History
 

 

 

知られざる歴史への招待 その 9
 

 

 


銭屋五兵衛とは、どのような人物だったのか?

中島砲台と秋目砲台

日本の国旗を最初に揚げたのは、誰だったのか?

安藤広重

観音ケ谷

鹿児島県は、いつ誕生したのか?

 

 

 

銭屋五兵衛

紀州の紀国屋文左衛門や薩摩の浜崎太平次と並ぶ幕末の豪商であった。

1852年 嘉永5年に加賀国河北潟埋め立て工事に絡んで、不正があったとのことで、加賀藩庁に逮捕された。その年の11月に牢獄死した。逮捕された理由は、こうである。銭屋五兵衛は、加賀藩の手先になって、抜け荷を行なっていた。ところが、それが幕府に発覚した。加賀藩は、それを恐れて、五兵衛にその責任を、覆い被せたのである。身代わりであった。

当時、薩摩藩は、東北、松前とは交易が盛んであった。

銭屋五兵衛は、新潟や佐渡辺りで薩摩船と出会い、唐物と昆布などの海産物とを、物々交換を密かに行なっていた。

銭屋五兵衛の千石船も加賀百万石の旗印をなびかせて、薩州坊津に度々入港していた。入港しても、荷揚げや荷降の様子もなく、風待ちに住民達は不思議がって海賊船の如く思っていたようである。

「南国史話」によれば、その目的地は、坊津から南へ下ること50海里にある口永良部島であったと云われる。「口永良部島密貿易図」によると、そこには、薩摩藩の密貿易屋敷があったらしい。銭屋五兵衛は、そこで薩摩藩と取引を行なっていたようである。その館は、一時期は白糖を製造していたことから、白糖とも言っていたが、後に、イギリス人が住み交易を行なっていたことから、西洋館とも呼ばれるようになった。

 

 

 歴史は、例の如く動いていた。1824年(文政7年)には、英国捕鯨船の宝島騒動があり、1837年(天保8年) 米国船モリソン号が山川に来航して住民を驚かせ、1844年(弘化元年)以後、英、仏の軍艦が毎年琉球に来航して、開国を迫っていた。

1850年(嘉永4年) 薩摩は密かに同年10月から外形は日本式ではあるが、内部は様式の最新鋭帆船を建造し、1854年(安政元年)3月竣工させた。

日本最初の様式帆船「いろは丸」である。1851年(嘉永5年)英国最新鋭の国防策が、取られるようになってきていた。

 

 

中島砲台と秋目砲台

1838年 天保9年に藩士の鳥居平七と平八の兄弟を、長崎に遣わして西洋流砲術を、大家である高島秋帆について学ばせた。

そして、平七は、名を成田正右衛門と改名していた。更に薩摩は、銃砲鋳造所を設けて、海防策を取って行った。坊津は中島と秋目に砲台を据え付けて守りを固めさせた。

 

 

       最初に日本の国旗を掲げたのは、宮内平蔵その人である

薩摩藩では、いち早く諸外国の最新鋭の技術を取り入れていた。軍艦や銃砲には、薩摩と云えどもひとたまりもない。外国船の来航に危機感を感じた薩摩藩は、直ちに大船12隻、蒸気船3隻建造の件を、寸法書(設計図)を添えて願い出て、大船建造禁止令を廃止せしめ、幕府にその許可を得ていた。その内、4隻の建造に着手した。先に密かに建造中であった琉球大砲船「いろは丸」に、多少の模様替えを加えて、西洋型軍艦を1854年(安政元年)12月に竣工させた。これが、西洋式軍艦の第1号である。翌年の2月13日に名を「昇平丸」と変えて、同13日に鹿児島港より江戸へ向けて出帆した。その時、「親司」として乗り込んでいたのが、宮内平蔵24歳であった。船長石原龍助以下乗組員は、47名であった。3月18日に品川沖に着き、4月28日には、試運転を行ない、8月13日に幕府に献上して、引渡しを終了し大任を果たした。

親司とは、脇船頭や船長と共に船の3役で、船の総指揮官である。

平蔵は、坊津は秋目に生まれ、絶えず寺子屋で勉強した。平蔵も又、学問の必要性を感じて、若くして明国へ留学した。

坊津の人々は、航海術にも優れ、海外の思想や状況を把握していた。広く海外に名を知られた秋目港は、古くは中国や琉球、呂宋(フィリッピン)は勿論のこと、南蛮船(西洋船)の日本における主要港であった。広く海外と交易を行なったのは、宮内家もその例外ではなかった。密貿易の時代もあった。そのような環境下で育った平蔵は、自ずと船頭の道を選んだとされている。早く、17才の頃から頭角を現し、琉球王国や明国、更には呂宋などに渡航して、優秀な船頭として内外に名を知られていた。昇平丸の親司として、薩摩が平蔵を選んだのは、当然のことであったろう。

鹿児島のお城に出頭せよとの藩庁の命が下って、密貿易が暴露したと勘違いして、親族等と別れの杯を交わして出発したらしい。余りの突然のことで、事のなりを理解できなかったのだろう。その大任を、平蔵は再三再四固辞したが、許される筈もなかった。意を決して、鹿児島港を出帆した。とある。その時平蔵は、丸に十の字の薩摩藩旗と日の丸の旗を揚げた。重要な意味を持たせた、その時の日の丸の旗が、日本最初の日本国旗だと云う。他に、竹田信玄が、旗印として揚げたのが最初だと云う説もあるが。家紋や馬旗の方が重要であった信玄の時代は、単なる旗印としか考えが及ばない。竹田信玄の資料館に、その旗は現存陳列されている。

秋目浦に落ちゆく夕日や日の出を、毎日見て育った平蔵のこと、明国へ或いは海外へ渡航して、日の丸に酷似した旗印を真似て、日の出の旗印とし、まるで戦地へ赴く覚悟の意味として、平蔵が自ら揚げたのであろう。「さあ、出陣だ」との、意気込みであったろう。秋目浦の大地に立ち、東シナ海に沈む大きな夕日を、御覧ありたい。平蔵が日の丸を掲げた意味が、理解できる筈である。

その後、幕末へと時代は進んで行く。

 

安藤広重

江戸時代の日本画家で、坊津に来て坊の浦にある双剣石を描いているが、どの寺にいつ頃から滞在していたかは、資料が残っていない。

がしかし、坊の浦は、谷頭地区にある阿弥陀寺に滞在していたのではないかと伝えられている。

 

1868年(明治元年)には、廃仏毀釈で、薩摩藩内の寺院が壊され始め、貴重な文化遺産が消失した。

 

       観音ケ谷

廃仏毀釈で、取締りの厳しい時代に、観音をそこに安置してこっそりと拝んだとされる。坊津は鈩迫から流れて行く泊川の県道下にある。

 

鹿児島県の誕生

1871年(明治4年)に、大久保利通は西郷らと廃藩置県を発する。鹿児島県が発足するのである。

 

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