Novel

 

 

 

 

 

 


短編小説を選んでみました。あとは、順次公開していきたいと思います。

                                 

 

 

Home contens

What’s new?

Next Novel2

BBS

Mail

 

 

 

    影を斬る

        一

戯れ合う二羽の鴎は、水面を擦り大空へと舞い上がる。浮かぶ数隻の貿易船は、朝日を受けて小波に漂っていた。その聖王丸の船長室は、広々とした作りである。床は磨かれ、ぴかぴかと光り鏡のように人の姿を映す。

雑魚寝同様の乗組員達の船室とは違って、ベッドの横には、丸い机が置かれて、贅沢な作りであった。

廻船問屋である長浜政之助は船主であり、船頭を兼ねて、持ち船の聖王丸に乗船していた。

「脱藩すれば、どう云うことになるか、十蔵様、お解りで御座いましょう?」

「心得ておる」

有馬十蔵は、如何なる説得にも決して屈しないと、堅い表情である。きりりとした武士の姿が、益々頑固な男と見えた。

「刺客が、放たれるのは、間違いないことですぞ! 清国への旅立ちならともかく、それでも、行かれるので御座いますか?」

「覚悟のうえじゃ」

閉ざされた船長室は、静か過ぎて、声が響き渡る。同席している船長や十蔵の親友である陳亀龍は、二人のやりとりを、黙って聞いていた。小さな丸い窓ガラスからは、朝日が差し込めて、部屋の中を暖かくしている。

「うむ〜」と、政之助は、溜め息をついた。「どうじゃ船長、江戸まで・・・」

「私らが断ったとしても、有馬様は、必ず行かれるでしょう。それならば、私らで送って差し上げようじゃ御座いませんか?」

「そうじゃのお〜 お決めになったのは・・・・・堅いようじゃ」

「忝い」と言って、十蔵は、頭を下げた。

「十蔵! わしも行くぞ」

「何っ! 亀龍、戯けたことを言うでない」「本気じゃ」と言って、亀龍は腕を組んだ。 

短刀に似た手裏剣が、それぞれ一つ挿してある皮のバンドを、両腕には付けている。がっちりとした肩幅に、海の男を思わせる。太刀は、後に胸元で紐を結び、肩から柄を覗かせて不気味に見える。チャイナ服に似た服が、一際目立っていた。

 薩摩国は、薩州の西南端に、湾口を清国に向けている坊津があった。

東シナ海の荒波を受けて、切り刻まれた如くリヤス式の海岸線が、うねりのように続く。紺碧の海は、どこまでも透き通り、鳥肌の立つくらいに恐ろしく、孤独感を誘う。

 町は、飛び石のように点在し、それぞれに坊の浦、泊浦、久志浦、秋目浦の四ケ外城として、地方統治の行政区画となっている。

 久志浦の隣に、博多浦と呼ばれる重要なる貿易港がある。その一角に、唐人町があり、代々、幕府や薩摩藩から手厚く保護されていた。日本最初のチャイナタウンである。

陳亀龍は、そこで生まれ育ち、薩摩国は島津家の家臣となっていた。中国剣法の達人でもある。

1609年(慶長十四年)、薩摩は、薩州、大隅州、日向州の一部を完全に統一して、奄美大島を手に入れ、琉球王国を服従せしめていた。次に来る九州の統一は、薩摩国の長年の夢であり、着々と準備し策略を巡らしていた。その為島津氏は、宗教ことに真言宗、山伏を利用し、家臣達の結束を強め、鹿児島城下中心の、集約的傾向を強めていた。 

1635年(寛永十二年)の鎖国令以来、薩摩は外部との交際を必要以上に認めず、二重鎖国の状態であった。

 そんな薩摩藩に対して、十蔵は批判的であった。陳亀龍も同様である。

「お前まで、巻き添えにしたくはない。お前がいなくなったら、唐人町はどうなる? 世話役から、期待されているではないか?」十蔵は、諭すように言った。

「わしに代わる若者も、多く育っている。この際、任せた方が良いのだ」

「育っている?」と言って、十蔵は、くすっと笑った。「お前程の男に、代われる者がいようか?」と、身を乗り出す。

「江戸に限らず、諸国を漫遊してみたいのじゃよ。多くの人に逢い、視野を広げることこそ、課せられた使命のように思える」

「うむ〜 いくら言っても聞かぬようじゃのお〜 仕方がない、付いて参れ」十蔵は、諦めて言った。

「御自分も、どうしてもと仰るし・・・・・亀龍様を説得するのは、矢張り無理で御座いましたか」と言って、政之助は、船長を見ると、肩を震わせて笑った。船長は、十蔵に、微笑んでいる。笑いの終わるのを見計らった船長は、近くにいた乗組員を呼び、酒を運んで来るように言った。

暫らくして、乗組員が、酒を運んで来て、ゆっくりと机に置いて行く。

「それでは、一献」

政之助は、机に置かれた徳利を手にして、十蔵に酒を薦める。皆の杯には酒が、零れんばかりに注がれて行く。

「それじゃ」と言った政之助は、杯を皆の前に差し出して、乾杯の音頭を取る。

皆は、一気に飲み干した。

十蔵と亀龍にとって、門出の杯であった。

船橋に上った船長は、銅鑼を鳴らすように言った。銅鑼の音が、坊の浦に響き渡る。

錨が上げられた。

「帆を揚げ〜い!」との船長の号令に、乗組員の復唱の声と共に、メインマストの帆が揚がる。

船は、船首を少しずつ沖へと向ける。

「帆を揚げ〜い!」と、船長の大きな声に、全帆が、一斉に揚がった。帆は、風を一杯に受けて、大きく膨らむ。朝の日差しを受けた聖王丸は、青い海を切るように進む。

 スピードを増した聖王丸は、江戸を目指して、沖へ沖へと出帆して行った。

 程良い風を受け、黒潮に乗り北上する。

四国沖を通り、潮岬を通過して石廊崎に至る通い慣れた航路である。

大島を右舷に見て通過した聖王丸は、剣崎沖から江戸へと進路を取った。

「有馬様! 長い船旅、お疲れで御座いましょう? もう直ぐ、江戸で御座いますよ」  

船橋から、三浦半島をぼんやりと眺めている十蔵に、船長は声を掛けた。

 鮮やかな緑が、くっきりと浮かび上がって見える。ごつごつとした岩肌が、目の前に迫って来るかのような錯覚に襲われる。

 溜め息をつくと、船長を振り向いた。

「そろそろ江戸か・・・・・」

「左様で御座いますよ」

 数隻の漁船が、漁をしているのが見える。青い海は、波飛沫で、白く模様を作る。十蔵は、未だ見ぬ江戸へと、思いを馳せていた。 群れ飛ぶ白い鳥が、囀り乍ら船の前を横切る。目の前に広がる町並みを、江戸とも知らず、じっと見詰める十蔵である。

 聖王丸は、江戸に近付いていた。

「あれが、江戸です」

 船長は、指を指して教えた。

「ほお〜 あれが・・・」

 一度は行ってみたいと、思い焦がれていた江戸の町並みが、近くに見える。

何が待っているか判らぬ江戸の町並みに、不安さえ感じない十蔵であった。

「有馬様! 船頭が、お呼びです。船長室まで、おいで下さい」

 乗組員が、十蔵を呼びに来た。十蔵は、乗組員に振り返ると、小さく頷いて応える。

 案内されて、船長室に入った十蔵は、「失礼致す」と言って、政之助の正面に座った。亀龍は、横に腰掛けている。

「十蔵様! 江戸に着いたようですね。長い船旅、大変で御座いましたでしょう? お疲れでは、御座いませんか?」

 政之助は、船酔いに悩まされて、疲れた顔をしている十蔵を気遣って言った。

「なあ〜に、大丈夫じゃ」

「旅慣れては、いらっしゃらない故、これからが、心配で御座います」

「心配など、致すでない。覚悟の上じゃで」

「ここに、十五両御座います。当座のしのぎに、どうか、お使い下さい」

 机の上に置かれた金を、滑らせるように手で押して、十蔵の前に差し出した。

「気を使うでない。要らぬぞ」

 十蔵は、その包みを政之助の前に押し出した。政之助は、また金の入っている包みを、十蔵の前に押し出す。

「お持ちになって下さいまし。これから何があるか、判りませぬ・・・私らは、度々江戸に参ります。それに、他の国へも・・・・・困ったことでも御座いましたら、港を覗いて下さいまし。停泊しているやも知れませぬ。何か、お力になれるでしょう」

「うむっ・・・有り難いことじゃ。亀龍! 頂戴致すとするか?」

「そうじゃのお〜 甘えさせて頂こうぞ」

「そうして下さいまし」

「忝いのお〜」と、軽く頭を下げると、十蔵は、金の入っている包みを懐に入れた。

「お体に、お気をつけて・・・」

 政之助は、いつになく真面目な顔で、二人に言った。十蔵と亀龍は、笑顔で頷く。

 銅鑼の音が、船内に響く。

響動めきが、起こっている。入港準備の合図である。乗組員達は、小走りに準備に取り掛かる。その動きは、正に戦場と化していた。

「さあっ、行きましょう」

 政之助の言葉に、二人は上甲板に出た。

桟橋が見える。

「帆を降ろせ〜い」

 船長の甲高い号令が、上甲板に響く。乗組員の、復唱の声と共に、全帆が一斉に降ろされた。聖王丸は、惰力に因って進んで行く。 錨が打たれた。江戸に、入港である。ゆっくりと桟橋に近づいていく。

桟橋に横付けとなった。

「政之助、世話になった」

 十蔵は、深々と頭を下げた。

「頭をお上げ下さい、これしきのことで、お礼など申されては・・・・・」

「いや、長浜殿、良くして下さって、何とお礼を申せば良いやら、言葉が見つからぬ」

 亀龍も深々と頭を下げた。

「そんなに仰られては・・・・・」

「それじゃあ、参ろうか?」

「うん」と、亀龍は、相槌を打つ。

「御武運を、お祈り致しております」と言って、政之助は、会釈をした。十蔵と亀龍は、黙って政之助に頷くだけである。

船長も乗組員を一人伴って、船橋から下りて十蔵達を見送りに来ている。

「船長! 世話になったのお〜」

「有馬様、亀龍様、呉々もお気を付けて」と言って、船長は、深く頭を下げた。

 聖王丸と桟橋を繋ぐ板の梯子を、ゆっくりと歩いて行く。

十蔵と亀龍の二人は、桟橋へ降りた。足に、ずしりと重みを感じる。江戸への第一歩を印したのであった。

十蔵は、深く息を吸う。深緑と潮の香がする坊津とは違って、大木の腐食したような香が鼻を突く。

<これが江戸の香りか・・・>

 潮の香りが、後から漂って来る。

十蔵は、何やら不吉な予感を覚えた。

 桟橋に着いた十蔵と亀龍は、聖王丸を振り向いた。上甲板では乗組員達が、二人を見送っている。政之助と船長が、また深々と頭を下げた。二人は、それに応えて、手を大きく横に振った。それを見た乗組員達も、手を振って見送る。

 十蔵と亀龍の二人は、江戸の町並みに向かって歩きだした。

「大丈夫でしょうか?」

「うむ〜 覚悟の上であろうが・・・お二人の御無事を祈るしかあるまいのお〜」

 江戸への往来は、流石に賑やかで、行き交う人の流れも絶えることがない。

旅姿の人や住民と思われる子供連れなどが、二人に気遣うこともなくすれ違う。

 右手に竹林の茂る、人通りの疎らになった所へ差し掛った。左手には、神社の鳥居が見えている。お構い無く二人は、遠くに見えている江戸城を目指して歩いた。

 突然、「しゅっつ!」と言う音に、立ち止まった。二人は、足元に手裏剣が、突き刺さっているのに驚いた。

そのまま進めば、命を狙うと云う警告の合図に見える。二人は、顔を見合わせた。

お互いに頷くと、歩きだした。

 途端に、手裏剣のお見舞いである。右から左から、手裏剣が飛んで来る。

とっさに体を伏せて、太刀を抜いた十蔵と亀龍の二人は、辺りを見回した。何処にも人影は見えない。

二人は、ゆっくりと立ち上がると、身構えた。

 十蔵の胸元を、手裏剣が狙う。太刀を振りかぶって、手裏剣を払った。

雨の降る如く降り掛かる手裏剣を、二人は太刀で右へ左へと払い落とす。手裏剣を払う金切り音が、不気味に響く。

「いきなり、手裏剣のお出迎えとはのお〜」 十蔵は、呟いた。

「誰じゃい! 出てこい!」と、道端の大木の影に、人の気配を感じた十蔵は、大きな声で叫んだ。

亀龍も、十蔵のように剣先を大木の方に隙を見せないように、ゆっくりと向ける。

 黒い服に身を包んだ、忍者と思われる十数人の男達が、十蔵達の前に姿を現した。

統領と思われる男は、男達の前に出て腕組みをすると、十蔵と亀龍を伺う。

<何奴であろう> 十蔵達は、訳の解らぬまま、統領に剣先を向けて、正眼の構えとした。

それを見た統領は、右手を横に振って、合図をする。

忍者達は左右に散り、太刀を抜いて二人に斬り掛かる構えの布陣を敷いた。 

 亀龍は、正眼の構えから、右足を引き八相の構えとする。八相の構えから、ゆっくりと剣先を下げながら刃先を上にして、嶺に左手を添えて、剣先を統領の喉元に向けた。亀龍の得意とする、必殺剣の構えである。

 十蔵と亀龍の二人は、間合いを取り乍ら、相手の機を伺う。

「亀龍! 嶺打ちじゃぞ。訳の解らぬまま、斬ってはならぬ」

「分かっておる」

二人は、何時の間にか取り囲まれてしまっていた。忍者達は、ぐるぐると回り、打ち込む機会を狙う。

回るのが止まった。

「やあっ!」と、ひとりが十蔵目掛けて、頭上から打ち込んで来た。

 十蔵は、正面で相討ちとして、太刀を払い除けた後、次に面を打ち込んで来た男を、躱しながら右胴を打つ。肋骨が、折れたのであろう。相手は、「うっ!」と言って、倒れ込んだ。

亀龍に斬り掛かった男は、背中を打たれてもがいている。太刀のぶつかる音が、響いている。

頭上から、打ち込まれた亀龍は、鎬を削るようにして、相手の太刀を上に払い除けた後、右斜め頭上から打ち込む。相手は悲鳴に似た声を発して、倒れ込んだ。透かさず、左にいた男の頭上を目掛けて打ち込む。

「うわっ!」と言って、相手は、ばったりと倒れ込み、痛そうにもがいている。 

十蔵は左足を前にして、相手の打ち込みを誘うように、左上段の構えとした。

 相手は、正眼の構えである。十蔵との間合いを取り、打ち込みを待つかのように迫って来る。

その局面に、叶わぬと見たのであろう、「散れ!」と、統領が叫んだ。半分は、手傷を負っている。

 忍者達は、手傷を負った仲間を抱えて、一目散に走り去って行った。

「うむ〜 どう云うことじゃ? 刺客が、こんなに早く来る筈はない。不可思議じゃ」

 十蔵は、走り去る忍者達を眺めながら、太刀を鞘に収めて言った。

「十蔵! 江戸で何かやらかしたんじゃないのか?」亀龍は、走り去る忍者達を、見詰めている十蔵に言った。

「おい、江戸は初めてじゃぞ。やらかせる訳はない」と、むっとした顔を見せる。「そうか」と、亀龍。

二人は、何事もなかったかのようにまた、歩きだした。

江戸城は、町並みを威嚇するかのように聳え建っている。通りにはお店が出て、賑やかである。

二人は、繁華な通りへと人の流れに誘われるまま、歩いて行った。

すれ違う人の流れは緩やかで、ぶつかりそうになる。人を避けながら歩いて行った。

 三味線の音に誘われて、二人は歩く。筵の上に座って、三味線を弾いている女がいる。その三味線の音に合わせて、猿が踊っているではないか。扇子を広げて踊る姿に、群集の笑いを一手に受けている。縄に繋がれて踊る猿は、おどけている。愉快な踊りであった。

「さあ、行くぞ」と言って、十蔵は、女の前を通り、また歩きだした。まるでお祭りのように、人の流れが続く。客を引く茶店の女給の声や、お客を呼ぶ魚屋の威勢の良い声が、通りを益々賑やかにしていた。

「何か、あったようだのお〜 何じゃい、あの騒ぎは?」と、二人は、後を振り向いた。

人の流れで遮られて見えずに十蔵は、背伸びをして覗き込んだ。亀龍も、様子を伺う。

歩いていた人の流れが止まり、皆は騒ぎの方に集まり、振り向いている。

通りに出している店の風車が、騒ぎを助長するかのように、一斉に回っている。二人は、歩いて来た道を、皆が集まっている、騒ぎの方に引き返して行った。

 男どもが、通りのお店を壊しているのが見える。お店を足で蹴散らす男に、襲い掛かろうとしている店の主人を、止めている男が目に入った。ひとりの男が、主人の腕を取って、必死に止めている。

 たちの悪そうな男が、先程の三味線の女に、何やら絡んでいる。「おい女! 誰に断わって、ここで商売をしておる。見かけぬ顔じゃが、ええっ!」と、大声をあげて、威嚇する。どうも、男どもの親分のようだ。

肩を振って、女を脅迫する。横で見ていた十蔵が、その中に入ろうとしたが、亀龍は、男が飛び出すのを見て、十蔵の身体を手で抑えて一瞬止めた。

「やいやい、悪党! 店まで壊した上に、女や子供まで、虐める積もりか? いや、猿じゃなあ、こいつは」と言って、男は女を庇うようにして、男どもの前に立ちはだかった。 

女は、三味線を片手に、猿を抱いている。十蔵と亀龍は、顔を見合わせた。

「てめえは、何じゃい! 俺様を知らんのかい? えっ! おい!」と言って、親分は、男を睨み付ける。

「誰じゃい、お前こそ! 女、子供まで飽き足らず、猿まで虐めるのか? てめえは! 渡世人に、有るまじき行い! 恥を知れ! 恥を!」「何お〜」と言って、子分達を振り返ると、親分は、「やれっ」と合図をした。

「やい! てめえら、やろってのか?」と、男は、子分達を睨み付ける。

集まって来ている野次馬達は、固唾を飲んで様子を伺っている。「面白くなってきたな、亀龍」と、十蔵。

親分の合図に子分達は、男に一斉に斬り掛かった。男は、体を素早く捻って、子分達の太刀を躱した後、太刀をゆっくりと抜いた。 男は間合いを取り、次の打ち込みを待つ。子分の太刀が、男の頭上に振り降ろされた瞬間、十蔵の太刀が、子分の太刀を払った。

十蔵と亀龍は、男の前に出て、抜いていた太刀の剣先を、親分に向けた。

「邪魔立てするのか? お侍さんよ」と、親分は、睨み付ける。黙ったまま十蔵と亀龍の二人は、じりっ、じりっと、親分に迫る。親分は、二人の殺気を感じてか、冷や汗をかいている。

叶わぬと見た親分は、「ちっ、引け!」と言い放って、顎を後の子分達にしゃくった。合図に、「へい」と言って子分達は、さっさと逃げ去る。それを見た男は、「おい、逃げるのか?てめえ! この悪党ども!」と、罵声を浴びせる。走り去る男どもに、「馬鹿めが」と、まだ言い足りない様子である。

女は、ゆっくりと立ち上がり、十蔵と亀龍に頭を下げた。 一件落着に、野次馬達は、取り巻きを解いて、それぞれの思いの方へと、また歩きだす。繁華な通りは、何事もなかったかのように、元の人の流れに戻っていく。

「お侍さん、どうも有難う御座いました」

 十蔵と亀龍にお礼を言った女は、また頭を下げた。太刀を鞘に収めた二人は、女に頷く。

「旦那! どうも・・・えへへへ・・・」 と、太刀を鞘に収めて、男は、右手で頭を掻いた。

女は、その姿に小さく笑っている。

「威勢が、良いのお〜 斬られたらどうする積もりじゃ?」と、十蔵は、男を気遣う。

「旦那達は、お強う御座んすねえ〜 刀を抜いただけで逃げ出しよる。あっしは、安房の松次郎と申しやす。宜しくお頼ん申しやす」「あほの松次郎だって?」と言った亀龍は、小さく笑った。女も、くすっと笑う。

「旦那! からかっちゃあ〜いけません!あわの、松次郎でやんすよ。あわの、松次郎」

「左様か・・・拙者は有馬十蔵、そちらは、亀龍と申す」と言って、女を見た。

 十蔵の女への視線に松次郎は、「お姉えさんは、何と仰るんで?」と、女の名前を聞く。

「私は、お千と申します。これは三吉で、三日ほど前に、上方から着いた所です」

「ほう〜 上方からのお〜 猿と一緒に旅する女は、見たことないのお〜 亀龍、宿でも探すとするか?」

「私の泊まっている旅籠は、如何で御座いますか? 御一緒できれば、宜しいのですが」

「うむっ、左様か、じゃ案内してもらおうか。のおっ、亀龍」「うっ、うん」

「有馬の旦那、あっしも・・・一緒に」

「勝手に致せ」

「へい、そうでやすか。そうしやす」

お千に案内されて旅籠に着いた十蔵、亀龍、松次郎は、そこに草鞋を脱ぐこととなった。泊まっていた部屋では、狭いだろうと、お千は、部屋を替わることを女将に申し出た。仲居に案内されて入った部屋は広く、四人の相部屋では、少し広すぎると思えるほどであった。知らぬ者同士が、相部屋になるのは良くあることであったが、何とも不思議な出会いであった。

「おい、お千・・・その猿は、どうにかならんのか・・・」と、十蔵は猿を横目で見た。

「私もね、どうしたものかと、考えているところなんですけどね。駿河の町で、猿回しの旦那と、お知り合いになりましてね。一緒の宿を取ったのが、運のつき」

「どうしなすったんで?・・」と、松次郎。

「宿の女将は、後家さんで、猿回しの旦那にすっかり逆上せちまって」

「それで?」と、亀龍が身を乗り出す。

「夫婦になってくれと、それで、この三吉はお払い箱。山に逃がそうかとしている内に、江戸まで来ちまったという訳で」

「うむ〜 要らなくなったら、ぽいと捨てちまうのかい? 三吉も可哀相じゃのお〜」

 十蔵は、腕を組んで考え込んだ。

「亀龍、何か良い考えはないのか?」

「そうさなあ〜 旅芸人に、預けたらどうじゃな? 江戸にも来ている筈じゃ。芝居小屋を尋ねてみては?」

「亀龍様、それはいい、早速、行って引き受けてもらいましょ」と、お千は、手を打って喜んだ。今更、山に逃がしても、食物にありつける保障はない。それより、旅の一座で芸を披露すれば、おまんまの不自由はしない。お千は微笑んで、三吉を抱き抱えた。

「しかし、猿がいなくなったら、商売の方はどうじゃ? 商売あがったりじゃろう? お客には、大受けのようだったが」

 十蔵は、お千を見て言った。

「三味線持って、夜でも流せば、なんとか暮らしていけますよ」

「松次郎! そなた、猿の代わりに、首に縄付けて、三味線に合わせて踊れ」

「有馬の旦那、首に縄付けて、三味線に合わせて踊れですって? けっ! 言ってくれますねえ〜 猿の真似なんか、できますかい」「たまには、猿になってみるのも良いぞ。それに、お似合いじゃ」

「けったくそ悪いなあ〜 やい! 旦那!俺の何処が、猿に似てるんじゃい!」

「松次郎、そんなに怒るでない。猿にも劣る奴らがいるから、十蔵は言ったまでじゃよ。虐められている女や子供を助けようとする、松次郎の、気っ風の良さと度胸には、我らも兜を脱いでおる。知らない振りをして、素通りするこのご時勢に、なかなかできておる」 亀龍は、怒る松次郎に軽く頷くと、にっこり微笑んだ。

お千は、黙って聞いている。 

「亀龍! そんなに誉めるでない。逆上せあがるぞ。ただ、博打に現つをぬかすよりも、猿の代わりをした方が、人様に喜ばれて、御役に立つと、言ったまでよ」

「なにお〜 やい! 旦那! てめえこの!何が、現つをぬかすじゃ!」

「松次郎! 止せ」と言って、十蔵に、襲いかかろうとする松次郎を止める。十蔵は、笑っている。

止められて、松次郎は面白くない。「くっ」と言って、腕を組むと、そっぽを向いてしまった。

 気まずい沈黙が、部屋を走る。

 庭先の小さな物音に、十蔵と亀龍は、とっさに太刀を掴んだ。緊張が走る。

 ただならぬ二人の様子を見て、松次郎とお千は、生唾を飲んで、そっと息を堪えた。

「ふう〜 大丈夫のようじゃな」と言って、十蔵は、太刀をゆっくりと畳の上に置く。ほっとしている二人に松次郎もお千も訳の解らぬまま、ほっとして肩を撫で下ろした。

「旦那達、一体どうしなすったんですかい? 恐い顔をして」と、松次郎は、興味深そうに聞いた。

「いや何、江戸へ入る前に、忍者の集団に襲われてな・・・もしやと思ってな」

 亀龍は、太刀から手を離すと、思い出すかのように言った。

「忍者に、襲われなすったんで? うむ〜何か、御座んすね、何か・・・」と言って、松次郎は、腕組みをする。

「ひょっとして、誰かに恨まれているんじゃあ、ありません?」お千は、十蔵を見て言った。江戸は初めてで、恨まれる筈はないと、十蔵は、首を傾げる。「うむ〜」と言って、腕を組んで考えるだけである。

亀龍は、「まいったなあ〜」と、後頭部を右手で、ぽんぽんと叩いた。明るく振舞って、気まずい思いを吹き飛ばしたかった。十蔵も松次郎もそして、お千もそうであった。

 朝靄の中に、鶏の声が聞こえる。江戸の朝は早かった。一夜明けた繁華な通りは、何事もなかったかのように、整然としている。

お千は、猿の三吉を芝居小屋に預けに、十蔵と亀龍に松次郎は、江戸の町を散策に出掛けていた。

昼前であった。十蔵は両腕を懐に、先頭を歩く。後で結んである亀龍の髪が、風になびいている。松次郎は、二人の後から肩を振って歩いた。人の集まっているのを、三人は、見逃さなかった。野次馬達である。

道を横に逸れて、騒ぎの方へと歩いた。

 深編み笠の侍が、浪人達に取り巻かれている。<一対五とは、なんて卑怯な奴らだ>

 十蔵と亀龍の血が、騒いだ。

浪人達は、容赦なく斬り掛かる。深編み笠の男が、相手の太刀を払って頭上から、斬りつけた。

斬られて、「うわっ!」と悲鳴をあげて倒れる。

十蔵と亀龍は、助太刀に入った。太刀を抜くと浪人の喉元に剣先をあて、正眼の構えにして、間合いを取る。

叶わぬと見たのであろうか、「引けっ」と、浪人のひとりが叫んだ。 浪人達は、太刀を素早く鞘に収めると、足早に走り去って行った。深編み笠の男の肩が、荒い息の為に、上下に揺れている。

「怪我は、御座らぬか?」と、十蔵は、声を掛けた。男は、深編み笠の紐を解いた。

色白の、顔質の整った美男子の顔が現れる。

「助太刀、忝い。拙者は、諸国を旅しておる丹波の五代盛明と申す。お手前は、示現流と見たが如何かな?」と十蔵に言って、太刀を鞘に素早く収めた。十蔵と亀龍の二人も、鞘にゆっくりと収める。

 十蔵の太刀は、普通の太刀よりも太く作ってある。示現流は、二の太刀がなく、一の太刀で相手を一気に斬らなければならない。その為に編み出された、太刀であった。その太刀と、剣捌きで示現流だと悟ったのであろう。

十蔵は、「左様! 拙者は、・・・」と紹介した後、亀龍、松次郎と、紹介していった。

 取り囲んで見ていた野次馬達は、さっさと歩きだしている。

「皆さん、諸国を漫遊なさって・・・左様で御座ったか」と、軽く頷き、「江戸の町とは正に、刃物を喉に突き付けられる如くですなあ〜」と言って、五代盛明は肩を震わせて、笑った。十蔵達も、江戸に着いて早々、いきなり忍者達に襲われている。その通りだと、頷いて笑った。

「何故に、浪人達に絡まれたのですかな?」 亀龍は、不思議そうな顔をして聞いた。

「ある旗本の所で、護衛をと、頼まれて行ったのは良かったが、話を聞けば、悪業三昧。雇われるのも嫌になりましてな、断わりましたら、あの始末で御座るよ」

「うむ〜 左様で・・・言うことを聞かぬ奴には、痛い目を見せろと云うことですか? それとも、口を塞げということですかな? 弱い者を、虐める奴も多い。何とも、住み難い世の中じゃ」十蔵は、懐に両腕を入れた。「旗本とも、思えませんなあ〜」と、亀龍。「御尤も」と、盛明は、頷き応える。

 腹拵えにと、飯屋の看板に向かって、皆は歩き出した。

     <江戸の風>

   旅ゆく空に、虹が出て

     手を伸ばし、掴む 

      夢は遠い

    時の流れに出会う

      新しい風が吹く

 

   過ぎ行く雲に、光り射す

     声掛けて、歩く

      江戸はここに

    剣の涙は落ちて

      そよそよと風が吹く

 

   迎える花に、背いても

     吹雪く愛、香る

      明日に燃えて

    悪を飲み込む剣に

      荒れ狂う風が吹く

 

 笑いが、お店の中に響く。十蔵、亀龍、盛明、松次郎達は、気が合った。

 それは、曇ひとつ無い、青い空が輝く、よく晴れた日のことであった。

 

       二

 江戸での生活にも慣れ、多くの顔見知りも出来ていた。宿代を節約しようとの事で、お千は、安い長屋を探して、十蔵、亀龍、松次郎、盛明らは、そこに居候している。

 共同生活が始まって、二十日目の朝を迎えていた。俎を叩く音が響き、味噌汁の香が、鼻を突く。有りふれた長屋の、ささやかな幸せが、そこにはあるかのように、お隣の話し声まで聞こえて来る。

「松次郎さん! お早よう」

「やあ、お夏さん! お早ようさんです」

 井戸端で顔を洗っている松次郎は、「お早よう」の声に、振り向いて言った。

「皆さん、もう起きているの?」

「へい、五代の旦那と亀龍の旦那は、昨日から出掛けたっきり、帰っちゃ来ないし、有馬の旦那は、まだ鼾をかいて寝てますぜ」

 松次郎は、近所のお夏に井戸の場所を譲った。

「そう、お千さんも大変ねえ・・・」桶が、井戸の中に落ちた音が聞こえる。

「へい・・・そいじゃ、失礼さんで」長居は、無用だと、松次郎は、家の中へと入って行った。

「旦那! 起きたんですかい?」

「頭が、ずきずきするのお〜」「けっ、止めとけと言うのに、旦那のやろう、タラフク飲みやがって」

 十蔵は頭を抱えて、出されてある味噌汁を啜った。<お千の作る味噌汁は、実に美味いのお〜> 十蔵は、お千の後姿を、じっと眺める。松次郎は、「へい、へい、お邪魔しやすよ」と、十蔵の隣に胡座をかいて座った。

「有馬様、梅干しが置いてあるでしょ? それを、お茶に溶かして飲んだら、二日酔いなんて、直ぐに治りますよ」お千は、にっこりと微笑んだ。その笑顔さえも、頭に響く十蔵である。

 十蔵は、お千に言われた通りにして、お茶を啜った。梅干しの入った熱いお茶が、喉元を過ぎて行く。二日酔いに効くとは、到底思えない十蔵であった。「旦那にゃあ、梅干がお似合いさな」「うっ、ずきずきするのお」

朝食を済ませた十蔵は、松次郎を伴って、江戸の町をいつものように、散策にと出掛けた。

もう昼過ぎであった。

 その頃、廻船問屋『但馬屋』清兵衛は、代官の近藤晋之助の訪問を受けていた。

代官を前に、清兵衛は、畏まっている。

「但馬屋、次はいつ荷が入るのじゃ? 随分と、儲かっておるようじゃが」

 代官は但馬屋を唆し、禁止されている抜け荷をやらせている。その見返りに、たんまりと小判をせがんでいた。時々、脅しを掛けにやって来る。その度に但馬屋は、金子を用立て、酒を出し遇す。身から出た錆とは云え、程々嫌になっていた。

「儲けなど、殆ど御座いませぬ。今度、新造船を発注しておりまして、何かと物入りようで、お代官様に縋るしか御座いませぬ」

 清兵衛は、頭を下げた。

「新造船をと?」

「はい、清国は基より呂宋(フイリッピン)竺土(インド)迄、出掛けて行けるような、大型船をと思っております」

「そんなに、遠くまで行っておるのか?」

「はい、それはもう随分と前からで御座いますよ。江戸の廻船問屋達は、ちょっと太刀打ちできないで御座いましょう」

「ほう〜 左様か・・・どの藩が一番じゃろうかのお〜」と、代官は、興味を示す。

「播磨、摂津、和泉、河内、丹後、丹波、但馬、肥前、薩摩などなど、上げたら切りが御座いませぬ」

「うむ〜 考えを新たに、せねばならぬようじゃのお〜 鎖国令が出ておるというに」と言って、代官は、伴の者を見た。伴の者は、代官の視線を受けて、軽く会釈をした。

「お代官様、これは粗品にて、申し訳御座いませぬが、お受け取り下さいまし」

 清兵衛は、例の如く、履物の入った箱を差し出した。代官は、中を覗く。小判の入っているのを確認すると、にっこりと微笑んだ。「うんうん、有り難く頂くぞ」と言って、伴の者に箱を手渡した。

「ささっ、一献お召し上がり下さい」出されてある、手料理を指して言った。

「但馬屋、悪いがのお〜 きょうは、薮用があるのじゃよ。これで、失礼する」<金さえ貰えば、用はない>

「左様で御座いましたか」代官は、但馬屋に送られて席を立った。

 金を受け取った代官は、上機嫌である。伴の者を従えて、さっさと但馬屋から出て行った。

「但馬屋、あれが代官か? 聞きしに勝る悪党じゃのお〜 何故に、そなた程の男が悪に手を貸すんじゃな?」

 五代盛明と亀龍は、隣の部屋から襖を開けて、部屋に入って来た。昨夜、居酒屋で清兵衛に遇った二人は、意気投合して席を同じに飲み明かし、清兵衛の屋敷に、一夜厄介になっていた。盛明の言葉に、返す言葉の無い、清兵衛である。清兵衛の心は、重かった。亀龍達は、清兵衛の沈んだ気持ちがよく解っていた。

「最初は、お断わりしていたので御座いますが、御禁制の品を、どうしても手に入れたいと仰って、一度が二度、二度が三度と重なりまして、取り返しのつかないことになりました。他の廻船問屋達も、同じ手口で強請られて、随分と泣かされております。五代様、どうしたら宜しいでしょうか?」

 清兵衛は、悲痛な顔を浮かべた。

「うむ〜 如何したものかのお〜」と、清兵衛の前に胡座をかいて座ると、腕組みをして名案はないかと考えた。

「斬れば良かろう! 悪なる影は、斬って光を射すことじゃよ。そうでもしないと、悲しむ者が、増えると云うもんじゃ」亀龍は、二人に言い放った。「やけに、簡単じゃのお、亀龍」と、盛明。

「旗本の高崎孫右衛門と組んで、何やら企んでいるらしいですが・・・」

「何っ! 高崎孫右衛門じゃと?」

「はい、如何致しましたか? 五代様」

「護衛を頼まれてな、断わったら襲われる始末・・・有無を言わせない奴のようじゃ」

「用心棒まで雇っているとは、お聞き致しておりましたが・・・そこまでやりますか?」

「やるじゃろう。奴にとっては、それが当たり前のことであろうのお〜」

「矢張り、斬った方が良い」と、亀龍は腕を組む。清兵衛も、腕を組んで考え込んだ。

「分かりました。お金をお支払い致しましょう。おひとり十両で、如何ですか?」

清兵衛は、度胸を決めた。表に出れば、後に手が回る。その為の、覚悟の決断である。

「金など要らぬわ!」と、亀龍は、腕組みを解くと、清兵衛を睨み付けた。

「いえ、いえ、受け取って頂かないと、後々厄介なことになります」と、軽く会釈をする。

「そうじゃのお〜 密告でもされたら、大変じゃろうて・・・亀龍、それで手を打とう」

「うむ〜 それじゃあ十蔵達も引き込もう」「良かろう。あと三人程、味方がいるんじゃが、どうかな?」と、清兵衛を見た。「それは、もう、宜しゅう御座いますよ」

「よし、決まりじゃな」と言って、代官達の為に出してあった徳利を手にして、亀龍に薦める。

杯に溢れん程に注がれた酒を、盛明、亀龍、清兵衛の三人は、一気に飲み干した。

「それでは、宜しく頼みましたぞ。五代様、亀龍様」「うん! 任せておけ」と言って、盛明と亀龍は、酒を飲みながら、代官近藤晋之助と、旗本高崎孫右衛門を闇に葬る策略を、巡らした。清兵衛は、黙って聞いている。

但馬屋の庭先には、大輪の菊が咲き乱れ、雀の囀りが会話と重なる。

ぽかぽかと暖かい陽射しが、部屋に射し込めていた。

 亀龍達の噂する高崎孫右衛門は、家来達を伴って、居酒屋『伊勢』の戸を叩いていた。

「女将! 開けろ、こら開けんかい!」と、今にも戸が壊れそうな勢いである。

「困ったわね・・・また高崎様よ・・・」と、女将は、旦那に渋い顔を見せる。

「こら!」と言って、中々出て来ない女将に腹を立てた孫右衛門は、思いっきり戸を叩いた。

煩くてしょうがない、まだお店を開ける時間ではなかったが、女将は、渋々お店を開けた。

「女将! どうした遅いぞ、酒! 酒を持って来い!

孫右衛門は、戸を開けて顔を出した女将に睨みを効かせて言った。

「はい」と、従いつつも、腹がたって仕方がない。孫右衛門達は、勝手に店へ上がり込んで行く。

女給達を起こして、お酒の準備をさせる女将である。このように起こされて、お酒と手料理を運ぶ女給達には、何時ものことではあったが、申し訳ないと思っていた。

孫右衛門達は、中庭の見える静かな部屋に腰を落ち着けて、飲めや歌えの大騒ぎである。この世には、怖いものなしと、我が物顔で、心行くままに騒いでいた。

 その頃、仕立物を届けに伊勢の裏門を潜ったお希美は、いつもと違う賑やかさに、中庭を覗いた。お店は、閉まっている筈なのに、偉い騒ぎである。興味深く、声のする方へと近付いて行った。

 お希美は、孫右衛門と目を合わせてしまった。女と見た孫右衛門は、酔った勢い、「あそこの女を、連れて参れ」と、指を指し、家来達に指図をした。二人の家来が、庭に飛び出て、嫌がるお希美を捕まえる。お希美は、部屋の中へと連れ込まれてしまった。

「女、酌をしろい」と、お希美に杯を差し出す。お希美は、恐くて震えあがった。

 恐る恐る、お酌をするお希美である。

「う〜む 可愛い顔をしておるのお〜 体を見てみたいもんじゃのお〜」

「はっ、早速に」と言って、ひとりが、お希美の帯を解く。お希美は、「きゃあ〜」と、大声を上げた。

孫右衛門は、逃げようとするお希美を捕まえる。お希美の悲鳴に驚いた女将は、部屋に飛んで来た。

「高崎様、何事で御座います? あら、お希美ちゃん、どうしてここに?」と女将が言った隙にお希美は、孫右衛門の手からすり逃げた。 お希美は、中庭に降りると、裏木戸を潜って外へ飛び出していた。

 繁華な通りは、賑やかさを増し、どこからともなく焼き魚の香が、漂って来る。

十蔵の腹の虫が、鳴く。松次郎とて同じ、腹が減って仕方がなかった。

「有馬の旦那、飯屋の看板が見えますぜ」

「飯屋か・・・きょうは、何処か変わった所でどうじゃ?」

「変わった所と、仰いやすと?」

「お千の手料理の方がましな、飯屋の料理ではのお〜 食う気にもならぬわ」

「仰る通りで、御座んすねえ」

 二人は、辺りの看板を見回した。飯屋らしい看板は、何処にも見当らない。二人は、先へと歩いて行った。

 繁華な通りを抜けて、人も疎らな少し淋しい、居酒屋の看板が立ち並ぶ通りに出た。

「有馬の旦那、こんな所に、来ちまいやしたぜ」と、松次郎は、辺りをきょろきょろと見回す。

十蔵は、困った顔を見せた。

「うむ〜 方向違いであったか」「何処かの店に入りやしょ、旦那、そうしやしょ」

「昼間から、開いておるかのお〜」「いや、開いている店もありやすよ」

 松次郎が、言い終わったと思った途端に、女が、前の居酒屋から飛び出して来た。

服と髪は乱れ、裸足である。脇目も振らずにこちらに向かって、駆けて来る。十蔵は、穏やかではないと思った。驚いて松次郎も立ち止まり、女に目を見張った。口うるさい松次郎の声も出ない。

 その後から、侍姿の男達が、通りに飛び出して来た。女の姿を見付けると、急いで後を追った。男達は、血相を変えている。

 女は、十蔵の前に来ると、「お侍さん! お助け下さい!」と言って、助けを求めた。 十蔵は、女を庇うように前に出て、追っ手の前に、立ちはだかるようにした。

「女、任せておけ」と言った十蔵は、太刀をゆっくりと抜いた。松次郎は横で、おどおどしている。

震えあがっている女は、軽く頷くと、十蔵の後に隠れた。

「おい、そこの! おとなしく、女を渡してもらおうか!」と、侍は十蔵を睨み付ける。 侍達は、六人。

その中に、身形の良い男がいる。十蔵は、間合いを取り、正眼の構えから、左足を一歩前に、八相の構えとした。  侍達は、無造作に太刀を抜いて、正眼の構えを取った。松次郎も、太刀を抜いて正眼に構える。

侍達は、十蔵と松次郎の二手に別れて、構えを整えた。どう見ても、十蔵達の負けだと思われる。

侍のひとりが、「やあっ!」と、十蔵に斬り掛かって来た。

斬り掛かる太刀を、鎬を削るように左に払い除けた十蔵は、上段から相手目掛けて振りかぶった。 

男はよろめき、十蔵の太刀を顔面に受けた。 血飛沫が、花吹雪のように空を飛ぶ。

「うわっ!」と言って、男は倒れた。

 仲間が斬られて、侍達の様子が一変した。太刀が、震えの為に小刻みに揺れている。

 十蔵は、にやりと笑いを浮かべた。

「くそっ!」と言って、ひとりが十蔵に斬り掛かって来た。十蔵は、相手の太刀を、正面で相討ちとして、相手が気を緩めた所を、左足、右足、左足と前に、相手の体を躱しながら進んで、右胴を斬った。

「うわっ!」と、叫ぶ侍の胴体から、血が吹き出す。逃げて来た女は恐くて、目を伏せた。

松次郎も、必死で相手の太刀を躱す。

太刀のぶつかる音が、静かな通りに不気味に響き、侍達の震えを誘っていた。

「畜生! 引けっ!」と、身形の良い男が叫んだ。侍達は、さっさと逃げ去って行った。

「けっ! 逃げやがって悪党どもが!」と、松次郎は言い放った。

「女、もう大丈夫じゃ。一体何があったのじゃな? えっ、そんなに取り乱して」十蔵は太刀に付いた血を、白い紙で拭き取って鞘に収めると、震えている女に言った。太刀で切れた白い紙が、地面に落ちて行く。

「どうも有難う御座いました。私は、お希美と申します」と、お礼を言って、お希美は、十蔵と松次郎に深々と頭を下げた。そして、先程、居酒屋伊勢に、女将に頼まれた仕立物を持って行き、そこで高崎孫右衛門達に、乱暴されそうになり、逃げて来たことを詳しく話した。

「そうであったか・・・もう大丈夫じゃ、安心致せ」十蔵は、お希美を労わるように言った。

「その姿じゃあ〜 家には、帰れまい。どうじゃ、拙者達の家で、服などの乱れを直したら・・・のお〜 松次郎」「へい、その方が、良御座んすよ、お希美さんとやら。そうしなせえ」

「はい、宜しいんですか?」

「ああ〜 良いともよ、ねえ〜 旦那」

十蔵は、にっこりと笑顔で頷く。震えていたお希美も、やっと落ち着きを取り戻したようである。

十蔵と松次郎は、お希美を連れて長屋に帰ることになった。

家に着いた十蔵は、「お千、帰ったぞ」と言って、戸を開けた。松次郎も、十蔵の後から家に入る。

服の乱れた娘を見たお千は、驚いた。  女に縁の無いと思っていた十蔵が、女を連れて帰って来た。

それも、服と髪は乱れ、裸足である。一瞬、目を丸めて、声も出ない。

「一体、どうなさったんです。娘さん」

十蔵は、事のなりを詳しくお千に話した。お千は、黙って聞いていたが、「ささっ」と言って、お希美の服と髪を整えてあげる。

「江戸の町は、物騒ね」と、お千は呟く。

「嫌な奴が、お江戸には、蔓延っているわよね。まるで、全てが自分の物のようにさ。何とか、ならないかしらねえ〜 もっと、素晴らしい人達が、治めて欲しいわよね」愚痴るお千であった。

 五代盛明と亀龍が家に帰って来たのは、十蔵達が、お希美を交え、昼食を済ませて一服している時であった。夕暮も近かった。二人は、微酔気分である。家に上がった亀龍は、見知らぬお希美がいるのもお構いなく、廻船問屋『但馬屋』と知り合い、刺客を頼まれたこと等を、詳しく話した。

 十蔵達は、驚きもせずに、黙って聞いている。有り得ることだと思っていた。

「して、誰を斬るんじゃ?」と、十蔵は、亀龍を見た。皆も、聞きたかった質問である。

「代官の近藤晋之助、旗本の高崎孫右衛門じゃよ」と、亀龍の目が光った。

「矢張り」と、お希美は、納得した声を出した。その声に皆は、お希美を見る。

 盛明と亀龍は、お希美がお千の親友であると思っていたが、どうも様子がおかしい。

「十蔵、ところで、そこの娘さんは?」亀龍は、見慣れぬお希美を見て言った。

「お希美と申します。私も、是非お仲間に入れて。きっとお役に、たつわよ」

「皆、どうしたもんじゃろう? 仲間にするかい?」と、亀龍は、皆を見回した。 

「仲間に入りたいのであれば、良いではないか? 味方は、多い方が良い」十蔵は、賛成であった。

松次郎、お千、盛明も軽く頷く。

「秘密が、外へ漏れるようでは、上手く行かない。困るのは、我らじゃぞ」

亀龍は、お希美のことなど信頼できないという顔をする。

「既に、話は、聞かれているではないか?」「分かった」と、盛明の言葉に、やっと賛成する亀龍であった。

信じられない族の多い、江戸の町である。亀龍の言うのも、尤もな話ではあった。

「それで・・・・・」と、盛明は言って、身を乗り出した。皆も、盛明の所に集まり、身を乗り出すようにする。用心棒などに、守られている。簡単に、手は出せない。策略を持って斬らなければ、こちらがやられてしまう。一緒になって、考え込む。

お希美の話では、可成悪どい奴らであるらしい。一筋縄では、行かないようであった。

 先ずは、二人の動静を詳しく調べて、決行する日を決めると云うことになった。

 夜は、静かに更けて行く。

 十蔵と亀龍に松次郎は、代官近藤晋之助と遇った料亭へ、お千は、その辺りを三味線で流すことにして、早速、出掛けて行った。

 盛明は、お希美を家まで送り、そこで待ち合わせることとなった。

 犬の遠吠えが、聞こえて来る。お千は、料亭の提灯の並ぶ通りを、三味線片手に歩いた。通りは薄暗く、足元に小石を感じる。躓かないように、ゆっくりと歩いた。      

<恋する女>

    酒の香りに、誘われて

       流す三味の音

      あなたの心を、追い掛ける

   はあ〜 わたしゃ、惚の字の

         あなたの許へ

 

    弦の響きに、酔い痴れて

       歌う恋歌

      捧げて燃やそう、好い人に

   はあ〜 わたしゃ、縋って

         寄り添い歩く

 

    灯り燈して、見詰めても

       揺れる黒髪

      あなたの思い出、愛誘う

   はあ〜 わたしゃ、お江戸の

         恋する女

 

「お千が、流しているようじゃのお〜」

 十蔵は、亀龍を見て言った。料亭『桂浜』の暖簾を潜った十蔵達は、代官達が酒を飲み交わしている部屋の、丁度向いの、竹の間に通されて、様子を伺っていた。

「奴らは、静かに飲んでいるようじゃのお〜誰かを、待っているのではあるまいか?」

亀龍は、部屋を覗き込んで言った。

「何だか、気味が悪う御座んすねえ〜」

 松次郎は、酒を自分で注ぎながら、横目で部屋の様子を伺った。

 予想を反して静か過ぎる部屋に、十蔵も奴らは騒ぎを起こす程に、飲むと云う話を聞いていただけに、気が抜けたような、不気味さを覚える。三人は、じっと耳を澄ませていた。

「お千の、三味の音が、止まったようじゃのお〜 何かあったのかな?」

 お千の弾く三味線の音が、急に止まって、十蔵は、中庭に目をやった。

「お千さん! お客様が、お呼びよ。梅の間に行って頂戴。さっ、こっちよ」

 女給は、料亭の前を、三味線を弾きながら歩いていたお千を、呼び止めた。この通りを流すうちに、あちこちの料亭で、お客がつくようになっていた。何度となく呼ばれる度に桂浜の女給達とは、顔見知りになっていた。「有難う、お駒さん」と言って、お千は、料亭の中へと入って行った。

 廊下を、女給に案内されて行く女を見て、「あれは、お千じゃないか?」と、十蔵は、代官達の部屋を覗き込む。亀龍も松次郎も、廊下の近くに歩み寄り、奴らの部屋に入って行くお千を、中庭を通して眺める。

「上手くやってくれれば、良いが」と、お千の慣れぬ仕事に不安を覚える亀龍である。

お千が通された部屋は、代官達の部屋であった。代官を見たお千は、まんまと、餌に食い付いたと思った。

お駒とお千は、部屋に入ると正座をする。お駒に紹介されたお千は、両手をつき深々と頭を下げた。

代官は、満足そうにお千を見ている。

「お千! 堅苦しい挨拶は抜きじゃ。待ち合わせの者が来るまで、何か弾いてくれ」

 代官は、お駒のお酌に、杯を伸ばして言った。溢れるくらいに酒が注がれ、代官は一気に飲み干して、美味そうな顔を見せる。代官は、ことのほか上機嫌である。お千は、三味線を手にして、調弦する。

 伴の者達も、お駒のお酌を受けて、機嫌よく酒を飲んでいる。お酌を全員に済ませたお駒は、「お千さん、宜しくね」と言って、部屋から出て行った。

      <乱れ髪>

     花咲く夜に燃え

       愛で包まれる

      あなたは、側にいて

    ああ〜 そっと紅を引く

       夜に舞う、乱れ髪

 

     過ぎゆく思い出に

       凭れ涙する

      あなたは、微笑んで

    ああ〜 きっと抱き寄せる

       愛を映す、乱れ髪

 

     落ちゆく花を受け

       胸に畳んでも

      あなたは、遠くへと

    ああ〜 もっと喜びを 

       ひかり隠す、乱れ髪

 

お千の弾く三味線の音が、静かなお店に響く。三味の音に、酔い痴れるかのように、虫が囁いている。

お駒は、透き通る三味線の音を踏み付けるように、お客達を案内して、そっと廊下を歩いて行く。

「あの男を、見ろよ。十蔵、あの目付き、あの歩き、いつぞやの、忍者の統領に、似ているとは思わないか?」と、亀龍は、中庭を振り向いた男を見て言った。十蔵も、男達を観察する。十蔵は、首を傾げた。

「あ奴らですかい? 旦那達を、襲ったと云うのは・・・忍者の統領にしちゃあ、ちょいと、身形が良過ぎるんじゃ御座んせんか? 亀龍の旦那」と、松次郎は、身を乗り出して歩いていく男達を目で追う。

三人の男達は、代官達のいる梅の間の、近くの部屋に通された。

「黒頭巾で、顔は隠していたが間違いない、奴だ!」と、亀龍は、確信して言った。   

十蔵は、まだ疑っている。

「統領だったとしてもですぜ、亀龍の旦那、何で、その統領が、こんな所に?」

「いや、それは、分からんがのお〜 何か、匂うな」と、腕組みをした。

「奴だとしたら、亀龍、お前の言う通りだ。何か、企んでの密会と見たが」十蔵も、腕を組んで言った。

十蔵達の机の上に置かれた酒は、すっかり無くなっている。女給が、酒を持って来る頃合である。

思った通り、女給が酒を運んで、「失礼します」と、部屋に入って来た。

「お姉さん、あそこのお客は、誰だったかいのお〜 どうも、思い出せないんじゃが」

 十蔵は、机の上に、酒を置き終えた女給に尋ねた。女給は徳利を手に、十蔵にお酌をする。杯には、溢れるばかりに酒が注がれる。「ああ、あそこのお客さん達ね。柳生様に、お伴のお方に、加賀藩のお侍さんよ」

 次に、亀龍、松次郎へとお酌をしていく。「いつも来ているのかい?」と、酒をゆっくりと飲み干した亀龍は、女給に尋ねる。女給は、「加賀藩のお侍さんは、初めてよ」と、亀龍に酒を勧める。

「そうか・・・柳生が、何故に?」亀龍は、酒を受けながら首を傾げる。

「しっ! 柳生様に係わっちゃあ、いけないわよ。首が、飛ぶという噂よ。危ないわ」

 女給は、話題を替えるように注意する。

首が飛ぶとは、穏やかでない。飛ぶ首を、突っ込みたくなるのが、常である。

興味が湧く十蔵、亀龍、松次郎であった。

女給は、皆にお酌をし終えると、「お邪魔しました」と、笑顔を浮かべて会釈をする。

空の徳利を持って、静かに部屋から出て行った。

 亀龍は、十蔵に酒を薦める。「うん」と言って、それに応えて杯を差し出す。

 お千の弾く三味線の音が、止んだ。十蔵達は、梅の間を振り向いた。

 奴らが待ちに待つ、お客のようである。

 お駒が、「失礼します」と言って、お客を連れて、梅の間に入って行く。

「おお〜 桔梗屋、待ち兼ねたぞ」代官は、飲む手を止めて手招きをする。

「遅くなって、申し訳御座いません」

『桔梗屋』甚六は、岡っ引きの五郎蔵を伴い、代官の前に正座をすると、軽く会釈をした。

五郎蔵も、甚六に習って会釈をする。

代官のお酌を受けて、甚六と五郎蔵は、畏まって酒を飲み干す。お千の存在には、気にも掛けずに、酒を交

す代官達である。

「どうじゃ、あれは、手筈通りに行っておるか? 桔梗屋」と、代官は、意味ありげな言葉をかけた。

甚六は、軽く頷き、「予定通りに御座います」と、笑みを浮かべて応える。

「大丈夫か?」と、代官は、不安である。

「高崎様も、加わっていらっしゃいますし、それはもう、大丈夫で御座います」

「奴が、一枚加わっているから、大丈夫かと聞いておるんじゃ」と、舌打ちして、横を向く代官である。

「間違い、御座いますまい」と、五郎蔵を見る甚六である。五郎蔵は、甚六に軽く頷く。

 向の部屋では、亀龍は、落ち着かないでいた。

「奴らは、何を話しているんじゃろうのお〜岡っ引きもいたようじゃが」と、覗き込む亀龍に、「大丈夫じゃ、

お千が何か聞き出して来るさ」と、亀龍とは裏腹に、落ち着いて酒を飲む十蔵である。

五代の旦那は、遅う御座んすねえ」

あまり遅いので、松次郎は、何かあったのではと不安げに、首を傾げた。「なあ〜に、心配は要らぬよ」と、盛明の腕前を知っているだけに、十蔵は落着き払っている。松次郎は、そわそわしだした。

その頃、五代盛明は、お希美を無事に送り届けて、料亭『桂浜』に向かって、暗い夜道を歩いていた。

橋を渡って、居酒屋の並ぶ提灯の明かりを、右手に見て歩く。

暗闇の中に、人影を感じた盛明は、太刀に手をあてて、息を堪えた。

「誰じゃ! そこにいるのは?」

「ま待って、下さいまし、お武家様」

 盛明は、声のする方へと近付いて行った。暗闇の中から、男が顔を出した。薄暗くて、良く判らない盛明に、「追われているのです」と、男は震えた声を出す。恐い目に遇ったようで、盛明は捨て置けない。

「安心致せ、匿ってやろう」

その言葉に男は安心したのか、盛明の方へゆっくりと歩いて来た。薄明りに照らされた男の顔は、傷付き、服は破れて汚い格好である。その姿を見た途端、「うむっ、どう致した?」と、驚きの声をあげる。

男は、「へい」と、頷くだけである。「へい、では解らぬぞ・・・」

「向こうを探せ!」「あっちじゃ!」と、この男を探し回っている声が、聞こえて来た。

「あそこだあ! いたぞ!」

物陰に隠れたのであったが、見つかって、しまったようである。仕方がない、「そこに居ろ」と言って、盛明は前に歩み出ると太刀を抜いた。追っ手は、浪人姿の五人である。

追っ手に向けられた盛明の剣が、居酒屋の提灯に照らされて、闇にきらりと光る。

 盛明は間合いを取り、正眼の構えとして、相手の打ち込みを待つ。

「やあっ!」と、相手が頭上から打ち込んで来た。正面で相討ちとして、相手の体を躱しながら、左足、右足と前に進み、上段から斬り掛かる次の相手の右胴を斬り、振り返って最初斬り掛かって来た相手を、右斜め頭上から斬った。血飛沫が飛ぶ。相手は、「うっ」と言って、ばったりと倒れる。透かさず、後から斬り掛かる相手の喉元に、突きの一撃を入れる。突き刺さる太刀を直ぐに引き抜き、左にいた次の相手を、左斜め頭上から斬り、頭上から大きく振りかぶって斬り掛かる相手を躱して、右足、左足、右足と前に進み、左胴を斬る。太刀が打つかって、火花が散る。 悲鳴にも似た声を出して倒れる浪人達を、横で見ていた男は、震えて声も出ない。一瞬の出来事のように思えた。浪人達は、全て斬られて倒れている。早業であった。

「ふ〜っ」と言って、盛明は、太刀を鞘に収めた。斬りたくはなかったのだが、身を守るには、剣を使うしかあるまいと思う盛明であった。暗闇の片隅で震える男に、近づいて行く。「済んだぞ、安心致せ」

「へい」と言って、軽く会釈をする男であった。

 料亭『桂浜』の竹の間では、十蔵達が酒を飲みながら、代官達のいる梅の間の様子を伺っている。

別に変わった様子はなかったが、芸者達が案内されて、部屋に入って行った。「おお〜 彩乃、待ち兼ねたぞ。ささ、これへ参れ、これへ、ささっ」と、代官は御機嫌である。「遅うなりました」芸者の彩乃達は正座をすると、手をつき深く頭を下げた。代官の手招きに、側へとしなやかに歩く。お千の出る幕は、無くなった

「芸者じゃあ〜 お千さんは直ぐに、お払い箱になるんと違いまっか? 有馬の旦那・・・」

「竹の間に呼ぼうか?」と、十蔵は、松次郎を見て言った。松次郎も、亀龍も軽く頷いて応える。 

松次郎は部屋を出て、女給にお千を部屋に呼ぶように、お願いする。女給は、快く応じてくれた。

暫らくしてお千が、部屋に入って来た。悟られないように、三味線を弾く。

「お千、どうだった? 奴らは」と、亀龍。「矢張り思った通りよ。桔梗屋の甚六と、岡っ引きの五郎蔵も加わってのことらしいわ」 三味線の音を、止める事無く話をするお千である。

「岡っ引きまで、引き込んでのことで御座んすかい? 岡っ引きが、仲間にいたんじゃ、たまったもんじゃあ

御座んせんねえ〜」と、腕組みをして、首を横に振る松次郎である。 

そこへ、「失礼します」と言って、女給が部屋に入って来た。五代盛明を案内して来たのである。

盛明は、「遅くなった」と言って、お千の横に座った。それを見た女給は、「それじゃ、御ゆっくりね」と、軽く頭を下げて、空になった徳利を持って、部屋から出て行った。

「おい、遅いぞ」と、十蔵は、盛明に渋い顔をする。盛明は、松次郎が、「旦那」と言って差し出した徳利に、杯を近付けて、酒を受ける。

「実はのお〜 ここへ来る前に、追っ手に追われていた男を助けての、但馬屋に匿って来た」と、盛明は、酒を一気に飲み干した。

「それで、遅かったんで」と、松次郎。

「旗本の高崎孫右衛門の所で、騙されて働かされていたらしい。奴の別邸の地下では、偽金に偽粉、それに浮世絵を描かせているらしい。唐物と偽って粉を売り、偽金を使って清国の貿易船から、御禁制の品を仕入れ、浮世絵まで売り捌いているらしいぞ」

「粉とは、女子が付ける化粧品のことか?」 十蔵は、腕組みをして聞いた。

「左様、偽物じゃよ」と、盛明は酒を飲む。「浮世絵までかい?」と、亀龍も腕を組む。「高く売れるらしい」

「うむ〜 奴らの企みは、そのことであったのか・・・騙されて働かされている男達を、救い出さねばならぬのお〜」と、十蔵。「早速、かかろう」と、亀龍は、皆を見回して言った。皆は、それに応えて頷く。

 向かいの梅の間では、芸者達と大騒ぎをしている。芸者の弾く三味線と太鼓の音が、愉快な声を出しているかのように、十蔵達には聞こえていた。

        

       三

 高崎孫右衛門の別邸の地下には、騙されて連れて来られた飾り職人、浮世絵師、薬草調合師達が、虫けら同様に働かされている。職人達の近くには、浪人達が鞭を手に見張っている。隙を見て逃げるのは、至難の業であった。偽金を作っている飾り職人の前に、浪人が近付いて来た。

「おい、お前! 手を休めるな!」

浪人は、職人の背中に鞭を浴びせる。職人は、打たれて痛そうな顔を見せた。声を出せば、また打たれる。

堪えるしかない。他の職人達にも、容赦なく鞭を浴びせる。不味い食物に、夜もろくろく寝られない。

職人達の体力は、限界にきていた。

「二人だけか?」と、門の前で様子を見ていた十蔵は、門の近くの浪人達を見て言った。

「他には、居ないようだ」と、亀龍。

「私に任せて、近付いてみるわ」と言って、お希美は立ち上がると、門の方へと歩いて行った。中の木戸口に、一人いるのが見える。お希美は、睨み付ける浪人達に微笑んで、会釈をした。二人の浪人は、そっぽを向く。

「中に一人いるわ」と、門の前を通り過ぎたお希美は、戻って来て、十蔵達に言った。

「あの二人は、任せろ」と、亀龍は言って、門の方へと忍び寄る。

 亀龍は、両腕の皮バンドに挿してある短刀にも似た手裏剣を二本、引き抜いた。

 右手に持って、狙いを定めた亀龍は、手裏剣を放った。手裏剣は、「しゅるるる」と、音を発てて、浪人達を目掛けて飛んで行く。 浪人の、心の臓を射抜き、もう一人の浪人の、喉元を突き刺している。

浪人達は、声を発てることもなく、ばったりと倒れ込んだ。木戸口に座っている浪人の近くまで忍び込んでいたお千は、三味線に仕込んである剣を素早く抜くと、微笑んでいる浪人に大きく振りかぶり、頭上から斬り掛かった。油断した浪人は、太刀を抜く暇もなく、「わああっ!」と言って、倒れ込んだ。

お千は、右手を振り合図をして、十蔵達を中へ引き込む。お千とお希美は外で、見張りに就いた。

十蔵達は、音を発てないように、ゆっくりと薄暗い地下室へと、降りて行く。 蝋燭の灯りが、揺れている。先に降りて、地下室を覗いて様子を伺った松次郎は、手の平を開いて、浪人は、五人だと合図をする。

 皆は、軽く頷く。十蔵が先に立ち、気付かれないように、ゆっくりと降りて行った。

 職人達は、十五人は居ようか。脇目も振らずに、作業をしている。見張り役は、鞭を片手に目を光らせている。歩いている見張り役は三人、座っているのは二人。

十蔵、亀龍、盛明、松次郎は、太刀をゆっくりと抜いて、見張りの浪人達に近付いて行く。

松次郎が躓いた物音に、見張り役の一人が、十蔵を振り向いて、「誰じゃい!」と、声を発した。 

一斉に、見張り役達は、彼らを振り向いた。 

盛明は、近くに燃える蝋燭を、素早く斬った。蝋燭が、床に落ちる。と同時に、斬り合いとなった。

蝋燭の燃える薄明りの中に、太刀のぶつかる音がする。

亀龍は八相の構えから、剣先を相手の喉元にあてながら、刃を上に、嶺に左手を添えて相手の動きを見る。

左上段の構えから、大きく振りかぶって、頭上に打ち込む相手を亀龍は、右から軽くいなして、左胴を斬る。  血飛沫が、打ち寄せる波の如く、飛び散る。「うわ〜」と言って、ばったりと倒れた。

 盛明は、正眼の構えから、間合いを取り、打ち込んで来た相手の太刀を、頭上で相討ちとして、体を躱した後、左にいた相手の頭上から斬り込む。面を打たれた相手から、血飛沫が飛ぶ。「うっ〜」と言って、倒れ込んだ。

透かさず、最初斬り掛かって来た相手の、鳩尾に突きの一撃を入れた。直ぐに、太刀を引き抜いて、体を整える。

 松次郎は、正眼の構えから、打ち込む機会を伺う。堅く握り締められた太刀は、少し震えているようにも思えた。相手が、松次郎に斬り掛かる。正面で相討ちとして、近付いた相手と、鎬を削り合う。力を込めて、松次郎は、相手を押し退けた。透かさず相手は、斬り掛かる。体を躱して、頭上から振り被って来る太刀を避けた。

 そこへ、十蔵の助太刀である。

十蔵の太刀は、相手の顔面に、振り降ろされて襲いかかった。「うわっ」と言って、ばったりと倒れた。

血飛沫が、部屋に飛ぶ。十蔵は、透かさず、右にいた相手の左胴を斬る。

「うぐっ」と言って、血飛沫と共に倒れた。 地下室は、静かになった。見張り役の浪人達は、全部斬られて床に倒れている。

 職人達は、地下室の片隅で、震え上がっている。盛明は、懐から白い紙を出して、太刀を拭く。白い紙が、斬られた浪人の上に落ちて行く。ゆっくりと鞘に収めた。皆も、ゆっくりと太刀を鞘に収める。

「もう、大丈夫じゃ」と、十蔵は、震えている職人達に声をかけた。

「有難う御座いました。いつ、逃げ出すことが出来るかと、心配で御座いました」と、ひとりが言い終わると、皆も、「有難う御座いました」と言って、深々と頭を下げた。

「なあ〜に 礼など要らないで御座んすよ」 松次郎は、強がって見せる。職人達を気遣いながら、暗い地下室から外へと連れ出す松次郎である。見張りをしていたお千とお希美は、皆の無事を確認すると微笑んで出迎えた。職人達は、歩く力も無く、へとへとのようであった。

こうして、十蔵達は、無事に職人達を、救い出すことに成功したのであった。

空には雲ひとつ無く、どこまでも青空の広がる日である。繁華な通りを素通りして、静かな郊外へとやって来た松次郎とお千、お希美達は、茶店の外の椅子に腰掛けて、お茶を注文した。女給がお茶を運んで来て、松次郎に、にっこりと微笑む。笑顔を見せられて、「うっ、うっ、うううっ」と、有頂天になる松次郎も、皆と同様に美味そうに、お茶を啜った。

「何をにやにやしているのよ? 松次郎さんは・・・」と、お茶を啜っているのを見て、お希美は小さく笑う。お千も、横に座る松次郎を見る。笑いを吹き出したくなった。

「おいおい、何じゃい・・・見るなっちゅうんじゃい。けっ」と、そわそわしだした。

 旗本高崎孫右衛門、代官近藤晋之助、桔梗屋の甚六、岡っ引き五郎蔵が、一堂に集まる時を探らなければならない。騙されて働かされていた職人達は、救い出されている。

悪を企む彼らにとっては、痛手であろう。 職人達を例の如く騙して、また掻き集める前に、奴らを斬ってしまわなければならないと、十蔵達皆は考えていた。そして、手立てはないかとその策を巡らしているところである。

「あれっ、あれは、有馬様に亀龍様じゃないかしら?」と、遠くを見て、お千は言った。

「旦那達が?」そんな筈はないと、松次郎は歩く侍達の方を見る。

「人違いで御座んすよ・・・それにしても、旦那達に似ているで、御座んすねえ〜」

「そっくりね」と、お希美。

 <あの時、忍者達に襲われたのは、あの人達に間違われたのね。一体誰なのかしら?> お千は、急に興味が湧いて来た。

「ねえ〜 あの人達を、つけてみない?」

「つけて、どうしなさるんで?」

「ただ、誰なのか? 知りたいのよ」

 相手の素性が分かれば、十蔵達が何故襲われたのか、見当が付く。お千は、松次郎とお希美の返事も聞かないで、立ち上がった。

「おおっ、おい、お千さんよ」と言って、松次郎も立ち上がると、お千の後を追う。

 お希美は、お勘定を、座っていた椅子に乗せると、お千達の後を追った。

 侍達は、繁華な通りを避けて、武家屋敷の並ぶ方へと歩いて行く。お千達は、気付かれないように、二人の後をつけた。

大きな門構えの屋敷に着いた侍達は、左右を確認して、横にある小さな門から中へと入って行った。

お千達は、門の前に足早に近付く。表札を見たお千は、驚いた。幕府巡剣士達の大親分、松平輔之進の屋敷である。

「巡剣士だったとはねえ〜」と、お千は、溜め息をつき、両手に持っている三味線を、握り締めた。

お希美は、「何かあるわね」と、お千に軽く頷く。

「巡剣士で御座んすかい?・・・ほお〜」松次郎は、感心するだけであった。

 十蔵、亀龍、盛明は、代官近藤晋之助の動静を探っていた。代官の近くには、護衛がいて打ち込む隙がない。間を与えずに、奴らが集まった所を、一気に斬らねば、逃げられてしまう。地下室で働かされていた職人達が、全員救い出されたことを知ってか、用心深い代官達であった。

 代官所の様子を伺っていたが、動き出す気配はなかった。代官を見張るのを諦めた十蔵達は、桔梗屋の甚六をそれとなく見張っていた。

「奴らは、誰が職人達を救ったのか? 躍起になって探しているじゃろうのお〜」

「職人達が、早く安心して働けるように、ことを急がねばならぬぞ」

匿っている所は、廻船問屋但馬屋の屋敷だとは、誰も気が付くまい。十蔵は、盛明に応えて言った。

亀龍も、十蔵に軽く頷く。

 浪人姿の男が、桔梗屋の裏門を潜った。

「動き出すのは矢張り、夜のようじゃ。今の奴が、繋ぎであろう」

睨んでいた通り、奴らが一堂に会する時が近いと、十蔵は、にやりと笑みを浮かべた。

「今夜であろうか?」と、亀龍。

「二〜三日後、じゃろうな」と、盛明は、亀龍を見た。亀龍は、首を傾げる。

「それだけ分かれば、充分じゃ」

十蔵は、言い終わると、戻ってその時を待つように言った。亀龍と盛明は、頷いて賛同する。

三人は、桔梗屋を後にした。

 きょうも通りは賑やかで、お店は繁盛している。十蔵、亀龍、盛明は、ぶつかりそうになる人を避けながら、ゆっくりと歩いた。

繁華な通りを抜け、人通りも疎らな、静かな通りに出た十蔵達の前に、追われている浪人が、息を切らして通り過ぎる。男は、手傷を負って、よろめき歩く。痛々しいその姿に、十蔵達は、は振り向いた。後からは忍者と思われる男達が、追い掛けて来る。前を走り去るその者達に、十蔵と亀龍は、見覚えがあった。

<何時ぞやの・・・あ奴ら、何事じゃい!> 亀龍は、訳もなく襲われた時のことが、頭を過ぎった。

<卑怯な奴らじゃ!>「十蔵、行くぞ!助太刀じゃ!

「亀龍、慌てるでない」との十蔵の言葉に、「分かってるわい・・・斬るぞ」と、太刀に手をあてる。

盛明も、忍者達の後を追った。 浪人は、忍者達に取り囲まれている。

とても、勝てるとは思えない。亀龍は、「助太刀致す」と言って、浪人を庇うように、輪の中に入った。

十蔵と盛明は、素早く太刀を抜くと、正眼に構えて、剣先を忍者の後頭部に向けた。忍者達は、突然の助太刀に輪を解いて、亀龍、十蔵、盛明の三手に分かれる。「引けっ」と、ひとりが叫んだ。十蔵と亀龍を覚えていたのか? 叶わぬと見たのであろうか? 十人もの忍者達は、吹き去る風の如く、さっと走り去って行った。

「危のお御座った」と言って、亀龍は太刀を鞘に収めた。十蔵、盛明も、ゆっくりと太刀を鞘に収める。浪人は、よろめき、「誠に忝い・・・」と、太刀を鞘に収めた。

「忍びの者に、襲われるとは、穏やかじゃあ御座らんのお〜」と、盛明は、浪人を見た。 

浪人は、用心してか、詳しく語ろうとしない。傷の手当ても必要である。<先ずは、家に連れて行き、落ち着いてから、事のなりを聞こう> 皆、同じ考えであった。

 松次郎、お千、お希美達は、既に帰って、十蔵達を待っていた。

「おっ、お千! 早いのお〜」と、障子戸を開けて中に入った十蔵は、お千達が帰っているとは、予想もしなかった。お千も、「皆さんもお早い事で」と、十蔵達を見て言った。松次郎も、お希美も振り向いて見る。

見慣れぬ顔に、「旦那、誰で御座んす? そのお方は」と、松次郎。「上がるぞ」と言って、十蔵は家に上がる。「一体どうなさったの? 怪我をしてなさるようだけど」と、お千は、浪人を気遣った。 

浪人は、黙ったままである。お千は、十蔵の合図に、酒瓶を持って来て、手渡した。

十蔵は、酒を口に含むと、浪人の腕を掴んで傷に吹き付ける。「うっっ」と、浪人は、痛そうな声を出した。

次に服を下げて、肩の辺りに酒を吹き付けた。「ああっ!」と、大きな呻き声を発する。

お希美は、驚いて、手拭を握り締めている。お千も、手に汗をかいていた。浪人の、荒い息使いが聞こえる。

「お千!」と、十蔵は言って、浪人から手を離した。お千とお希美は、浪人の傷口に晒を巻いてあげる。

「それで、なんとか良かろう」と、十蔵。

「忝い、実は・・・拙者は、幕府の隠密で、斎藤康之助と申す者に御座る」

「それで、何故に襲われたんで?」と、亀龍は、身を乗り出して聞く。

「加賀藩を調べるのが、拙者の役目で御座った。ある時、先程の奴らに、斬られている御仁を助けることになった」「それで、どうしなすったんで?」と、松次郎。

「傷口が深く・・・・・その時に託されたのが、この血判書で、裏柳生の存在が書かれてあるです」と、書状を差し出した。

 十蔵は、渡された書状を開いた。亀龍、盛明、松次郎は、書状に近付き覗き込む。

 赤く滲んで、皆には、いわくある密書のように思われた。

「このことを知った者は、柳生の放つ刺客に狙われることになるでしょう。お見せするのはどうか、と思ったのですが・・・」

「いや、薩摩の放った刺客が、既に我らを狙ってましてな、ひとりあろうが、二人あろうが、同じ事で、心配は御座らん」十蔵は、書状を亀龍に手渡して言った。 

「薩摩の刺客ですか? 何故に?」

「斎藤殿、それを漏らさぬように、薩摩は刺客を放つ訳で、隠密のそなたには、興味が御座ろうが、聞かぬ方が・・・」と、盛明は止めた。

「いやいや、たいした訳でも御座らんでな。幕府の布いている鎖国令以来、薩摩は二重鎖国の状態で、外部の者を受け入れようとはしません。住民は悩まされておりましてな、程々嫌になり申した」と、十蔵は考え込んだ。「ほう〜 隠密も薩摩には、入れないと?」 盛明は、腕を組んで言った。

「こんな、密書は、焼き捨てた方が良いのではないかな? 十蔵」と亀龍は、書状を盛明に渡した。

盛明は受け取って、読み始めた。文字を追う目が、真剣である。

「そうよのお〜 刺客の標的になるなら、いっその事、焼いた方が良かろうなあ〜 斎藤殿、どうなされるお積もりか?」

「幕府に、差し出す所存に御座るが」

「それは、危ない。止めた方が良かろう。例え、差し出したとしも、白を斬られちゃあ〜どうする事も出来申さん」

 十蔵の言う通りであった。斎藤康之助は、言葉に詰まった。

「裏にも柳生が居たとは、驚きで御座んすねえ〜 有馬の旦那」「裏は、何処にでもある」と、十蔵。

「松次郎よ! 物事には、裏と表があってのお〜 陽があれば陰がある。全てその法則になっておる。巡剣士が表であれば、隠密は、裏と云うことじゃよ」と、亀龍。

「うむ〜 難しい御座んすねえ〜 丁の目は表で御座んすかい? 亀龍の旦那」

「賽の目か? 振っている時が表で、止まって、賽の目が出た時が裏じゃ」

「亀龍、松次郎には、理解できまいよ。止めとけ、止めとけ、そなたの先祖が嘆くぞ」

「なにお〜 旦那! 旦那、言い過ぎじゃ御座んせんか? あっしだって・・・・・」

松次郎は、そっぽを向いてしまった。

笑って聞いていた、お千が、「巡剣士と云えば、きょう、十蔵様や亀龍様にそっくりのお侍さん達に遇いましてね。後をつけたら何と、巡剣士の統領松平輔之進様のお屋敷に入って行きましてね。いつか襲われなさったのは、その方達に間違われたんじゃありません?」と、お千は、十蔵を見た。

「そっくり、じゃっただと? はて? 斎藤殿、その書状と何か係わりでもあるのでは御座らんか?」

 十蔵には、何か得体の知れない者が、蠢いているようにも思えてならなかった。

「巡剣士達にも、知られたので御座ろう。しかし、証拠無くして、訴える事は出来ますまい。何故、柳生が襲ったのか?」

「見当も、付かないので御座るのか?」

 畳んだ書状を盛明は、斎藤康之助に返して言った。康之助は受け取り、軽く頷く。

「この書状を、持っている限り、斬られることになる者が増えますなあ〜」

「恐らく」と、十蔵は冷ややかな目で見た。「解りました。焼き捨てましょう」

「幕府に訴えるのは、諦めるのですかな?」 

幕府の隠密が、いとも簡単に諦めるものよと、盛明は不思議に思った。

「そう云うことです」と言って、康之助は、書状を十蔵に手渡した。受け取った十蔵は、お千から火をもらうと、書状に着けた。

いわくある書状は、勢い良く燃え上がる。皆は、赤々と燃える火の手を、じっと見詰めた。証拠となる物は、灰と化してしまった。「宜しいのですね?」と、亀龍は、心残りのありそうな康之助を見て言った。

 康之助は、大きく頷いて応える。

幕府の隠密、斎藤康之助は、十蔵達にお礼を言うと、何処へ行くとも言わずに、去って行った。いつ逢えるとも分からぬ、何とも淋しい別れであった。

船宿『椋鳥』の屋形船では、五代盛明が、廻船問屋但馬屋清兵衛と密かに会っていた。

水面に反射する陽射しが、波に合わせて障子に、ゆらゆらと揺れている。

「とうとう、やりますか? 五代様」

「近々・・・代官近藤晋之助、旗本高崎孫右衛門、桔梗屋甚六、岡っ引き五郎蔵の四人に御座る。

一堂に会した所を以て、一気に斬り捨てまする」と、注がれた酒を飲んだ。

「ここに八十両、御座います。私共に、賛同してくれた廻船問屋がありまして、その分も含まれております」と言って、清兵衛は、小判の入っている包みを手渡した。

「お任せ下され。きっと、仕留めて御覧に入れまする。良き世が来るように、願っての事で御座る。少しでも、住み易い江戸にと」

「分かっております。役人達の腐敗したこの御時勢には、五代様達のようなお方が、是非とも必要なのです。私どもは、その日を今かと待っていたので御座います。これで、暗い道に明かりが、射したように思えます」と、清兵衛は、金を受け取った盛明に酒を注ぐ。

「うっ」と言って、盛明は軽く頷いた。

「闇夜に、悪は見えず、日いずる時、悪なる影が揺れる。我らは、その影を斬らん」

賄賂や不正が罷り通る、お江戸の政は、一体誰が行なっているのか? 清兵衛にしろ盛明にしろ、住民の全てが腹立たしくも思い、どうにもならない悔しさを噛み締めていた。

「次の繋ぎは、どのようにすれば宜しいのですか?」と、清兵衛は、悪を退治してくれるであろうと、密かなる期待を込めて聞いた。

「龍の文字の凧を揚げて下され。凧の足は、紅白で目印になろう。そうすれば、奴凧で応えよう。仲間が、そこにいる筈じゃから、繋ぎを取って下され。合い言葉は、鷹じゃ」

「分かりました。龍文字の凧を揚げることに致しましょう。合言葉は、鷹でございますね」と、頷いた。

 料亭『桂浜』を張り込んで、三日目の夜を迎えた。今夜こそは、奴らが集まるであろうと、亀龍は、松次郎と向かいの茶店で、見張っていた。十蔵達他の者は、家で待機している。報せが来るであろうと、踏んでいた。

「亀龍の旦那、今夜も奴らは、来ないんで御座んすかねえ〜 もう、戌時(午後八時頃)で御座んすぜ・・・」

「まあ待て、奴らはきっと来る」

「そうですかい?・・・」と、お茶を啜る。「ほら、噂をすれば、何とやらじゃ」

 代官晋之助が、家来達を伴って、桂浜の暖簾を潜る。松次郎は、覗き込んだ。

「報せに行きましょうか? 旦那」

「まあ待て、旗本や桔梗屋達が、まだ残っておる。それに、酒を胃袋に詰め込むには、未だ間がある。帰る時を、狙う」

「へい、分かりやした」

「ほら、桔梗屋甚六に、岡っ引きの五郎蔵じゃ。あ奴ら、実にけしからん」

 暖簾を潜って、入って行く姿に、怒りをぶつける。舌打ちをして、拳を握り締めた。

「亀龍の旦那、高崎ですぜ」

「奴も、来たか? 全部揃った訳じゃな。よし、帰るぞ」と亀龍は、高崎孫右衛門が、暖簾を潜り、中へ入るのを確認して言った。 「えっ、帰るんで御座んすかい?」

「待っていても、仕方があるまい。後は、手筈通りじゃ」

「へい」

 亀龍と松次郎は、十蔵達が待っている長屋に急いだ。酔った男達が、すれ違う。喧嘩を吹っかけられた松次郎は、男達を避け、知らん振りして亀龍の後を追った。

「奴ら、予想通りに、桂浜で宴会じゃ」

 亀龍は、家の障子戸を開けるなり言った。<矢張りそうか>と、皆は納得して頷く。

 奴らの帰りを待ち伏せて襲うには、未だ間がある。家で、時を待つことになった。

夜は更けて行く。犬の遠吠えが、静けさの中に不気味に聞こえている。        

奴らの宴会は、終わっていた。

通りは、静まり返っている。・・・決行の時である。

代官近藤晋之助は、家来達を伴い、微酔気分である。灯りの消えた夜道に、足音が響く。五代盛明は、代官達の前に立ちはだかった。「うむっ、誰じゃ、そなたは?」

 盛明は、ゆっくりと太刀を抜き、正眼の構えとして、代官の喉元に剣先をあてた。

「曲者め!」と言って、代官は、後退りをする。家来達は、太刀を素早く抜くと、正眼に構えた。家来は、三人。盛明は、ゆっくりと間合いを取る。家来達の後に隠れた代官を見て、薄ら笑いを浮かべる。

「やあっ!」と言って、ひとりが、盛明の頭上目掛けて打ち込んで来た。

体を躱して、相手の太刀を避けた盛明は、大きく振りかぶり、左上段から右にいた相手に斬りつけた。不意を突かれた相手は、顔面を斬られて、「うわっ」と言って、倒れた。 血飛沫が、夜空に飛び散る。

透かさず、正眼の構えから、盛明の面に打ち込む相手の、喉を突く。直ぐに、太刀を引き抜き、頭上から、打ち込んだ来た相手を、左足、右足、左足と進みながら躱して、右胴を斬る。

「う〜っ」と言って、相手は、ばったりと倒れた。飛び散る血飛沫に、代官は、震えだした。剣先を下げて、「助けてくれ!」と叫んだ途端に、盛明の太刀が、代官の頭上を右斜めに振り降ろされた。真っ赤な血が、夜空を舞う。「う〜」と言って、倒れ込んだ。

旗本高崎孫右衛門と、二人の家来どもは、居酒屋を目指して、暗い夜道を歩いていた。

代官との宴会で、気を緩めたのであろう。用心棒の姿は見えず、手薄であった。犬の遠吠えが、聞こえて来る。

 有馬十蔵は、太刀を右肩に乗せ、左腕は懐に入れて、孫右衛門達の前に現われた。

「おい、そこの! どけっ!」と、孫右衛門は、立ち止まり、威嚇する。

十蔵は、太刀を抜くと、片手八相の構えとし、左手には鞘が、孫右衛門の喉元に睨みを効かせる。

十蔵は、間合いを取って、相手の打ち込みを待つ。じりっじりっと、追い詰められた相手が、十蔵の頭上に斬り掛かる。

十蔵は、左手に持つ鞘で、正面で相討ちとして、透かさず太刀で、相手の左胴を右から斬り抜く。

相手は、「うわ〜」と言って、倒れた。血飛沫が、十蔵に降り掛かる。

 孫右衛門は、戸惑いを見せている。

震える相手に、鞘で喉に突きの一撃を与え、隙を見て相手の首を太刀が襲う。

 相手の首は、空に舞い上がった。

「な、な、なぜじゃ、恨みでもあるのか?」 震える孫右衛門の胸元に、突きを入れた。孫右衛門は、太刀で下へと払い、正眼に構える。十蔵は、右上段の構えから、左手に持つ鞘をゆっくりと下げて、相手の打ち込みを誘う。孫右衛門は誘いに乗って、振りかぶった太刀を、十蔵の面に打ち込む。十蔵は、頭上で相討ちとして、鞘で右胴を打つ。

「うっ」と言って、怯んだ孫右衛門の頭上には、十蔵の太刀が、打ち込まれていた。

「うわ〜あ」と言って、孫右衛門は、ばったりと倒れた。血飛沫が、夜空を焦がす。

 桔梗屋甚六は、暗い夜道を、岡っ引きの五郎蔵の伴で、帰路を急いでいた。

 道の両側には、大きな木が生茂り、落葉を踏みしめて歩く音が、二人には、不気味に思えていた。梟の鳴く声がする。

 亀龍、松次郎、お千、お希美は、桔梗屋達の来るのを待っていた。

 提灯が、ゆっくり近付いて来る。手拭を被って、その端を口に加えて顔を隠したお千とお希美は、待ち兼ねたように歩きだす。

二人に気付いた五郎蔵は、立ち止まった。提灯を前に横に揺らして、お千達を覗き込む。

「こんな夜更けに、女とは」

「五郎蔵、誰じゃな?」

「女郎達で御座いましょう。お前達は、何事じゃ、こんな所に」と、二人の色気を、ゆっくりと歩いて追いかける。提灯を、お希美の顔に向けて顔を確認した。五郎蔵は、見たこともない女郎と思った顔に、首を傾げる。  一人、とり残されて甚六は、心細くなっていた。近くに、提灯が揺れている。

「誰じゃ? そこに居るのは」

松次郎である。甚六の前に出て来た松次郎は、無造作に提灯を捨てると、ゆっくりと太刀を抜いた。

提灯が落ちて、燃えている。

「なな、何をなされる」

 松次郎は、大きく振りかぶって、甚六の頭上目掛けて斬りかかった。

「うわっ!」と言って、甚六は、ばったりと倒れ込んだ。松次郎は、返り血を浴びる。

悲鳴に驚いた五郎蔵は、甚六の所に駆け寄る。倒れている甚六を見た五郎蔵は、震えだした。

何処にも人はいない。五郎蔵は、提灯を前に出して、辺りを照らす。

「誰で?」と、亀龍の姿を見た五郎蔵は、後退りをする。五郎蔵の握る提灯が、恐怖で震えている。

五郎蔵は、十手を抜いた。

亀龍は、太刀をゆっくり抜くと、正眼の構えから、左足を一歩前に、大きく振りかぶり八相の構えとした。

更に八相の構えから、太刀をゆっくりと下げながら、刃を上に剣先を相手の喉元にあて、左手を嶺に添えた。

五郎蔵は、十手を前に差し出して、剣先を躱す。間合いを取った亀龍は、五郎蔵の喉元を突きの一撃を放つ。、相手が避けて怯んだ所を、太刀を右回りに大きく振って、首を跳ねた。五郎蔵の首は、夜空高く、跳ね上がった。

ばったりと倒れ込み、亀龍の足元に、首が転げ落ちる。 一瞬の出来事であった。

 声も出せずに、五郎蔵は、ばったりと倒れ込んだ。正義を傘に、強請り集りの悪業三昧をしていた男の、成れの果てであった。

 有馬十蔵、陳亀龍、五代盛明、松次郎、お千、お希美は、それぞれが仕事を済ませると、温かい声のする長屋に向かって歩いた。 暗い夜を、明るい陽射しが煌めくかのように、それは、眩しく彼らを包んでいた。

 

       四

 江戸の空を、雨雲が暗く焦がし、雷が鳴り響く。大粒の雨が、町並みの屋根瓦に、容赦なく降り続き、道には雨水が、川の如く流れ込んでいた。何時止むとも分からぬ雨音に、十蔵達は、のんびりと待つしかなかった。

「有馬の旦那、小降りになったようで御座んすねえ〜」と、松次郎は、肘を曲げて寝そべっている十蔵に言ったが、目を開けようともしない。無視された松次郎は、戸を開けて、外を眺めた。皆は、黙ったまま座っている。「全く、何時になったら止むんかいのお〜」と、松次郎も横になって目を閉じた。 

 何時しか、雨は止んでいた。

通りには、水溜まりが出来て、歩く人を避けさせる。太陽の陽射しが、そこに輝きを見せて、鏡のように、町並みを映していた。

 雨上がりの江戸の町を、お千とお希美は、亀龍を用心棒に、繁華な通りを歩く。外には店が出て、いつものような笑顔と笑いが、そこにはあった。爽やかな風が、お千の肌を掠めて行く。思わず、空を仰ぎ、太陽に向かって、胸一杯に空気を吸った。

 龍文字の凧が、青空になびいている。

「亀龍様、凧よ、凧が揚がっているわ。紅白の足よ、繋ぎの凧だわ」

 お千の仰いでいる方に、仰ぎ見る。お希美も同じように、凧を探した。

「繋ぎじゃな、十蔵達に報せなきゃ」

 今頃、居酒屋で、楽しく飲んでいる筈である。楽しみを、邪魔したくないと、お千は、「急がなくても、帰ってからで良いんじゃない?」と、亀龍を引き止める。

「そうじゃのお〜 そう致すとするか」江戸の町も、このようにしてのんびりと歩いたことがなかった。

亀龍は、お千とお希美の後を誘われるままに歩いた。

 次の日は、青空の広がる良く晴れた日であった。程よい風が、吹いている。

奴凧を揚げた盛明は、繋ぎの来るのを待っていた。空高く舞い上がり、紅白の足が日の光に照らされて、風になびく。繋ぎは、一時もしないうちに現れた。

「良く揚がってますなあ〜 鷹のようじゃ」侍が近付くと、合い言葉の鷹を言った。<繋ぎであろう・・・>

盛明は、様子を伺う。じっと凧を眺めている身形の良い侍に、「鷹は、この凧が怖いのか恐くて近寄ろうとはしませぬ」と、応じた。分かった侍は、軽く頷き、「何処が、宜しいか?」と、繋ぎの場所を聞いてきた。

「船宿椋鳥の屋形船で、明日、酉六っ(午後六時頃)に改めて」と、盛明は、場所を指定した。

侍は、「分かり申した」と、そ知らぬ顔をしてその場を立ち去って行った。

 夕暮時の船宿は、三味線の音が鳴り響き、賑やかさを増す。盛明は女給に案内されて、待ち合わせの屋形船へと乗り込んで行った。船頭は、何処へ行ったのか見えない。船内には二人の侍が、繋ぎを待っていた。

「失礼致す」と言って、向かいに座った盛明は、太刀を右に置く。 

 女給は、「御ゆっくり」と言って、さっさと船宿へと戻って行った。船内には、何とも云えない、静粛した緊張が走る。

「拙者は、松平輔之進様にお仕えする佐々覚之進で、こちらは、倉橋主水に御座る」

「松平様と云えば・・・」

「左様、巡剣士で御座るよ」

「巡剣士が、何故我らに」

 巡剣士が、刺客を雇うことなど、お笑い草である。盛明には、訳が分からなかった。

「加賀藩に派遣致していた巡剣士が二名、江戸にて何者かに因って、斬られ申した。何者か? 何故か? 

お分りで御座ろう・・・」 伴の倉橋主水は、黙って聞いている。

覚之進は、真面目な顔をして続けた。

「柳生は、幕府の実権を握ろうと、画策致しておりまする。将軍を蔑ろに、思いのままに政を、操ろうと」 

 覚之進の言葉に、切々とした物を感じた。「それで?」と、盛明は身を乗り出して聞く。

「奴らの、野望を食い止めたいと云うのが、松平様のお考えなので御座います」

「お手前方には、隠密と云う強い味方が居るではありませんか?」と、盛明。

「我らは、幕府の役職にあり、同じ幕府の役職にある柳生に、刃を向けることなど、出来る訳が御座いませぬ。裏柳生の存在を知った以上、倒せねばならぬのです。お分かりでしょう?

「それで、我らに?」

「左様、隠密、斎藤康之助をお救い下されたのを存じております。裏柳生の存在を知っている者は、何れ、柳生に狙われることになるでしょう。我ら巡剣士や隠密に手をお貸し下されば、何かのお役に立てるかと存じます」 巡剣士の後ろ盾あれば、何とか柳生の刃を躱せるであろう。ここは、佐々覚之進の話に乗った方が、得策だと盛明は考えた。

「裏柳生は、各地に放たれ、その地に根を張って溶け込んでいると、お聞き致しております。誰とも分からぬ柳生を、斬れと仰るのですか?」

「左様、政を我が物にさせない為には、柳生と名の付く者は、全て斬らねばなりませぬ」「うむ〜」と、盛明は、唸った。このような重大なことを、一人で決めて良いものだろうか?

「お手前達の働きは、遠くから拝見させて頂きました。腕もたつ、間違いないと見込んでのことで御座る」

「分かりました、お引き受け致そう」

 そこまで、見込まれているのであれば、引き受けるしかあるまい。盛明は、十蔵達の意見も聞かずに、覚之進の話を飲んだのであった。

「忝い! お一人に十両。取り敢えず、ここに、六十両御座る。お受け取り下され」

 覚之進は、頭を深く下げた。頭を上げると、徳利を手にして、盛明に薦める。盛明は、杯を手に覚之進の前に差し出す。契約成立の杯であった。

その頃、皆は、盛明の帰りを、今かと待っていた。

「五代様よ」と、外の物音に、お千。「五代様が帰ってきたようよ」

 お千の言った通り、盛明が障子戸を開けて、入って来た。

家に上がった盛明は、佐々覚之進の話を、詳しく話して聞かせる。

皆は、黙って聞いていたが、「柳生を相手にすると云うことは、柳生を倒すまで、ずっとやろってのかい? 馬鹿たれが、そんな大きな相手に、立ち向かって何とする」と、十蔵は、盛明を睨み付けた。

「相手に、不足はあるまい」と、盛明。

「呆れたのお〜」と、大き過ぎる相手に、叶う筈はないと、溜め息をつく十蔵である。

「我らは、柳生に狙われている身じゃぞ。今更、逃げても仕方あるまいよ。やられる前に・・・」と、亀龍。

「薩摩の刺客にものお〜 亀龍」と、十蔵。 薩摩藩を脱藩して、浪人姿が、すっかり板についている。

十蔵は、どうせ追われる身であると、渋々承知し、皆もそれで良いと、納得した。

 十蔵達は、柳生を倒し、悪を斬ると云った裏稼業を、持つことになったのであった。

江戸城は、きょうも朝日を受けて、光り輝いている。住民から隔離されたあの中で、政が計られている。

言いたくても物言えない、住民達の姿が、御城下の片隅にはあった。

 亀龍は、手の届かぬ江戸城を、恨めしく眺めた。権力を手に入れんと、戦いの火蓋が繰り返されているに違いない。溜め息をつく亀龍であった。

「亀龍の旦那、朝から溜め息とは、穏やかじゃあ御座んせんねえ〜 好きな、娘でも出来たんですかい?」

「馬鹿言え! もう少し、大きく見ろよ、松次郎。考える事と云ったら、女博打のこと、何とか、ならんのかい?」

「亀龍の旦那、あっしらが、物言ったら斬られるんで御座んすぜ。女のことを、話していた方が、楽しいじゃあ御座んせんか?」

「亀龍、松次郎の言う通りかも知れんぞ」盛明は、腕を組んだ。

「そうで御座んしょ。そうでなきゃあ、巡剣士達が、あっしらに仕事を頼む訳がない」

「しっ、声が大きいぞ」と、亀龍は、松次郎を制する。

「おい、彼奴等を見ろよ」盛明は、神社の方へ歩いて行く男達を指差して言った。

亀龍と松次郎は、その方に目をやる。そこには、侍の集団があった。

「先を歩いている奴は、桂浜で柳生達と会っていた奴じゃぞ。奴が統領か?」

「彼奴等で御座んすかい? 亀龍の旦那と有馬の旦那を、襲ったというのは・・・」

「そうじゃ、彼奴等じゃよ」亀龍は、顎に右手を添えて言った。

「すると彼奴等は、裏柳生って訳で御座んすかい? それにしても、何処ぞの浪人って感じで、御座んすね〜 五代の旦那」

「それが、奴らの狙いじゃよ。時には女形となり、時には百姓にと・・・・・柳生とは、悟られぬようにな。やるか? 亀龍」と、盛明は、太刀を掴んで鍔に左親指を添えて、少し引き抜き、亀龍を見た。

「いや、待て! 神社にお詣りしている家族連れがいる。巻き添えには、したくない」

幼い男の子と女の子を連れた夫婦が、お賽銭箱に小銭を投げ入れて、手を合わせた。

他にも家族連れが、見える。

「うむ〜 奴らを、つけるか?」と、盛明。「つけても、直ぐに気付かれてしまう。忍びの心得が、あるようじゃぞ」

「忍びか? 手強いのお〜」と、盛明は、腕組みをして、首を横に振り考える。

「忍びで・・・柳生とは、旦那、一体何で御座んすかい? 良く分からんのお〜」

「松次郎、そんなことは、考えなくても良いぞ。柳生真影流じゃ」と、盛明は微笑んだ。

「へい。益々分からんのお〜 五代の旦那」 松次郎は、首を傾げてしまった。

将軍に代わって、政の実権を裏で握ろうと画策して、裏柳生まで右から左へと動かす。

表の存在と、裏の存在が、松次郎には良く理解できなかった。いつか亀龍に聞いた、陽と陰の説明が、頭を過る。<成程、丁の目と半の目じゃのお〜>と、松次郎も、腕組みをして、「旦那、奴らは、丁の目になったり、半の目になったりするんで御座んすかい?」

「どう云うことじゃ? 拙者の方が良く分からんぞ」と、盛明は、呆れた顔を見せた。

「いえね、表に出たり、隠れたりするんで御座んすかい? 亀龍の旦那」

「そうじゃ、身元は隠し、柳生の為に働く。裏であり、表に出ても、決して柳生とは名乗らない。それこそ、裏柳生なのじゃ。我らはその裏と表の柳生に、刃を向けていると云う訳じゃ。十蔵の言う通り、いつ終わるか分からぬ戦いじゃ」と亀龍は、溜め息をついた。

「奴らが、行ってしまうぞ。良いのか?」

盛明は、亀龍を見た。亀龍は、軽く頷く。向こうの方から、我らを襲って来るであろうと、敢えて、後をつけることはしなかった。 

江戸の加賀藩邸では、密かな会合が開かれていた。武本八衛門は若手の藩士達を前に、熱弁を振るっている。藩士達は、身を乗り出して聞き入った。

「鎖国令に従っていては、我らは立ち後れてしまうであろう。広く、他国に活路を求めるべきである。手を拱いて、見ている訳には行かぬ。巡剣士や公儀隠密達に、そのことを悟られぬようにのお〜 心して計ってくれ」 「御意! 抜け荷となりますと、どのような品を、輸入致せば宜しいので?」

 鈴木仁乃介は、抜け荷の中身が気になって聞いた。料亭桂浜で、柳生と密かに会っていた裏柳生のひとりである。加賀藩に放たれ、加賀藩士として根を張り、暮らしている。

莫大な利益を、得られるであろうその金を、柳生の為にと、目論んでいた。

「陶器の類が、主であろうが、絲棉、布、水銀、薬材、化粧用粉等であろう。こちらからは、硫黄、銅、太刀、長刀等じゃ」八衛門は、皆を見回して言った。藩士達の目は、恐ろしいくらいに輝いている。

八衛門は、「早速準備に取り掛かってくれ」「御意!」と、皆は応えた。

 日本海から吹きおろす風雪が、加賀城に容赦なく打ち付ける。八衛門の脳裏には、能登路の太鼓の響きが、日本海に叩きつける嵐雪と共に聞こえていた。これから始まろうとする、苦難の道を見るかのようであった。

加賀藩邸は、裏柳生の存在を知った巡剣士や隠密達から、四六時中見張られていた。 

裏柳生が、入り込んでいるとの観点から、その動きは、刻々と伝えられている。

加賀藩邸を後に、鈴木仁乃介ほか加賀藩士達は、早速、廻船問屋『大和屋』太兵の許を尋ねていた。

抜け荷の品を、巧く売り捌いて欲しいとの相談であった。

「宜しゅう御座いますよ。加賀藩のお墨付きであれば、願ってもないことで御座います。仕事が、し易う御座います」と、思っていたよりも簡単に、首を縦に振る。藩士達は、ほっと肩を撫で下ろした。

 加賀藩士達が、大和屋の許を訪れたと云うことが、巡剣士の佐々覚之進の耳に入るのは早かった。その話を聞いた覚之進は、驚きを隠し切れなかった。

「うむ〜 廻船問屋を使い、やる事と云えば・・・むう〜 何故? 加賀百万国が泣くのお〜 奴らは、やる気か」と、覚之進は腕組みをすると、大きく、「うむ〜」と、唸る。

「何か、材木でも、運ぶので御座いましょうか?」と、倉橋主水は、覚之進を見る。

「そうではあるまい、加賀の船頭を使い、抜け荷をやらせ、大和屋に売り捌かせる積もりじゃろう。そのやり方が、安全に出来る」

「ほう〜 密貿易を・・・」

「恐らくな」と、覚之進は腕組みを解いた。「如何致しましょうか?」

「加賀藩を潰すには、惜しい。尻尾を捕まえたら、その前に斬らせる」

「御意! 松平様には?」

「報告の必要は、ないじゃろう。裏柳生が、その中に必ずいる筈じゃから、斬ってからに致そう」と、覚之進。主水は、軽く頷いた。 巡剣士達は、十蔵達に裏柳生を斬らせるべく、加賀藩士達の動きを包囲して行った。

 雨の為に、泥水のような流れだった川も、きょうは、澄み切っている。十蔵は、松次郎を誘い、川釣りに出掛けた。

「旦那、釣れませんぜ・・・・・いるんですかい?」と、松次郎は、全く当たりのない竿に、退屈この上ない。大きな木の木陰で、程よい風が眠気を誘う。釣り竿を横に振り、欠伸をする始末である。十蔵は、睨み付けた。「辛抱強く、待ってみな、松次郎。釣れる筈じゃで。ほらっ、おっととと」と、餌に食い付いた魚を釣り上げた。鮒である。

「けっ! 何で、釣れないんじゃい。おい、魚! 聞こえたら、美味い餌を食え!」

「矢張りのお〜」

「何が、矢張りで御座んすかい?」

「魚も、好みがあるようじゃ。雌の魚ばかりが、寄って来よる。ほらほら、おっと」

「くう〜」と、松次郎は、苛々しだした。

「のお〜 雌ちゃんよ」と言って、釣れた鯉を篭の中に入れて、「お隣さんにゃあ〜 雄も近寄らんようじゃのお〜」

「やい、旦那! 雌の魚ばかりじゃと! どこで分かるんじゃい! けっ」

「匂いがするのよ。色男にゃあ、食い付くわさ」と、肩を震わせて笑った。

「なにお〜 この! けっ!」と、外方を向いた。松次郎の右の耳を、何か擦った音がする。何か? と考えた松次郎は、驚いた。

直ぐに、「伏せろ!」と、十蔵は、叫んだ。 何処を見ても、敵の姿は見えない。十蔵は後の大木を、振り向いた。弓矢が、刺さっている。十蔵は、矢の方に顎をしゃくって、松次郎に示した。松次郎は、足早に矢を取りに行く。矢には、文が結んである。大木に刺さった矢を引き抜いて、松次郎は十蔵に手渡した。十蔵は頷き、結んであった文を解く。「なんて、書いてあるんで御座んすかい?」 真剣な目で、文字を追う十蔵に聞いた。

文には、『加賀藩士の中に、裏あり。巡』と書いてある。裏柳生を、斬れとの巡剣士の命であった。

文を、松次郎に手渡した。

「何で御座んすかい。裏で御座んすかい?」

「左様。斬る」と言って、十蔵は、松次郎が返した文を、また受け取った。

「あっ、旦那! 待っておくんなせえ!」

十蔵は、文を懐の中へ入れると、魚釣りのことなど忘れたかのように、さっさと歩きだした。

松次郎は、ほっとかれた釣り竿や竹篭を慌てて片付けて、手にする。

 川から上げた竹篭の中で、魚が勢い良く、ぱたぱたと跳ねている。

「全くもう・・・旦那ったら。あれで、雌の魚が寄り付いて何が困るじゃい、ちっ」と、愚痴を吐きつつ、十蔵の後を追う。

 十蔵は、亀龍達の許へと急いだ。

長屋の路地では、子供達が賑やかに遊ぶ。井戸水でお米を研いでいる近所のお夏に応えて、十蔵は、挨拶を交わす。松次郎も、「お夏さん、相変わらずで、御座んすねえ」と、笑顔を見せる。二人は子供達を避けながら、家の中へと入っ行った。亀龍達は、一斉に二人を見る。  

「早いじゃないか? 釣れたんかい?」と、入って来た二人に、亀龍は言った。

「まあな・・・」と言って、胡坐をかくと、矢に結んであった文を、亀龍に手渡した。

「ああ〜 桂浜で、柳生と会っていた奴じゃな? 覚えているぞ」と、亀龍は、盛明に文を手渡した。

読み終わった盛明から、手渡された文をお千は受け取り、文字を目で追う。

「何も危害はないのに、斬るの?」お千は、皆を見回して言った。お希美に、その文を手渡す。

お希美は、頷いた。

「我らだって、奴らから狙われている身じゃぞ。先手を取ると云うことじゃよ」

 十蔵は、お千を見た。<斬られる位なら、先手を取った方が良い>と、お千は、「分かったわ」と、納得した顔を見せる。

「いつ、やる?」と、盛明。

「神社で見かけた彼奴等も、何時襲って来るとも限らんしのお〜 一緒にやれたら良いのじゃが。油断出来ぬ」と、亀龍は腕を組む。「向こうの方から襲って来る筈じゃから、その時で良いではないか?」と、盛明は、先ずは加賀藩士に身を変えて、根付いている裏柳生をと考えた。亀龍は頷き、盛明に応える。 

十蔵達に、加賀藩邸に探りを入れていた巡剣士や公儀隠密達は、十蔵達に繋ぎをとった後見張りを解き、何処へともなく消えていた。

藩邸の庭は、静かであった。

 裏柳生の鈴木仁乃介は、朝からそわそわしていた。柳生と繋ぎをつけて、神社の境内で会う約束をしていた。約束の時間である。仁乃介は、急いで藩邸を出た。

「五代の旦那、出て来ましたぜ。何処へ行く気で御座んすかねえ〜 一人で御座んすぜ」 松次郎は、門を開けて出て来た仁乃介を見て言った。仁乃介は、人の気配を確認する。

「一人で動くことは、珍しいのかい?」

「さあ〜 どうで御座んすかねえ〜 お千さんとお希美ちゃんが、見張っていたんで御座んしょ? 旦那達を呼んで来た方が、良御座んしょうか?」

「そうじゃのお〜 そうしてくれ」

「へい、分かりやした」と言って、近くの茶店で待っている十蔵達を呼びに言った。

 松次郎から、知らせを聞いた十蔵、亀龍、お千、お希美達が、仁乃介の後をつけている盛明に追い付くのは早かった。 

「何処へ行く気じゃい? 奴は」と、両手を懐に入れて肩振り歩く十蔵は、静かな声で盛明に聞いた。

盛明は、そんなことを聞かれても、本人に聞かないと分からぬと、首を横に振る。

お千とお希美は、盛明達から少し離れて、気付かれないようにと歩く。

「神社の境内へ、行く気じゃぞ」

 盛明は、鳥居の方へと歩いて行く仁乃介を見て言った。十蔵と亀龍、松次郎も、神社の方を見た。境内には、浪人達の姿が見える。「十蔵、奴らは、いつかの柳生達じゃ。彼奴等に会う為じゃったのかい?」と、亀龍。「丁度いい、まとめて斬るぞ」と、十蔵は、言い終わると、先頭に立って歩きだした。

「遅くなって、申し訳御座らん」

 神社の境内に着いた仁乃介は、統領に頭を軽く下げた。統領は、家来達の前に出て、こちらに来るようにと、手招きをする。

「今回の繋ぎは、他でも御座らん。加賀藩では、秘密裏に広く他国と貿易を行ない、江戸にて抜け荷の品を、売り捌く手筈になっておりまする。相手は、大和屋で御座います」

「なに、密貿易をと・・・それで」

「その、収入の殆どを、柳生様達にと考えておりまする」と、仁乃介は身を乗り出した。

「上手い、手立てはあるのか?」

「それは、お任せ下され」        

「うむ〜 柳生様に、伝えておこう」

 境内の片隅で、浪人姿の柳生達に囲まれて、仁乃介は何やら話している。聞こえる筈も鳴く、その様子を、十蔵達は、遠くから眺めていた。<戦うのは、今かもしれない。機を逃すとまずい>

「よし! 行くぞ」と、十蔵は、皆に手を上げて合図をした。皆は頷き、柳生達を目指して歩く。

三味線を持つお千の手は、堅く緊張している。お希美も、強ばった顔である。  

集まっている柳生達の近くに来た十蔵は、太刀を抜くと、「忍びの心得があるから、気をつけろよ」と、松次郎を見る。お千とお希美は足早に、木陰に隠れた。

柳生の一人が、近づく十蔵達に気が付いた。

「何奴じゃ!」と、太刀に左手を添えた。その声に、他の柳生達は、十蔵達に振り向く。 

太刀を抜いて襲い掛かろうとする十蔵に、敵だと判断した柳生達は、直ぐに散り、十蔵、亀龍、盛明、松次郎を、輪になり取り巻く。相手は、八人である。十蔵達は、背中合わせになって、柳生に隙を見せまいとする。 

 柳生達は、太刀を素早く抜くと、ぐるぐると回りだした。盛明は、ゆっくりと太刀を抜いて、正眼に構える。

十蔵は、剣先を下に地面に向けて、わざと隙を見せる。打ち込みを待った。

亀龍は、太刀を抜くと正眼から八相に構え、更に刃を上に剣先を下げて、左手を嶺に添えた。

松次郎も、素早く太刀を抜いて、正眼に構える。 

 柳生達の動きが、止まった。柳生達は、間合いを取り正眼に構える。統領と仁乃介は、その様子を伺っていたが、ゆっくりと太刀を抜いて、取り巻いている柳生達が、打ち込むのを待つ。

 柳生の一人が、盛明に斬り掛かった。

盛明は、相手の打ち込みを、正面で相討ちとして、鎬を削り相手を押し離し、体を躱した後、左隣の柳生に頭上から斬り掛かった。 取り巻いていた輪が崩れて、柳生達は、一斉に広がる。両者入り乱れての、斬り合いとなった。盛明に打ち込まれた相手は、鎬で横に払い、盛明の顔面目掛けて打ち込んだ。

 左足、右足、左足と、相手の体を躱して、太刀を下げながら、前に出た盛明は、右胴を斬る。血飛沫が空に飛び、「うわっ!」と、相手は、倒れこんだ。透かさず、太刀を振り上げて、正面に来た相手を、右斜め頭上から斬り付けた。隙を突かれて、いきなり斬り付けられた相手は、避けることが出来ず、血飛沫を飛ばす。更に、盛明は、休む間もなく、後の相手の太刀を鎬で叩き、相手が太刀を上げたと思った瞬間、相手の右胴を打った。

盛明は、相手の返り血を浴びる。居合い抜きに似た、一瞬の早業であった。

 十蔵は、八相の構えから、相手の打ち込みを誘う。誘いに乗った相手は、面を打ち込んで来た。十蔵は、体を躱して相手の太刀を避け、握っていた右手を離して、太刀を大きく振りかぶり、左斜めから、よろめいた相手の首を跳ねる。首は、空高く舞い上がる。何も言わずに、「どさっ」と、倒れ込んだ。

後ずさりをする相手を、睨んだ十蔵は、正眼に体を整えた。その瞬間、相手が、正面から打ち込んで来た。十蔵は、相手の太刀を正面頭上で相討ちとして、体を離して、右から打ち込んで来た相手の右胴を打つ。「うぐっ」と言って、相手は血飛沫を飛ばして倒れ込んだ。更に、体を離した相手の正面に打ち込んで、正面で相討ちとされた十蔵は、太刀を、「ぐいぐい」と、押し込んで行く。堪らず、相手は、十蔵を押して体を離した。と、その瞬間、十蔵の太刀が、右斜め頭上から襲い掛かる。相手の顔面から、桜吹雪の如く、血飛沫が空に舞う。

「うわっ!」と、相手は、倒れた。

 松次郎の握る太刀は、堅そうに見える。正面から打ち込まれた松次郎は、正面で相討ちとする。太刀のぶつかる音が、静けさの中に響いている。松次郎は、力を込めて押し退けた。その瞬間、別の相手が、松次郎目掛けて襲いかかる。正面で相討ちとして、両者は鎬を削る。横で、別の相手が、松次郎への打ち込みを狙っている。

木陰で、観戦しているお千は、「松次郎さんが危ないわ」と、お希美を見た。     

懐の中に忍ばせておいた竹笛の吹き矢を取り出すと、お千に頷く。刺客として、十蔵達と一緒に生きて行こうと誓ったお希美は、お千の手解きを受けていた。亀龍を唸らせる腕前になっていた。矢を詰めて大きく振りかぶり、松次郎の頭上から打ち込もうとしていた相手の右腕を狙って、吹き放った。

 お千は、剣の仕込まれている三味線を握り締めた。矢は、相手の右腕に刺さった。

「うっ」と言って、太刀を下に降ろす。

 刺さった矢を引き抜いて、辺りを見回す。松次郎は、お希美の放った吹き矢に因って救われたが、打ち込む相手の太刀を躱して、苦戦していた。

 亀龍は、剣先を相手の喉元にあて、太刀の嶺に添えていた左手を離した瞬間、大きく輪を描くように太刀を、右回りに回した。

違う太刀裁きに、相手は戸惑いを見せる。

亀龍の太刀の動きが止まった瞬間、相手は、正面目掛けて打ち込んで来た。透かさず、挿していた脇差を抜いて、正面で相討ちとして相手の太刀の動きを止めた。次の瞬間、太刀で右から相手の左胴を斬る。血飛沫が飛び、思わぬ抜き胴に、「うわっ!」と、悲鳴をあげた。倒れ込む相手を避けた亀龍は、正面から松次郎目掛けて斬り掛かる相手の太刀を、松次郎の頭上で相討ちとし、左手に持つ脇差で、相手の太刀を上から押さえる。動きの取れない相手は、松次郎の打ち込む太刀で、左胴を斬られて、「うぐっ」と、倒れ込んだ。松次郎は、返り血を浴びる。

 盛明は、統領と脇構えで対し、十蔵は、仁乃介と八相の構えで対していた。

 勝負は、なかなか着かなかった。

盛明は、間合いを取りながら、少しずつ前に詰める。統領は、後に引きながら、打ち込みを狙った。統領の太刀が、盛明の頭上に振り降ろされた。正面で相討ちとした盛明は、相手の太刀を上から押し下げた。相手は、上へと押し上げたその瞬間、相手の体を躱した盛明の、右手を離し左手に持つ太刀が、相手の喉元を突く。素早く太刀を引き抜いた。「うぐっ」と言って、統領は、倒れ込んだ。

 十蔵は、八相の構えから、仁乃介の打ち込みを誘うが、なかなか乗って来ない。

ゆっくりと剣先を下げて相手の喉元にあて、正眼の構えに変えた。相手は、正眼の構えから、左足を前に左上段の構えとした。十蔵は前に、左足、右足、左足と踏み込んで行く。捨身の打ち込みであった。誘われて、相手は十蔵の面を打った。太刀を躱された相手は、右胴を斬られて、血飛沫と共に倒れ込んだ。「ふ〜っ」と、十蔵は、溜め息をつく。一瞬のようにも思われた。

 戦いの済んだ所へ、お千とお希美は、駆け寄る。白い紙で太刀を拭いた十蔵と盛明は、ゆっくりと太刀を鞘に収めた。血を拭いた白い紙が、小さく切られて地面へと落ちる。 亀龍と松次郎も、二人の許へと歩いて来た。「さあ〜 行くか」と、十蔵。お千とお希美は、微笑んで応えた。亀龍は、軽く頷く。

「有馬の旦那、居酒屋で一杯、如何で御座んすか?」と、松次郎は、皆を誘った。

「こんなに、早くからかい?」と、盛明。

 江戸の程よい風が、肌を撫でて行く。

並ぶ彼らには、恐い者は見えなかった。

中央の政が、正義として行なわれ、下々の為にあり、悪無き世直しが出来ればと、彼らは願って歩いた。

政を我が物にしようと画策する柳生と云う大きな野望と敵なる悪との戦いは、終わり無き戦いのように思われた。

『邪魔する者は、斬る』と、剣は叫んでいるかのようであった。

      <影を斬る>

    雨降る夜は、淋しくて

      笑顔も見せず、辛かろう

     流す涙を、剣に代え

       悪を操る

         影を斬る

 

    吹雪いたあとの、白さにも

      いつかは染まる、紅の色

     人の情けを、切り裂いて

       善を邪魔する

         影を斬る

 

    明日を歩く、さすらいの

      燃やした刃、容赦なく

     愛を両手に、怒り込め

       義理を泣かせる

         影を斬る

 

 名も知らぬ鳥達が、囀り空を舞う。

彼らの誰にも聞こえぬ無とした叫びが、青空高く、風と消えて行くかのように、何処までも透き通って見えている。何時来るとも分からぬ次の世に、そっと光を当てん。

 十蔵達の住んでいる長屋の様子を伺う、侍の姿があった。家には、人の気配を全然感じない。侍は、近付いて行った。

「お千ちゃん達に、何か用なの? もう居ないわよ。出て行ったわ」

「えっ」と、侍は、近所のお夏の思いがけない言葉に、驚いた声を出した。

「そう、お武家さん、あなたもね・・・良い人達だったわね・・・」と言って、お夏は会釈をすると、家の中へと入って行った。

侍は、首を傾げた。<一体何処へ行ったのであろうか?> 佐々覚之進様に、早く報せねばと、長屋を後にして、急いで歩いた。  

その頃、有馬十蔵、陳亀龍、五代盛明、松次郎、お千達は、お希美の吹く笛の音を聞きながら、峠から江戸の町並みを眺めていた。「これが、見納めで御座んすかい? 茶店の満っちゃんは、好い子だったなあ〜」

「松次郎、江戸に相当、未練があるようじゃのお〜 まあ待て、次の宿場には」

「有馬の旦那、好い子でも居るんで御座んすかい?」と、松次郎。笛の音が、止まった。

「いやいや、柳生の巣じゃとよ」と、盛明。「ええっ! 驚かさないでおくんなせえ」

驚いた松次郎に、皆は笑った。

「さあ、行くか」と、十蔵は、懐に両手を入れて皆を見た。左手に深編み傘を持つ盛明の後を、松次郎は肩を振って歩く。

亀龍のがっちりした肩を、後から眺めながらお千とお希美は、付いて行く。

「これからが大変ね」と、お千は、三味線を握り締めて呟いた。

 薩摩藩が放った刺客達が、江戸に着いたことも知らず、十蔵と亀龍は、のんびりと歩いた。いつか出会うその時は、如何に対するのであろうか? 誰も知る由はなかった。

巡剣士佐々覚之進と倉橋主水は、十蔵達の姿が、長屋に見えないという報告を受けた。

「柳生から、身を躱すのも良かろうが、何処へ行っても狙われるであろう」と、覚之進。

「巡剣士達に、見かけたら直ぐに連絡をくれるように、文を放ちおきましたので、何れ、分かるでしょう」

「何処へ行く気かのお〜」と、覚之進は、腕組みをして、彼らの働きを思い出していた。 

いつか何処かの町で、彼らを呼ぶ、龍文字の凧が、揚がるであろう。

東の空には、大きな日が昇り、やがて西の水平線へと落ちて行く。

繰り返す明日は、誰の為にあるのであろうか?

 彼らは、悪に泣く庶民の明日に向かって、歩いていた。

[ページの先頭に戻る]

 

         HOME Contents    What’s new?     BBS     Mail