History
 

 

 

 

知られざる歴史への招待 その8
 

 


奥の院とは?

薩摩を完全に征服したのは、いつ?

久女とは、誰のことか?   持明夫人行館とは?

抜け荷取り締まり令     貿易仕法

唐物崩れとは?

 

 

     奥の院

奥の院は、1607年(慶長12年)に島津義久(第16代)が、頼興法印に命じて坊津にある一乗院から東約1.7キロの地点に建設させた。

本尊は、弘法大師蔵で頼興法印が京都高雄山に御参りして、法を院晋海僧正に受けられた時に、授かった物であったとされる。

ここで安置された仏像について、興味深い記録が残されている。大使が、高雄山に於いて木食(木の実や草などを食べて修行をすること)して密観を修めた時に、池に映った自分の姿を、自ら彫られて作ったと云われる木像であった。

 

 

薩摩島津氏が薩摩を完全に征服したのは、いつのことだったのか?

島津家久(第18代)は、1602年(慶長7年)に鶴丸城を築城して、薩摩の統一ひいては、九州統一に向けて策略を巡らして行った。

鶴丸城築城に充たっては、その資金の多くは、豪商達から得た唐物税で補われたとされる。坊津の海商達の援助は、島津氏にとって大であった。

その島津氏は、1609年 (慶長14年) に、薩摩を完全に征服。次に狙うは、琉球王国の征伐であった。

  薩摩は何故、征服した各地に残っていた文化を、消し去る必要があったのか?

歴史に於いて征服した者は、権力の保持を行う為に、それまでの文化一切を否定して、消し去ることを行った。ところが薩摩の場合は、少々異なっている。

九州統一と琉球王国の征伐に向けて、敵味方であった皆の心を、ひとつに束ねる必要があった。その為に、それまで培われてきた文化を否定し、宗教ことに真言宗、山伏を利用して、薩摩独特の文化を築き上げていくのである。薩摩の征服した各地には、それ以前の文化が歌い継がれ、語り継がれて残っているかも知れない。歴史学者の、今後の研究成果に期待したい。

既に貴久の時代に、大乗院を伊集院の荘厳寺から持って来て、祈願所としていた。日秀上人が開いた琉球護国寺以下の諸寺が、坊津一乗院末寺から城下の鹿児島大乗院へと移行させて、御城下中心の政治基盤を整えてはいた。が

貴久以来の三州(薩州、大隈州、日向州)統一が成り、薩摩領内の政治に専念するようになり、名実共に御城下が政治、経済、文化の中心となって行った。

琉球王国征伐を、1609年 (慶長14年) に行い、服属させ (「旧記雑録」による) てからは、その過程において、城下中心の集権的傾向がますます強まって行った。そして、城下に一番近い山川が、坊津に代わって重要な路線として、浮かび上がって来た。山川〜琉球航路が黄金のルートになって来ることになるのであった。

しかしながら、坊津の諸海商達は、それにもかかわらず琉球及び明貿易を強めて行った。

その間の時代の流れを追ってみよう。1635年(寛永12年) には、鎖国令が発令され。大陸では、1644年に、明国から清国へとなっていた。

更に、1670年(寛文10年6月)には、抜け荷取り締まり令が発令されて、薩摩の諸港は蜜貿易港へと化して行った。

 

 

    久女とは、誰のことか?

霊元天皇(1663〜1686)の皇子勝宮の京都正光寺の乳人であったが、幼くして勝宮は病にして亡くなられた。皇子勝宮の霊夢を感じた霊元天皇は、33体の観音像を刻み、全国33個所の霊跡に奉納するように久女に託された。久女は霊跡を奉納して回り、縁故のあった坊津は久志に来られ、奉納された。当時、薩摩は一向宗禁制の時で、取締りも厳しく、久志は上野地区に人目を避けて穴の中に隠れて住んでおられた。 そこで、信者らの手厚い御加護を受けたが、寛文年中 (1661〜1672年) の3月3日亡くなられた。とある。

 

 

持明夫人行館とは?

坊津は秋目にその跡地がある。

持明夫人とは、島津義久の三女で、後の島津家久(18代)の側室である。坊津は秋目の地に、何故にそのような行館を建設したかは不明であるが、落ち行く大きな夕日の、その雄大さと風光明媚な秋目が、気に入ってのことであろう事が想像できる。いわゆる、今で云う別荘である。

秋目では、毎年八月朔 (新月) の日に娘達が短冊に和歌を書き、竹の笹に下げて庭に立てる風習は、持明夫人が 伝えたものとされている。

 

 

抜け荷取り締まり令

またしても、1710年 (宝永7年4月29日) に、抜け荷取り締まり令が発令された。抜け荷取り締まり令の所見は、1670年 (寛文10年6月) であるが。

寛永の鎖国以来密貿易は、当然の如く増加する一方で、幕府は、その対策に悩まされていた。1710年(宝永7年4月29日付け) の、「初年唐船入津之節扱之次第」によると、長崎奉行から老中への言上書は、1685年 (貞享2年) の「定高仕法」の実施以来、勃発し始めて、最近では、その方法が巧妙かつ大がかりで全く防ぎようがない。とある。幕府の目を逃れて、薩摩近海では、抜け荷する者や、住民達をも巻き込んで、漂着唐船との抜け荷を行なっていた。その密貿易港として、抜け荷のルートとしての坊津の名は、皆知るところであった。薩摩領内及びその近海は、抜け荷の取引場として、益々盛んであった。

 

 

貿易仕法」とは?

1715年(正徳5年) に、唐船来航数年30隻、貿易歳額銀六千貫、オランダ船其々2隻、三千貫と定め、輸入超過による金、銀、銅の海外流出を押さえた幕府の策であった。唐船には、貿易許可証として、「信牌」を給与するなどの抜け荷対策を折り込んだ、23令からなる一大貿易令に改変された。これが、新井白石の詳細な調査に因って打ち出された、「海舶互新令」である。当然のこととは云え、貿易許可証である信牌を与えられない唐船が出る訳で、漂着唐船を装って、密かに抜け荷を行なっていた。

 

 

享保の唐物崩れ

それは、鎖国令80年後の事であった。図らずしも、坊津における密貿易が暴露した。「坊津拾遣史」によれば、坊津は、三津の一つにして著名なる貿易港なり、内外の商船常に輻湊し、元和 (1681年〜1684年) の後、貿易港を長崎に移しより、衰勢を来すとも漢土に通商して、窃に唐物を売買する大商船70隻余りなり。享保 (1716年) の初め、非常の天変難を受けた。港は商船無く跡暗し、残る者は老いたる者と幼き者婦女子のみ、これを「唐物崩れ」と云う。とある。

密貿易が暴露し、関係ある者は、ことごとく検挙され、商船は全て焼き払われた。

運良く不在の商船は、家人の密通によってその難を逃れ、隠岐、朝鮮国、琉球王国方面へと逃亡した。終生、坊津に帰らぬ者も多かった。

坊津はこの時、老幼婦女子のみとなった。貿易商港変じて、漁村となったのであった。「唐物崩れ」と呼び、口碑となっている。

この事件さえなければ、坊津はもっと発展したのではなかろうかと想像する。

 

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