初のナイター野球戦
 1933年(昭和8)。早大戸塚球場で、山本忠興博士による照明設備を使用したのが始め。プロ野球では、1948年(昭和23)8月17日、横浜ゲーリッグ球場での中日−巨人戦が最初。

7.9 江戸でわが国最晩雪の記録
 1615年(慶長20)。この年陰暦6月1日に、江戸一帯で時ならぬ夏の雪が降った。驚いた江戸市民は、本郷に富士神社を建てて富士山の神を祀り、毎年6月1日を例祭としたが、太陽暦に換算すると7月9日。『理科年表』に見える統計開始以後の東京の最晩雪は、1969年の4月17日、日本の最晩雪は、1941年の根室で6月8日とある。

7.8 「カチューシャ可愛や」
 1913年(大正2)。東京は牛込江戸川端の清風亭において、島村抱月・松井須磨子らの芸術座結成第1回の会合が開かれた。坪内逍遥主宰の文芸協会がその年2月に解散して3つに分裂したが、芸術座にはその他、中村吉蔵・秋田雨雀・水谷竹紫・相馬御風・沢田正二郎らも加盟し、その年の9月、有楽座に第1回公園の旗を挙げた。しかし、翌年3月の帝劇公演を前に早くも破綻して、早稲田派の文士組も文芸協会以来の俳優達も次々に脱退したにも拘らず、須磨子1人を看板にした『復活』の公演は大当たり、「カチューシャ可愛や」の歌は巷に流れ、わが国新劇運動の大衆化に大きな効果を挙げた。

7.7 相撲の起源
 伝説によれば、紀元前23年(垂仁7)のこの日、当麻蹶速と野見宿禰が天皇の御前で対戦した。大和の国当麻の里に住む蹶速は、両手で牛の首をへし折り、太い鉄の鉤をも引き伸ばすという天下無双の力持ちであった。しかし、出雲の国から召し出された野見宿禰は、蹶速の上を行く早業で相手を蹴り倒し、見事勝利をおさめたという。これが、天覧相撲最古の記録であるが、宮中における相撲節会最古の記録としては、七夕最古の記録とともに、『続日本紀』の聖武天皇天平6年(734)7月7日に、「天皇相撲戯ヲ観ル」と見えている。ところで、相撲節会は十二番勝負総当りで、左右の相撲人が登場して互いに見合うと、左右それぞれに「立会」というスターターが付いていて、「ハッ競へやッ」(これが「ハッケヨイヤ」の語源)と掛け声もろとも両者を取り組ませる。相撲人自身が互いに呼吸を計って立ち上がるのではない。これは100メートル競争などで、「用意、ドン」と号砲一発スタートするのと同じであった。今日の大相撲でも、行事が軍配を反して両者の間に差し出し、サッと引き上げると同時に「ハッケヨイヤ」と声をかける、この合図で立てなかった者は負けとでもしなければ、立会いはキレイにならない。

7.6 記録上最古の富士山噴火
 781年(天応1)。『続日本紀』に「駿河ノ国言ス。富士山ノ下灰フレリ。灰ノ及ブトコロ木ノ葉シヲル」とある。富士山噴火最古の記録。

7.5 コクトー誕生
 1889年。第1次大戦前後には、ピカソや6人組作曲家たちと前衛芸術運動を起こし、戦後は心理小説『恐るべき子供たち』や、映画シナリオを手がけて、『美女と野獣』『オルフェ』等に革新的な詩才を発揮したジャン・コクトーが、メゾン・ラフィットに生まれた。

7.4 インデペンデンス・デイ
 1776年。それより前、1584年のこの日、イギリスの探検家ウォルター・ローリーが、北米の開拓を目指してヴァージニア州に上陸第一歩を印した。ヴァージニア州の名は、ヴァージン女王エリザベスのあやかったものとも、処女地ヴァージン・ソイルの意からともいう。かくしてイギリスの植民地として北米が開拓されたが、それから192年後、1776年の同じ日、北米の植民地13州が、本国イギリスとの絆を断って自由と独立を宣言した。これがアメリカ合衆国独立記念日である。独立戦争は1773年、ボストン港における貨物船襲撃に端を発し、1775年、マサチュウーセッツの市民軍とイギリス軍との間に戦端が開かれた。その5月、フィラデルフィアに第2回大陸会議を開いた植民地諸州は、ジョージ・ワシントンを総司令として宣戦を布告、翌年のこの日、トーマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムス等の手によって独立宣言書を発表、フィラデルフィア独立会堂の自由の鐘が高らかに鳴り響いて、アメリカ合衆国の誕生を告げ知らせたのである。

7.3 シャヴィエル来日
 1549年(天文18)。スペインの貴族で、えすたい教会の宣教師として東洋に派遣されていたフランシスコ・ド・シャヴィエルが、日本人アンジローの案内でインドのゴアから鹿児島に到着。薩摩の領主島津貴久がこれを招いてヤソ教の教義を聞き、領内の布教を許したのを始め、平戸・博多・山口・堺・京都と国内を巡り、大内義孝・大友義鎮・有馬晴信・大村純忠等の領主も熱心な信者となり、近畿以西に伝道して、日本滞在3年の間に数千の信者が生まれた。ひとえにシャヴィエルの高潔な人格による感化であった。

7.2 金閣寺放火
 1950年(昭和25年)。足利幕府の三代将軍義満が京都の北山に営んだ別荘は、義満の遺言によって、禅宗の寺院となり、鹿苑寺と呼ばれているが、その中の三層楼閣に金箔を張り詰めた金閣だけが創建当時の姿を残していた。ところがこの日の午前2時、学生僧の心無い放火によって炎上、火災報知器の故障もあって1時間後には全焼してしまった。現在あるものは、5年後に復元再建されたものである。

7.1 東海道線全線開通
 1889年(明治22)。琵琶湖畔を走る湖東鉄道が完成して、新橋神戸間の東海道全線が開通した。直通は夜間急行の1列車だけで、午後4時45分新橋発の下り四番列車が神戸に到着するのは、翌日正午12時50分で所要20時間5分、上りは午後5時30分神戸発、翌日午後1時40分新橋着の所要20時間10分であった。

6.30 ソバは真宗に限る
 1895年(明治28)。新橋駅から京都行きの列車に乗り込んだ侯爵黒田清隆・法学博士菊地大麓・愛知県知事小牧昌業の3人、横浜で乗り合わせた3人の外国婦人がなかなかの日本通で、日本語も達者。話が食べ物のことに移って、蕎麦は信州に限ると傍の紳士が話したところ、その外国婦人たち、不思議そうに、「ソバがどうして宗教に関係があるのですか?」。実は、信州と真宗の間違いというのが、この日付の『報知新聞』の記事。

6.29 招魂社最初の祭典
 1869年(明治2)。明治維新に際して、幕府の封建政治を倒し、日本を開国の黎明に導くために命を捧げた人々の魂を慰める魂祭りが、明治元年6月に江戸城内の大広間で行われたのが始まり。翌2年、招魂社の仮神殿が九段坂上に造営されて、この日、最初の招魂祭が執行された。九段坂上のとっかかりにあった招魂社がだんだんと立派な社殿を造営し、その名も靖国神社と改めたのは、明治12年6月4日。

6.28 第1次世界大戦の勃発と終結
 1914年〜1919年。バルカンの一角、サライェボの町で、オーストリア国籍のセルビアの青年ガブリロ・プリンチプが放った一発の兇弾が、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントの命を奪ったことから、世界中を戦乱の渦に巻きこんだ第1次大戦が始まった。それからまる5年後の同じ日、ヴェルサイユ講和条約が締結されて大戦は幕を閉じた。

6.27 「夕立や田を三囲の神ならば」
 1693年(元禄6)。この日、門人数名とともに隅田川を渡って三囲稲荷に参詣した俳人宝囲其角、長い旱天続きで近郷の農夫多数が雨乞の祈祷をしている所へ出くわした。坊主頭の其角を見るなり、「よいところへ和尚さんが来てくれた」とばかりに祈祷を頼まれたが、「私は僧侶ではない、俳諧師だ」と辞退する其角に、「それならその俳諧でもいいから1つ頼む」とせがまれて詠み上げたのがこの1句。たちまち慈雨沛然として到り、農民は大喜び。

6.26 パール・バック誕生
 1892年。アメリカの女流小説家。中国の民衆を主題にした不朽の名作『大地』は、『息子たち』『分裂せる家』との3部作。本名パール・サイデンストリッカーが、ウエスト・ヴァージニア州のヒルズボロに呱々の声をあげた。

6.25 南北朝鮮戦争始まる
 1950年。午前4時、北朝鮮軍は38度線を越えて、韓国の春川・甕津・開城及び東部海岸地区に進出して韓国軍と戦闘を開始。その朝の平壌放送が、韓国に対して正式に宣戦を布告したと報道。

6.24 加藤清正誕生、そして没
 1562年(永禄5)〜1611年(慶長16)。虎退治や地震加藤の逸話ばかりでなく、治水工事や道路改修、朝鮮・明国など大陸文化の輸入にも尽力して、所謂、血も涙もある武将として親しまれる加藤清正。生没が同じ6月24日。

6.23 仕立屋銀次検挙
 1909年(明治42)。日本一のスリの大親分としてその名も高い仕立て屋銀次こと富田銀二郎は、その2日前、新潟県知事柏田盛文が伊藤博文から送られた記念の銀時計を電車の中で掏り取ったことから足がつき、日暮里の妾宅から赤坂署の連行された。当時44歳。五分刈頭に八字髭を生やし、本フランネルの単にセル単羽織、鼠縮緬の兵児帯を無造作に巻いて、紺足袋に桐の下駄、山高帽子にプラチナの指輪、甲斐絹細巻の蝙蝠傘を腕に、如何にも紳士然とした扮装で、乾分8人を従えて悠々と出頭したという。

6.22 フランクリン、空中電気の実験
 1752年。当時47歳にしてペンシルヴェニア州会議員であったベンジャミン・フランクリンが、雷雨の中で凧を揚げ、空中電気の存在を確認したのがこの日。そして間もなく避雷針を発明した。アメリカ合衆国独立運動の指導者として、独立宣言起草委員の一人となるのは、これから24年後。

6.21 正倉院御物献納
 756年(天平勝宝8)。聖武天皇崩御の49日忌に当るこの日、光明皇后は、天皇遺愛の品々を東大寺の正倉院に納めて永久保存とされた。以来、同年7月26日、天平宝字2年6月1日と、前後3回にわたり、先帝の冥福を祈って盧遮那仏に献納され、校倉造りの倉庫に、歴代天皇の勅封をもって、1200余年、無事に保存された宝物の数々。シルクロード・中国を経ての西域文化伝来の歴史を、永遠に、かつ眼も絢に私達に解き明かしてくれている。

6.20 本邦現存最古の洋式時計
 1612年(慶長17)。スペイン領ノヴィスパニア、すなわち今のメキシコから徳川家康に贈って来た品々の中に、一個の時計がまじっていた。今も久能山東照宮の宝物として保存されているその時計には、1581年、スペインのマドリッドで製造されたという刻印が見える。

6.19 わが国最初の元号
 645年(大化1)。元号制定の可否は、従来もしばしば議論されるところであるが、中大兄皇子が専横な蘇我一族を滅して国家の主権を確立した政治改新の意気込みを示すべく、中国の制度に習って初めて制定したのが「大化」の元号。明治以降、天皇一代一号の制度となって、いっそう国家主義の色彩が強くなったが、もとは、社会的に大きな吉凶の事件があれば改元されたもので、今の「平成」まで、247号を数える。但し、本家の中国では、1911年の辛亥革命で清朝が倒れて後、元号は廃止された。

6.18 イギリス開化数え唄
 1874年(明治7)。この日付の『新聞雑誌』は、ある人がイギリス留学から帰朝の途中、太平洋の船上で作った数え唄を紹介している。「一つとや、人の知れかしロンドンは、往還左右はペーブメント、ペーブメント」「四つとや、よくも出来たる土地の中、蒸気ぐるまのオンドルグロートン、オンドルグロートン」。オンドルグロートンとは、アンダーグラウンド、地下鉄の事。

6.17 グノー誕生
 1818年。歌劇『ファウスト』や『ロミオとジュリエット』、合唱曲の『アヴェ・マリア』で知られたフランスの作曲家シャルル・グノーがパリで生まれた。

6.16 洋裁業の草分け大谷金次郎没
 1888年(明治21)。文久3年、在留外人から洋裁を習い、明治元年には横浜で洋裁店を開業、同3年には、海軍の練習艦龍驤の乗組員の制服を調製、翌年、東京芝口2丁目に店を移した金次郎。13年9月、パリに留学して、ガルリー・ド・パリの支配人エス・ブーシェに師事したが、ブーシェはその試作品を見て、特に研究の要なしといい、「日本裁縫師にしてかつて欧州に航せず只自国に在りてその術を学びたる者の、斯く巧手熟達ならんとは拙者始め一同驚嘆せざることなきを証す。幣舗の第一等裁縫職工も同氏の欧州裁縫師に其技を譲らざるを見て頗る賞賛せり、依之余は同氏の裁縫巧手なることを保障すること如斯」という証書を与えた。同年11月帰朝の後は、17年12月から、明治天皇のお召し服の調進を仰せつけられ、西洋裁縫業組合を組織するやら、小学生の制服を始め、制服改良に尽力する中、この日、41歳の働き盛りで急逝した。

6.15 銅鏡15万枚を売り払ったお寺
 1873年(明治6)。この日付の『郵便報知新聞』によると、俗にいうブッポーソーのコノハズクで有名な三河の名刹鳳来時では、15万枚7200貫に上る大量の銅鏡を4,795円で売り払って、工場や学校の建設費に寄付しようと、愛知県庁へ願い出たところ、「無用を以って有用に充て、就中、三州の地は、仏に佞するの風習なるに、却て時世を察し、陋習を脱却するは奇特の事なり」として、大蔵省にお伺いを立てた上、願意が聞き届けられたとある。これも明治初頭廃仏毀釈の行き過ぎで、古美術の消滅や海外流出に拍車をかけた愚かな行為。

6.14 ストウ夫人誕生
 1811年。『アンクル・トムの小屋』唯一つの作品で不朽の名を残したストウ夫人こと、ハリエット・エリザベス・ビーチャーが、コネティカット州リッチフィールドの牧師館で呱々の声をあげた。

6.13 山崎合戦
 1582年(天正10)。本能寺の変に主君織田信長死すとの報を受けた羽柴秀吉、直ちに毛利方と和議を結んで都に馳せ戻ると、天王山を挟んで明智光秀の軍勢と決戦を挑み、3日天下の光秀を討ち取って見事弔い合戦を果たした。この時、淀川の対岸洞ヶ峠に2万の軍勢を率いて形勢を観望し、光秀の期待を裏切った大和郡山の城主筒井順慶の行動から、優柔不断な日和見を「洞ヶ峠をきめこむ」という諺が生じた。

6.12 わが国最初のバザー
 1884年(明治17)。場所は東京日比谷の鹿鳴館、会期はこの日から3日間。3千点ばかりの手芸品を持ち寄って、上流ハイカラ貴婦人連総出のサービス。新聞広告までしての尖端的な試みは、入場者1万2千余人、売上8千余円の大成功。

6.11 ニコヨン
 1949年(昭和24)。東京都は失業対策事業による日雇い労務者が職業安定所からもらう日当を、245円と決定した。以後、物価にスライドして賃金は上がったが、ニコヨンの名だけは定着した。

6.10 緒方洪庵没
 1863年(文久3)。備中足守の藩士佐伯瀬左衛門惟因の末子として生まれた洪庵は、少年の頃から医学に志し、大坂に江戸に、また、長崎にと、師を求めて深くオランダ医学を修めた後、29歳、大坂で開業した時には、すでに名声天下に遍く、診療を乞う患者は門前市をなした。一方、洪庵が開いた敵塾に学ぶ門人は、通計1千人の多きに及び、医学のみならず、福沢諭吉や佐野常民のような優れた経世済民の人材が輩出した。54歳。

6.9 有馬武郎情死
 1923年(大正12)。有島生馬・里見クの長兄であり、長編『或る女』で文壇の花形となった白樺派の作家有島武郎が、現実と理想の矛盾に悩み、その逃げ道を、人妻波多野秋子との情死に求め、46歳の若い命を、軽井沢に絶った。

6.8 天下の糸平死す
 1884年(明治17)。51歳1859年(安政6)の横浜が開港して以来、茶や生糸の輸出の中心となって活躍し、水道会社や瓦斯会社・生糸検査所・株式取引所・銀行などを創立して、明治初年の財界に糸平の名を轟かせた田中平八。その月14日に営まれた葬儀には、会葬者1万を超え、東京蛎殻町の米相場も立会を休んだ。

6.7 岸田吟香没
 1905年(明治38)。ドクトル・ヘボンを手伝っての和英辞典の編纂、アメリカ人ウェンリードと協力しての新聞『もしほ草』の発刊。慶応3年、汽船を買い入れて始めた江戸・横浜間の運漕業が、わが国最初の汽船会社であり合資会社。それに大都会での氷の需要を見越しての横浜氷室商会に、石油採掘事業。こまかい所では眼薬精リ水の販売から、上海で開業した薬局楽善堂、台湾出兵に際しての従軍記事にスケッチと、事の損得は別として、岸田吟香ほど、目先の利く進歩的な人物はいなかった。73歳。

6.6 トーマス・マン誕生
 1875年。ゲーテ以降のドイツにおける最も偉大な作家といわれるトーマス・マンが、リューベックの豪商の次男として生まれた。1千nの長編『ブッデンブローク家の人々』に始まって、『ヴェニスに死す』『魔の山』等の傑作を次々に発表したが、ユダヤ系のマンは、ナチスの支配するドイツを逃れてアメリカに渡り、第二次大戦中は、民族・宗教・政治の相違を超えたヒューマニズムに基づく世界的な連帯、平和十字運動に携わった。

6.5 世界最初の軽気球実験
 1783年。南フランスはアノネの町で製紙業を営むジョセフとジャックのモンゴルフィエ兄弟、「煙は必ず上へ上へと昇るもの、この煙を紙袋に詰めて放したら、袋ごと空へ昇るかも知れない」という炉ばたでの雑談が事の起こり。紙で内張りした亜麻製、重さ300ポンドの大きな風船に、どんどん薪を燻して煙を詰め、口元を固く縛って離したところ、気球はぐんぐん上昇して、およそ6000フィートもあろうという上空を1マイル半も離れた隣村まで飛んでいった。これが熱気球の始まり。

6.4 わが国最初の水力発電所
 1892年(明治25)。京都府知事北垣国道の肝煎で、明治14年以来、120万円の予算をかけて進めてきた建設工事が完成した。琵琶湖からの疎水運河に、京都市蹴上で30数メートルの落差がある。これを利用した小規模なもの。最初の起電力わずか120馬力が2基であった。

6.3 ペリー来航
 1853年(嘉永6)。アメリカの提督マッシュー・カルブレース・ペリーが、東インド艦隊司令長官として、サクスェハナ号、ミシシッピー号、プリマス号、サラトガ号4隻の軍艦を率い、開港を求めて浦賀に来航した。海難の救護や燃料・食料の補給、貯炭所の設置に、積荷の売り捌きを求める穏やかな交渉であったが、三代将軍家光以来の鎖国政策を取る幕府には大きな衝撃。「太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たつた四はいで夜も眠れず」の大騒ぎ。

6.2 本能寺の変
 1582年(天正10)。毛利勢を相手の中国征伐に、備中高松城を水攻めにしながら苦戦を続ける秀吉を援けるべく、主君織田信長の命を受けて前日亀山城を出発した明智光秀は、直ちに播磨へは向かわず、老ノ坂を越えて京都の町に入ると、不審に思う部下に下知した。「兵糧を使い、物具を固めよ。わが敵は中国になし。京都四条の本能寺にあり。急ぎ攻め討て」。この謀反に天下統一の志も空しく織田信長は、49歳を一期に自刃して果てた。「敵本主義」という言葉の起こりが、ここにある。

6.1 日比谷公園開園
 1903年(明治36年)。明治10年までは日比谷ヶ原と呼んで、近衛師団の練兵場であったが、明治26年から洋式公園としての工事にかかり、この日、開園式を挙行した。後に東京市町となった後藤新平が、親友の初代安田善次郎に100万円の資金を寄付させ、付設したのが東京市政会館と公会堂。

5.31 ホイットマン誕生
 1819年。19世紀アメリカを代表する詩人、詩集『草の葉』で知られたウォルト・ホイットマンが、ニューヨーク州ロングアイランドの貧しい農家に生まれた。

5.30 ピョートル大帝誕生
 1672年。ただしこれはロシア暦で、陽暦では6月9日に当る。当時は後進国としてヨーロッパ諸国から悔られがちであったロシアに、率先垂範して近代文明を取り入れ、ロシアの地位を列強の間に高めたロマノフ朝の皇帝ピョートル一世が生れた。

5.29 与謝野晶子逝く
 1942年(昭和17)。奔放な情熱歌人として知られた晶子ではあったが、家にあっては数多くの子女を育てた良妻賢母、さらに『源氏物語』『栄花物語』の解釈のみならず、与謝野鉄幹・正宗敦夫等と共に編纂した『日本古典全集』の校訂事業など、日本女性文化史上、最大ともいうべき業績を残して、65歳でこの世を去った。しかし、彼女に関して最も記憶さるべきは、明治37年、日露戦争に従軍する弟に贈った「君死に給ふこと勿れ」の長篇詩。この反戦的な詩は、当然大きな社会的反響を呼びはしたが、そのために晶子がお上からお咎めを受けた事実は全くないということ。これが近い頃の15年戦争中であったらと思うと、やはり明治は佳き時代であった。

5.28 両国川開きの始め
 1733年(享保18)。「玉屋ァ」「鍵屋ァ」掛け声も勇ましい花火に江戸の夏を彩った両国川開き。最初はこの日と『東都歳時記』『年中事物考』に。

5.27 天気晴朗なれども波高し
 1905年(明治38)。「敵艦見ゆ」との糸満漁師決死の報告もあり、27・8の両日の日本海海戦に、ロシアのバルチック艦隊は全滅。提督ロジェストヴェンスキー以下全員が降伏した。

5.26 木戸孝允没
 1877年(明治10)。本名は和田小五郎。養子先の姓の桂小五郎で知られた勤皇の志士。芸妓幾松とのロマンスが馴染み深い。土佐の坂本竜馬の斡旋を得て、西郷吉之助と手を握ったことが天下の形成を一転させる軸となったが、維新の後は隆盛の征韓論と衝突し、明治7年の台湾征討にも反対して政府を去ったハト派。明治10年2月、行幸の供をして京都に滞在中、西南戦争が勃発し、京都に留まって日夜対策に苦心する中、病のために45歳の命を落とした。

5.25 これは大ミス、無知無能の露国皇帝
 1899年(明治32)。この日付の『東京日日新聞』の報道によれば、その前日に発行された『読売新聞』の社説に、なんと「無知無能と称せらるゝ露国皇帝」とあったという。実はこれがミスプリントで、本来ならば「全知全能と称せらるゝ露国皇帝」とあるべきところ。早速誤植訂正の号外を出し、ロシア公使に陳謝したが、日清戦役の後、満州方面で両国の利害が直接衝突し始めていたデリケートな時期だけに、社説の記者は冷汗三斗。

5.24 平塚雷鳥逝く
 1971年(昭和46)。婦人解放運動家、85歳。1911年(明治44)、安持研子・中野初子・木内錠子・物集和子と5人で、近代文学のグループ青鞜社を作った。機関紙『青鞜』創刊号の巻頭言「元始、女性は太陽であった」の言葉は有名。昭和21年4月10日の総選挙に39人の婦人議員が誕生した時、「見よ、その日は来た。…今こそ大きな太陽が昇るのだ」と、喜びに咽びながら語ったのもさこそと思われる。

5.23 コペルニクス、地動説を発表
 1543年。すでに13年前、この学説に到達しながら、キリスト教義の天動説を憚って、深く筐底に秘めていたコペルニクス、いよいよ70歳となって余命いくばくも無いと悟った時、初めてそれを印刷に付した。『天体の回転について』の第一冊が刷り上ったこの日、彼はすでに臨終の床にあり、その翌日、遂に息を引き取った。

5.22 野口英世没
 1928年(昭和3)。かつての日本が誇りとした病理学者野口英世が、当時の顕微鏡では絶対に見えることのない黄熱病病原ウィルスを逐って感染し、アフリカ黄金海岸のアクラで、53歳の生涯を閉じた。ニューヨークのウッドローンと終焉の地アクラに立つ記念碑には、「その努力は科学に捧げつくされた。人類の為に生きた彼は人類の為に死んだ」とある。

5.21 大山信子死す
 1896年(明治29)。陸軍大臣公爵大山巌と、わが国最初の女子留学生であった山川捨松との間に生まれ、才色兼備、淑徳の誉れ高い社交界の花形と持てはやされた令嬢信子。花も恥らう16歳の若さで子爵三島弥太郎と人も羨む新婚家庭を営んだが、間もなく不治の病の床に就き、心ならずも実家、青山北町の大山別邸で療養に努めたものの、薬石効なく20歳の春に背いてこの世を去った。徳富蘆花の名作『不如帰』のヒロイン川島浪子のモデルがその人。

5.20 バルザック誕生
 1799年。近代リアリズムの始祖と呼ばれるフランスの小説家オノレ・ド・バルザックが、裕福な官吏を父としてトゥールに呱々の声をあげた。

5.19 じゃがたら文
 1636年(寛永13)。三代将軍家光が、厳重な異国渡海の禁止令を布告、217年間の鎖国がここに始まった。以来、日本人の帰国も認めず、帰ってくれば死刑という厳しさ。帰国の途を閉ざされた彼らが、オランダ人の手を通じて、切々たる望郷の思いを書き送った涙ながらの手紙が、じゃがたら文。

5.18 明治にもあった流行語「パア」
 1881年(明治14)。この日付の『朝野新聞』に、「近比東京府下の俚語に何々何々パアといふ語尾を用ひ、市中に到る処パアの声を聞かざる無し。蓋し其の出処は一個の下等なる落語家の口より出でしとか云へり」とある。戦後、伴淳三郎が流行らせた「アジャパー」の先輩。

5.17 ジェンナー誕生
 1749年。一度牛痘に罹ったものは天然痘にかからぬといういい伝えを農婦から聞いて以来、天然痘の苦しみから人類を救おうと念願した医師エドワード・ジェンナーが、イギリスはグロースターシャーのバークリーに生まれた。1980年5月にWHOから天然痘根絶宣言が出され、現在では種痘の必要性がなくなったが、ジェンナーの種痘が、人類から天然痘を遠ざけた功績は紛れもない。

5.16 北村透谷自殺
 1894年(明治27)。ロマン主義の理想と現実社会との矛盾に苛まれ、虚弱な肉体と貧しい生活の中で、虚無の苦しみに闘い疲れて、27歳の若い生命を自ら絶った北村透谷。懐疑に生まれて懐疑に死ぬ世紀末の宿命とは言うが、21世紀の若者たちの思想は?

5.15 「話せばわかる」犬養首相暗殺
 1932年(昭和7)。この日の夕方、拳銃・手榴弾などを持った18名の現役海軍軍人が、首相官邸・警視庁、その他都内数ヶ所を組織的に襲撃し、「話せばわかる」と制止する総理大臣犬養毅を問答無用とばかりに射殺した。時に犬養毅78歳。日本の議会政治・政党政治は、ここに留めを刺されたも同然であった。いわゆる5・15事件がこれである。

5.14 大久保利通暗殺
 1878年(明治11)。西南の役によって西郷隆盛を倒した恨みを一身に集めた結果、維新の元勲といわれた大久保利通が、東京の紀尾井坂で、島田一郎等に刺されて49歳の生涯に幕を閉じた。

5.13 彰考館開設
 1672年(寛文12)。それより15年前、江戸は本郷駒込の水戸藩下屋敷に『大日本史』の編纂所を設けていた徳川光圀は、その編纂事業をいっそう本格化するため、小石川の水戸藩邸に彰考館という文庫を開設した。さらに26年後、光圀が隠居してからは水戸に移され、今日まで、古典研究のメッカとなっている。

5.12 ナイチンゲール誕生
 1820年。イタリアのフロレンスに遊びに来ていたイギリスの資産家ウィリアム・エドワード・ナイチンゲールは、妻ファーニーとの間に2番目の子供を儲け、土地の名を取ってフロレンスと名付けた。まったくの有閑階級、ことに、気まぐれで我儘、始終ヒステリーを起こして卒倒しているような有閑夫人や令嬢の多い社交界から、クリミヤの天子・灯を掲げるレディと呼ばれる、献身的な愛の戦士が成長しようとは思われなかった。1837年2月7日の日記にフロレンスは、「私に神様のお告げがあって、神様への奉仕に召された」と記している。これが16才の時で、34人の看護婦を率い、クリミア戦争たけなわスクタリの野戦病院に赴いたのは1854年、34歳の時。それから1910年、90歳で亡くなるまで、病院の改革や創設、看護施設の改善ばかりか、南北戦争・普仏戦争と、外国政府の相談にも応じてて文字通り八面六臂の活動を続けた。

5.11 小川未明没
 1961年(昭和36年)。『赤い蝋燭と人魚』その他、詩情豊かな作品を残した童話作家、79歳で逝去。

5.10 日本最初の消防自動車
 1911年(明治44)。江戸の火消しの竜吐水から、明治開化の世になって、首都の東京でも、2頭立ての馬車ポンプをガラガラと曳き出していたその頃、大阪府の消防課では、大枚10,269円を奮発、1分間の放水量300ガロンという最新式の消防自動車1台をイギリスから購入した。

5.9 トーキー映画初公開
 1929年(昭和4)。東京は新宿の武蔵野館で上映したフォックス社の短編『南海の唄』と『進軍』の2本が、わが国における初公開。以来、トーキー映画がどんどん輸入され、わが国でも、五所平之助監督の『マダムと女房』を始めとして、続々製作されることとなった。

5.8 デュナン誕生
 1828年。国際赤十字の創始者でノーベル平和賞最初の受賞者アンリー・デュナンがジュネーヴで生まれた。

5.7 鮫の腹から観音さま
 1251年(建長3)。この日の夜、品川沖で漁師が打った網に大鮫がかかった。腹を裂くと、思いもかけぬ聖観音の木造が現れたので、鎌倉幕府に届け出たところ、時の執権北条時頼が、この観音さまを安置する為、建長寺の道隆和尚を開山として一宇の寺院を建立した。以来、近海に怪魚の出没もなく、海上安穏となったので、寺号を海曇寺と名付け、本尊を鮫頭観音と呼ぶところから、地名も鮫洲となったという。

5.6 エッフェル塔公開
 1889年。フランス革命100周年にあたるこの年、パリで開かれた第4回万国博覧会の初日、高さ984フィート、塔上から望遠鏡で55マイルの司会を持つエッフェル塔が公開されて、世界中の赤毛布を驚かせた。塔の名前は、設計・建築に当たったアレクサンドル・エッフェルから。

5.5 『児童憲章』宣言
 1951年(昭和26)。「われらは日本国憲法の精神にしたがい、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福をはかるために、この憲章を定める」という前文に始まり、児童の健康・家庭・安全・教育・道徳・保護・環境・愛情等々、12か条に亘って行き届いた配慮と指導を怠らぬよう、成人社会の責任が謳われており、この日、第3回目の「子供の日」を期して高らかに宣言されたが、福祉・教育予算の切り捨てでは、空念仏に終わる危険なきにしもあらず。

5.4 嘉納治五郎逝く
 1938年(昭和13)。講道館柔道の創始者、アマチュアスポーツの海外進出に大きな功労のあった嘉納治五郎が、カイロで開かれたオリンピック委員会からの帰途、氷川丸船上で急逝。77歳。

5.3 『日本国憲法』施行
 1947年(昭和22)。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」(前文より抜粋)

5.2 八十八夜
 野にも山にも若葉が薫る。立春から数えて88日目。農家では茶摘み種蒔きに忙しい。又、「八十八夜の別れ霜」といって、晩秋霜の目安なる時期。これからが本格的に暖かくなる。
 二三本葱の坊主や別れ霜 虚子

5.1 世界最初の郵便切手
 1840年。その年の1月10日ローランド・ヒルの意見によって、イギリスの郵便制度が全国一律16グラムまで1ペニーの料金に改められたが、それまでスタンプを捺していたものを、切手を貼ることとし、ヴィクトリア女王の胸像を凸版印刷した切手印紙を発行したのがこの日。

4.30 永井荷風没
 1959年(昭和34)。江戸っ子の洗練された官能と詩情、新浪漫派と呼ばれる独自の作風で読者を魅了した小説家永井壮吉が79歳でこの世を去った。

4.29 二宮忠八の模型飛行機とぶ
 1891年(明治24)。香川県丸亀の衛戍病院に陸軍三等調剤手として勤務する二宮忠八という人物、かねて公務の余暇を割いて研究していたプロペラ式模型飛行機の実験を、この夜密かに丸亀練兵場に出て試み、5間ばかりの空中を飛んだ。これに味を占めて、さらに人間が乗って飛べるような玉虫型複葉飛行機の製作に取りかかり、翌々26年試作機が完成した。ドイツのリリエンタールやフランスのアデルが、グライダーの研究に没頭していた頃の話。

4.28 文化勲章第1回授与式
 1937年(昭和12)。その栄誉ある受賞者は、理学畑の長岡半太郎と本多光太郎に木村栄。文学畑の幸田露伴に佐佐木信綱。絵画畑の岡田三郎助・藤島武二・竹内栖鳳・横山大観の9人であった。

4.27 モース誕生
 1791年。モールス信号で知られたアメリカの画家にして発明家、サミュエル・モースがマサチューセッツ州に生まれた。

4.26 世界最古の印刷物『百万塔陀羅尼』
 770年(神護景雲4)。称徳天皇は、それより6年前、天平宝字8年に即位して以来、国内平和祈願のために、高さ4寸5分の小さな三重塔を百万基作り、その中に、根本・自心印・相輪・六度と4種の刷り本陀羅尼を入れて、全国の寺々に納めることとされた。そして7年の日子をかけてようやくこの日完成し、念願を果たされたが、今も法隆寺にはその最初の年、天平宝字8年に出来たものが保存されている。幅は5寸から1尺5寸、高さは1尺8分の紙に細字で刷られたこの陀羅尼は、現存する世界最古の印刷物。

4.25 ギロチン実用化
 1792年。フランス革命がもたらした恐怖政治は、毎日、数百数千の処刑者を出す凄まじさ。死刑囚の苦悶を少しでも軽減してやろうと、奇妙な同情心をもった医師ジョゼフ・ギヨタンが、この恐ろしい断首台を発明した。ギロチンとは、ギヨタンの発明したギヨチーヌのこと。

4.24 紀国屋文左衛門没
 1734年(享保19)。紀州加太ノ浦の漁師の子として生まれ、一世の富豪、紀文大尽の浮き名を流した文左衛門が、66歳波乱万丈の生涯を、深川一の鳥居近くの侘び住居で寂しく閉じた。

4.23 1j360円の為替レート決定
 1949年(昭和24)。この日、戦後初めての単一為替レートが決定し、1日おいた25日から実施と公表された。明治初年から80年を経て、円の価値は360分の1の下落したわけ。近頃、130円のドル相場で円高円高と騒いでいるのが、むしろ滑稽。

4.22 カント誕生
 1724年。ドイツの生んだ偉大な哲学者イマニュエル・カントが、東プロシャのケーニヒスベルクで、皮具職人の四男坊として呱々の声をあげた。

4.21 指揮権発動
 1954年(昭和29)。検察当局による造船疑獄の調査がいよいよ大詰めにきたところで、法務大臣犬養健は、佐藤検事総長に対し、検察庁法第14条に定められた指揮権を発動して、容疑者たる自由党幹事長佐藤栄作に対する逮捕請求を却下する旨、文書をもって通達した。これが法相自身の意思ではなく、吉田首相の指示であることは明白。「悪い奴ほどよく眠る」風潮がこの頃から強くなって来た。

4.20 わがフランスの辞書に不可能の文字はない
 1796年。イタリアのチェヴァ・モンドヴィの戦いの最中、ロジの橋を挟んでピエモンテ軍と対峙した部下の将校達が、雨霰と降り注ぐ敵弾を恐れて、渡橋をためらうのを見るとナポレオン、決然と馬を陣頭に進めて叫んだ。「不可能という文字は、わがフランスの字引にはない筈だ。為せば成る。天下の事で何一つとして予に不可能な事はない」。大声叱呼するや馬を躍らせて真先に橋を駆け渡り、敵陣に突入する。部下の軍勢も勇気百倍、これに続いて大勝利を収めたという。

4.19 田中茂樹ボストン・マラソン初優勝
 1951年(昭和26)。1987年以来、オリンピック大会以外では最古の伝統を誇るこのマラソン大会に、戦後初めての派遣選手として出場した19歳の少年田中茂樹が、そぼ降る小雨の中、2時間27分45秒のタイムで、見事優勝を飾った。

4.18 『古今和歌集』編纂の詔勅
 905年(延喜5)。先帝宇多天皇の志を継いだ醍醐天皇の指示によって、わが国最初の勅撰和歌集が1たん『続万葉集』の名で完成したのが、同月の15日。天皇はこれがお気に召さず、一層、国風を明らかにして編纂し直すようにと仰せ出されたのがこの日。

4.17 アイヌの酋長に義経のお墨付き
 1886年(明治19)。この日付の『内外新報』によると、もと樺太のアイヌの酋長であったヒトクレラン、いまは北海道にすんでいるが、先祖伝来の家宝の中に、源義経から戴いたお墨付きがあって、その文面には、『我レ世ニ出テナバ必ズ汝ヲ相応ニ取リ立ツベキ者也。承久年月、源義経。ヒトクレランニ与えフ」とあるという。何しろ義経は、大陸へ渡って成吉思汗になったといわれたほどの伝説的な英雄。この方が、成吉思汗説よりはまだ現実性があるかも知れない。

4.16 チャップリン誕生
 1889年。20世紀最大の喜劇俳優であり、かつ、映画監督やプロデューサーとしても、数え切れないほどの傑作を私たちに贈ってくれたチャールズ・スペンサー・チャップリンが、ロンドンの寄席芸人を父母として生まれた。

4.15 秋色女没
 1725年(享保10)。「井戸端の桜あぶなし酒の酔ひ」。江戸は上野、秋色桜で有名な女流俳人秋色女、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋は、幼い時から基角の愛弟子として同門の寒玉と結婚、古着屋から蕎麦屋に変わったという全くの町女房であった。「見し夢のさめても色の燕子花」の辞世の句を残して、57歳でこの世を去った。(19日説あり)

4.14 タイタニック号の悲劇
 1912年。ホワイト・スター・ライン所属、4万6千328トンの巨体と21ノットの船脚を持ったタイタニック号は、イギリスの誇る世界第一の豪華客船として、サザンプトンの港からアメリカのニューヨークの向けて、晴れの処女航海に出た。が、不幸にもこの日の午後11時40分、公開も終りに近いニューファウンドランド島の沖合いで、氷山と衝突し、S・O・Sを発しながら暗夜を漂流すること2時間40分、翌朝2時20分には、2208名の乗客乗組員中、1513名の命とともに北大西洋の藻屑と消えた。

4.13 わが国最初のコーヒー店
 1888年(明治21)。東京下谷黒門町二番地の警察署隣にコーヒー店が開業すると、『団々珍聞』648号の広告に見える。その看板に「可否茶館」とあるのは、中国語の直輸入。

4.12 「地球は青かった」有人宇宙衛星船最初の成功
 1961年。ソ連のウォストーク1号が、アラル海東方バイコヌール基地から打ち上げられて、地球を1週すること正味1時間48分の飛行に成功、予定地点に無事帰着した。搭乗者ユーリ・ガガーリン少佐の「空はとても暗かったが、地球は青かった」の語が有名。

4.11 『もしほ草』創刊
 1868年(慶応4閏)。明治の先覚者岸田吟香が、横浜の外人居留地に住むアメリカ人ウェン・リードと協力して『横浜新報もしほ草』を発刊。『中外新聞』『江湖新聞』『公私雑報』など、やたらに難しい漢字を使った固苦しい文章の新聞が多かった当時、極めて柔らかい大和言葉の文語体で、今日の常用漢字でも間に合いそうな平易な漢字を使って、読みやすい速報を心がけた。

4.10 青の洞門開通
 1763年(宝暦13)。豊前の国山国川の上流、耶馬溪の入り口に、禅海和尚が30余年の生命をかけて掘り抜いた青の洞門が開通した。耶馬溪第一の景勝競秀峰が山国川に裾をひたして切り立っている彎曲部185bの間を、ただ主殺しの罪の償いと衆生済度の一心で掘り進んだ禅海の物語は、菊池寛の名作『恩讐の彼方に』の一篇によって誰知らぬ者のない有名な話。

4.9 交通妨害で自転車乗り差し止め
 1885年(明治18)。10日付の『日本立憲政党』紙を見ると「京都府下にては昨今自転車の流行旺んにして、往々通行人の妨げをなすのみならず怪我さする等の事もあり、且学校生徒等は之を玩んで課業を怠る者尠からざるにより、同府庁にて昨日上下両京区長へ自今之を差止むべき旨を達せられし由」とある。まるでオートバイの暴走族並に睨まれていた。

4.8 「天上天下唯我独尊」
 紀元前6世紀から4世紀まで、生年については各説区々としているが、釈迦国の国王としてカピラ城に君臨するスッドーダナ(浄飯王)とマーヤ(摩耶夫人)との間に生まれたゴーダマ・シッダールタ(釈迦牟尼仏)は、ルンビーニの園のアソカの木の下で生れ落ちるとすぐ、チョコチョコと7歩ばかり歩いて、右手を天に指さし、左手を地に指さして、「天上天下唯我独尊」と叫んだと伝えている。天地の間、人間個人ほど尊厳なものはないという、ヒューマニズムの極致。ことの真意はともかくとして、その言葉の意義は不滅である。

4.7 西郷南洲生存説、叡門に達す
 1891年(明治24年)。隆盛死して10余年、実はロシアに逃れて健在、来月訪日される予定のロシア皇太子のお伴をして、隆盛が帰って来るという噂が巷間頻りに流れて、ついに明治天皇のお耳に達したところ、侍臣に向かって「隆盛が帰ってきたら、あの十年の役に従軍した将校たちの勲章を取り上げるだろうよ」と、キツイ冗談をおっしゃったと、この日付の『朝野新聞』に。

4.6 板垣死すとも自由は死せず
 1882年(明治15)。岐阜県、富茂登山麓の神道中教院で開かれた自由党の大懇親会に臨み、満員の聴衆を前に滔々2時間にわたる大演説を試みた板垣退助、閉会に先立って旅館に引き取ろうと出てきた門前数歩のところで、愛知県人相原某のために刺された。その時、板垣が傷手を抑えながら叫んだ名文句がこれ。

4.5 蒋介石逝く
 1975年。孫文の後を受けて国民党を率い、中華民国総統として、外には日本軍の侵略に抵抗、内には中国共産軍との駆け引きに苦心し、最後は台湾に逃れて88歳の生涯を閉じた。日本の全面降伏の際して、共産軍に対する思惑もあっての事とはいえ、「暴に報いるに徳を以ってする」との指令を在外華僑にまで徹底して、日本軍民の大陸からの撤退を優先させた温情を忘れてはならない。

4.4 キング牧師狙撃さる
 1968年。ガンジー流の無抵抗主義を守って、「貧者の行進」で知られた黒人運動の指導者、マーチン・ルーサーキングが、メンフィスで狙撃され死亡した。モテルのバルコニーで、その夜8時からの集会で演奏を受け持つ楽士たちに「今夜の集会では黒人霊歌をやってくれないかね。“尊い主よ。 わが手をとり給え”だ。本当にあれをやってほしいんだよ」といった瞬間、銃声が響いて、そのまま、「主に手をとられ」て昇天した。合衆国政府は急遽、住宅面での差別を禁じる公民権法を成立させて人心の緩和を計ったが、牧師の死を憤る黒人の暴動は、むしろ各地で激化した。

4.3 植樹祭始まる
 1895年(明治28)。文部大臣牧野伸顕が、アメリカの教育家ノースクリップの意見を取り入れて、学校植栽日を定めることを奨励した時、兵庫県作用郡では郡内の小学校に対して、神武天皇祭の4月3日と天長節の11月3日とを学校樹栽培日と定めたのが始まり。全国一斉に4月3日を植樹祭と定めたのは、それから39年後の昭和9年。

4.2 アンデルセン誕生
 1805年。ドイツ民話のグリム兄弟と並んで、創作童話で世界中の子供達に親しまれているデンマークの文学者ハンス・クリスチャン・アンデルセンが、オーデンセの貧しい靴職人の子として生まれた。

4.1 宝塚少女歌劇第1回公演
 1914年(大正3)。箕面有馬電軌鉄道終点の宝塚温泉に余興として創設された少女歌劇、この日、第1回公演の演し物は、久松一声作『浮れ達磨』に、ダンスの『胡蝶』、まことに他愛のない無邪気な内容。出演の少女たちの中には、後に坪内士行夫人となった雲井浪子を始め、高峰秀子、篠原浅茅といった昔懐かしい顔触れが名を連ねていた。

3.31 スコットマン新聞記者の日本評
 1875年(明治8)。清国人が百年余りを費やして西洋人と交渉して取り入れた西洋文化を、日本人はわずか十数年の間に吸収してしまった。こんなことは世界の歴史に照らしてみても未だかつてなかったことである。瓦斯灯はある、電信機はある、鉄道もある。郵便法も整えば、国内定期航路の蒸気船もある。学校には西洋の教師が教鞭をとっているし、造幣寮は1年間に230万元の金貨を鋳造した。造船場もあるし製糸場もある洋服も仕立てればビールも醸造する。何1つ足りないものとてないが、これはみな外国から借り物の文化で、独自の進歩はなし、人民もまだ封建的な圧制からぬけ出していない等々と、今日の世相にも通じる、外人記者の痛烈な批判を紹介したのが、この日付の『東京日日新聞』。

3.30 ヴェールレーヌ誕生
 1844年。フランス印象派の詩人ポール・ヴェールレーヌが、ローレーヌ地方のメッツに生まれた。上田敏の「秋の日の ヸオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うらがなし」の名口調によって、ヴェールレーヌの『落葉』を知らぬ日本人は無い時代もあった。

3.29 マリナー10号水星に接近
 1974年。アメリカがその前年11月3日に打ち上げた、人類初の水星探査機が、この日の午後4時46分(米東部夏時間)、水星表面から720`まで最接近して通過したが、その前後に、月面とそっくりな、大小無数のクレーターで覆われている様子を克明に映し出した。

3.28 内村鑑三逝く
 1930年(昭和5)。近代日本における最も偉大な思想家の一人、キリスト教の福音を日本人の心に植え付けた内村鑑三が、70歳でその生涯に終わりを告げた。

3.27 『奥の細道』の門出
 1689年(元禄2)。「弥生も末の七日、曙の空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから、不二の峯かすかに見えて、上野谷中の花の梢、またいつかはと心細し。睦ましき限りは宵よりつどひて、舟に乗りて送る」。前後七ヵ月、道程六百里の大旅行に、芭蕉とその弟子曾良とが旅立った。

3.26 ヘレン・ケラー、会話の訓練を始める
 1890年。3重苦の聖女ヘレン・ケラーが家庭教師サリヴァンの指導の下に発音の練習を始めた。サリヴァンは先ず、ヘレンの手を自分の口にあてがって、声を出す時の舌と唇の動きをのみこませ、その通りに真似をさせるという方法を繰り返した。そして最初にitのiを発音することが出来た時の、ヘレン・ケラー自身の驚きと喜びとは、生涯忘れる事の出来ないものであったという。

3.25 東京に公園設定
 1873年(明治6)。この年の1月、東京・京都・大阪の三府をはじめ、全国の大都市に公園を設ける方針がきまり、候補地の選定や開設計画・経営方針などを大蔵省に届け出るようにとの太政官の達しがあったので、東京府でも、浅草・芝・深川・音羽・上野・飛鳥山・角田・新宿の8ヵ所に公園を設ける事となり、その設計図や経営方法を具体的に立案して、府庁に届け出るように、各区の会議所に通達が出されたと、この日付の『新聞雑誌』84号に見える。わが国で社会の階級を問わず、一般市民の遊園地として最も早く開設されたのは江戸の飛鳥山。八代将軍吉宗の元文年間から、十分公園としての役割を果たして来たことは、落語『長屋の花見』でご存知の通り。

3.24 壇ノ浦の戦い
 1185年(寿永4)。一の谷・屋島の浦と、敗戦を重ねて西の海に追いつめられた平家の軍勢、全力を挙げての戦いに決定的な敗北を喫し、一門悉く波間の藻屑と消えたのがこの日。

3.23 唐人お吉死す
 1890年(明治23)。本名斎藤きち、50歳。「駕籠でゆくのはお吉じゃないか」と歌にまでうたわれ、米国総領事ハリスの小間使いとして、病身のハリスに心から尽くし、幕末の外交史を怪しく彩ったお吉も、晩年はまことにみじめな境遇。大酒が祟って半身不随のわれとわが身を、大雪の降りしきる稲生沢川に投げて、命を絶った。

3.22 鉄眼和尚逝く
 1682年(天和2)。一切経刊行の大事業を成し遂げたばかりか、大洪水や大飢饉に際しては一身をなげうって難民救済のために奔走し、その過労のために働き盛りの53歳で不帰の客となった鉄眼和尚。時の人は、その鉄眼を惜しんで救世大士と讃えた。
 
3.21 一米人、日本政府に公開状
 1872年。この日付の『ニューヨーク・ヘラルド』紙には、明治政府が、上野寛永寺や芝増上寺にある徳川累代の墓を他へ移し、仏像を毀したり、山内の大木を切り倒すのは非常に野蛮な行為であるから、至急中止すべしとの公開状が載せられた。その人はさらに、明治政府はしきりに外国にならって近代文化を取り入れようと努力しているが、洋服を着て馬車に乗るなどということは、文化でも文明でもない。由緒ある名所旧跡を大切に保存することこそ本当の文明国の態度である。無闇に伝統を破壊するのは文明に対する罪悪で、我々外国人一同は、ヘラルド紙を通じて、日本政府に上野の山の取りこわしを中止させねばならないと論じている。

3.20 上野の博物館開館
 1882年(明治15)。寛永寺の門跡輪王寺の宮の御本坊にあった寒松院の庭園をそのままひき継いだ博物館は、池あり林ありの幽邃な趣に富んではいたが、開館当時の内容は貧弱なもの。博物館付属の天産部として同時に公開された動物園も、外国産の動物はほとんどなく、シャム(タイ国)から象が来たのが10年後、図書部としての図書館にも、40万部の和漢書に対して洋書は6万冊しかなかった。

3.19 リヴィングストン誕生
 1813年。イギリスの宣教師にしてまた、アフリカ大陸探検家として有名なデーヴィッド・リヴィングストンが、スコットランドのラナック州に生まれた。

3.18 浅草観音示現
 628年(推古36)。隅田川が江戸湾に注いでいた武蔵の国豊島郡浅草に住む檜前浜成・竹成兄弟が網を曳いていると、思わずかかったのが金無垢の小さな観音像。土地の有力者土師真中知に報告すると、感に打たれた真中知は、自分の邸を寺としてこれを丁重に祀ることとした。長い長い江戸の歴史の中で、金龍山浅草寺の縁起をかいつまんでいうとこういうことになる。

3.17 桓武天皇崩御
 806年(延暦25)。御年70歳。生母の高野皇后が、百済の武寧王の子純陀太子の血を引くだけあって、きわめて合理的な決断力に富んでいた桓武天皇は、経済的には氏族支配の強い大和を捨てて、都を奈良から京都の移し、南都仏教の政治介入を排して、青年僧空海と最澄に真言・天台の2宗を伝えさせ、しかも、それを山岳宗教として高野・比叡に遠ざけ、坂上田村麻呂による東北平定をなし遂げるなど、明治維新以前に、これだけの大改革をなし遂げる政治力を持った天皇は他にはなかった。

3.16 ウイリアム・アダムス、豊後の佐志生に漂着
 1600年(慶長5)。1598年の6月24日、オランダの東インド会社が東洋貿易開拓の為に仕立てた5隻の船団は、テクゼルの港を出帆、大西洋を横断、マジェラン海峡を通過して、東インド海峡に向かって太平洋に乗り出したところで暴風雨に見舞われ、5隻の船は散り散りとなった。その中で、リーフデ号だけが目標を日本に転じて19週間太平洋を漂った挙句、慶長5年のこの日、豊後の佐志生に辿り着いたが、当初の乗組員190余名の中、残るもの僅かに24名、しかも、自力で立ち上がれる者は6人に過ぎなかったという。その頃、大阪城にいた徳川家康はこの報告を聞いて、船を堺の港へ回航させ、乗組員の中から心利いた者1人を召したのが、ウイリアム・アダムス、5月12日であった。その後、アダムズは家康に優遇されて、天文暦・造船航海の技術や海外事情について大いに役立つこととなったので、相模国三浦郡逸見村に250石の領地を賜って三浦按針と名乗った。按針とは羅針盤を操るパイロットの意味である。アダムズはまた江戸の日本橋室町1丁目に邸を構えていたので、昭和7年まで、そこは按針町と呼ばれていたし、アダムズと同船して入国したヤン・ヨーステンも江戸に屋敷を賜ったところから、八代洲町の名が生れた。今の千代田区八重洲町、東京駅の八重洲口のある所がそれ。

3・15 わが国最初の靴工場開業
 1870年(明治3)。陣笠に洋服、白の兵児帯に大小を手挟み、鉄砲かついで草鞋ばきの官兵に、靴を履かせようと考えた兵部大輔大村益次郎、多量の靴を外国に注文したが、横浜の運上所に着荷した外国製の靴は、みんなサイズが大きくて日本人の足に合わない。そこで御用商人の西村勝三に命じて、京橋入舟町に開業させたのがこの靴工場。ところがそれから8年後、明治12年3月7日付の『東京日日新聞』には、手先の器用な日本製の靴が評判となって、すぐに8万足を本家のアメリカへ輸出したとある。

3.14 南洲・海舟歴史的会談
 1868年(慶応4)。江戸城総攻撃を明日に控えた官軍の参謀西郷隆盛と幕府の海軍奉行勝安房とが、江戸高輪の薩摩屋敷で会見し、めでたく総攻撃の停止と江戸城明け渡しの約束が取り交わされ、江戸の町を戦火から救った。もっともこれには、5日前の3月9日、海舟の手紙を携え、薩摩藩士益満休之助と同道、駿府城滞陣の隆盛と会見した山岡鉄舟の根廻しがあった。

3.13 チャタレイ裁判に最高裁の判決
 1957年(昭和32)。イギリスの作家デーヴッド・ローレンスの傑作『チャタレイ夫人の恋人』が、作家伊藤整の翻訳によって、1950年(昭和25)4月に、小山書店から出版されたところ、忽ちベストセラー、発売2ヶ月で15万部も売れた。ところがその内容に眼をつけた当局、これをワイセツ文書として、翻訳者と発行人とを起訴した。これに対して日本文芸家協会を始め文化人はこぞって、これは立派な芸術だと抗議したが、一審の東京地裁は伊藤無罪・小山罰金25万円の判決、第二審では、さらに伊藤にも罰金10万円の判決、いよいよこの日、満天下注目の最高裁の判決が下ったが、結果は二審通り両名共有罪となった。

3.12 孫文逝く
 1925年(民国14)。中国革命の父、中山先生孫文が59歳でこの世を去った。広東省中山県に生まれ、ハワイの教会学校を経て香港医学校を卒業、澳門(マカオ)で医師を開業していた孫文は、人の病を治すより国家の病をとの志を立て、清朝打倒・漢人独立の革命運動に身を投じた。ヨーロッパや日本にもたびたび亡命する波瀾多き生涯に、三民主儀の綱領を打ち樹て、中国同盟会(後の国民党)を組織し、1911年、辛亥革命の成功によって中華民国大総統に就任したが、以後も、袁世凱の独裁専制や地方軍閥との戦いに明け暮れ、この日、段祺瑞・張作霖との合作による時局収拾の為に赴いた北京で病死した。

3.11 テニスンの原稿料
 1874年(明治7)。この日付の『読売新聞』にこんな記事がある。「英国有名の詩人テンネソン氏がこの程、米国のユース・コムパニオンという雑誌へ新春の詩1首(48行にて205語のもの)を投稿したりしに、同雑誌社よりはその報酬として1000j贈りたる由。さればテンネソン氏の死は1語の代価5円許りにあたる割合にてずいぶん珍しき高価なり。

3.10 平城遷都
 710年(和銅3)。大昔は、天皇1代ごとに都を遷していたが、隋・唐等の先進国との国交が始まるとともに、いかにも帝都らしい偉容を整える必要が生じた。そこで、持統天皇以来18年の藤原京を捨て、その3倍の面積をもつ堂々たる新京「平城京」を建設して都遷りしたのがこの日。それから70余年、青丹よし匂うが如き平城文化の花が咲き誇ることとなった。

3.9 塚原ト伝没
 1571年(元亀2)。かつて盛んであった講談の主人公としてお馴染みの剣客塚原ト伝が、83歳の天寿を全うしてこの世を去った。琵琶湖を渡る船中で、武芸自慢の武士から試合を申し込まれた時、あわてて船から中洲に飛び移ったその武士を尻目に、棹をグイとひと突き、船を中洲から押し離し、これが無手勝流だといったお馴染みの逸話の主。

3.8 初めて度量衡を天下に頒布
 702年(大宝2)。その前年、『大宝律令』を完成して、法治国家としての体制を整えた文武天皇は、税制の公平を期する為にも、全国的に統一された度量衡を使用する必要を認め、大尺小尺・大斤小斤・大両小両などと、先進国唐の制度を倣って、わが国最初の度量衡を実施した。 

3.7 ラヴェル誕生
 1875年。『スペイン狂詩曲』『水の戯れ』など数多くのすぐれた作品は言うまでもなく、『ボレロ』で一番馴染みの深いフランスの作曲家モーリス・ラヴェルがバスク地方の小さな村で生まれた。

3.6 菊池寛死す
 1948年(昭和23)。『屋上の人』『父帰る』などの一幕物の戯曲、『恩讐の彼方に』「藤十郎の恋」などのすぐれた短編小説よりも、出版業界その他に実務的な手腕を発揮し、文士の社会的な地位の確立と文芸の普及に大きな足跡を残して、61歳の生涯を閉じた。

3.5 明治初年に博覧会ブーム
 1872年(明治5)。昭和45年3月から9月にかけて大阪で開かれた日本万国博覧会が、参加国77ヵ国、入場者6421万人と大当たりをとって以来、全国のあちこちで博覧会ブーム。ついには食傷気味となって、赤字続出。そもそも1866年(慶応2)福沢諭吉著わす『西洋事情』に、「西洋の大都会には、数年毎に産物の大会を設け、世界中に布告して各其国の名産便利の器械古物奇物を集め、万国に人に示すことあり、之を博覧会(エツキスヒヾション又はフエアー)と称す」とあるのが、博覧会の語の始まり。それから6年後のこの日、東京では、文部省博物局主催の博覧会が、昌平坂の湯島聖堂地内で開かれ、3月5日より諸官省並びに各都道府県の官吏に拝見を差許し、10日から20日間、一般男女1日1000人を限って拝見を差許したというのだから恐れ入る。一方京都では、三井・小野・熊谷、民間の豪商3人が主催して、3月10日から50日間、本願寺・知恩院・建仁寺の境内で開催したが、陳列の品物に定価をつけて即売したとは、さすが上方。

3.4 沢正死す
 1929年(昭和4)。土佐藩士の子に生れ、早稲田大学英文学科を卒業、恩師坪内逍遥主催する文芸協会演劇研究所2期生として、抱月・須磨子等の芸術座に参加した新劇運動の中から、きわめて大衆的な劇団「新国劇」を打ち樹てた沢だ正二郎が、38歳の若さでこの世を去った。劇団の紋章、柳に飛びつく蛙が、不撓不屈の人、沢正の人生を象徴している。

3.3 雛祭・上巳(5節句の第2)
 中国の曲水の宴や3月初の巳(み)すなわち上巳の日の祓えと、わが国の民俗的な幼女の雛人形遊びとがまじり合って、よう数の重なる3月3日、桃の花咲く陽春の、女の子の祝日が定着した。雛飾り・桃の生け花・白酒・雛あられ、ままごと遊びにも似た小さな器を使ってのお節料理。楽しい団欒のうちに、女性の情操が養われたものである。
 内裏雛 人形天皇の 御宇とかや 芭蕉

3.2 遠山の金さん、北町奉行となる
 1840年(天保11)。青年時代は無類の放蕩者、父の勘定奉行景晋も勘当の他はないと持て余していたが、家督を相続した後は見違えるばかりの精勤ぶり。北町奉行遠山左衛門尉となってからは、市井の裏表、酸いも甘いも噛み分けた経験が物をいっての鮮やかな裁き。例の桜吹雪の刺青を隠すために、真夏といえど肌ピッタリの襯衣を脱がなかったが、ある時、証人として呼び出された吉原の花魁に付き添って来た遣り手婆ァが、お白州の正面にすましかえっている昔馴染みの金四郎をひやかしてやろうと、「オヤ金さん」と大きな声をかけると、金四郎ニッコリ笑って、「久し振りだな婆ァ、元気か。昔の金さんもこうして天下の三奉行になったが、婆ァは年を取ってもやっぱり、遣り手婆ァをしているのか」とやり返した。

3.1 三都間に郵便制度発足
 1871年(明治4)。その前年の7月、紙幣注文のために米国出張を命ぜられた駅逓権正前島密、横浜を離れて1週間ばかりたったある日、急に船内が騒がしくなって、来る幾日かはアメリカからのメール船とすれ違うから、日本へ郵便を出す人は、早く投函してくださいと甲板に掲示された。はてメール船とは?と、字引を引くと郵便船とある。かねがね「米国聯邦史」という書物を拾い読みして、外国の郵便制度に強い関心を抱いていた密、これはよい機会だと船長に面会し、甲板に設けられたポストの事から、郵便物の取り扱い、切手の消印に到るまで、一切の事務を教えられて大喜び、早速委細を手紙に書いて日本へ送った。こうしたエピソードを経て、翌年のこの日、東京・京都・大阪三都の間に初めて実施されたのが、わが国の郵便制度。「書状集め箱」つまりポストを設け、「書状切手」という郵便切手を封筒の表ではなく裏に貼り、宛名は付箋に書いて、「離れ易きやうに書状へ張り置き申すべき事」と定められていたとは面白い。

2.28 『大日本史料』刊行
 1901年(明治34)。わが国のこくし編纂事業は、702年(養老4)成立の[日本書紀』に始まって、901年(延喜1)奏上の『日本三代実録』に意たる六国史の後、全く跡絶えていたが、明治政府は、東京の九段上表六番地にあった幕府の和学講談所あとに、史料編輯国史校正局を設けて、六国史に次ぐ宇多天皇以降の正史を編纂することとした。以来30年、いろいろと機構の変更はあったが、あたかも20世紀の初頭にあたり、しかも『日本三代実録』からぴったり1千年後を期して、この日、東京帝国大学文学部史料編纂掛(今の史料編纂所)から、『大日本史料』後醍醐天皇建武中興の条2冊と、慶長年間徳川幕府開始の条2冊および『大日本古文書』2冊を刊行した。

2.27 ロングフェロー誕生
 1807年。アメリカの大衆詩人ヘンリー・ワズワース・ロングフェローが、メーン州のポートランドで誕生。

2.26 800文の薬缶が800両で売れた噺
 1872年(明治5)。この日付の『東京日日新聞』にこんな記事が見える。大阪の町を散歩していた1人の外国人、1軒の古道具店で薬缶に目をとめ、値段を聞くと「800」という。「それでは後程使いをよこすから」と立ち去ったが、やがてやって来た使いの者、金札800両を支払って薬缶を持って帰った。店の主人は吃驚。何しろ撰800文の古薬冠に800両の大金、きっと後から文句を言って来るだろうと思っていたが、1日経ち2日経っても音沙汰なし。これは警察へでも届けておかねば後難が恐ろしいと考えているところへ、その筋からお呼び出しである。いよいよおいでなすったなと、恐る恐る出頭すると、「其方の店で求めた薬缶、800両ではあまりに廉値だから、今200両増やしてやろうと、その外国人から依頼があったので呼び出した。早速、受取証を差し出して、200両を持ち帰るように」とのお達し。二度吃驚して、よくよく尋ねて見るとその古薬缶、実は金無垢、しかも相当目方のあるものであったという、嘘のような噺。

2.25 菅原道真逝く
 903年(延喜3)。学問の神「天神さま」として、毎年、受験の季節には、とてもさばき切れない合格祈願に悩まされている菅原道真が、大宰府の配所で、淋しく59歳の生涯を閉じた。

2.24 郵便切手の払い下げのお達し
 1871年(明治4)。その年の3月1日、西洋式の郵便扱いを開始するに先立って切手を売り出したのだが、その公告の一例に「来ル三月朔日ヨリ郵便御発行ニ付、書状賃銭切手四日市郵便役所ニ於テ払下相成候間、此段相達候成」とある。まさか無料で配達してくれるわけでもあるまいに、役所の側に「御発行」と敬語を付け、顧客の人民に対して「払下」と来ては、藩閥政治の官尊民卑もよいところ。

2.23 「漢倭奴国王」の金印発見
 1784年(天明4)。筑紫の国粕屋郡志賀島の南、かなの浜というところで畑を耕していた農夫、鍬に当たった大きな石をのけて見ると、その下の3つの石に囲まれた中から出てきたのが、約八分四方、厚み三分の純金の固まり。驚いた農夫はこれを庄屋に届ける、庄屋はさらに代官所を通じて領主黒田家に収めたが、これこそがわが国の古代史に、大陸の後漢との交流を伝える「漢倭奴国王」の金印であった。

2.22 後鳥羽上皇崩御
 1239年(延応1)。朝廷の政権を武家の鎌倉幕府に奪われたことを嘆いて、『新古今和歌集』の編纂その他の文化運動によって公家貴族の奮起を促された後鳥羽上皇は、いわゆる承久の乱に敗れ、その身は遠く隠岐に配流隣、18年に及ぶ島暮らしの後、この日60歳をもって世を去られた。「われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」の一首に、そのご心境が余すところなく示されている。

2.21 漱石、博士号を返上
 1911年(明治44)。文部当局は間もなく教職を去ろうとする夏目金之助の、文学者としての業績を顕彰すべく、文学博士の称号を贈った。ところが、病気療養中の修善寺の病院から、書面を以って「返上仕る」との挨拶。ひっこみのつかない文部省、何とか受け取ってもらおうとたびたび勧告したが、漱石はさらに「現今の博士制度は功少なくして弊害多きを信ずる」旨の弁明書を提出、きっぱりと断った。

2.20 江戸両国で生きた鯨の見世物
 1734年(享保19)。何しろ御内府から一歩も出たことのない江戸っ子、見世物といえば、まやかしもののロクロッ首や人魚しか知らぬところへ生きた鯨というので大評判。実は、両国とは目と鼻の先の下総行徳の浜で捕まえた長さ5尋2尺余りの鯨2頭だが、「唐天竺でなくては見られぬ大海獣、毎日1人ずつ人間を食って生きている。アレあの通り口は耳のあたりまで裂けていますぞ」と囃し立てる木戸口の呼び込みに、押すな押すなの大人気。「なるほど、ももんじ屋の山鯨(猪)よりよっぽどデカイ」と喜んでいたとか。

2.19 大塩平八郎の乱
 1837年(天保8)。大阪町奉行の与力大塩平八郎は、すでに職を息子格之助に譲って隠居の身であったが、天保3年以来の飢饉続きでその日の糧に窮する人々を救おうと、町奉行跡部山城守に、大阪城内の兵糧米や軍資金を放出し、難民救済に当てることを願い出たしかしこれは許されず、鴻池・大坂屋・三井などの豪商に涙ながらに愬えて、1万両の義捐金を得ることとなった。ところがその人たちが念のためにその旨奉行所の了解を得ようと届け出たところ、「それは大塩の売名行為だ。奉行所の指図なしに大塩に金を貸したものは厳罰に処するから左様心得ろ」とのお達し。そこで平八郎、命にも換え難い蔵書5万巻を売った700両を、そのつきの6日から3日間、1件あたり1朱ずつ分け与え、何とか急場を凌いだが、問題は解決しない。ついに思い余って同志とともにクーデターを計画、事露顕に及んでこの日、大阪市中に火を放ち、大阪城代を攻めるに到ったのである。

2.18 ヴォルタ誕生
 1745年。接触電気の現象を発見してヴォルタ電池を発明し、今日も電圧の単位を示すヴォルトにその名を残すイタリアの物理学者アレッサンドロ・ヴォルタが、ロンバルディア平原のコモに誕生した。フランスのナポレオンがわざわざパリに招いて、その実験を見学し、伯爵の栄誉と年金を与えたとは、さすが電気学の始祖と呼ばれるだけのことはある。

2.17 マルサス誕生
 1766年。幾何級数的に増える人口と、算術級数的にしか増えない食糧との不調和が、社会の困窮と罪悪を生み出すと論じた『人口論』で有名な、イギリスの経済学者トーマス・ロバート・マルサスが、サリー州のルーカリーに生まれた。

2.16 天気図初めて発行
 1883年(明治16年)。内務省雇のドイツの気象学者エルヴィン・クニッピング指導の下に、馬場信倫(後に商船学校教授)が助手となり、7色刷りの天気図を作成、1日1回発行することとなった。同年8月23日からは、新橋・横浜の停車場に天気図を掲示し、翌年7月からは、1枚1銭で売り出したが、1日3枚まとめて3銭の手数料と郵税を内務省地理局に納めれば、毎日郵送して、航海・農業・土木・衛生の利便を図るというサービスぶり。(3月1日説あり)

2・15 ガリレイ誕生
 1564年。ニュートンに先立って、ガリレオ・ガリレイがうち立てた落体運動の原理は、ピサの斜塔を使っての、重力の加速度を実験するうちに生み出したもの。口径わずか5p、手製の望遠鏡を使って、木星の衛星、土星のリング、月面のクレータ、太陽の黒点などを観察し、コペルニクスの地動説を裏付けるなど、数々の輝かしい業績を挙げたガリレイも、故郷は逐われる、法皇庁には喚問される、挙句は牢獄と、先駆者としての苦難の生涯がこの日、ピサに始まった。

2.14 怪盗、名古屋城金鯱の鱗を盗む
 1712年(正徳2)。「尾張名古屋は城で持つ」、当時純金といわれた鯱鉾の鱗を盗みにかかったのが、尾張の国中島郡柿野村の百姓金助と叔父の2人組み。金助の身体を大凧に縛りつけ、強風に乗って天守閣五層の屋根に舞い上がったとは007顔負けの離れ業。しめたとばかりにベリベリ剥がしにかかったところを見廻りの侍に見つけられ、「各々方、曲者でござる」とばかり、たちまち御用になったとは呆気ない。

2.13 郵便印きまる
 1887年(明治20)。明治4年3月、わが国最初の郵便制度が実施された頃には、日の丸に横一文字の印を使っていたが、2月8日、逓信のテイに合わせて、甲乙丙丁の丁の字を採用したところ、これがなんと万国共通の不足税の印「T」と紛れやすいことが判り、驚いた逓信大臣柄本武揚は、早速この日、片カナのテに改めて、それを図案化したのが

2.12 日本ペンクラブ再建
 1947年(昭和22)。1921年(大正10)に、「凡ゆる国々の筆を執る人々の間に友情と知的協力を保持し、以って文学のため芸術的表現のために、国際的親善に役立ち、政治的・民族的利害から離れて、世界文化の進歩向上に寄与する」目的の下に、イギリスの女流作家A・D・スコットの首唱を、H・G・ウエルズ、アナトール・フランスらが支持して、国際ペンクラブが結成された。それを受けて、わが国でも、1935年(昭和10)、藤村藤村を初代会長として、日本ペンクラブが発足したが、太平洋戦争に際し、時の政府の圧迫によって、壊滅状態となった。そして終戦後のこの日、志賀直哉を会長として日本ペンクラブは再建。翌年コペンハーゲンで開かれた国際ペン総会で、国際復帰を承認された。因みに、ペンのPはポエツ(詩人)とプレイライツ(劇作家)、Eはエッセイスツ(随筆家・評論家)とエディターズ(編集者)、Nはノヴェリスツ(小説家)の頭文字を続けたもの。

2.11 エジソン誕生
 1847年。今さらいうまでもない世界の発明王トーマス・エジソン。この日、オハイオ州のミランで生まれた。

2・10 ああ惜しむべし17万8千4百人の尼
 1885年(明治18)。真宗大谷派本願寺の本堂再建のために、全国の門徒が大材木を寄進した。そのうち、最も巨大なのは、三河・甲斐・越後から寄付されたもの。材木を運搬するには婦人の毛髪で綯った縄がよいという昔の言い伝えで、越後の国の信者が寄付した縄は、同国の信徒中、12歳から30歳の婦人、17万8千4百人の毛髪を集めたと、京都新聞にあるのを引用したのが、この日付の新聞『自由燈』につけられた頭書の見出し。

2.9 大阪造幣寮で丁髷退治
 1873年(明治6)。それより前、明治4年8月9日、政府は断髪廃刀令を下したが、誰しも丁髷には未練が残ったものと見えて、何だ彼だと1日延ばしに切らずにいる者が多かった。時の造幣頭井上馨は、英国に留学しただけあって、文明開化の先駆者。職員の服務時間も7時間に定め揃いの洋服を着せるほどの進歩的な管理をしていたが、断髪ばかりはなかなか命令どおりにはゆかないのに業を煮やし、ついにこの日、丁髷を残している役人を一人一人つかまえて、「首を馘られたがよいか。髪を切るか」と詰めより、遮二無二その場で髷を切らせたという。

2.8 東京にも大雪
 1883年(明治16)。積雪4尺ないし6尺という珍しい大雪に、明治5年開業したばかりの新橋・横浜間の鉄道が運転休止となった。これが積雪による最初の列車事故。

2.7 わが国最初の人体解剖
 1754年(宝暦4閏)。京都の医師山脇東洋は、開業以来20数年、日本の医者という医者がすべて、人体の内臓組織を見たこともなく、平気で内臓諸器官の異常を診断している実情に不審を抱き、京都所司代酒井豊後守忠用に願い出て許可をとり、死刑囚の遺体を獄中で腑分けしてみて、その構造の精緻さ不思議さに驚嘆した。そして、その実験の結果を『蔵志』という書物に著して、後世の貴重な参考資料とした。

2.6 『週刊新潮』は今日発売です
 1956年(昭和31)。それまで、新聞社が独占的に発行していた週刊誌を、一般の出版社としては新潮社がはじめて、それこそ、ヌーベル・バーグさながらのスタイルで2月19日号を創刊。やがて、百家争鳴、週刊誌ブームの開幕となった。

2.5 わが国最初の乗合自動車
 1905年(明治38)。これがなんと、東京でも大阪でもなく、広島市の横川・可部町間4里の路線で開業。外国の大使館や公使館以外、日本人の乗用車が全国でまだ10台もなかった頃だから驚く。

2.4 日本駄右衛門のモデル、自首
 1747年(延享4)。500人の手下を従え、伊勢・近江・美濃・尾張・三河・遠江・磨るが・伊豆八ヵ国を荒らし廻った大盗賊団の首領日本左衛門が、京都の町奉行所に自首。翌月、遠州見付の宿で獄門に処せられた。歌舞伎で有名な『白浪五人男』の首領日本駄右衛門のモデル。

2.3 節分・追儺・豆撒き
 立春の前日。この日で冬が終わって春を迎える。陰暦を使用していた頃には、陰暦の元日と旧暦正月節の立春とが同日になる年を規準として、立春の前後20日間ぐらいずつの範囲内で元日が移動していたから、「年の内に春はきにけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ」(『古今集』在原元方)の歌に見るような、年内立春という事が多かった。節分追儺の行事も、年越と共に、元日の前後、大晦日の夜に行われることと定められていたが、新暦の現代では、年越は元日の前日、節分は立春の前日と、1ヶ月余りもかけ離れてしまった。因みに、追儺の行事は、文徳天皇の706年(慶雲3)12月に始まった(『続日本記』)。

2.2 「恥ずかしながら」 横井庄一さん帰国
 1972年(昭和47)。グアム島のジャングルで生存を発見された元陸軍軍曹横井庄一氏が、終戦後26年半、グアム島上陸後28年にして、この日の午後2時15分羽田着日工特別機948便で帰国した。その時の名文句がこれ。

2.1 NHK、テレビ本放送開始
 1953年(昭和28)。この日午後2時に催されたNHK東京テレビ開局の祝賀式に続いて、千代田区内幸町の放送会館第1スタディオから流れ出た電波は、菊五郎劇団の舞台中継を各家庭に届けた。

1.31 わが国最初の生命保険受取人
 1882年(明治15)。わが国最初の生命保険会社ができたのは、その前年7月のことであったが、それから半年、加入者1千名を越した頃、この年の1月20日に、神奈川県の警部長を勤めていた川井某という人が、心臓病で休止して1千円の保険金が遺族に支払われ、保険金受取人第1号となった。31日付の『郵便報知新聞』は、「右川井氏より同社へ払い込みし保険料は僅か30円程なれば、差引970円は同社の損耗となれど、畢竟生命保険は不幸短命の人の為に設けたるものなれば、その効用始めてあらわれたりといふべし」とご丁寧な記者評を載せている。

1.30 京都大火
 1788年(天明8)。国学者小沢蘆庵の歌に「来て見れば焼野が原となりにけりこれや昨日の百敷の庭」とあるように、18万3千余戸、殆ど京都の町全体が焼け失せたこの時の大火には、内裏も灰燼に帰して光格天皇が下鴨神社に避難されたほど。今日我々が見る京都御所は、その後、老中松平定信が造営奉行として再建したものである。

1.29 ロマン・ローラン誕生
 1866年。『ベートーヴェンの生涯』『見せられたる魂』『ジャン・クリストフ』『マハトマ・ガンジー』など、一貫してヒューマニズムを追及したフランスの作家ロマン・ローランが、ブルゴーニュのクラムシーに生まれた。

1.28 南極大和雪原に日章旗
 1912年(明治45)。僅か204dの開南丸に乗り組んだ白瀬中位以下27名は、明治43年11月29日に品川湾を出帆、連れて行った樺太犬の大部分が赤道直下の暑さに斃れるなどの困難があって、ようやくシドニーを出発、南極に向かったのは翌年11月19日であった。それから70日間、ようやく南極圏内、南緯80度5分、西経156度37分の地点に到達、ここに日章旗を掲げて大和雪原と命名した。

1.27 日章旗制定
 1870年(明治24)。太政官布告第57号を持って、これまで、自然発生的に国旗のような役割をつとめ、寸法も区々、布地も色々であった日の丸の旗に、正式の寸法が定められた。

1.26 法隆寺金堂火災
 1949年(昭和24年)。この日の早朝、金堂から出火して、内陣47坪を全焼した。607年(推古15)、聖徳太子が建立された最初の建物は、670年(天智9)に全焼したが、その後に再建したものも、世界最古の木造建築。中でも、近年持て囃される敦煌の壁画にも優る法隆寺金堂の壁画を焼失したことは、何物にも換えがたい痛恨事であった。

1.25 東京府下の牛肉小売値段改正
 1879年(明治12)。東京府下ではこのたび、牛1棟につき1円の課税が加わることになったので、一斤(600g)18銭の肉が20銭に値上がりし、牛なべも1人前につき1銭高くなると、22日付の『郵便報知新聞』が予報。今の物価に換算すれば100g約400円。

1.24 ホフマン誕生
 1776年。ドイツの小説家エルンスト・テオドール・ホフマンがケーニヒスベルクで生まれた。本業の司法官として精励する傍ら、画家・音楽教師・指揮者・批評家・脚本家として多彩な才能を発揮したが、奇妙な幻想と鋭い風刺に溢れたホフマンの怪奇小説は、探偵小説の創始者、エドガー・アラン・ポーにも影響を与えたという。

1.23 スタンダール誕生
 1783年。『赤と黒』『パルムの僧院』で知られるフランス近代小説の祖スタンダールことアンリ・ベールが、南フランスのグルノーブルに生まれている。

1.22 アンペール誕生
 1775年。電流の強さを表す単位アンペアにその名を残すフランスの物理学者アンドレ・アンペールが、リヨン近郊で生まれた。

1.21 ハワイ皇帝カラカワ1世没
 1891年。時に55歳。皇帝にはあとつぎの皇子がなく、妹のリリューオカラニ女王が、53歳で王位を継いだが、1893年白人革命がおきて王制は廃止され共和国となり、1898年にはアメリカ合衆国に合併され、アロハオエの歌声に送られてj女王はハワイを去った。思えばカラカワ1世の死が、カメハメハ1世のハワイ統一以後一世紀に及ぶ王朝の滅亡を予告する挽歌であった。

1.20 宇治川の先陣争い
 1184年(寿永3)。その4年前、以仁王の令旨を奉じて平家討伐の兵を挙げ、見事平氏を都から追い落とした木曾義仲は、征夷大将軍の官を授けられたものの、何しろ焼け跡の都へ5万の大軍を率いて入ったものだから忽ち食料は不足。乱暴な徴発にすっかり人気を落として、今度は鎌倉の頼朝が義仲追討の為に、弟の範頼・義経に6万の兵を授けて攻め上らせる始末。この日、宇治川を挟んで対陣した両軍、寄せ手の中から梶原景季が、頼朝から拝領の名馬磨墨に跨がり、続いて佐々木高綱は頼朝第一の愛馬生ずきに乗って、乱杭や逆茂木に渦巻く急流に乗り入れた。一足遅れた高綱が声を張り上げて、「やあ景季殿、これは、西国一の大河ぞや。鞍の腹帯が伸びて見ゆるが、大事の時に鐙踏み返して敵に笑われ給うな」と呼びかけると、景季、左右の鐙を踏みすかして、鞍の腹帯を解いて締め直す隙に、高綱サッと前へ出る。計られたかと景季も、「いかに佐々木殿、高名しようとて不覚を取るな。水の底には大綱があるぞ」と、気を引いたが、高綱心得たりとばかりに太刀を引き抜いて、馬の脚に絡まる大綱をブツブツ切りながら、巧みに馬を泳がせて、さしもの急流を真一文字に乗り切り、サッと向こう岸に乗り上げるや、鐙踏ん張り突っ立ち上がり、「宇多天皇9代の後胤、近江の国の住人佐々木三郎秀義が4男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。我と思わん人々寄り合えや」と、大音声に名乗ったという。宇治川先陣争いの一席。

1.19 勝海舟没
 1899年(明治32)。咸臨丸出帆の間際には熱病にかかってとても航海は無理と自宅療養中の16日、「今日はちょっと気分がいいようだから、品川まで船を見に行って来る。帰りは遅くなるかも知れない」と気軽にいい残したまま、その足で品川に碇泊中の咸臨丸に乗り組み、アメリカまで往復した海舟は、39年後の同じ日、77歳でこの世を去った。その間には、西郷隆盛との江戸城明渡しの交渉など、例の大胆さに物をいわせる大仕事をなし遂げた。

1.18 牧野富太郎逝く
 1957年(昭和32)。高知県の富裕な酒造家の子として生まれたが、小学校を中退して、好きな植物研究の道にはいり、95歳でこの世を去るまで、一筋に植物採集と分類学研究の道にいそしんだ。1889年、27歳のとき、彼自身が発見したヤマトグサに、Thelygonum japonicum Okubo et Makino という学名をつけたのが、日本人として日本産の植物に学名をつけた最初。爾来、彼が命名した日本植物は、新種1,000、新変種1,500に達し、蒐集した植物標本は、40数万点に及ぶ。

1.17 リシュリュー煙草税を取り立てる
 1629年。ポルトガル駐在のフランス大使で、ニコチンにその名を留めるジャン・ニコが、煙草をフランスに紹介したのは16世紀も終わりに近い頃。それから僅か数十年、一度癖がついたらやめられない哀れな愛煙家から、留めどなく税金を取り立てようと目をつけたのは、さすが切れ者の宰相リシュリィー。

1.16 奈良の県令以下官員さんの鹿狩り
 1872年(明治5)。この日、今の県知事にあたるお偉いさんが数人の官員とともに鹿狩りを楽しみ、数十頭の鹿を射ち止めたと、翌2月の『新聞雑誌』33号に出ている。昔から春日大社の神鹿として大切にされて来た鹿。徳川時代には鹿を殺した者は石子詰めの刑に処するという極端な保護を加えられていたから、そのような迷信を打破するためだと、建前はご立派だが…。

1.15 自分の書を高く買い戻した榎本武揚
 1881年(明治14)。五稜郭の戦いに敗れたあと、明治政府に出仕して海軍卿となった武揚が、ある日、下谷広小路の料亭松源に上がったところ、床の間に、何処かで見たような文字を書いた団扇が立派な掛軸となってかかっている。そこで思い出したのは、まだ小身の旗本であった頃、下谷三橋町の風呂屋左兵衛の2階で、茶汲女と冗談をいいながら、今様の文句を団扇の裏にいたずら書きをしてやったこと。こんな変なものが人眼に曝されては堪えられぬと、家へ帰ると早速出入りの骨董屋を呼びつけ、5円を渡して、かくかくしかじかと頼んだ。さて松源へ出かけた骨董屋、座敷に通されて件の掛軸を見るなり、腹を抱えて笑いだした。「松源ともあろうものが、こんな金釘流の下手糞な字を床の間にかけて置くことがあるものか」とさんざんこきおろした末、25銭位の掛軸と取り替えてやり、65銭の料理代を払って、首尾よく武揚の手に団扇は戻った。差し引き、骨董屋は4円10銭の大儲けであったことは、この日付の『東京曙新聞』に載せられた逸話。

1.14 アコンカグア処女登頂
 1897年。アジアのヒマラヤ連峰以外では最高、標高6,960b(ちなみに、桜島北岳は1,118b)を誇るアンデス山脈の、アルゼンチンとチリの国境に聳えるアコンカグアの山頂を極めたのは、イギリスの登山家エドワード・フィッツジェラルドに雇われたイタリアの山案内人マティアス・ツルブリッゲンという青年。9合目辺りでバッタリと倒れて立ち上がれなくなったエドワードに代わって、唯一人、最後の気力を振りしぼって山頂に到達、石を積み重ねて、「1897年1月14日、我遂にこの山頂を極めむ」と刻みつけて下山。

1.13 玉川上水の始まり
 1653年(承応2)。江戸開府以来60年、井之頭の湧水を引いた神田上水だけでは江戸市民の需要を賄いきれなくなり、幕府が、かねて浄水開鑿を建議していた庄右衛門・清右衛門兄弟に着工を命じたのがこの日。その年の4月から丸1年で完成した玉川上水は、多摩川の水を羽村で取り入れ、拝島・小金井・高井戸・新宿を経て虎ノ門に到り、明治31年に東京市の水道が完成するまで二百数十年にわたって、江戸・東京市民の大切な飲料水となった。

1.12 桜島大爆発
 1914年(大正3)。この爆発は史上最大のもので、桜島の名を世界的なものとした。この日から28日にかけて南岳東側の鍋山から噴き出した熔岩は、幅350メートル、深さ72メートルの海峡を埋め、島を対岸の大隈半島と地続きにした。噴出物総量20億立方メートル、焼失家屋2268戸、死者58人、負傷者112人。 

1.11 謙信、敵に塩を送る
 1569年(永禄12)。越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄とが、互いに覇を競っている最中、駿河の今川氏と相模の北条氏とが、甲斐・信濃へ塩を送ることを禁じて、武田氏の勢力を弱めようとした。その為に2国の領民が苦しんでいると聞いた謙信、糸魚川街道に続々と牛を連ねて越後の塩を送り届けた。その塩の荷が信州松本の城下に着いたのがこの日。人々は心から謙信の温情に感謝して、以後、毎年のこの日を塩市と呼んで祭りを催していたのが、今日の飴市の起源。

1.10 世界最初の地下鉄
 1863年。煉瓦をアーチ型に積み上げた地下鉄が、ロンドンのショップロードからファーリントン・ストリートまで3哩4分の3の距離をつないで、この日から蒸気機関車に引かれた列車が走ることとなった。これは弁護士ピアーソンの発案。ロンドン中央の繁華街は、一般市民の通行を妨げるというので、メトロポリタンを挟んだ2つの駅の間は、汽車を走らせず、乗客は辻馬車で乗り継いでいたのだから、地下鉄の開通は旅客と市民双方に絶大な福音となった。

1.9 横綱谷風、タニカゼに敗る
 1795年(寛政7)。63連勝といえば、1年に二場所二十日興行の当時、3年以上勝ちっぱなしとなる。双葉山・大鵬・千代の富士に先立つ大力士、初代横綱谷風梶之助も、流行り病の風邪には勝てず、現役横綱のまま46歳でこの世を去った。そこで、当時流行した悪性の感冒を、江戸っ児はタニカゼと洒落た。

1.8 小学児童の学齢制定
 1875年(明治8)。「小学学齢ノ儀、自今満六年ヨリ満十四年マデト相定メ候条、コノ旨布達候事、明治八年一月八日、文部大輔田中不二麿」。これによって、戦後の63制以前、尋常科6年・高等科2年の小学児童8年の学齢がきまった。当時のかわいい1年生、今や一人もなし。

1.7 またもやゴールドラッシュ
 1859年。この日、ジョージ・A・ジャクソンという人が、コロラド州アイダホ・スプリングの南、クリア・クリークで、すばらしい砂金の鉱床を発見した。噂を聞きつけた山師たちが、四方八方探し回るうち、5月6日、ジョージ・H・グレゴリーという人が、正真正銘豊富な金鉱を発見した。1848年のカリフォルニアに続くゴールドラッシュ。金ばかりか銀・石炭・モリブデン・銅・鉛・亜鉛と、あらゆる鉱石が発見され、1861年にはコロラドがメキシコ領からアメリカ領に編入されて、今日の合衆国の富を築く基礎となった。

1.6 良寛さん逝く
 1831年(天保2)。唯一着しかない古布子を盗まれても、窓からさし込む月を眺めて、「盗人にとり残されし窓の月」と口吟んでいる事の出来た良寛。里の子供と手毬を突き、村人達の盆踊りの輪にもとけこめた良寛。何ものにもとらわれず、すべてを優しく包み込んだ、越後の聖僧良寛和尚が、74歳でこの世を去った。

1.5 松井須磨子自殺
 1919年(大正8)。『ハムレット』のオフィーリア、『人形の家』のノラ、『ハイマート』のマグダ、『復活』のカチューシャ、数々のはまり役で、新劇を見事大衆のものとした一世の名女優松井須磨子は、その前年11月、流行のスペイン風邪に仆れた愛人島村抱月の後を逐って、34歳を一期に、自ら命を断った。

1.4 ヤーコプ・グリム誕生
 1785年。200篇の口踊童話を蒐めたグリムの童話集で知られた、グリム兄弟の兄ヤーコプが、ライン河に近いハナウの町で生まれた。弟のヴィルヘルムは翌年2月24日の誕生。

1.3 「錦の御旗じゃ知らないか」
 1868年(慶応4)。「宮さん宮さん御馬の前にひらひらするのは何じゃいな。あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか」品川弥二郎作伝えるこの歌。鳥羽・伏見の戦いの勝ちに乗じて、この日、東海道を下って江戸に向かう倒幕の意気熾んな官軍御楯隊の先頭には、菊の御紋章のついた錦の御旗がハタめいていた。

1.2 越後七不思議の1つ「鬼火」の事
 1645年(正保2)。越後の国西蒲原郡妙法寺村の百姓庄右衛門宅の土間に置かれた挽き臼の穴から、何とも異様な匂いの風が吹き出した。試みに庄右衛門、細い竹筒を取りつけ、一方の口に火をつけてみると、灯芯油や蝋燭など及びもつかぬ明るい火が点った。いったん点った火は何日経っても消えそうにない。忽ち近在の評判となり、はるばる山を越えて見物に来る者もあり、越後の七不思議、「地獄の青火」「火の井戸」とも呼ばれて、1786年(天明6)なで142年間も燃え続けていると、橘南谿の『東遊記』が誌している。要するにこれは、油田地帯に多い天然ガス。

1.1 大化の改新発詔
 646年(大化2)。賀正の儀式が終わると、孝徳天皇は国政大改革の詔勅を宣布された。@土地・人民の私有を禁じ、A京師・国・郡・里の行政組織を定め、B戸籍を整備して班田収受の法を行い、C租庸調の課税制度を統一する。公地公民を基礎として、中央集権・官僚支配の国家体制を整える政治の大改革が始まった。


12.31 マティス誕生
 1869年。20世紀前半フランス画壇の巨匠アンリ・マティスが、北フランスのカトウで生まれた。

12.30 ロックフェラー1世、東大図書館を寄贈
 1924年(大正13)。関東大震災のために、数十万冊の書籍とともに図書館を焼失した東京帝国大学は、世界の各国に図書の寄贈を求めていたが、アメリカに派遣された高柳賢三教授が、思うに委せぬ復興計画の苦しさを訴えると、ジョン・ロックフェラーは、「日本の最高学府の図書館を建てるためならお力になりましょう」と、即座に300万円(東京帝国大学の授業料が当時1円)の寄付を約束。

12.29 乃木将軍、凱旋の途につく
 1905年(明治38)「王師百万驕慮ヲ征ス。野戦攻城屍山ヲ作ス。我ハ愧ヅ何ノ顔アツテ父老ニ看エム。凱歌今日幾人還ル」。寒風吹き荒ぶ満州の法庫門を出発して、凱旋の途についた乃木大将であったが、その心中は、旅順包囲その他の激戦に、あたら若い命を散らした幾万の部下のこと、郷里にあるその遺族のことを思って、まさにこの詩の通り、寒風が吹き抜けてゆく思いであった。

12.28 八百屋お七、自宅に放火
 1682年(天和2)。その前年、本郷丸山の火事で焼け出され、家族とともに近くの円乗寺に非難した八百屋お七、お寺に預けられていた旗本の倅生田庄之介と恋仲になった。まもなく家が新築されてお寺を出たものの、庄之介に逢いたくてたまらない。「また家が焼けたら円乗寺に行ける」と娘心のあさはかさ、年の暮れも押し詰まったこの日、自宅に放火した。折からの風に、火の手は本郷一円はもとより、神田・日本橋・下谷・浅草へと広がる大火災となった。ところで、12月28日という日は不思議と大火に縁が深い。1717年(享保2)には、牛込から出火して芝まで長さ2里、幅1里半を灰にし、1854年(安政1)には、神田多門町から出た火が日本橋まで百二十ヵ町を焼き、1869年(明治2)には、元数奇屋町から木挽町・汐留に及ぶ3402戸全焼している。

12.27 小野道風没
 966年(康保3)。藤原佐理・藤原行成とともに三蹟と称せられる能書家道風が、73歳でこの世を去った。花札の絵にもなっている柳に飛びつく蛙を見て発奮したという逸話はともかく、仮名の行成と並んで、漢字の書の国風化を完成した道風の意義は大きい。

12.26 保安条例早くも発動
 1887年(明治20)。その2年前に発足したばかりの第1次伊藤内閣は、この月の25日、日曜日にもかかわらず緊急閣議を開いて保安条例を決定し、この日、その第4条を発動して、内閣を陰謀し又は教唆し、治安を妨害する虞れある者は、皇居を距てる3里以内の地に住居もしくは寄宿することを得ずとして、政府の反対党員294名を東京から追放した。旧幕時代の江戸所払いといったわけ。そのいわゆる危険人物の主なものには、星亨・林有造・中島信行・尾崎行雄・竹内綱・中江兆民・中西辰猪・片岡健吉ら、わが国憲政史上有為の自由主義者が顔を揃えていた。幕末のどさくさに株を買って士族となった伊藤博文だけあって、権力の座に着くと途端にこれ。

12.25 クリスマスの日定まる
 386年。キリスト降誕の日については古来諸説紛々としていたが、273年、ローマのアウレリアヌス皇帝が、冬至際を12月25日と定めたことがある。その後、太陽の神ミトラを崇拝するローマ人が、いつの間にか、太陽再生の冬至祭をキリスト降誕の日と結びつける習慣を生み出した。さて、386年のこの日、「黄金の口を持った者」と言われるセント・ヨハネス・クリソストモスが、生地アンティオキアにおいて、「この日に対する愛は、今日生まれ給ひし者に対する愛のもっとも著しいしるしである」と説教したことから、クリスマスの期日が一定した。

12.24 「聖しこの夜」
 1818年。オーストリアはアルプスの山深いハルラインの村に住む、ヨゼフ・モールという神父さん、真夜中の礼拝の後、心に浮かんだ言葉をそのままに書き留めた。明くるクリスマスの日、友人で、村の学校の音楽教師を勤めるフランツ・クサヴァー・グルーバーに頼み、曲を付けてもらったのが 「聖しこの夜」。

12.23 一番札の富籤(トミクジ)を捨てた貧乏旗本
 1822年(文政5)。江戸は本郷湯島天神の境内で、一番札千両の富籤が賑やかに売り出された。たまたま通りかかったのが井上某という十五俵扶持の貧乏旗本、ついふらふらと一枚の富札を買ったが、なんとそれが一番千両に当たった。ところが、これを知った妻女の松は、「いやしくも旗本の侍たるものが、そのような卑しいことを」ときつい意見。千両の当り札を握り潰してしまった。いくら待っても引き取り手のない千両箱が評判となり、寺社奉行までが乗り出してあれこれ詮索の末、井上夫妻の潔白な行いが公儀の耳に達した。近頃奇特な心がけであるというので、段々に取り立てられ、ついには勘定奉行備前守にまで出世した。人情噺『湯島の富』の由来。

12.22 わが国最初の内閣成立
 1885年(明治18)。大宝律令以来の太政官を廃して、新しく内閣の官制が公布され、即日、内閣総理大臣兼宮内大臣伊藤博文45歳を首班とする第1次伊藤内閣が成立した。以下、外務大臣井上馨51歳、内務大臣山県有朋48歳、大蔵大臣松方正義51歳、陸軍大臣大山巌44歳、海軍大臣西郷従道43歳、司法大臣山田顕義42歳、文部大臣森有礼39歳、農商務大臣谷干城49歳、逓信大臣榎本武揚50歳と、維新以来の大物がズラリ、とはいっても、数え年で平均46.2歳という若さ。近頃の内閣の平均年齢は?              (答:小泉内閣閣僚60.7歳)                   

12.21 『土佐日記』の起筆
 934年(承平4)。「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」と書き出した日記の冒頭がこの日。翌年の二月十六日、懐かしのわが家へ帰りつくまで、土佐の国から五十五日間の旅日記の形をとってはいるが、前土佐守紀貫之が物したこの作品は、年少初心者に対する懇切な和歌入門の手引き書として、国司の腐敗堕落や交通業者の不正利得を批判する社会風刺の書として、また、亡児を悲嘆し老境を述懐する心情告白の私小説として、多角的な目的の下に、戯曲的に構成された創作である。

12.20 年賀郵便の特別扱い始まる
 1899年(明治32)。年々年賀状を出すものが増えて、一般の郵便物を遅延させる傾向が見られたのに伴い、東京郵便電信局では、この年初めて、12月20日から30日までの間、年賀状に限って特別扱いを実施することとした。きわめて評判はよく、翌年からは受付を15日からに繰り上げた。

12.19 世界初の義務教育
 1619年。宗教改革で有名なマルティン・ルターが、小学校教育の義務制を主張し、六歳から十二歳までの子供を対象に、チューリンゲンの首都ワイマールで実行に移したのが最初。約1世紀の後、プロイセンの国王フリードリッヒ・ヴェルヘルムT世の命によって実施された、近代義務教育制度に先鞭をつけたもの。

12.18 西郷どんの銅像除幕
 1898年(明治31)。隆盛自身はすでに亡くなっていたが、親友で枢密院顧問官の吉井友実が発議、三万三千人の寄付を集め、五年の歳月をかけて、上野のお山の西郷どんが完成。因みに、某テレビ局が、銅像にもっともふさわしい人物は誰かという人気投票を募ったところ、全国に二体しか銅像のない西郷どんが断トツの千百余票、二位はグッと下がって二宮金次郎の二百余票、三位は坂本竜馬の百余票ということであった。

12.17 わが国スキーの始まり。
 1910年(明治43)。陸軍省副官竹島常次郎から越後高田第十三師団の参謀長宛に、スキー2個という珍しい贈り物が届いた。当時、スウェーデン駐在の杉村公使から、日本でもスキー訓練を始めるようにと、陸軍大臣宛に送ってきた初の輸入品。日本では最も雪の深い高田が選ばれて、歩兵第五十八聯隊付のオーストリア武官フォン・レルヒ少佐指導の下に、軍事目的をもってスキー術の研究が始まった。

12.16 ベートーヴェン誕生。
 1770年。昔は小学読本の『月光の曲』で名を知られ、今は『第九』で日本人に音楽する心をしっかりと植えつけたルートヴィッヒ・フォン・ベートーヴェンが、この日、ライン川に沿うボンの町に誕生、翌日洗礼を受けた。

12.15 小野篁(たかむら)、隠岐に配流。
 839年(承和5)。その2年前、遣唐副使に選ばれた篁はいったん出帆したものの暴風に遭って引き返し、この年、再び出発することとなった。しかし、大使の藤原常嗣と意見が合わず、病と称して乗船しなかったばかりか、『西道謡』という詩を作って、遣唐使が危険のみ多く実益のないことを諷した。その咎によって篁は、隠岐に流された。百人一首でお馴染みの「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海士の釣り舟」はその時の詠。