History
 

 

 

 

知られざる歴史への招待 その5
 

 


九州の歴史は、対外貿易上の経済的利益争奪と、南蛮船の来航が大きく影響している。

もし、それらの事件がなかったならば、九州各地の歴史は大きく変っていただろう。

 

南朝方における南九州の牽制

南北朝の争乱期に入ると、守護の島津家と中・南薩摩の諸豪族達は、激しい抗争を繰り返した。この時、南朝方の中心として活躍したのが懐良親王であった。1342年 興国3年の5月1日に坊津に到着し、栄松山興禅寺に宿泊して、それらの争いを牽制した。

この、南北朝争乱以後、三州 (薩州、大隅州、日向州) の各地は、騒乱の時代へと突入して行くのである。そして、坊津という対外貿易上の経済的、地理的価値をめぐって南朝方と守護の薩州島津方は鎬を削って争って行くことになるのである。

第九十八代長慶天皇の建徳元年1370年に、懐良親王は、明国との国交を再開した。当時の薩摩半島南部一帯は南朝方の勢力圏であった。お船奉行が設置され、坊津はその南朝方によって把握されていた。

 

時代背景を追ってみよう

1441年 嘉吉元年 薩州の島津忠国は将軍義教から琉球貿易船の警護と検査などの特殊権益と利益を与えられた。足利幕府は、盛んに琉球使船の来航を歓迎していた。

1469年 文明元年 琉球では、第一尚氏から第二尚氏への政権交替

1471年 文明3年 薩州島津氏に、幕府から堺出航の渡琉船を勘合する権限が与えられた。

 

その歴史を大きく左右したのが、大内氏と細川氏の対立であった。

当時、大内氏は瀬戸内海から北路(朝鮮沿岸経由)と南路(北九州から一気に東支那海を横断して中支に入る)を一手に握っていた。

一方、細川氏は、その大内氏に対抗して対外貿易を有利に行うには、大内氏の勢力圏を避ける航路が必要であった。南島路を開拓し坊津を利用するには、同じく薩摩半島南部地帯に勢力圏を広げつつあった、敵対していた薩州の島津氏に警護を命じ、利益を与える必要があった。それは後に、薩州の島津氏が坊津乗っ取りに策略を巡らす、布石となって行った。琉球渡海朱印状の発行が始まり、幕府は、1474年 文明6年には、島津氏の琉球貿易に対する特殊権益を承認した。

それに乗じて、1480年 島津氏は、坊津に唐船奉行を置き、坊津統制の既成事実を確固足るものとして行った。

1573年 室町幕府は滅亡し、安土桃山時代へと時代は変った。この年に薩州島津氏は、一滴の血を流すことも無く、坊津の完全なる乗っ取りに成功したと考えられる。その後、坊津及び薩摩半島南部一帯は、辛くて苦しい薩摩の時代へと入って行くのである。

 

1590年 豊臣秀吉は、天下を統一した。その秀吉の怒りに触れて、坊津に流されて来た人があった。

 

近衛信輔公の坊津配流

かつて、近衛家の荘園であった坊津に、近衛信輔が流されて来た。それは、1594年 文禄3年のことであった。

信輔公とは、どのような人物なのか?

近衛家第十八代関白藤原前久(龍山)の子で、信尹(ただ)或いは、信基とも称し、また三貎院と号し、父に勝る能書家で、平安の三筆といわれる。近衛流書流の元祖であり、和歌はもちろん、絵画にも巧みで好んで天満天神の絵を書いた。

1580年         天正8年内大臣となり、同年3年には、左大臣に任じられ、従一位に敍せられた。

坊津に配流された理由

このことについては、歴史学者の間でも色々な説があるが、豊臣秀吉が、征夷大将軍を望んだのを近衛信輔が反対した。その職は、源頼朝以来、源氏の任であるというのが、信輔が反対した理由のようである。それについて秀吉の恨みを買ったと云うのが、事の真相のようである。

秀吉は、恨みを晴らす機会を狙っていたのである。秀吉の秘かな泰請に因って、後陽成天皇も止むを得ず、信輔を坊津に流謫したのであった。

何故坊津であったのか?

先に述べたように、かつて近衛家の荘園であったことと、坊津と近衛家は、島津家とは始祖忠久以来、縁故の深い関係にあったことがあげられる。天皇が薩摩を選んだのは、信輔に対する思いやりであったとされている。秀吉も、私的な恨みからであった為か相当に苦心したようで、流刑者に対しては前例のない送迎命令を、都城領主の北郷左衛門入道一雲斎に発している。

その信輔が、鹿児島のご城下に着いたのは5月であった。島津義久はこれを厚くもてなして、立野(下竜尾町)に館を設け、暫らくそこに留まらせた。坊津に入ったのは、5月の下旬であったとされている。

坊津に居住中にも、義久に度々招かれ、近郷近在を遊歴した事実が古文書に現存している。信輔は、近衛天神といわれる天満天神の墨絵をよく書いたと伝えられている。

坊津での生活は、2ケ年足らずであったとある。滞在中は、岡佐兵衛と名を変え可因と号し、坊津は中坊地区のささやかな屋敷に配流の身を過ごした。時に信輔、三十才であった。その間に近在を散策し勝景を探って、坊津八景を選んでその歌を作った。その外にも数多くの和歌を詠んでいる。

はんや(繁栄)節も、坊津で作ったとされている。

身の回りの世話や薪水の労一切のことは、示爾寝山城坊の娘、当時十八才を入れ、それに行わせたとある。彼女は、なかなかの美女であったようで、やがて信輔の帰京の際にも同行することとなり、信輔との間に子を儲けた。

 

坊津八景として、坊津を代表する景勝地の唄を詠んでいる。その近衛信輔作とされている唄も、参考資料によって少々異なってはいるが、意味する所は同じである。

 

鶴崎暮雪     鶴が崎松の梢も白砂に

                ときわの色も雪の夕暮れ

松山晩鐘     今日もはや暮れに傾く松山の

                鐘の響きに急ぐ里人

中島晴嵐     松原や麓に続く中島も

                嵐に晴る峯の白雲

深浦夜雨     船止めて苫もる雨は深浦の

                音も渚の夜の雨かな

亀浦帰帆     亀浦や釣りせぬ先に白波の

                浮き立つと見て帰る舟人

網代夕照     磯ぎはの暗き網代の海面も

                夕日の後に照らす篝火

御崎秋月     荒ら磯の岩間潜りし秋の月

                影を御崎の波に浸して

田代落雁     行く末は南の海の遠方や

                田代に下る雁の一つら

 

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