伊集院を歩く

じつは(?)、木家は日置市の伊集院町にあります。そこで今回は「妙円寺詣り」で有名な伊集院を歩いてみました。
伊集院駅前から出発!

駅前には、馬にまたがった島津義弘公の銅像がお出迎え。
歩いて、徳重神社へ。

普段は静かな神社であるが、毎年十月に島津義弘公を忍ぶ恒例の妙円寺詣りが行われる。
かつて薩摩藩では島津忠良菩提寺・日新寺、島津義弘菩提寺・妙円寺、島津歳久菩提寺・心岳寺にそれぞれの命日に参る習慣があった。
日新寺と心岳寺の方の習慣は廃れてしまったが、「妙円寺詣り」は現在も盛んに行われ、時期は島津義弘が奇跡的な生還を遂げた関ヶ原の戦いが旧暦9月15日にあったことを記念して10月末頃に行われる。

徳重神社は、もともとは妙円寺というお寺であったが、廃仏毀釈により妙円寺はなくなり、徳重神社となったのである。 その後、別の地に新たに妙円寺は建てられている。

ちょうどこの頃は妙円寺詣りが近かった時期で、幟旗が立っていた。
徳重神社内。
神社では、神主さんのお話も聞くことができた。

島津義久、義弘、歳久たちの兄弟は、伊作城で生まれ、父貴久が伊集院の一宇治城を拠点としたため、幼少期・少年期を伊集院で過ごした。徳重神社、つまり妙円寺で義弘たちは漢文を学んだりしただろうと言われている。
徳重神社より小高いところにある一宇治城から馬で降りてきて、妙円寺で学び、あるいは目の前を流れる神之川で泳いだ青年時代の義弘像が浮かぶ。
殉死墓。

義弘の死後、義弘から恩を受けた13人の家臣たちが、彼の後を追うように殉死したため、境内には、その志を哀れんで13人のお墓が建てられている。
お墓は徳重神社の山陰に「殉死墓」として一列に並んでいる。
妙円寺。

徳重神社から歩いて5分ほどのところにある妙円寺。ここでも住職さんからお話をしていただいた。
妙円寺は廃仏毀釈の後、今の場所に建ち、多くの人は徳重神社しか知らない。地元の住民でも知らない人がいる。
本当は妙円寺があって、徳重神社があるのだ。だから、妙円寺詣りの時は妙円寺まで足をはこんでほしいということを強くおっしゃっていた。
住職さんの話に参加者は納得の様子であった。
開山石屋真梁禅師碑。
伊集院・妙円寺にある石屋上人の像。
石屋上人は、妙円寺を開山した人。「しんこ団子」の生みの親でもある。
JR鹿児島本線のトンネル跡。

妙円寺正門からすぐ近くに、JR鹿児島本線のトンネル跡がある。
レンガがきれいに積み重なり、壊すにはもったいないほどの美しさである。
参加者の方々に謎かけをして、ここは一体何の跡でしょう、と問いかけたら、トンネルについた煤のあと、道路に残る線路の跡などで、しっかりと鹿児島本線の跡との答えを出して下さった。
ここは昭和五十二年に廃線となったが、当時この線を知る人たちは、過去の思い出が蘇ってきたのではなかろうか。


平野二郎国臣の歌碑。

武家屋敷の名残の残る民家の続く狭い路地を通り、平野二郎国臣の歌碑へと辿り着いた。
平野国臣は、もともと筑前黒田家に仕える足軽の次男。国を憂え、家族を捨てて、国を思い、日本をかけずり回った人である。
安政の大獄の時、公家と薩摩藩の橋渡しをしていたがために危険に晒された月照上人を守って、薩摩藩へ送り届ける役目を仰せつかった。
何とか薩摩藩まで来たものの、あてにしていた薩摩藩は月照上人の保護を拒み、しかたなく日向に出向く途中、西郷隆盛と月照上人は絶望して、錦江湾に身を投げた。
ふたりが身を投げた船には、平野国臣も同乗しており、横笛を吹いてふたりを慰めていたのだが、突然の入水に平野は為す術がなかった。結局、西郷は息を吹き返し、月照上人は亡くなった。
その後、平野は親しくなった有馬新七を訪ね、伊集院に一泊している。ちょうと平野国臣の歌碑が建つあたりの真下に、有馬新七の家があり、そこから桜島に向かって詠んだのが次の有名な歌である。

わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙は薄し桜島山

この歌からすると平野国臣は豪快な人物のようであるが、実際は公家風の服装をし、武士のような髪をせずに総髪にしていた風流人であったという。
島津義久の剃髪石。

平野国臣歌碑から十分ほど下ると、信号横に島津義久の剃髪石がある。
島津義久は、豊臣秀吉に降伏するために剃髪をして出家し、川内の泰平寺に出向いたのであるが、その途中、伊集院で剃髪をしたと言われている。
城山(じょうやま)公園。

坂道を上って、城山公園へ。ここは一宇治城跡である。
一五四九年、この一宇治城で、島津貴久とザビエルが会見したと言われ、城の入り口にザビエル像が建っている。
しかし、ザビエルと貴久画家意見した場所は、国分清水城説と伊集院一宇治城説があり、文献が少なくて確証はできないが、現在は国分説の方が有力であるようだ。
歴史的には、どちらが正しいかを極めることは大切なことであろうが、文学的には、島津貴久とザビエルが会見したという事実が大切である。特に貴久がキリスト教に興味を見出したということが重要で、それを知ることが文学の仕事だろう。
島田雅彦氏の「フランシスコX」は、ザビエルを視点に据えた小説であるが、会見の地は伊集院一宇治城に設定してあり、貴久がキリスト教に興味を持つ様子が描写されている。
一宇治城に着いた途端、雨が降り出し、全員木家へ移動。そこでお弁当にする。ゆったりとした時間を過ごしたあとに解散。みなさん、まだまだ元気で伊集院駅まで歩いて帰られた方も多かった。