古本屋用語と私のものさし
                              

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赤本あかぼんともいう。近世に出された草双紙の一種。延宝期から享保にかけて流行した赤い表紙の庶民・子供向けの本。赤本には刊記がないので、いつごろから出されたか正確には突き止められない。名称は、丹色の表紙を使ったことに由来し、半紙半截二つ折の大きさから、「ひいな本・赤い本」(元禄、享保ころ)と呼ばれる豆本が出され、さらに大判紙半截形の「中本」に行き着く。ページは5〜10丁が基準。内容は、桃太郎・鼠の嫁入り・舌切り雀・文福茶釜などのおとぎ話や、浄瑠璃、歌舞伎に取材したものが多い。版元は、鱗形屋・西村など。黄表紙・合巻を導き出した歴史的意義は大きい。現在では、別の語義で、特価本・ぞっき本をさすことがある。

荒擦れ本出版したばかりの図書にもかかわらず、古本のような感じを与える本をいう。たとえば、資料・古典ものなどの復刻、地図など。

新本古本に対し、新刊もしくは読者の手に触れていなかった書籍・雑誌を言う。新をあら、さらと読むところから、しんぽん・さらほんとも言う。新本屋。

合せ本合本のこと。とくに古本屋などで合本した場合のものをいう。

あんこ@1口もの(一括)の生ぶ荷の中へ、物が良くて市価の比較的安いものを突っ込んで売る本のこと。 A店頭に全集類を積み上げる際にくずれを防止するために挟む間紙。主として新聞紙を使う。別の語義では、和本など袋とじの本の袋の中へツカを厚くみせるために挟み込む紙を言う。 

いき本の新鮮の度。「生きのよい魚」という場合と同じニュアンスの語。生きの悪い本をトロという。中トロ本。

板株江戸時代の版権のこと。『江戸の本屋さん』によると、いわゆる海賊版の横行に手をやいた本屋たちが相談し、他店の書物と同じものを出版することを重板、少し変えただけで出版することを類版と名づけ、いづれも禁止を申し合わせた。元の本の出版の権利を認めるというわけで、その権利を板株といい、それを所有していることを蔵版といった。

いれほんセットものの次本(次号)を埋めて完全揃いにすること。足し本ともいう。まったく別の意味で「入れ紙本」があるが、これは、ふくらまし本ともいい、和本に合紙(反古など)を入れて、主に束を出す目的で行う。有名な例として、関西のある古本屋が、『万象画譜』の入れ紙から北村透谷の『楚因の詩』の数冊分を発見したことなど。

馬食い本の一部が鼠にかじられるなどして欠けているもののこと。馬に食われるとは面白く誇張した表現で、和本の場合は、こおろぎぐいということもある。

うぶい新鮮。顧客から仕入れたそのままの中身を市に出す本のこと。うぶ口とも言う。
 
裏打ち使用したい紙・革などが、その用途に対して薄すぎたり破れやすかったり、透けすぎたりする場合、又はその補修のためにさらに裏に紙や布などを貼り付ける事。薄手の製本資材ならびに、やわらかい糊を用いて行われる。古書(古文書)の虫喰い、地図・絵画・軸物などの補強のために行う。この工程で用いる紙を裏打紙という。総裏打。

大揃い別巻・増冊巻・索引などを伴う複雑な構成の全集・叢書類が「完全揃い」になっているときに敢えて用いる言葉。

置き入札古本業者の市場での入札方法の一種。入札する本に袋をつけて並べておいて、希望の値段を書いて袋に入れ、開札して最高値の人に落札する方法。

奥付け図書や雑誌などの主として巻末に付された、著者・出版社・印刷者の所在地、氏名、版次、刷、出版年月日、定価等の事項を記載したページ又は貼付紙片。わが国では特に法制上の強制に端を発しそれが慣習化した点で洋書の場合と異なる。大岡越前守の「新作書籍出版之儀二付触書」が享保7年(1772)に累犯(海賊版)および幕府批判書の取締り等を図って奥付けを付すよう命じたのが最初とされる。但し、江戸時代以前にも刊記が奥付けの形式になっているものもある。出版書肆のものとしては、元和頃から見られる。これは明治2年(1869)以降、類似の出版条例を経て1897年の出版法に引きつがれ、内務省への納本制度のもとに出版届と一致する奥付けを付すよう規定された。今日では、文庫本・単行本のファッション性にも鑑みて、ほんのトビラ・裏・カバー等に刷り込むケースが見られる。

押目相場が安くなることをいう。

おみやおみやげ。古本市において地元業者が居合わせた地方業者と同値で落札した場合その荷を譲ること。付き合いの一種。

親引き古書市で出品者の止め札の値段にしなかった場合、売らずに出品者が引き取ることをいう。

がいもの古本の市で、ある特定の単行本(セット物の場合もある)を一定の掛か割引した値段で業者に渡すこと。この場合、限定された冊数・セット数が出される。商品は出版社または、取次ぎなどからまとまった数を仕入れた古本屋が出す。出版社が資金繰りか、在庫しらべなど何かの事情によって出す場合が多い。

価格認定書古本の現在流通している値段を書いた証明書類。通常、古書組合などが要求に応じて作成する。図書館では古本の購入や、利用者が紛失させた図書(品切本)に現金で弁償を求める場合や、贈与された図書を評価する際に必要となる。

書入本註記・批評等を書き加えた本のこと。書入れをした筆者、又はその内容によって「書入れ」と称する。筆者本人のものであれば、「自筆書入」、他人の場合は「○○書入」という。古本の例では、名の通った本の中に自筆の書入れ(主に朱色)が有れば、相当な高値がつくことがある。書入れが多い場合は、目録等にただし書きを入れることがある。私のホームページでは『書込み有』と主に表現してあります。

掛安本自社の出版物のうち何点かを、4〜7.5掛位で出す。一種の「つきあい上」の商売で、以前は、すこし大がかりになると貸席などを借り、大広間で展示したという。戦争前のことであり、年の暮れによく催された。

数物主として見切り本問屋(特価本屋)によって超安値で買い取られ、大量に市場に出回った売残り在庫本のこと。みきりほん。

担ぎ屋小卸売業の一種で、小規模のせどり屋のこと。個人で小売書店をまわって注文をとり、又は依頼を受けて商品を取次ぎから小売店に運び、口銭を稼ぎ出す。“買出しメッセンジャー”のようなもの。流通の草創期、戦後の混乱期にはやった。現在では、まったく異なった意味で、宅配便会社と版元・取次・書店がオンラインで連結して本を読者の届ける傾向が現れている。

貫々目方のことで、つぶしともいう。本としては売れない物を紙くずとして処理する場合、「貫々で売る」または「ツブシにする」という。重さ(貫目いくら)で原料商に渡されることからこのように呼ばれた。戦前のパルプ不足のときは、製紙原料の高騰のため、多くの書籍・雑誌が再生紙とされ、「仙花紙」の名称で盛んに用いられた。又、洋装本の専門店でも「大日本史料」(六編ノ第1,十二編ノ第1)などがツブシ(1貫目250円位)として処分されたこともあった。出版社側では、新本を貫々で出す場合には、それが再び特価本で出ないように、本の角を断裁したり、真中から2つに折って渡すのが普通であり、それは現在でも実行されている。かんかん相場。

ききめ個人全集の最終巻「雑纂」・「年譜」など、古本屋はこれを奇貨とし、発行部数が比較的少ないゆえ“ききめ”と称してのちに高値で捌く。いわゆる虎の巻である。又、全集・叢書などのそろいものの場合には、本来価格が安いにもかかわらず、ききめが入っているために高価となるものもある。つまり、ききめは単独では売らず、揃える時の為に保存しておくわけである。
稀覯書―rare book(‐s) 稀書・珍本。まれにしか市場(古書店等)に現れない古書・絶版書のこと。どういう本をrareというかは、個人・図書館等でそれぞれの判断基準があり、又規模によっても異なる。古書店での稀少性についての表現はいろいろの語があり、目録等に添書きされている。英語的解釈では、今まで知られていなかった又は記録されていない、極めて珍しく専門家の手に一生に一度渡るかどうかというほどの稀さなど。極稀本。

偽書偽造書とも言う。あまり価値のない書物を、さまざまな方法で価値のあるかのように見せかけたり、それに似せて作ること。或る人の著書であるかのように、他人が名前を使って書いた本。有名人の名前を使いふざけて本を作ること。にせの書蹟・手紙についてもいう場合がある。また、巻数をごまかして(目なおし)完全のように見せること、他の原表紙・原題簽を添付したりすることも同じ。広義には仮託書・贋本・にせ初版本・海賊版などにも使う名称。

均一本はじまりは、古書店の発生当時からあったとか、戦前の露天(古本)商がゾッキ本と一緒に均一本を扱っていたとか言われる。昭和9年(1934)頃の神田神保町の様子では均一本を扱っている店が1日2円50銭から5円まで売り上げたという。値段は単価10銭、30銭、50銭の3段階であった。現在では「百円均一」をよく見かける。

配り本施本。無料で配った本。自伝・社史・業界史などは大概、この種類に入る。古本の価値としては、およそ認められ物がほとんどであるが、中には、地方紙・地図・統計・白書などに思わぬ値段がつくことがある。

くろっぽい玄人ごのみのする本。刊行後、かなりの年数が経ち、品切れまたは絶版となっていて入手困難な本。これと反対の意味で、白っぽい本という言い方をするが、両者には概して相関関係があるというべきだろう。白っぽい本の中にはいずれ品切れ・絶版すなわち“黒っぽい本”の仲間入りする可能性のものが多くあるということだ。いずれにしても、確かな定義があっての語ではない。

げそる古本屋が、その本の相場値で買うべき本を、下げた値につけること。「○○を買うのに、彼奴はげそった」などの云い方。

下手物古本屋の本筋としては、書物と関係の少ない書画、短冊などをといったが、今日では、それらが十分に価値を発揮するようになった。映画のパンフレット・切手・マッチのラベル・メンコ・古時計・古道具類を主にいう。

元装本その本が発行されたままの姿で、改装されていない本。元装本とも書く。古典籍の場合は、元装本か改装本かは書誌学上、大きな意味を持つが、日本では愛書家が改装する習慣がなく、比較的多くの元装本が存在している。

古物商取締法明治28年3月6日、法律第13号として公布、1〜25条まで、古物商取締細則、明治28年7月26日、内務省令第8号として発布、1〜15条まで。現在では、昭和24年5月に制定された古物営業法全33条に基づいて古本の商売は行われている。(平成7年改正)
弧本―世界中又は日本にただ1冊しか所在の知られていない本をいう。シェイクスピアを例に取ると、1593年刊の処女詩集『ヴィーナスとアドニース』第1版であり、現在オックスフォード大学図書館にある1冊のみ。日本でいえば、キリシタン版の各タイトルなどが、それに該当する(現存本は、断簡を除いて29種)。ただ1つだけ伝わった本。Unique Copy


ごみ本来、雑本を意味するが、市場ではひと山いくらで取引される本をさす。多くは店頭の客よせ様に均一本として売られるが、廉価ながら客が永年探していた本が入っている場合もある。

小向買い市場で品物が落札した後で、荷主のところへ行って負けさせたり、あるいは出品の前に売れ口のよい品を見つけて「注文だから…」などと言って若い者や、商売に甘そうな人の荷を無理やり買ってしまう一種の裏取引。戦前はどこの市でも、市場内に「小向買い禁ず」のはり紙がしてあった。「籠む買」とも書く。別の意味では、予め当方の欲しい本を同業者に頼んでおき、市場を通さずに仕入れる場合にも使う。

私家版民間の個人版のことで、資力のある者が利益を求めずに行った。出版社の前身に位置づけられる。私版は類義。

さしね指値。止め札と同義。古本業者の市で、この値以下では売れないとの意思表示をすることで、入札市の場合に止め札、振り市の場合さしねと呼ぶことが多い。

下見明治古典会(毎年7月開催)、東京古典会(同12月開催)などの大規模な入札会において、出品目録のほとんど全部を展示し、内容・保存の良否などにつき入札希望者(顧客)の検討の参考に供すこと。「展観入札」とも言う。

小便古本業者の市で落札して一度買ったものを、口実をつけて破約し返却すること。古典落語の「道具屋」では、客と新米道具屋のやりとりに返品を受けつけないとの意味で「小便」が出てくる。

しょたれ本商品の価値のない棚ざらし本。又は、新刊本屋で返品不可能になった本をいう(書タレ本)。

資料物会社・官庁・団体等で刊行した図書・雑誌・パンフレット類で、通常の頒布ルートに乗らなかったもの(非売品)で資料的価値に富む文献類。社史・報告書・研究レポート・統計書・年鑑などがこれに入る。東京古書会館では、毎週1回、資料物を専門とする古本業界の市が開かれている。

新書本来は新しく著述・編集された書物または新刊書の意味であるが、「新書判」あるいは新書判の「叢書」の意味で用いられることが多い。B6判よりもやや小型(たて役17p、よこ焼く11p)の本。B判40取りとも呼ばれる(JIS規格外)。昭和13年(1938)、岩波新書がこの版型で刊行されたことに由来する。内容は比較的軽い読物ながらロングセラーとなるものを収めた叢書。

本の背表紙のこと。私のホームページでは、「背ヤケ」、「背傷み」の表現を用いています。「ヤケ」は陽や蛍光灯などにより焼けてしまったもの。「傷み」は角がなくなっていたり、キズがついてしまっている事。破れていたり、切れている場合には「ヤブレ」、「キレ」という表現を使っています。

絶版出版・発行を取り止める事。種々のケースがあるが、経営上の理由のほか、近世(江戸時代以降)では、権力側の忌諱に触れ、思想・風紀を乱すとして絶版を命ぜられたものも多い。又、著者との合意もしくは対立などにより処置される場合もある。絶版になった本を「絶版本」(絶版書)という。

セドリ
競取り・糴取りとも書く。明治初年の古書籍の流通機構は、今日のような市場は考えられず、不定期の“市”が個々の店などで、臨時に大きな買物があった時に開いていた。琳琅閣の斎藤兼蔵は明治8年に神田淡路町に店を出す前はセドリの師匠に従い荷を背負い、市内を回っていた。又、文行堂の創業者横尾勇之助も明治9年にはセドリをしていた。別称、さいとりともいう。現在の語義は、古本業者又は顧客の中間に立ち、注文品を尋ね出して、売買の取次ぎをして口銭を取ること、またはそれを業としている人をいう。

線引
前の持ち主により、ペン、あるいは鉛筆などにより線が引かれてある状態のこと。線のみならず、書き込みに及ぶ物も少なくない。私のホームページでは、「線引有」、「書込み有」で表現してあります。

ゾッキ本出版社の倒産・行きづまり又は何らかの経営上の政策によって大量に捨て値で投げ売りする本を言う。扱う業者をゾッキ屋ともいうが、おしなべて「廉価本」と呼ぶことが多い。語源は、そぎや=殺屋の転換とも、そっくり(まるごと)買い取ることからきたともいわれる。(カズ物・見切本)

蔵書印本の所有者が、その所有権を明らかにするために押捺する印判のこと。図書印・収蔵印。その目的は集書の散逸を防ぐことであるが、別にその図書が自分以外の者の眼に触れることを意識してなされる場合もある。この習慣は中国から移入したものと考えられるが、意匠・字体などは、わが国において発達した。高山寺・温古堂文庫・和学講談所・青洲文庫など。又、蔵書印を捺印した紙片を「蔵書票」として使用している場合もある。これは西洋に古くから行われ(15世紀頃、独)、発達したものと考えられ、明治時代の洋装本に種々の貼付が見られる。使用時期のはっきりしているものとしては、永承6年(1051)日野資業が造った「日野法界寺文庫」の蔵書印や「金沢文庫」本、「野之国学」(足利学校)の印などが古いものとされる。私のホームページでは、「蔵印有」と表現しています。

出箱古本屋の店先に置き、反古類・夜しまいこんだ暖簾などを入れておいた箱。出箱には2種類、横に使うものと縦に使うものとがあった。模型の箱の表面には、古本売買というような文句を書いた紙を張り付けて一種の看板がわりにもした。立ての箱は、4本足の台や下の開いた据台の上に乗せて店先に置かれた。店内の側に4、5寸四方の穴があけられて、そこから紙クズを入れ、紙クズかごの代わりにもした物だが、屋号などを記して、客の目を引く役目を持っている。浅井了意作といわれる『京雀』(寛文5)には出箱の挿絵がある。

建場くず屋の問屋の意味だが、単なる問屋ではなく一種の金主的存在とみなされる。何人かのくず屋を専属でかかえておき、毎夕集めてきた古繊維・金属・本・雑誌などさまざまなものを仕分けして、重さにより又、相場によって建場の主からお金を取る。青木正美によると、昭和28年〜30年頃で紙(本・雑誌のこと)が1貫目60円から100円位だったという。もちろんこれには内容の価値・性質などが一切勘案されることがない。また、すでに建場には古い業者(たてば回り)が入り込んでいて、新参者はなかなか入れない所もあったという。ここで文庫本・マンガ・読み物・教科書等で商品になりそうな物を掘り出し、まとまった数を古本屋または、組合に所属していれば古本業者の市場に持込む場合がある。稀にはこの中から値のはる書籍・自筆物が発掘されることがあった。『ふらんす物語』初版も建場から見つかったといわれ、最近では、斎藤茂吉の手紙・診断書などの重要な資料が市場に持ち込まれた。たてばを巡回することを、たてばまわりという。

断簡切れ端・切れ。庫書籍・古文書などが、一部分残存したもの。数枚でもいうが、大体は1枚程度。書物愛好者が、一片の紙屑に過ぎないようなものを襲蔵すること。屏風や唐紙の下貼り、本の表紙裏などには、往々にして意外な物が潜んでいる。林若樹の蔵書中にあった大阪合戦の一枚摺りは先人が元和の古写本の表紙裏から発見したもので、大田蜀山人の識語がつくという珍品。洋装本が出版物の主流を占めるようになってから、こういう発見は少なくなって、たまに本の背中の壊れた所になにがしかの活字が見える程度である。

疲れ本保存が悪く、しわがより、けばだっているような主に和本をいう。くたびれた本。

つんどく「学鐙」(明治34・11)に「書籍つんどく者を奘説す」という一文が掲げてあって、音読・黙読以外に、書籍につんどくありと書かれている。この言葉を拵えたのは、田尻北雷だといわれている。この語はたちまちのうちに広がった。「濫読」などにかけた洒落。「積読」。

でなおり古本業者の市(振り市)で、せり落とされた本に欠陥があったり、買手側の事情(知識不足など)で落札の権利を放棄するか、高値で発声したので値引きを求めて再び“せり”にかけることをいう。でなおりは1回だけで、その本は、最初に落とされた値段の範囲で競られる。関西には無い商習慣。また、大揃いの品物に細かい欠陥があっても出なおりを認めないことを「死にきり」という。でなおりをした業者は、その金額にたとえ幾らか上のせされても再度発声することはできない。

手張り古本業者が市場・入札会で獲得する品物を選定する場合、予め各々の顧客からの注文を取っておいて入札値を腹づもりする方法と、業者個人の手元に置いて目録・店頭販売をするやり方があるが、後者の場合を想定して入札値を決めることを言う。従って商品にかける利益を相当に見込んで札を入れなければならないので、できるだけ安値で獲得する原則が働く。

通り物名の知れて売れゆきのよい雑誌のこと。

止め札入札市における出品者(荷主)最低希望価格を記入した紙片。これ以下の価格では取引を拒否するとの意思表示。荷主の中には、たまに「止め」るのを忘れる場合があるが、それで安く落札されても文句は言えない。

二番札落札された札に告ぐ、2番目に高く値をつけた札のこと。古本業者間の信頼と後の確認のために、二番札だけ封筒に残され、他は捨てられる。

二枚札入札市において、用紙に2通りの価格(上札、下札)を記入させる方式。上札・下札ともにたの競争入札者より高い場合は、下札の値に落ち、上札・下札の中間に他者の上札が入った場合には、自分の上札に落ちる。大位置などで、1点三千円(または、二千円・1千円)以上の書籍に適用され、3万円以上は三枚札、10万円以上は四枚札などの入札方法が取られる。

抜き古書市で成立した売買の記録で、買手の店別に書名と金額を横長の紙に抜書きしたものを言う。大正時代中頃より始まった。

ノリ蔵書の買取り又は市に出す場合、一人の業者では値が張りすぎるが、他の事情から共同で行わねばならない場合、複数の業者で進めることをいう。「相乗り」からきた言葉か。

廃棄本図書館の所蔵本の中で、古くなった本、傷みの激しい本、同じもので重複している本などに、「廃棄」や「除籍」のスタンプを押して廃品回収業者等に払い下げる本のこと。その本が公共図書館の物であった場合、これに対して住民からは、「なぜ市民に払い下げないのか」といった苦情が寄せられる場合がある。図書館側ではいわゆる“チリコウ”に故紙として出したつもりが、珍しい単行本・雑誌が「たてば」から抜かれて、きまった古本業者に売られることもあるらしい。が、一般の会社(の資料室)やマスコミ関係からは、たまに貴重な本が出ることもあり、古本業者・読者ともども発掘の穴場といえないこともない。

ばさねた露天の古本屋などで絵本や特価本の安いものを何冊かセットにして売ること。「ねた」は種を逆に読ませたもの。又その時々、説明しながら売ることを、「タクをつける」という。

バック・ナンバー雑誌の月遅れ号または旧号のこと。以前は売れ残りの2,3ヶ月前の号を割安にして売る方法を取っていた店もあるが今ではほとんどない。今日でのこの言葉の意味は、専門学術雑誌・趣味の雑誌・美術骨董・紀要など利用価値の高い、かつ限定された範囲の読者を対照として、まとまった分量の物を収集し売る場合をいう。

はなごえ古本の振り市で、振り手が最初に放つ金額のこと。振り手側は最低値、古本屋としては高値を意味する。

端本ひと揃いのうち、全部は揃っていない本のこと。特に残存の部分が少ない場合をいう。零本・欠本・零冊・欠書も同じ。『西国立志編』(中村正直訳)に「三十事令を得て零本を買いたりしとなり」とある。欠号の箇所に合紙などを入れて製本する場合があるので、予めよく調べなければならない。江戸時代には端本を専門に扱う「端本屋」も存在した。別に端口(はぐち)という言葉もあるが、これは所謂掛安の本で数も少ないもののこと。

はんこ錦絵の別称。錦絵商・武田泰次郎述「浮世絵商の今と昔」(昭9)によれば、江戸時代から俗称された「印刷(ハンコ)」からきた言葉ではないかという。

一口物市場において、まとまったコレクションが出された場合につかう。概して良好品の山を指す。

ひねる一般にはあまり価値があると思われないが、一部の人(古本業者・マニア)には価値の高い古書に対して、それ相当の又は相場以上の高い値をつけて落札すること。絶版書や類書の少ない本を評価する時に言われる。又、その本を“ひねり本”とも言う。目録などに載せて捌き、変わった値づけをすることが多い。反対に価値の分からない物を市に出し、思わぬ高値で売れた場合に「化けた」という。

広庫出版社と小売業者との通常の取引は、東京では世利帳をもって行われるが、京都ではこの帳面を広庫と呼んで昔から使っていた。語源は不明。

歩金市場・古本業者の交換会で落札した者が、その市会(主催者)に支払う一定の手数料。通常は落札値の5%が多い。市会および場所提供の(主として)組合は、歩金にて諸経費をまかなう。また、市場で最低にゅうさつ値以下となり、出品者が持ち帰る場合に「市」に支払う若干の手数料をひきぶという。

符牒『日本語大辞典』(小学館)によると、その仲間だけに通じる言葉。商人が商品につけて値段を示す印や符号。古本屋の符牒は、オ(1)、コ(2)、ソ(3)、ト(4)、ノ(5)、ホ(6)、モ(7)、ヨ(8)、ロ(9)、ヲ(10)。露天商の符牒は、(1〜10まで)ハイ、フリ、カチ、タメ、レヅカ、ミヅオキ、アッリ、ガケ、ヤリなどがあるが、各書店によって異なる。

振り市古本市で行われる市の方法の一つ。普通に行われる形は三方に買手が座り、一方に振り手や荷出しがいて、振り手が出品された本の書名・著者・発行所・保存の程度などを早口で説明しながら本を見せ、相場の低い辺りから発声する。希望する買手は値段をせり上げ、妥当と思われるところで振り手が、最高値をつけた人に落札する方法。昭和30年代までは、この方法をとる市が割合あったが、今日ではほとんどの市が紙片の入札で運営している。

振手振り市(せり市)において、車座に座る買手を前に、出品された本の書名・内容・特徴などを的確に伝え、買値の発声を促し、本人が適当と思われる値でせり落とす。相当な権限を持った人。公平かつ商品の流通・相場の幅広い知識を持ち、進行することを原則としているが、たまにコネやしがらみなどで、裁量に狂いが生じることも無いではない。

ブロック本木版の版木(block)から印刷した本。鉛活字による活版術が発明される以前、1425年頃から主として南ドイツ・オランダで印刷された木版本を言う。宗教書が大部分で、絵を中心にしたものが多いが、のちには文字が重要視されてくる。『貧者の聖書』は、現存する15世紀のブロック本として名高い。

止め値・さし値以下の札、又は競りにおけるさし値以上の発声が得られない場合、売買不成立のことをいう。語源は、市場の初期において振り市で、山帳と呼ばれる帳簿に書名・落札者名・落札値などが記した時、不成立の場合に墨で太く線が引かれたことからきている。悪い例では、落札した業者が、その本が自分の思惑とは違った時に、故意に傷をつけて「棒」を要求することもない訳ではない。

またぐら古本業者の市で使われる用語で振り市の場合、振り手が自分もその品物がほしい場合または、何らかの情実が動き、ある値段でそれを落札させたい時に、そのタイミングを計り、競り上がっていく途中で振手が相場に達したと判断し、自分もしくは誰かに落とすことをいう。たとえば、買手が1万円位まで行くだろうと創造していた者を3千円で自分に競り落とすことも可能なわけだが、現在では公明正大な市の運営が浸透しており、一種の「不正」とも言える。またぐらはほとんどないといってよい。逆にいうならば、往時は「不正」をそれと気づかずにやるベテラン振り手の熟度がいわれたといえないこともない。

丸本欠落のない、全部(まるまる)揃っている本のこと。足本とも言う。義太夫節浄瑠璃の一曲まるごとの版本をも云うが、もちろんこれは別の意。

虫食い本紙魚などによって穴があいた和本・洋本類のこと。最近では古書目録に、「虫食いあり」と注をつけることがある。虫損本、虫入り本と同義。その度合いにより、大虫・子虫などとも言う。私のホームページでは、「虫損有」と表現しています。

揃い物の巻数、「め」を揃えるという用い方。

持ち込み古物営業法第16条により、20歳以上の人が店頭に本を持ってきた時に、身分証明書・運転免許書・学生証・住民票・外国人登録証などの提示を求めて買い入れること。店買い、とも同義。古本屋が、お客の家へ行って仕入れることを「宅買い」という。

諸製本job bindinng 改装本などのような小部数の製本。数物製本の対語。古雑誌類の合本にも言う。モロ本・モロ。

ヤケ光線(太陽光、蛍光灯)などにより、カバーや表紙、頭(あたま)・小口・地(けした)が茶色に変色した状態。私のホームページでは、「ヤケ」、「少ヤケ」、「微ヤケ」と、その程度により表現分けしております。尚、特にヤケの見られないものは「並」で表しております。

表記 状態
日焼けなどによる変色が特に見られない状態。
微ヤケ 心持ち変色が見られる状態。
少ヤケ 茶色の変色が認められる状態。
ヤケ 明らかに茶色に変色しきっている状態


古書位置で1冊では成立し難い時、同系統の本を一括して入札にかける。それらを山積みにして出品すること。

やまをかくある一山の品を荷主が共同で、5万円の品ならこれを10万円に見積もって、人数が10人ならば5千円をその持ち株とし、それに何度か値を入れ、持株以上に書いた者は勝って儲けることになる。商売上の一種の遊戯。大正の初めから中頃にかけての勝負づくのお遊び的取引といえる。

山帳市場での売買成立を記録する帳簿の一種。横長の一枚紙であるが、取引が増えるにつれて、山をなすのでこの名がついたらしい。

幽霊本実在が疑問とされている本のこと。目録(カタログ)や広告などに記載はあるが、その本または版が実際に出版されたかどうか確実でない場合。または実物は不明だが、確かに出版されたという場合。逸書。明治36年に出版されたはずといわれる『社会主義詩集』(児玉花外著)はその例。

洋本和本・唐本の対で、主として古本屋で使われている用語。洋式の製本法による書物(洋綴じ本・洋製本)をさし、洋書または原書と区別するときに使う。または西洋本の略称。

寄せ本数冊におよぶ書籍に欠本がある場合、別種の本を寄せ集めて完全な形にしたもの。入れ本・足し本とほぼ同義。中国では補配本という。寄せ本は所蔵者が作る場合もあるが、古本屋が取り扱う過程で適宜よせ集めて作る例が多い。

わ印和印・輪印とも書く。古書業・てきやなどの間で春本・春画の類をさす隠語。「わ」は春画の別称。「笑絵」「笑本」「わいせつ」から来たともいわれ、貸本屋の間では文政・天保の頃から使われたらしい。これらは俗悪なわい本ではなく、多少とも芸術性のあるものをも意味する。

椀伏せ古本の入札方法の1つで、紙に値段を書くかわりに、椀の内側に入札金額を書き、開札者(中座)の前に投げて最高値の人に落札する方法。椀の外側には黒漆で業者名が記されており、内側はベタの朱塗り。昭和20年代後半以後、この方法はほとんど行われていない。


版元・文庫・コレクション


愛岳麓文庫[あいがくろくぶんこ]―和文倉の別名を持つ徳川時代の個人文庫。旗本で蔵書かとしてしられた大久保忠寄(酉山)の集書(和書)で、江戸・愛宕山の麓にあったことから名前がついた。寛政5年(1793)、幕府はこの文庫の修繕費用として、100両を養子、大久保主税に与えている。現在、蔵書の一部は国立国会図書館で写本により、その目録とともに所蔵する。『大久保酉山文庫目録』(東京大学総合図書館、写本)がある。

浅草文庫[あさくさぶんこ]―@1875年から1881年(明治8〜14)までの間、東京・浅草蔵前に設けられた官立の図書館。江戸幕府の昌平坂学問所、和学講談所などの和漢の古書11万冊を受け継ぎ、所蔵した。現内閣文庫蔵。
 A江戸時代、浅草に居住していた医者板坂ト斎、大名堀田正盛、御家人木村重助らがそれぞれの蔵書を浅草文庫と称したと伝えられ、また近代の大槻如電もその蔵書印に「浅草文庫」を銘した。


足利学校[あしかががっこう]―室町時代初期、上杉則実が下野国(栃木県)足利に創設した漢学を学ぶための学校。禅院の形をとり又、室町時代後半では、戦国武将の師傳を養成するなどの功績を挙げた。足利学校に伝存する漢籍を校訂に使用して足利本と呼ぶこともあるが、いわゆる一般書は含まれない。

アーネスト・サトウ蒐集書[あーねすと・さとうしゅうしゅうしょ]―文久2年(1862)、19歳で外交官として来日したサトウ(日本名、佐藤愛之助)が、滞日中に収集した和本群で、現在故国(イギリス)に1200部(5000冊)が残されているといわれる(大英博物館、ケンブリッジ大学)。当初、日本語を学ぶために集めたとされるが、この中には平安朝よりの古版本から、慶長頃の古活字版までもが含まれる。(古活字版『落葉集』『太平記抜書』など)写本・歌書・朝鮮の古版本などがあり、最終的には著書『切支丹版書志』としてまとめられた。

射和文庫[いさわぶんこ]―竹川竹斎(政胖1809-81)により建てられた組合図書館式の文庫として有名。竹斎は、伊勢国射和に生れ、長じて郷土の民生福祉に努め又、佐藤信淵について殖産・経済を学んだ。文庫創設の動機となったのは、時すでに幕末に近く、黒船の来航など国情騒然たる中で、急務である富国強兵の基礎として図書館の必要性を考えたからである。文庫は、竹斎を中心とする有志の結社として出発したものを、後に村民のために公開した公共性をもつ組合図書館。荒木田久老・足代弘訓らの国学者から寄贈を受けたその内訳は、竹川政信(500巻)・西村博美(1000巻)・竹口信義(1000巻・蝦夷関係)など総計2万巻に近いと推定される。明治に入ってからは、教育改革等の理由で文庫は閉じられ、蔵書のうち5500巻は度会県(三重)に寄贈され、三重県に移管されたが、5000冊の貴重な図書は公売に付されたといわれ、他のほとんども散逸した。

維新史料編纂会[いしんしりょうへんさんかい]―明治43年(1910)6月に設立した明治維新史の編纂機関。井上馨・伊藤・山県らの組織した彰明会が母体となる。44年6月、編纂事務を開始し、大正2年(1913)10月、第1回の稿本を提出する。これより同6月に至るまでに完成した稿本548冊、7月より10年4月までに完成したもの1136冊であった。昭和8年(1933)、事務局は文部省内に移った。24年4月史料編纂所に合併し維新資料部を設けた。『大日本維新史料』『大日本維新新史料綱要』『概観維新史』などを編刊した。会の報告として『顧問及び委員会紀要』がある。

出雲寺和泉掾[いずもいずみのじょう]―江戸初期から明治に至る京都の書肆。号は松柏堂、通称文治郎。8代目まで続いた。2代目は江戸の出店し、幕府の御書物師を命ぜられ、仏教書を主要品目としたが『武鑑』も出版した。京都の店は、はじめ今出川にあったが、のちに三条高倉東入ルに移る。江戸は日本橋周辺。出版物は、漢学・有職・歌書・物語がほとんどで、『白氏文集』『延喜式』『源氏物語』『栄花物語』などがある。弘文堂の八坂家は、出雲寺の縁戚から明治になって独立した版元である。

入江文庫[いりえぶんこ]―戦前の材木商・入江家(兵庫県)収集の明治物を中心としたコレクション。古版本では『法華経音訓』、明応版『論語』など。又西鶴のものも有った。全体は昭和21年から24年にかけて古書の市で入札され、総額120万円以上になった。出品に際しては弘文荘・八木書店・ロゴス(神戸)の3店のノリで取引された。この売立ては明治本・限定本の市として、質量ともに未曾有のものといわれる。

入銀[いれぎん]―江戸時代に新刊書の購買を予約し、そのため若干予納するという意味から「予約新刊書」の意味に用いる。明治以降、新刊書を予約すれば、普通の取引よりも発行所が若干割引きして販売業者に渡すこととし、出版元は新刊書の見本と入銀帳を持って注文とりに歩いた。この場合の商品は買切り品で、返品はできないものとされていた。(栗田確也『私の人生』昭和43)

岩崎文庫[岩崎文庫]―大正年間、男爵岩崎久弥が、植物学者・官僚の和田維四郎の求めに応じて出資し収集した文庫で、現在は東洋文庫(東京・文京区)に移譲されている。各種の善本に富み、広橋家・木村正辞等の蔵書一括もある。また和田維四郎没後、その蔵書「雲村文庫」も併収した。東洋文庫には、この他久弥が1917年に購入したG・Eモリソンが20年余にわたって収集したヨーロッパ語文献2万5千部も収蔵されている。

内野皎亭文庫[うちのこうていぶんこ]―本名内野五郎三。下総の滑川家出身で漢学の素養があり、主として江戸初期の漢詩文集、官版などを収集した。明治43年、伯爵田中光顕から稀覯書17部(切支丹版太平記、春日版法華経等)を貰い受け文庫を充実させていった。しかし没後、昭和11年6月・同9月、古書業者の入札によりコレクションは阪本龍門文庫・静嘉堂文庫・天理図書館そのほかに散逸した。

芸亭[うんてい]―奈良時代末、大納言石上宅嗣(729〜781)が創設した文庫。日本最古の公開図書館である。芸亭院ともいう。『続日本紀』によれば、宅嗣は自宅を改造して阿シュク寺を建て、寺の一区域に芸亭をつくり、好学の者に本(儒書が多い)を閲覧させた。加陽豊年は、ここで群書を閲読したと伝えられる。場所は平城京の左京二条、法華寺の南東にあったらしい。だが、天長5年(828)に空海が作った「綜芸種智院式」によれば、平安奠都の頃にはすでに、芸亭は無くなっていたという。名称は、紙魚の予防薬、芸香葉殻とったとされる。

大阪本屋仲間[おおさかほんやなかま]―元禄10年11月、月行事の役割が設けられ、本仲間の所持の斡旋を行った。これには24名が参加し、後年の大阪本屋仲間創成のもととなった。享保8年、大阪町奉行所に行司公認の申請を出し、12月仲間制度が確立した。当時の組合員は32名。同20年には、仲間株を定め、非組合員の業務停止を決めた。(但し世利子は特別扱い)即ち、素人出版の場合は、諸々の条件により、本屋仲間の“支配”を受けることが余儀なくされたのである。

大島青谿書屋[おおしませいけいしょおく]―三井合名理事だった大島雅太郎のコレクション。国文学の古書を主として収める。『古今訓点抄』1巻・『大鏡』古写本・『爺雲御抄』鎌倉写本・『古今集』(弘安3、正安1)・『伊勢物語』古写本、『源氏物語』零本八集、などと高野版『性霊集』10巻、五山版にも稀覯書が多かった。敗戦後まもなく、貴重書は、村口書房・弘文荘等に売られた。

大田南畝旧蔵書[おおたなんぽきゅうぞうしょ]―江戸時代後期の文人(1749-1823、蜀山人四方赤良)。幕府の役人として生涯を終えたが、蔵書家として又、本の抄写に精励したことでもよく知られる。その蔵書は歿後、間もなく散逸しはじめ、今日では、その全容を知るには『目録』よりほかにはない。目録の第一は、川瀬一馬校訂解説『南畝文庫蔵書目』(昭10、日本書誌学会)である。これは、山崎美成手写本(森銑三は否定している)に南畝が自筆で校正加筆した『南畝文庫蔵書目』を、加藤直種の校正写本5冊(明29)のうち前者を底本としたもの。

大鳥圭介の活字[おおとりけいすけのかつじ]―明治時代の役人(外交官)大鳥圭介が、江川太郎左衛門の創設した兵学塾(後の幕府陸軍所)の命を受けて翻訳した『築城典刑』(1866)の印刷に用いた活字で、大鳥の工夫による。鉛鋳造の説と錫の彫刻活字説の2つがあるが、この後の大鳥の転身により技術は絶えた。

小汀コレクション[おばまこれくしょん]―ジャーナリスト、経済学者である小汀利得(1972年没)が昭和10年代からコレクションをはじめていた古典籍の総称。もっぱら趣味と経済変動(インフレ)対策のために書物として価値のあるものに収集の重点をおいていたといわれる。没後、昭和47年5月、八木書店・弘文荘などの業者の手で三越で即売にかけられ散逸した。その時作成された目録には、外国書・国宝・重文級の文化財、寄贈書・雑誌類は含まれていなかった。コレクションの目玉としては、五山版・古活字版・江戸期刊本(絵入り本が多い)などのほかに、仏書・漢籍・国書の類も多い。又、写本・自筆本にも見るべきものが多かった。

学問所改[がくもんじょあらため]―黒印の一種。江戸時代末期に書籍を出版する場合、その内容を昌平坂学問所で検閲したが、その検閲済みの証拠として原稿本に「学問所改」と押した。

我自刊我書屋[がじかんがしょおく]―明治時代前半(明治13〜18年)にかけて、甫喜山景雄により、あらゆる重要な古書が複製・刊行された。『武江
年表』続編、『徳川実記』附録など新しいものも含まれたが、活字本の厳密なる校訂は、当時無比といわれた。明治期の古書保存史上、近藤瓶城(『史籍集欄』、『存採叢書』の刊行者)の仕事と並んで特筆される。ほかに『嬉遊笑覧』『古今要覧稿』『正統三王外記』などがあるが、最大の特色は、この書屋の裏方に関直彦・福地桜痴・大槻修二らがいて、積極的に応援したことである。

活版所[かっぱんしょ]―蕃所調所の活字方を継承した文部省所管の活字製作所。明治4年(1871)、文部省の設立と同時に神田和泉町の旧藤堂藩邸跡の東校構内に南校内の活版諸設備を移して文部省直属の活版所とした。同年10月、上京中の本木昌造に活字御用を命じたが、本木は部下の小幡正蔵を上京させ、東校に隣接して小幡活版所を開いた。この活版所から出版されたものに『解体学語箋』、『独和会話篇』がある。

霞亭文庫[かていぶんこ]―小説家・渡辺霞亭(1865-1926)のコレクションで、昭和2年6月に売り立てに出された。江戸文学一般書に特徴があるが、古版地誌類(『奈良名所八重桜』延宝8など)にも見るべき物が多い。古俳書は、東大図書館が購入し()、それ以外のものは、鹿田松雲堂・村口書房・だるまや・細川知淵堂が札元となり売られた。当時の出来高は4万数千円。

狩野亨吉蔵書[かのうこうきちぞうしょ]―明治・大正・昭和にわたる思想家・教育者狩野亨吉の書籍収集癖は、大学生時代から始まっていたが最高潮に達したのは一高校長時代である。その後経済上の理由で蔵書一切を処分せざるを得なくなり、一部を東京・東北・九州の各帝国大学に分割し、さらに古本業者(市場)で売り立てられた。また、売り立て時に玄人達が珍しい物、目ぼしい物いついて狩野に尋ねたが、一々その本の来歴や内容を説明したので本屋仲間も驚いたという(渡辺濤大『人類の三大妄想』より)。「狩野亨吉氏は、特殊の性格と能力とをもって…古本通の権威という形になり、古本では如何なる書でも一見して識別することが出来るといわれる」三宅雪嶺『自分の同窓』より)。

カバヤ文庫[かばやぶんこ]―カバヤ製菓鰍フキャラメルに入っている〈文庫券〉を貯めた客に進呈した小型の本。昭和27年8月に、第1巻第1号として『シンデレラ姫』が発行された。なお、正式名称は、第1巻12冊が「カバヤ児童文庫」、第2巻〜12巻は「児童文庫」である。全159冊が週刊のペースで出され、最小の部数でも5万部、人気のある本は50万部も出たといわれる。内容は、ほとんどが版権の切れている子供向きの翻訳物だが、必ず序文をつけ、当代一流の文学者に原稿依頼をしていることが特色である。

鎌倉文庫[かまくらぶんこ]昭和20年(1945)5月設立。鎌倉在住の作家久米正雄・川端康成・大仏次郎・小林秀雄・高見順などが集まって蔵書を提供して貸し本屋を開き、書物に飢えている青少年達に提供することを目的とし、かたわら幾らかの収入をあげようとした。死の床にあった島木健作もこれに応じた。同年9月には東京に進出して出版を始めるようになる。久米が社長となり雑誌『人間』も発行した。

紙屋院[かみやいん]紙屋。奈良・平安の頃になると、仏教文化の盛隆に伴い、諸文化・工芸などが生まれ、付随して製紙の業も全国で興った。中でも平安時代には官立の製紙場として、京都・紫野の川辺に紙屋院が設立され、御所の用紙を抄造した。今でも紙屋川(桂川の支流)の名が残っている。

官刻本[かんこくぼん]―官府で出版した本のこと。官版・官刊本と同義だが、実際の用例としては、官版は江戸幕府の出版物を指し、さらに昌平坂学問所の出版物を特定するもの。

北野御文庫[きたのごぶんこ]―京都・北野天満宮の書庫名。元禄15年冬、菅原道真800年祭が行われた時に建築されたといわれる。天保6年、大修理が加えられ、さらに大正15年に現在の位置に移築された。明応版『論語』、嵯峨本・謡曲本・『北野天神縁起』(巻冊数不詳、弘安本)などの善本を所蔵する。『北野文庫書目伊呂波引』(明15)・『北野天満宮奉納書目』(寛保3)がある.。

京都書林十哲[きょうとしょりんじゅってつ]―江戸時代(元禄・寛永期)京都における中心的な仕事を為した書物屋のこと。林白水(歌書)・平楽寺(法華書)・風月(儒医書)・武村市兵衛(有職書)・田原仁左衛門(禅書)・前川権兵衛(真言書)・中野小左衛門(真言書)・西村九郎左衛門(一向宗書)・金屋長兵衛(謡本)の10軒。

京都本屋仲間[きょうとほんやなかま]―正徳6年(1715)、幕府より公認を得る。200名。江戸は享保6、大坂は享保8年。業務の内容は、輸入唐本類の取次販売、寺院・個人等の出版物営業、それに古本としての書籍および筆写本類の売買である。

玉淵叢話と三木佐助[ぎょくえんそうわとみきさすけ]―幕末から明治にかけて大阪で出版業と籐商、楽器商を営んだ三木佐助(京都府より大阪へ出、三木家の養子となる)の自伝書が『玉淵叢話』である。玉淵は三木の雅号。内容は岡島真七の偽版紛議事件、文部省出版物の払下げ、英語辞書の話等が書かれてあり、幕末から明治の大阪書籍業界の実情、日本の西洋楽器製造史の発端などがこと細かに書かれている。また当時の丁稚生活の回想や大阪風俗の変遷も興味深く描かれている。明治出版史を探る貴重な文献といえるだろう。復刻版がある。(『明治出版史話』)

キリスト教書売捌所[きりすときょうしょうるさばきしょ]―明治20年頃の状勢として、警醒社(東京・日吉町)・銀座十字屋(銀座3丁目)・十字屋書店(神田錦町1丁目)・神谷書舗(金六町)・愛友社(神田亀住町)・誠屋(錦町)・池田平三郎(麻布飯倉片町)・長谷川角介(南小田原町)・福音社(大阪土佐堀)・上田済生堂(心斎橋筋安堂寺橋角)・クリスチャンポート(西京寺町角今出川)・米山定昌(静岡江川町)・石黒忠一郎(仙台東一番町)・上山勢(神戸下山手通)・茂木喜平(安中)・文江堂(前橋曲輪町)・田村束穂(青森)・興分堂(名古屋)などがあった。

禁書目録[きんしょもくろく]―江戸時代中期以降(明和8年)のキリスト教関係・反権力的なものを中心とする出版物で禁止に付されたものの目録。内容は5つの項目に分けられ、貞享年間の禁止ヤソ本、偽書・好色本の禁止、版権侵害書などを主な項目とした。近年、徳川(尾張家)蔵本中にも禁止本の何点かが見つかっている。『目録』の複製がある。

九条公爵家コレクション[くじょうこうしゃくけこれくしょん]―五摂家の1つ、九条道隆を祖とする九条家道真のコレクションで、公家の中では近衛家に次ぐぼう大な書物を持っていたといわれる。昭和4年12月に続いて敗戦後(22年1月)、これらは処分された。目録を作らなかったので詳細な記録は残されていない。

朽木文庫[くつきぶんこ]―幕臣朽木兵庫助綱泰(嘉永5年没)の所蔵した文庫。内容は近世に関するもの約3万巻で分類は32條におよび、国史・律令・公事・家記・補任・地史・兵書・分限帳など多岐にわたる。津田平正路の遺すところによれば、綱泰の家では毎月2回集会があり、所謂勉強・写本の会であったようだ。『朽木文庫書目』などがある。現在、内閣文庫に納められている朽木文庫は、国書のみで漢籍はない。棚別目録『朽木家蔵書目録』が国立国会図書館にある。

宮内庁書陵部[くないちょうしょりょうぶ]―明治17年(1884)8月に設置された宮内省図書寮が前身である。歴代の皇統譜、皇室典範の正本、詔勅、皇室令の正本、御料台帳関係、天皇・皇后の実録編さんと皇室図書の保管などの役割をもつ。図書寮新設以後、壬生小槻家の官務文庫(明21)・古賀家万余巻楼蔵書(明23)・徳山毛利家の棲息堂文庫(明29)・伊勢藤波家蔵書(明42)・土御門家蔵書(大5)などの献本があった。殊に、紅葉山文庫、昌平黌旧蔵本は、その一部を引きつぐ(ほかは内閣文庫に移管)。

久原文庫[くはらぶんこ]―現在の大東急文庫(東京・世田谷)のことで、久原鉱業社長、事業家で後に政友会総裁となった久原房之助(1869〜1965)の文庫。大正時代に久原の資金を持って和田維四郎(雲村)が収集した。

黒川家文庫[くろかわけぶんこ]―江戸浅草居住、黒川春村・真頼・真道の祖子3代の蒐集になるもの。国学・歌文学の分野において、その価値は個人所蔵のものとしては横綱格といわれる。蔵書はすべて24種目に整然と分類されて2棟の書庫に納められていた。朝鮮活字『龍龕手鑑』のような希覯本も少なからずあったが、特に小山田与清・村田了阿・岸本由豆流など多くの国学者の自筆稿本は貴重であった。大正大震災の羅災でほとんどを焼失したが、承久の奥付のある『伊呂波字類抄』(最古の写本)が残ったのは軌跡というべきである。

ケルムスコット・プレス英国の思想・随筆・工芸家ウィリアム・モリス(1834-1896)が、理想の書物制作を志し、1890年に、ロンドンに設けたプライベートプレスであり世界の三大美本といわれる。名前は、モリスが自邸を、ケルムスコット・マナア・ハウスと呼んだことからついた。ここでは3種類の活字=ゴールデン、トロイ、チョーサーを新たに作り、用紙・印刷・製本にまで特に気を遣い製作した。全部で53点67冊が確認されている。なお、このプレスより以前に、C・Hダニエルズによるプライベートプレスらしきものがつくられている(1845年頃)。ケルムスコット・プレスの白眉は『チョーサー著作集』1巻(1896刊)である。ほかに『地上楽園』(1〜8巻)、『キーツ詩集』、「トロイ戦史抄」など。モリスの活動は、日本にも影響を及ぼし、柳宗悦・壽岳文章らの“民芸運動”、向日庵私家版の刊行とも二重写しとなる。

兼葭堂版[けんかどうばん]―徳川時代中期、天明頃から寛政、・享和期にかけて、大阪において博学多識で知られた兼葭堂木村巽斎が、往時の善本を校刊し又、知己の著作を出版したもので、10種余が数えられる。本そのものとしても、刻字はきれいで、装釘の典雅であることから、徳川時代以降の出版物の中でも特筆に値する。病弱であったため、本章に詳しく、研究のために資料を多く収集した。それらは、単なる趣味好事的なものではなく、一流の博物学者の域にまで迫るものである。主要な刊行物は以下の通り。昨非集(宝暦11)・山海名産図会(宝暦)・煎茶要訣(明和1)・尚書大伝(明和5)・尚書大伝孝異・沈氏画塵(明和6)・エン山園記註(明和7)・大同類聚芳(安永2)・国姓爺全伝(安永3)・片玉六八本草(安永9)・六物新誌(天明6)・一角纂考(天明7、寛政7)・絵鄙事言(寛政11)

原稿の著作権[げんこうのちょさくけん]―昨今の古書展ばやりの中で、作家・著述家の肉筆原稿・私信が出回ることが多くなった。著者にとっては余り快いことではなかろうが、著作権法上でいえば、原稿は譲渡されたものではなく、出版社は複製の進行中これを預かるだけに想定される。終了すれば当然著作者へ返却すべきものである。入手した他人の原稿は、愛蔵しているだけならよいが、これを複製もしくは公表するとなると著作権への考慮が必要となる。ちなみにフランス法(著作権法第55条)では原稿の著作権所有が明示され、またドイツではきわめて厳密な条項を設けて著作者を保護している(出版法第27条)。

原稿料の始め[げんこうりょうのはじめ]―餐庭篁村(「あふひ」所収)によると、「江戸には狂言作者のほか、作者を以って家をなすものなく、安永天明の黄表紙洒落本もみな通人の慰みのみ、当り作多き作者も出版書肆よりその書の幾部と同書肆より出版の絵又は小冊を贈るに過ぎず、寛政3年の春、蔦屋重三郎より出版せし京伝作の『娼妓絹篩』に、蔦屋より潤筆として、京伝へ金千疋贈りしが、すなわち作料の初めなり」とある。

古義堂文庫[こぎどうぶんこ]―儒学者伊藤仁斎および東涯の私塾。堀川塾(現京都市中京区)とも言う。江戸中期より明治まで、多くの学究を輩出した。又、仁斎・東涯以来8代、250年の著作はほとんどが古義塾蔵版として出版され、近世出版史の貴重な文献とされている。昭和16年から20年にかけて、仁斎以後の蔵書一切を天理図書館へ移譲した。当時の価額で5万円という。

小寺玉晁旧蔵本[こでらぎょくちょうきゅうぞうぼん]―江戸時代の随筆作者。生没は寛政12〜明治11(1800〜1878)。晩年は、尾張国春日井郡に住んだ。貸本屋大惣の下請筆耕などをして報酬を得た。『尾張芝居雀』『見世物雑誌』など著作は150種に上る。蔵書は没後、明治4年に名古屋・豊田書店の取扱いで世に出た。筆写本が多かったが、板本の中には『東海道名所記』『世間胸算用』『男色ます鏡』『伊勢物語』(光悦本)など優れた物も多く、又古浄瑠璃、役者評判記の類も多い。写本の主なものは、早稲田大学図書館へ入った。『連城文庫目録』(自筆の玉晁蔵書目録)がある。

古筆見[こひつみ]―平安時代から室町にかけての歌集・物語・経巻などを、数行または一葉に切断した古筆を見て、その作者・年代・価値などを鑑定すること、または人。古筆とは、特に和洋の書や、かな書きのものをさし、桃山時代以降は、茶道の流行に伴い、観賞用として愛好された。古筆了佐以来、古筆家(2系統)の専業とされ現代に受け継がれる。『浮世草紙』(新可笑記)『柳多留』等に散見。明治維新前までは、古筆見の仕事をする者として大仏師・大経師・筆人・三山絵所・御用誓詞などが奉行支配下にあった。

左翼書狩り[さよくしょがり]―昭和15年7月10日、突然全国一斉に出版社・取次・古本業者から、マルクス主義(経済書)や唯物論・哲学書を始め、左翼書がすべて姿を消した一件。この年は、7月に内閣の交代があり、大東亜新秩序・国防国家の建設を国の方針と定めたことでもあった。

三商取締規則[さんしょうとりしまりきそく]―明治11年(1878)6月、古物取扱業者取締りのために発布された規則。大阪においては、これが後年大阪古書組合設立のきっかけとなり、また本屋を新本屋、古本屋に区別する端緒ともなった。

宍戸文庫[ししどぶんこ]―明治期の本草学者宍戸昌の蔵書。宍戸は尾張の学者伊藤圭介の弟子。蔵書の内容は、植物・産物・魚譜・捕鯨・煙草・料理本など広範多彩であった。また、地誌・琉球関係・洋学資料も豊富。昭和10年と11年の二度、売立てに出された。落札総額は2万6千円。

地本問屋[じほんといや]―江戸時代、浄瑠璃や草双紙・浮世絵・よみ物の類を刊行した本屋をいう。草双紙絵草紙屋とも呼ぶ。これらは、書物問屋仲間・書林仲間などとは別の仲間組織をつくった。

洒竹文庫[しゃちくぶんこ]―俳人・医者大野洒竹(豊太、戸川秋骨の従弟)が明治30年頃より集めた俳書(三井銀行・斎藤銀蔵旧蔵本)および古書の一括を、大正3年に古書業村口半次郎(浅倉屋も鑑定に加わる)が買い入れた(総額1万円)。勅版四書孝経・田舎源氏草稿・芭蕉自筆物などの珍本が多く、最終的には安田善次郎と東京帝国大学図書館に収まった(安田善次郎本と研究室以外の帝大の本は関東大震災で焼失)。しかし、洒竹文庫の蔵書印のあるものは散逸して市中にも見られ、笹川臨風、沼波瓊音など関係者も所蔵した。なお旧所蔵者自身は蔵書印を押してはいない。横本の元禄以前の本には柳亭種彦の書き入れが多い。北村季吟『師走の月』板本・写本の2部、勅版四書孝経・田舎源氏・本朝度量権衡考、宋版文選などは大野の没後、大正3年1月に村口書房(村口半次郎)が譲り受け(1万円)、和田維四郎・徳富蘇峰・水谷不倒らが買った。又俳書は別口として一括で大正5年、東京帝国大学が購入した。この中には蕪村ら俳人の真蹟も多い。

集書院[しゅうしょいん]―明治6年(1873)4月、京都市内東洞院三条上ルの旧尼宮曇華院跡地に創立した、有料の図書館。梅辻平挌・三国香眠・村上勘兵衛・大国屋太郎左衛門の4名がそれぞれ百円を出し、集書会社を設立して院を運営した。のちに京都府立となる。図書は、皇室かまたは御文庫の書籍を借り出した。内容は、和漢書・西洋の翻訳書・新聞類などであり、その内訳は、和書1503冊・外国書6120冊・国内写本1071冊、計8694冊であった。閲覧する者は、1ヶ月1朱で読書通券を買った。又、院の蔵書を購入できる制度も作った。尚、同じ年には、6項目の集書院略則を設けている。しかし新しい試みではあったが、利用者が少なく、同15年閉鎖した。(『京都府教育史』)

重板事件[じゅうはんじけん]―または類板事件。明治維新後、いわゆる海賊版は後を断たなかったが、中でも福沢諭吉の『西洋事情』は、明治初年大阪で発見され又、同じ大阪で出版の現場を押さえられた。京都においても『西洋事情』は多く発見されたが、関係者らは処罰されることもなく、福沢はこれが動機となって自ら英国の版権法を翻訳して、出版法規の整備を政府に建議した。別の本では、儒学書・漢籍類・節用集など。これは明治初期に儒学書の需要が急増し、四書五経の重板が頻出したものである。その数の多さは、明治3年の重板書目届出書に詳しい。政府もこれを考慮に容れて明治8年、内務省から版権条令(30年間専売ノ権)が発布されるようになる。

出版月評[しゅっぱんげっぴょう]―日本で初めての書評・評論の専門雑誌。明治20年8月(1888)に創刊され、24年8月終刊となる。全40冊。41号が見当たらないので、これで終号とされる。月評社発行、四六倍判。福本日南・高橋健三・陸羯南・杉浦重剛らの肝入りで発刊した。出版を量よりも質の域に持っていくことを志し、全体を「批評」「論説」「奇書」、内外の出版事情、印刷・図書館関係、近刊の広告と、それまで発行されていた『出版書目月報』(内務省図書課)掲載の出版書目を毎号載せた。依田学海、餐庭篁村などの連載評論も貴重なもの。又、明治12年8月頃からは、二葉亭四迷も編集に参画している。全体に地味な内容ではあるが、同時代の文化界の有様を伝える資料としては必要なものである。復刻出版(龍渓書舎)がされている。

出版条例[しゅっぱんじょうれい]―明治政府による出版取締りのための条例。明治8年9月、太政官布告により改正。書肆に関しいていうと、従来、書林仲間(組合)の下で行われた出版が内務省の認可で誰にでも出来るようになったこと、版権が30年の上限となったことなど、総じてこの仕事が自由競争の時代に入り、書林組合自体が衰退の時代に入ったことを窺わせる。又、江戸の書林仲間筆頭であった須原屋も明治30年頃には廃業に至った。

出版手続(近世)[しゅっぱんてつづき]―江戸時代、寛政の改革以後(1793〜)に書物問屋仲間が扱う書物について見ると、書き上がった原稿は、まず仲間行事に吟味手数料・開版願書とともに提出され、重版・類版・禁令に触れていないかを調べ、場合によっては仲間に廻覧され(廻本)調査した。これをパスすると行事は奥印証明をして願主に許可を出す。行事の手に負えない場合は奉行所に、さらに聖堂の判断を仰ぐ場合もあった。これが済むと株帳に登録され、筆工・彫師・刷師の手を経て製本され本が出来上がるが、その段階で版元は販売許可を求める。草稿とともに提出された本は行事によって検討され、奉行所に1冊献本される。発売許可を得た書物は、はじめて本格的に印刷・製本され、卸・小売店に出されるのである。この許可(添章)を受けていない書物の売買は硬く禁じられており又、他地域で売買を行う場合には、その土地の添章をとらなければならなかった。

出版取締令[しゅっぱんとりしまりれい]―徳川幕府により発せられた切支丹関係書の輸入禁止令と治安・風俗の上で不適当な出版物の取締令をいう。寛文13年(1673)の町触れでは、公儀・庶民ともに迷惑をかけられる様な内容があればすぐに訴えよと書かれ、貞享元年(1684)には、「当座の替えりたる事」等を書くと処罰の対象になることが触れられている。寛政2年(1790)、出版取締りに関する触書があいついで出され、翌年には、蔦屋版・山東京伝作「洒落本」三部の摘発、さらに寛政4年には、林子平『三国通覧図説』『海国兵談』が絶板。板元・須原屋市兵衛は重過料に処せられた。このような厳しい言論出版統制のなかで出版を行う意欲は後退し、幕末に近い化政期の出版の状態は揺れ動き、蘭書翻訳書の流布取締(天保11)、絵草紙の統制・人情本の禁止(天保13)など、社会の大きな変動を目前にして、出版も又その荒波を受けなければならない時を迎える。

春城文庫[しゅんじょうぶんこ]―早大教授で政界・実業界にも活躍し又、山田清作らと国書刊行会を興した市島謙吉の文庫。越後の名家として財力も伴っていたので古書収集・金石の研究にはこと欠かなかったようだ。売り立ては、市島生前の昭和2年に行われた。蔵書の内容は、江戸時代の和漢の版本が中心で量も多い。傾向は硬・軟を比べると硬派の方であった。日本図書館協会会長を勤めたことなどから、古い書誌関係が多いのも特色である。その中から目立つものを挙げると、多年収集に勤めた豆本(江戸期のもの)のコレクション(5千円)、尼子版『法華経』8巻(6百円)など総額4万円に達した。現在の貨幣レートに直すと5,6千万円というところか。

書物展望社本[しょもつてんぼうしゃぼん]―自他ともに認める書痴として博名を残した斎藤昌三(1887〜1961)が中心となった書物展望社が、雑誌「書物展望」とともに、『書斎随歩』など書物に関する自らの本と、『不尽想望』(石川三四郎・昭10)『痴人の独語』(辻順・昭10)『きょろろ鶯』(北原白秋・昭10)『打出の小槌』(佐藤春夫・昭14)『雪あかり』(横瀬夜雨・昭9)肉筆版『悲しき玩具』(石川啄木)などと他に土岐哀果・窪田空穂らの著書を出版したことをいう。

書物問屋[しょもつといや]―軟派物の地本問屋に対して、まともな書物を出す版元をいった。文化・文政期以来、三都以外の地方への本の流通も頻繁になった。天保の頃出版された馬琴の作品が20日前後で伊勢松坂で売られた例など、地本類・一般教養書には新興の角丸屋甚助や英平吉らが積極的に手を出した。だが日々厳しくなる出版規制に、田沼時代の蔦屋重三郎や須原屋市兵衛に見られるような出版社としての力強さは見出せなくなった。

書物奉行[しょもつぶぎょう]―御書物奉行ともいう。江戸幕府の役職で、紅葉山文庫の図書の出納保管および書物の編纂をつかさどり、その下に塗師・蒔絵師がいた。寛永10年(1633)、4名が任命され、以後増減が見られる。2百俵高、7人扶持。同心若干名が属し、若年寄の支配になる。『御書物方日記』(宝永3〜安政4、225冊)があるが、これは書物奉行の執務日誌で、蔵書の収集(発注・検収)・管理(曝書・製本)・出納・施設(御書物蔵)の管理・補修・本函の調整・目録・目録類の編纂・文献調査等が記されており、その広範な活動内容がわかる。初期には『留牒』と称していた時期もあったが、大部分は『日記』とのみ表紙に書かれている。1年分2冊。江戸末期の書物奉行、近藤守重(正斎)は、狩谷エキ斎などの協力を得て、古書の研究・校閲等に業績をのこした。

書林[しょりん]―書籍が多くあるところ、転じて書店の意。また出版する家の意味をもつ。わが国近世における書籍商・出版業者の呼称の1つ。『後漢書』和帝紀の「書林を覧て篇籍を閲す」が語源とされる。江戸時代には、この菜とともに書肆、書物屋なども用いられ必ずしも厳密ものではない。現代においては、本にたずさわる総合会社のようなものだろう。

真福寺文庫[しんぷくじぶんこ]―真言宗智山系の寺の蔵書。山号北野山。現名古屋市中区門前町。大洲(洲)文庫ともいう。仏典をはじめ古写本が多いことでも知られる。正平5年(1350)、伊勢外宮の祠官度合家の子能信の建立になるもので、文庫は能信の蔵書を基礎とする。歴代の尾張藩主は、経蔵の管理を重視し、享保15年(1730)には、蔵書を整理して『大須真福寺経蔵目録』2巻をつくった。国書(仏書)・漢籍とも写本が多い。古写本『古事記』は特に有名。

新聞縦覧館[しんぶんじゅうらんかん]―明治5年、横浜の有志が集い、新聞縦覧館を設けた。ここには東京・京都・大阪とほかに外国の新聞を置き、閲覧者には時間と費用を負担させずに提供した(明治5・9、郵便報知)。また東京浅草の奥山の茶店が軒を連ねる中に新聞業屋というものが有った。テーブル2つと椅子が数十脚しつえられ、東京横浜をはじめ諸府県の新聞を置く。お客が来るとまづ茶を出し新聞を見せる。新聞1部の見料は2厘から2厘半、茶の値段は5厘だった。これの起りは、市中の書店が店の一隅で開業し、次第に市内各地から大阪方面にまで普及したものといわれる(小野秀雄『明治話題事典』)。他には静岡三島、上州富岡町、三重県下津築地町など多くの例が見られる。明治8年11月「仮名読新聞」を設立し、絶大な人気を博した仮名垣魯文は9年7月、横浜野毛坂上に新聞縦覧所を開いた.。

新聞の発行停止[しんぶんのはっこうていし]―日刊新聞における最初の発行停止処分は、明治11年(1878)5月16日から7日間差止めを受けた「朝野新聞」である。理由は、「国安を妨害」するからとされたが、勿論明示されてはいない。朝野社内での憶測では、5月15日の記事中、大久保利通を殺害した島田一郎らの斬奸状を掲載したからだという。大久保は、抬頭しつつあった自由民権運動の弾圧に次いで新聞記者を多く投獄したが、朝野は従来からの政府嫌いの紙面を守りつづけていた為、その息の根を止めるべく処分が断行された。これまでの処分は、過激雑誌のみ適用していたが、日刊新聞が蒙ったのは初めてである。11日目に発行を再開したが、すでに読者は半分に減り、広告収入も少なくなった。新聞は同26年(1893)まで発行されるが、これ以後、幾度か発行停止を命ぜられ、社勢は衰退の方向をたどることになる。「朝野新聞」は全号の復刻版がある。

須原屋茂兵衛[すはらやもへえ]―江戸時代、寛延期から文化年間にいたる間に15軒もの出版業ののれんをかかえた須原屋一族の主であり、日本橋1丁目久兵衛店に業を営んでいた(千鐘房)。川柳に“吉原ハ重三茂兵衛は丸の内”といわれたように、茂兵衛は『武鑑』を売って丸の内の大名・旗本を客に持ち経営の基礎とした。

駿河御譲本[するがおゆずりぼん]―駿河御文庫(家康晩年の居住地、静岡)にあった徳川家康の和漢の蔵書およそ1千部位1万冊を、没後、林羅山らによって尾張(徳川義直)・紀州(徳川頼宣)・水戸(徳川頼房)に分割された書物群をいう。このうち、相当精確な目録が伝存しているのは尾張家のみで、総380部2,900冊の約7割が名古屋市立蓬左文庫に目録とともに保存されている。特色は、摂取した金沢文庫をはじめ、和漢の古写本・古刊本、朝鮮の古活字本に富むことである。なお、駿河御譲本は、江戸へも約50部が送られ、『御本日記附注』(目録)がある。水戸徳川家の分は、第2次大戦下に、ほとんどが焼失し、『彰考館文庫目録』にその書名をとどめるのみとなった。(現在書目にはその頭に○印が附され検索できるようになっている。)

静嘉堂文庫[せいかどうぶんこ]―三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟弥之助と息子子弥太の2代が明治20年より収集した典籍をもとに大正13年(1924)創立した。この2人は時々、神田の古書店を歩き貴重な書籍を購入した。多くの学者と神田の古書業者の協力によって形成されたわけである。この中には清朝四大蔵書家の一人、陸心源の大コレクションが入っている。昭和15年、財団法人となり、一時、国立国会図書館の支部とされたが、元の形態に戻った。

西洋書籍買入布令[せいようしょせきかいいれふれい]―徳川14代将軍家茂の安政6年7月、それまでの禁書政策をゆるめて西洋書籍の買入れについて布令が出された。「西洋書籍の儀に付いては兼て被仰出も有之処今般神奈川、長崎、函館開港の上は右場所に於て外国商人共より直買致候書籍は運上役所へ差出改印受取候様可致若心得違にて改印無の聊にても御禁制宗門の事に相渉り候書籍取扱候もの於有之は厳料に可被処候」

世利子[せりこ]―江戸中・後期の用語。小売専業の本屋および貸本屋以外の書籍取扱業者。これは独立した商売人ではなく、元来、「世利親」を持ち、その名前を使って営業をした者で、いわゆる本屋とは言い難い。

楚囚之詩事件[そしゅうのしじけん]―北村門太郎(透谷)が明治22年4月、私家版で発行した自由律叙事詩風の新詩集で、その個々の語句の中には、苦悩する魂の表現において人間性の深い真実とその価値を強烈に示すことに成功した、と言われるこの本にまつわる、主として流通上の数奇な運命をたどった事件。透谷死後、36年を経過した昭和5年(1930)3月、本郷・志久本亭での即売展で学生村田平次郎が雑本の山からこの本を売価30銭で探し当てた。彼はその瞬間、40年間にわたって市場に1冊も出ていない本であることに気づいた。と同時にこの様子を隣で嗅ぎ付けたのがコレクターとして有名な石川厳であった。この本を出品したのは当時白山上で古本屋を開業していた窪川精治(手話47年没)である。

第一書房[だいいちしょぼう]―新潟県出雲崎出身の長谷川巳之吉(1893〜1973)によって、大正12年(1923)に創業された、限定本・文学書を中心とする出版社。昭和19年に廃業するまで、単行本759点・全集叢書22点・雑誌13種を出版した。堀内大学、日夏耿之介らの精神的支援と、松村みね子(片山広子)からの資金援助(1560円)を得て創業。当時長谷川は29歳の青年であった。処女出版は、松岡譲著『法城を護る人々』(上巻)で、大正12年6月19日の東京朝日新聞に広告が掲載されたが、長谷川如是閑、土田杏村らが好意的批評をよせた以外、当時の文壇からはほとんど黙殺された。つづいて、『佐藤春夫詩集』を刊行、又『月下の一群』(堀内大学)、『黒衣聖母』(日夏耿之介)の超豪華版を製作したが、この「豪華版」という名称は長谷川の造語である。長谷川には採算を度外視する気骨があり、神田一誠堂で、伝岩佐又兵衛の「山中常盤」の八ツ切り写真約10枚が、2万5千jでドイツに売られるのを知るや、財産一切を抵当に入れて、それを購入するという破天荒を演じたこともあった。発行した雑誌では、「セルパン」(昭6〜16)が有名。

地方・小出版流通センター[ちほうしょうしゅっぱんりゅうつうせんたー]―昭和51年(1976)4月発足。地方出版物および小出版社の出版物を一堂に集めて小売販売し、併せて卸し業務もすることを目的とする。欲しい本、地方で出された専門的な図書が入手し難いという読者の声に答える意味でこのセンターの果たす役割は大きい。現社名アクセス。東京・神田神保町にて営業。

蔦屋重三郎[つたやじゅうさぶろう]―江戸時代の出版業者。本姓は喜多川、名は柯理。寛延3年(1750)、江戸・吉原に生れる。安永2年(1773)、新吉原大門口五十間道に書店を構え、鱗形屋から毎年発行される『吉原細見』(吉原・遊郭遊びのための情報誌)の卸し・小売りを始める。翌々年(安永4)、重三郎は、それまでの小売取次業者の立場から、突然、出版に身を転じ、最初の吉原細見『籬の花』を出版し、やがて(天明3)は、細見の出版権は蔦屋の完全独占となる。それより以前、安永2年7月、版元として初めての出版物、遊郭評判記『一目千本』を刊行。初期の蔦屋出版物の中でも有名なものは、勝川春章・北尾重政『青楼美人合姿鏡』(絵本、安永5)である。安永8年までの出版点数は20余点であったが、同9年には15点の書籍を刊行した。黄表紙・洒落本・吉原細見・噺本・往来物など。寛政3年(1791)、山東京伝の洒落本を出版した所で、身代半減の刑を受け、幕府の出版統制の槍玉に上げられ、これ以降、かつての勢いはなくなってい行く。

鶴屋喜右衛門[つるやきえもん]―仙鶴屋と号し、延宝から明治まで営業した錦絵や草双子類の大版元。『江戸名所図会』(巻1)には店頭の画がある。この書肆の名が特に有名なのは、明治3年(1870)パリ刊『絵で見る日本』(エム・アンベール著)の中に、クレポンによって描かれた幕末の本屋風景として載っていることである。鶴屋は初め、大伝馬町三丁目で営業し、のち通油町に移った。山東京伝『骨董集』は、通油町に店を移してからの出版物。もともとは、寛永年間、京都二条通御幸町西入ルに開店した鶴屋喜右衛門からのノレン分けらしく、本家の鶴屋は、その時代に浄瑠璃本の元祖となり、天明期に寺町通夷川上ルに移ってからも、正本屋の老舗として三都にその名を知られていた。

寺板[てらばん]―寺院による聖教物等の出版をいう。寺板のうち、最も多く蔵版をもったのは、東西両本願寺(京都)である。両寺は京都の書肆と関係が深く、大阪のそれとは極めて薄かった。宝暦・文政頃には、西本願寺等の「御文章」の海賊出版の事例が見られる。

桃華坊文庫[とうかぼうぶんこ]―応仁の乱(応仁元・1467)により公卿・学者一条兼良の桃華坊文庫は、場所が上京と下京との境にあったため、管領細川勝元と四職筆頭職山名持豊の両軍から戦火を受け炎上、多くの貴重な文献が焼失した。土蔵中のものは戦火からまぬがれたが、それも屋外に放り出され踏み散らされたことは、兼良の『筆椛』に記されている。焼失または紛失した書物の数は700合(1合は50冊)といわれる。

東京移動図書館[とうきょういどうとしょかん]―東京相互書園の後身。昭和6年の時点で麹町区内幸町1丁目(大阪ビル内)に開いていた読書クラブの1つ。東京市内を配本地域として、建物内には閲覧室の設備があった。

東京書籍館[とうきょうしょせきかん]―書籍館は図書館の古い呼称。明治5年(1872)、文部省は一般人が利用できる図書館を東京湯島の聖堂内(正殿中央)に設け、これを書籍館とした。担当者は永井久一郎。「借覧人は貴賎を論セス」看読を許した。蔵書は当初、文部省所蔵の1万冊を当て、それに旧藩校蔵書、国内新刊図書の交付・受贈などで増やしていった。同8年東京書籍館に改称、10年、財政上の事情により閉鎖となる。12年の教育令には「学校幼稚園書籍館等」の名称が見え、図書館が用語として定着するのは、明治23年(小学校令)以降のことである。

東京書籍館書目[とうきょうしょせきかんしょもく]―明治5年に創設された官立で初めての図書館、等級書籍館(上野の帝国図書館の前身)にて収蔵した書籍・新聞・雑誌の目録で、国内新刊、洋書、和漢書之部がそれぞれ刊行されている。同書目は、現存部数が極小といわれ国立国会図書館には無い。

東京書林組合[とうきょうしょりんくみあい]―明治5年(1872)、江戸書林組合を改称、書物屋仲間の行事制度を受け継いで設立された同業組合。地本問屋の中にもこれに加盟するものがあり、一時は149名にものぼったが、明治政府の出版取締りに沿った活動が内紛を招き、2年程度で解消したといわれる。明治14年に一度再建されたが、3〜4年で消滅した。その後、同業組合としては別組織として、東京書籍出版営業者組合が作られた。

東京府書籍館[とうきょうふしょせきかん]―明治10年(1877)3月、東京書籍館廃止後、5月にその書籍・備品等が東京府に移管され開館した。学務課の管轄。初めは内藤恥叟が書籍館掛となり、後に二橋元長が館長となる。5月11日、東京府書籍館規則を定め、開館時間(午前9時―午後10時)等を定めた。館外貸出しは禁止。だが経費等の問題で運営が苦しくなり、13年7月、再び文部省の所管に移った。『東京府書籍館新刊書目録』第1集(明13)がある。

図書市[としょいち]―Book‐fair 図書展示会・図書祭り。多数の出版社が各自の出版物(多くは新刊)を持ち寄り展示会を開く。又は本と造本ついての陳列会。国内と国際的なものがある。ドイツ・フランクフルトとライプチヒの会が世界的規模のものとして有名。

ドブス・プレスDoves‐Press,The T.J.Cobden‐Sanderson(1840-1922)がウィリアム・モリス等の影響を受けて1900〜1916年にわたって美本の刊行を続けたPrivate Press.特に有名な刊行書はThe English Bible.5vols.1903-05

内閣文庫[ないかくぶんこ]―紅葉山文庫、昌平坂学問所の旧蔵本を根幹とする和漢古書中心の官立図書館の1つ。紅葉山文庫の蔵書総数は、明治初年約10万冊、このうち7万3千冊が漢籍、2万6千冊が国書。漢籍はほとんどが唐本。国書は大半が史書である。明治24年3月、宮城内の旧書庫から和田倉門内の旧千代田文庫に移転した。昭和42年2月、皇居大手門内に新築し、44年移転した。設計は大蔵省技師・大熊喜邦による。先の書籍以外に高野山釈迦分院急増漢籍・大乗院の記録・朽木家文書・蜷川氏の古記録などを収蔵し、ほかに修史館・地理局の集書、太政官の蔵書・訳稿・明治初期の官庁刊行物などきわめて貴重な物が多い。

中西屋書店[なかにしやしょてん]―神田区表神保町(現スズラン通り)にて創業。古本と新本屋を兼ねる。丸善の早屋仕有的が創業といわれるが、実際には、6男の山田九郎が営業した。当初の目的は、丸善(明治2年、丸屋商社として横浜で創業)の在庫を一掃するための販売店であったが、創業間もない頃から、古本の売買も併営するようになった。さらには欧文・邦字書の出版まで手を出すようになる。明治期子供の本の先駆とされる巌谷小波『日本一ノ画噺』などを刊行。屋号は、中土(日本)と西洋の文字から1字ずつとった。「学鐙」第5号(明30・7)には、中西屋の古書買入広告が見える。

名古屋公衆図書館[なごやこうしゅうとしょかん]―矢田績(元三井銀行勤務)がしざいを投じて、名古屋市内に建てた財団法人の図書館。明治末年に開館。ここのユニークな特色は、日本で最初に男女同席の閲覧室を設けたことで、読書趣味の普及に役立つものといわれた。従来、女性の閲覧室は、設備も悪く狭かったことから、とかく利用を敬遠されがちであった。

南葵文庫[なんきぶんこ]―明治期半ば頃より徳川頼倫(紀州出身)により収集を積み重ねられてきたコレクションであり、その数9万6千冊、かかった費用は150万円以上といわれている。場所は、麻布飯倉の徳川家邸内。この中には旧対馬藩主宗家の記録類、国学者子中村清矩旧蔵の陽春蘆本、依田学海旧蔵書などがある。これらは大震災で図書を焼失した東京大学に大正14年すべて寄贈され、現存している。

日本出版会[にほんしゅっぱんかい]―内閣情報局とほとんど同時期に(昭和15年12月)設立された出版統制団体(日本出版文化協会)の組織をもとにして、国家権力の下請機関として種々の活動をし、“出版報国”をその主な使命とした。たとえば言論界のファッション化の一工作として「中央公論」(昭和17年3月〜5月)への内容介入、新聞雑誌用紙の割当原案作成権の保有昭和19年まで行った書籍雑誌の発行点数の縮小化(10分の1)などに力を発揮した。

売買差留書[ばいばいさしとめしょ]―江戸時代(延享・宝暦・文化・寛保)、正規の手続きをふまずに刊行した書籍に対して、本屋行司がその刊行物・板木を差し押さえて売買頒布を停止させるために書いた処分書。これは、奉行所の処置による絶版書とは異り、いわば私的制裁にあたるもの。これを認めた被処分者は、本屋行司に対し処分に甘んじる旨の“一札”を入れた。

八文字屋本[はちもんじやぼん]―元禄14年より天明初年まで書肆八文字屋(安藤八左衛門・自笑)により出版された浮世草子を総称していう。八文字屋はもと近松の浄瑠璃本や絵入り狂言本、役者の評判記等を出していた。評判記は横本の形をとったことから、浮世草子でも八文字屋本は横本形式をとるものが多く特色とされる。(例)『けいせい寵照君』(享保3年刊)。浮世草子に関しては井原西鶴と八文字屋本とでほぼ全容がわかるとされ、作品の好色性をつかみ、その大衆化・実用化に果たした役割は大きい。

林子平処罰一件[はやししへいしょばついっけん]―天明6年(1786)、須原屋市兵衛は林子平の『三国通覧図説』を刊行したが、同年原稿の成った『開国兵談』出版の依頼を断った。林はやむなく仙台で自家出版を行ったが(寛政3年・1791)、松平定信の目にとまり、4年5月幕府は、この書が『奇怪異説・政治私議』にあたるとの理由で仙台蟄居・板木没収に処した。同時に『三国通覧図説』も絶版となった。版元須原屋も重過料を課せられた。これ以降須原屋市兵衛の旺盛なる出版業は衰退へと向かう。

林若樹文庫[はやしわかきぶんこ]―国文学者・収集家林若樹(林研海の子、若吉、1875〜1938)の蔵書売り立てで、昭和13年(1938)9月東京図書倶楽部で開かれた。印刷目録によると、640余冊と番号外のもの数十点。総額3万円以上にもなった。主だったものを挙げると、大田南畝私刻本『踏霜詩草』2冊・外題南畝筆、『広瀬六左衛門日記』51冊、『群書一覧』6冊(松沢老泉書入本)、『蜀山人一代記』1冊(野崎左文手写本)、『諸家人名江戸方角分』1冊(蜀山人の奥書、達磨屋蔵印)。『柳亭種彦自筆日記』『小寺玉晁雑記』24冊。恋川春町『通言神代巻』(絵外題付き)、大関増業『機織彙編』5冊(見返奥付有り)、亀田窮楽自筆『千字文』2冊、『応化菩薩時世帖』(松平斎姫の遺書摸刻)、『アカデミヤン・ジャポニカ』(耶蘇教についての談話集)など、珍本・貴重書が多かった。明治30年代から収集をはじめたもので、文庫の白眉は、キリシタン版『コンテムツス・ムンヂ』(慶長14)である。『若樹文庫収得書目』(12冊)がある。

板木屋仲間[はんぎやまかま]―近世より仲間組織を有している。寛文13年5月以来、行事を立てて統制を保ち、「書物屋仲間」の出現するまでは、幕府の出版取締りに対する唯一の媒介となっていた。幕府は寛文13年5月に、渡辺大隅守の名をもって板行物取締の令を布達した。軍書類・歌書類・暦類・噂事人の善意・好色本の類、これらが布達の対象となったジャンルである。

東山御文庫[ひがしやまおぶんこ]―京都御所内にある文庫で、江戸時代の天皇が蒐めた文書・記録を主とし、明治になって、近衛家の東山倉を献上して御所内に移し文庫名がついた。一説には、近衛基熙が霊元天皇(承応〜享保期)に献上したという。勅封で、『伊勢物語』『古今和歌集』の文学系統のもの、『小右記』『貞信公記』などの記録類と宸翰も多い。

平瀬本[ひらせぼん]―大阪累代の素封家、平瀬家の蔵本で、明治時代には蒐集家・茶人の平瀬露香がおり蔵書中、『河内本源氏物語』(枡型本)は有名。昭和10年代に古書店に大量に出され、古写本・古活字本・浮世草子などに稀覯本が多かったという。文禄2年書写『幸若舞』40冊、古活字本『犬たんか』など。

平出文庫[ひらでぶんこ]―名古屋の医家、平出順益・修甫・鏗二郎ら代々にわたって蒐集された古書で、大正15年から昭和2年にかけて売り立てに出された。鏗二郎は号を鏗痴、『日本風俗史』『東京風俗史』の著書としても著名。鏗二郎の没後(明治44年)、15年を経て公にされたわけである。札元は、大阪の豊田・大橋・岩田の3店で、市会史上に名をとどめる内容である。江戸時代の漢籍・和本が中心で、浮世草子・仮名草子・古浄瑠璃本に見るべきものが多い。『幸若舞之本』35冊、『一代記』、『西鶴俗つれづれ』、『西鶴伝授車』、『風流四方屏風』、『東海道名所記』6冊、『河内名所記』6冊、『和国譜職絵尽』、『揺抄』、『皇朝類苑』など。この催しで最も多く落札したのは村口半次郎で、主なものの半分を入手した。

福井崇蘭館[ふくいすうらんかん]―京都福井家(榕亭)の旧蔵書。宋版『劉夢得之集』高山寺本『三宝類字集』、『和銅経』、宋版『捜神秘覧』、ほかに勅版類など重文・国宝級の物・漢籍・国書の写本も含まれる。旧蔵書は天理図書館・杏雨書屋その他へ入った。

福田文庫[ふくだぶんこ]―幕末の味噌御用達商人(今の代々木か千駄ヶ谷の辺りにあった)。明治中頃に文淵閣浅倉屋とつき合いがあったという。仮名草子・金平本等の珍本に富む。

文禄堂[ぶんろくどう]―書肆。明治32年創業。『東京名物志』(松本道別)によると、文禄堂の初代主人堀野與七は、今日の藁兵衛の名で知られる滑稽文学者で硯友社の客員にもなっていたが、創業時、明治32年(1900)から出版をはじめた。処女出版は『滑稽類纂』で、好評だった。次いで馬琴の『童蒙赤本事始』を現代のお伽噺に翻案して『日本五代噺』を出版した。両著とも堀野の編著になっている。また堀野は、ほんの意匠・図案についても研究し、「日本図案会」なるものも興した。「団々珍聞」に「凝り屋の総本家」と書かれた程であったという。

米国議会図書館[べいこくぎかいとしょかん]―ワシントン在。Library of Congress(The)アメリカ合衆国議院(会)図書館、1800年創設。ワシントン所在の世界で最大規模の図書館の1つ。所蔵資料は、5千9百万点収容する書架の延長が270マイル以上という。日本とは明治初期から資料交換を行っているが、本格的に交換関係が樹立したのは、昭和31年、両国間の交換取り決めが結ばれてからのこと。なお合衆国では、法律により全出版物を各2部、同館へ収めることが定められている。

本屋仲間株[ほんやなかまかぶ]―本屋仲間加入を許された者は、本屋仲間株を取得する。『大阪書林仲間記録』によれば、加入者は「札株」がわたされた。これは1人1株。しかし、仲間の廃業者から株の譲渡を受ける者もあり、これらは移動・増減がついて回った。また、本屋の株仲間は単に仲間の1人になったことを表示するに過ぎず、本来の目的である出版を行うためには、「板株」即ち出版権を持っていなければならず、本屋の株仲間は享保8年(1723)に結成され、明治まで続いた。

饅頭屋宗二[まんじゅうやそうじ]―戦国・安土桃山時代の商人で出板屋。祖先は奈良の菓子の老舗(塩瀬)。宗二は南都で饅頭を一手販売する傍ら、連歌・和歌を物にする。師である清原宗賢の所蔵本などを多く手写し(『長恨歌抄』『東坡詩抄』)、東宋詩文の抄写が建仁寺などに残されている。また国語辞典である『饅頭屋本節用集』(日常生活用語のイロハ順)の著者とも伝えられるが、これは子孫の著作の可能性もある。宗二の著書としては、『源氏物語林逸抄』が有名。

饅頭屋本[まんじゅうやぼん]―室町末期、饅頭屋林宗二(名は逸)が刊行した本。尚書・左伝・論語・史記・蘇詩・杜詩・節用集などがあるが、この呼名をされるのは『節用集』(1冊)のみ。寛永期の復刻本がある。宗二の作製・書写した本のほとんどは、建仁寺両足院に残っている。

ミューラー文庫[みゅーらーぶんこ]―Friedrich Max(1823〜1900) ドイツに生まれたイギリスの東洋学・言語学者。印欧比較言語学・比較宗教学のほか、古代東洋文化研究の基礎を築いた。この文庫は、ミューラーの遺書1万冊が岩崎家の資金援助と高須順次郎らの力で東大図書館へ入ったもので、中でも梵文の古鈔本50冊は世界的な珍書といわれたが、関東大震災で焼失した。

村上勘兵衛[むらかみかんべえ]―号は平楽寺。江戸初期より京都(三条通り烏丸)にて書肆を経営する。代々勘兵衛を称し、4代目より日蓮宗関係の図書を出版した。後に法華宗関係、瑞光寺・常照寺などの伝書(蔵版書)を出版したが、それも以外にも医書・儒学書・雑書も刊行する。近代以降、平楽寺書店と改名。明治5年5月には、他3名と合議して上京東洞院に集書会社(一種の図書館)を設立もした。(「日要新聞」)

村上文庫[むらかみぶんこ]―愛知県刈谷市立図書館内。旧刈谷藩医・国学者村上忠順(1813〜1884)の蔵書約2万5千冊であり、原型のまま遺されていることは誠に稀である。内容は漢籍が多く、医学書(西洋医学・医学史)の分野にも珍しいものが多い。貴重書としては、勅版『日本書紀』神代巻二巻、同『孝経』、光悦本『伊勢物語』、直江版『文選三十巻』など国宝級のものも散見される。『尾張名所図会』の編者の1人。野口道直の蔵書・横井孫右衛門(也有、俳文家)の両者も他には見られないもの。村上文庫の特色の1つは、忠順自らの書入れ、校合が細かく施してある点だろう。やや変わった所では、大槻磐水がオランダの書物を参考にして書いた版本『篶録』がある。煙草に関する百般のことを書いた書物で、挿絵とともにこの分野では最も価値の高い本とされる。忠順には、『頭注新葉集』『散木棄歌集表中』などの綿密な著作がある。なお、この文庫は篤志家宍戸俊治・藤井清七の両氏により寄贈されたものである。文庫の詳細内容は、『村上文庫図書分類目録』がある。

本木昌造[もときしょうぞう]―文政7〜明治8(1824〜1875) 幕末技術家で、日本における活版印刷技術の創始者。長崎出身。万延元年に建てられた長崎飽ノ浦製鉄所にて金属活字の製造に成功した(1869)。1870年、活版所を開く。さらに活字母型の美化、明朝活字の創成などの仕事をなし遂げた。又、平野富二・陽其二らを門下に置き、かれらは「横浜毎日新聞」の印刷・築地活版製造所を経営するなど本木の事業を継承した。本木は又、挙げた利潤を持って「新街私塾」(長崎)を開き、後進の育成にも務めた。自著『蘭和通弁』は、自作の活字で印刷したもの。

紅葉山文庫[もみじやまぶんこ]―江戸幕府が将軍のために、江戸城内の紅葉山下に設けた図書館。慶長7年に徳川家康が、江戸城内・富士見の亭に創設した文庫がその初めと伝えられる。蔵書は、家康が金沢文庫から移した貴重書や、慶長書写のものをもととし、その後のものとあわせ11万冊にものぼった。漢籍(唐本)が多い。宋版・元版・明版と中国地方史・戯曲類など。洋書は、安政3年(1856)に蕃所調書が設けられた時、移した。現在の内閣文庫は、紅葉山文庫蔵書が基礎となっている。ただし、善本は、明治24年に宮内省へ移した(現・宮内庁書陵部)。

モリソン文庫の移入[モリソンブンコノイニュウ]―中華民国総統府顧問ジョージ・アーネスト・モリソンが北京の通信使として滞在してから20余年間に収集した極東関係の欧米文献2万4千冊を、モリソンの没後、井上準之助の斡旋で岩崎久弥へ売却の話がいった。井上は丸の内の事務所で久弥を訪い、2人は階段の下で立ち話をし、わずか5分で即座に、「あなたがよいとおっしゃるなら買いましょう。しかし一応学者に調べて貰ってください」との久弥の返事に、井上は驚いたという。因みにモリソン文庫の買取り価格は大正6年の時点で3万5千磅(ポンド)であった。

モルガン・コレクションニューヨーク・マンハッタンに現存する。ジョン・ピァポンド・モルガン(1世)とその子供2代にわたって蒐集した彩飾書写本・初期刊本・初版本・オートグラフ類など世界の善本、稀覯本を所蔵する。1907年に私設文庫として開館。グーテンベルグ『四十二行聖書』(ヴぇラム刷、四葉欠)と紙刷りの完全本が各1部、14・5世紀までのミサ書・聖務日課書・楔形文字の粘土板・6〜10世紀のエジプト文書をはじめとして、貴重書はぼう大な数にのぼる。

安田文庫[やすだぶんこ]―大正12年の関東大震災で松廼舎文庫が失われた後、再び2代目安田善次郎(昭11没)により蒐集がなされ、松廼舎文庫が江戸文学・歌舞伎方面に特色があったのに比し、慶長時代から鎌倉・天平にまでさか上って古版本・古写経に重点が移された。また、三村竹清・山中共古・林若樹・市島春城らの善本も多く集めたが、これらも昭和20年の大空襲で焼失した。前記のほか、江戸絵図・暦・江戸の通俗絵入り読み物など資料的に見て真に第一級の文庫であった。

米沢蔵書[よねざわぞうしょ]―江戸初期の武将、直江山城守兼続の蔵書(朝鮮出征時に漢籍を収集した)といわれ、この蔵書印を捺したものには、古写・古版の善本が多い。米沢市立図書館にその一部があるが、押印は、兼続の没後(元和5)、その事業の1つとして開版を行い、中でも直江版『文選』(慶長12年刊・銅活字版)は有名。『経籍訪古志』六に、「此本慶長丁未歳、直江兼続用銅雕活字印行、世因称直江版」とある。

和学講談所文庫[わがくこうだんしょぶんこ]―寛政5年(1793)、幕府の援助により麹町に創設された塙保己一の学問所・和学講談所蔵本を言う。和学所または温故堂ともいい、後に表六番町に移った。その蔵書は、学生の利用にも供されたが主として、『群書類従』を編纂するために収集されたものであった。『螢蝿集』『我家名月抄』『扶桑略記』などの編さん・校訂はみなこの文庫の蔵書を中心としてなされた。保己一死後も、忠宝のもとで仕事は続けられたが、忠宝の暗殺後、停廃した。

綿屋文庫[わたやぶんこ]―天理教の故真柱・中山正善が、母方の祖父綿屋善右衛門(中山秀司)の屋号にちなんで中山家の文庫として設立した。収書内容ははじめ、松浦家旧蔵の俳諧連歌集を中心にして近世文学資料を計画した。のち天理図書館に移管して俳諧部門を充実させ、その部門の書籍資料に限って綿屋文庫と呼んでいる。