天璋院篤姫と今和泉

十三代将軍徳川家定の御台所(妻)・篤姫は、薩摩今和泉島津家の出身。
今回は、宮尾登美子の小説「天璋院(てんしょういん)「篤姫」をもとに、前半は江戸へ嫁ぐ直前の篤姫周辺を、後半は小説中、篤姫が育った場所として登場する今和泉(指宿)の篤姫ゆかりの地をめぐる。
小説「天璋院篤姫」は、昭和五八年から五九年にかけて新聞連載された歴史小説である。歴史的資料が少ないなかで書かれ、宮尾登美子の想像力によるところも大きい。物語は、篤姫がいよいよ江戸へ発つところから始まる。
鶴丸城跡

小説中、篤姫は、鶴丸城御書院で斉彬と別れの盃を交わし、そこから二の丸で籠に乗り、御楼門を抜け、吉野橋を渡る。
吉野橋は実在し、現在の国立南九州病院の横、長田陸橋の横あたりと考えられる。当時一帯はお堀となっていて、その堀に架かっていた橋が吉野橋や、新橋であった。
今和泉家本邸跡

その後、篤姫一行は、実家である今和泉家本邸へ向かう。
当時、約四五〇〇坪もあったその広大な敷地は、現在の大竜小学校隣に位置し、住宅地となっている。

ほかに、現在の春日郵便局あたりに中屋敷、祇園之洲あたりに下屋敷、さらに磯にも別邸があったらしい。
大竜小学校

隣の大竜小学校は、大竜寺の跡地である。
大竜寺は薩南学派の文之(ぶんし)という僧が開いた寺で、島津義久の時代、薩南学派は藩主の庇護を得ていた。
大竜小学校の校歌にも義久を示す「龍伯(りゅうはく)」と文之の名が出てくる。
今和泉本邸の前を通り、家族に別れを告げた篤姫は、ここから錦江湾を渡って垂水、志布志を通り串間の福島から出船、途中日向の細島、下関などで休息しながら瀬戸内海へ入り大阪を目指す。
しかし、篤姫が実際にどのコースを通って江戸に向かったかは、記録がなく定かではない。

〜篤姫が育った地とされている今和泉(指宿市)へ〜

 今和泉小学校近くの交番前に到着すると、指宿市のボランティア歴史ガイドの皆さんが迎えて下さった。
 ここから一時間、歩いて今和泉家ゆかりの地を散策した。
今和泉島津家は、二十二代藩主島津継豊の弟・忠郷(たださと)によって再興された。
領地の今和泉には領主仮屋(今和泉島津家別邸)があり、現在、今和泉小学校がある一帯がその跡地となる。


写真は美しい町割。
隼人松原。

屋敷の名残の石垣に、松林が続く。すぐそばからは美しい海が広がっている。
松林の裏手には体育館。
今和泉小学校敷地内に保存されている井戸。
屋敷で使用されていたもの。
外見は四角いが中は丸い造りなのだそうだ。
同じく、今和泉小学校敷地内に保存されている手水鉢。
つるんと滑らかな形で、古くささを感じさせない。
校舎内には、クロガネモチの幹が飾られていた。ここまで太くなるのは珍しいという。
もしかしたら篤姫もこの幹に触れたかもしれない、とガイドさんは楽しそうに語る。
麓地区を歩いて国道に出る。
国道沿いには孝女袈裟子(こうじょけさこ)の石碑がある。
袈裟子は大変な親孝行者で、その親孝行ぶりに感心した二代当主忠温(ただよし)は、袈裟子が亡くなるまで米などの生活の援助をしたという。
今和泉家三代忠厚(ただあつ)と四代忠喬(ただたか)が住んだとされる隠居所跡も見学。
約一四〇〇年前に建てられた豊玉媛(とよたまひめ)神社。
田の神さあ。

比較的大きく、黄みを帯びた山川石で造られている。




さらに、今和泉島津家の菩提寺で、廃仏毀釈で廃寺となった光台寺の参道跡も見ることができた。
今和泉島津家墓地。

墓地の入り口には鳥居が建っている。これは島津家の菩提寺・福昌寺跡にも見られるもので、神仏癒合のあらわれである。
墓地には篤姫の実父である忠剛、兄の忠冬が眠っている。
墓は、さきほどの田の神さあと同じく山川石で造られ、島津家が源氏の流れをくむことを示して「源」と彫られてある。
写真は篤姫の実父である忠剛の墓。


篤姫は上野の寛永寺にて、夫の家定と共に眠っている。
宮ヶ浜港。

天保五年(一八三四)に島津斉興(なりおき)が造らせた石畳の防波堤。
 篤姫は天保六年(一八三五)、重富家、加治木家、垂水家とともに島津家臣最上位の一門であった今和泉家の島津忠剛(ただたけ)長女として生まれた。
 嘉永六年(一八五三)、十三代将軍徳川家定の御台所を島津家からとの打診があり、篤姫に白羽の矢が立つ。
 当時、家定の後継者をめぐっては、南紀派(家茂派)と一ツ橋派(慶喜派)が対立。そこで一橋派だった藩主島津斉彬(なりあきら)が、篤姫を利用しようとしたという説もあるが、家定は過去二回御台所を迎えながらも相次いで亡くしており、そこで子宝に恵まれた十一代将軍家斉とその御台所であった島津重豪(しげひで)の娘・広大院(茂姫)の前例にあやかろうとしたという説もある。
 今和泉家から斉彬の養女となった篤姫は、さらに広大院の例にならって公家・近衛家の養女となり、入與の運びであったが、ペリーの来航、十二代将軍家慶(いえよし)の死去、江戸の大地震などで日は延び、安政三年(一八五六)、ようやく輿入れ、御台所となる。
 しかしそのわずか二年後、夫の家定、養父の斉彬が相次いで死去。篤姫は天璋院と号し、十四代将軍家茂の御台所である和宮とともに大奥を束ね、また幕末の動乱期には徳川家の存続に、維新後は十六代当主・家達(いえさと)の養育にと力を尽くし、明治十六年(一八八三)に四九年の生涯を閉じた。