鹿児島文学散歩 3月13日 向田邦子と城山

九州新幹線開業の三月十三日、「かごしま文学散歩 向田邦子と城山」は、充実した企画となりました。
参加者十六名、スタッフ(解説、会計、カメラ)五名。
 新幹線開業のお祭りでにぎわう鹿児島中央駅付近とはちがって、城山界隈の文化ゾーンはいつもと変わらぬ閑静な佇まい。

 午後一時かごしま近代文学館からくり時計前集合。記念撮影を撮ったあと、緑いっぱいの城山遊歩道を散策しながら、城山展望台へ。城山は標高一〇七メートル、植物の宝庫でクスの原生林が美しい。展望台からは、目の前に雄大な桜島、向田邦子が過ごした昭和十四年頃にあった中央公民館、山下小などを確認。戦時下の空襲で焼け野原になった鹿児島市は、邦子ゆかりの建物は少ししか残っていない。
 
向田邦子は、山下小時代、よく城山まで駆け足をした。毎週木曜日の午後が体操の日で、隔週木曜日に城山へマラソンをしたのだという。現在でも山下小の城山マラソンは名物である。
「社宅は上之平といって、城山の並びの山の裾にあり、鹿児島市を一望のもとに見下せる高台であった。縁側に立つとすぐ前に桜島があった。
 
「空谷」という言葉を覚えたのも桜島のおかげである。(中略) この言葉を教えてくれたのは、上門先生、内野先生、田島先生、どなただろうか。いずれも山下小学校の男の先生だが、この中で田島先生の思い出が鮮やかである。大男で力自慢の田島先生は、受け持ちではなかったが、体操の時間に、「城山まで駆足」などというときには、学年全体の指揮をとって、大声で号令をかけた。」 「薩摩揚」というエッセイには、こう書かれている。似たような記述がエッセイ「鹿児島感傷旅行」にも見られる。
 城山展望台から駐車場横の階段を降りていくと、照国神社横に出る。照国神社も向田邦子のエッセイに出てくる。神社前に蛇屋、鉄砲屋、靴屋があったと記されているが、この場所がなかなか確定できずにいたが、「なつかしの絵はがき展」で鉄砲屋の写った絵はがきが見つかっている。いまの吹上荘あたりが鉄砲屋のようだ。現在駐車場になっているあたりは、もとは運動場で、山下小の運動会もここで行われた。
 
照国神社から歩いて一〇分もかからないところに、邦子の旧居がある。当時敷地が一〇〇坪ほど。部屋も一〇部屋ある「分限者どん」の家であった。第一徴兵保険株式会社鹿児島支店長の邦子の父親は、当時月給が一〇〇円近く、家賃は二十五円であったと推定される。現在は半分がマンションになり、半分がその大家さん


 旧居跡から山下小まで徒歩一〇分ほど。いまは交通量の多い都会であるが、当時は商店街の一画にあって、子どもたちが寄り道するのに恰好の通学路であったろう。山下小近くの喫茶「メルヘン」にてコーヒーブレイク。ここのママさんの義母厚地恵美子さんが邦子と同級生。向田邦子もここに立ち寄っている。その後、近代文学館へ帰り、文学館のなかの邦子にも会う。約三時間、楽しかったです。

次回(4月17日)は、桜島句碑めぐり。五時間コースです。
歩きやすい服装でご参加下さい。