History
 

 

 

 

その3
知られざる歴史への招待
 

 

 


日本三津の総路とは

雪舟秋月が渡明したのは

三宅国秀事件とは

 

  日本三津の総路とは

宇多天皇は、寛平六年(892年)、遣唐使を廃し。それ以来、日本と中国の交易は禁止されていた。九州全体の取締所だった太宰府よりも、目の届かぬ遥か遠き坊津が、中国との交易をする上では、絶好の地となっていた。近衛家の荘園として、格別の保護を受けていた坊津は、存在価値が増し、益々発展していった。唐が滅び宗となり、宗から元、明となり、或いは、近衛家に代わる南朝方への内外の政治的変遷があっても、「唐の湊」としての名を高めていった。武備志には、「日本有三津 海商船所集、通海之口也、西海道有坊津、薩州所属、唯坊津為総路」とある。

その日本三津とは、坊津、那之津(博多)と安濃津(伊勢の津)の湊を指す。坊津は、その三津の総路であった。

近衛家は、坊津に出入りする船舶から「唐物税」を取り立てた。それは、宋の「市舶税」を、真似たものであった。

 

 

雪舟

日本の水彩画の開祖、雪舟とその第一等の弟子高城秋月らは、桂庵と一緒に1467年 応仁元年 筑前博多から渡明した。それは、勉学の為であった。

坊津に帰港し、栄松山興禅寺に宿泊していたと伝えられている。「雪舟も坊津にて碩学に連なり年月を経しかば、その画筆多かりしかども、今は希なり」と、記され、坊津の滞在が伺える。雪舟の書いた作品は、栄松山興禅寺にあったが、薩摩藩に没収されて、その多くは藩庫に眠っていた。

弟のように可愛がっていたとされる、その雪舟の一番弟子、秋月とはどのような人物であっただろうか。

秋月

高城秋月は、薩州の高城(鹿児島県川内市)の高城城主の弟で、雪舟の画に深く感銘して弟子入りした、元は侍の出である。雪舟の第一の弟子で、兄弟分だったとされる。作品は少なく、雪舟に劣らずの名手であった。

 

 

三宅国秀事件とは

それは、1516年 永正13年6月1日のことであった。

備中蓮島の住人三宅和泉国秀が、琉球王国を乗取ろうとして、12隻の戦艦を率いて坊津に停泊して順風を待っていた。薩州島津忠隆はこれを聞いて激怒して、「元来琉球王国は、我が属国になってから5代も続いている。国秀の奴、勝手に他人の土地を奪い取ろうとしている。許せん。」と言って、将軍義植に届け出て、坊津に兵を差し向けた。闇夜であった。薩摩の軍船に枯れ草や枯れ芝を積んで、風上に回って国秀の敵船に投げ込み火を放った。所謂、相手の隙に乗じての焼き討ちである。国秀らの船は残らず焼け、乗組員は焼死、あるいは溺死して全滅した。

しかし、この時代、琉球王国は列記とした独立国であった。島津忠隆の勝手な解釈に過ぎなかった。生きるか死ぬかの厳しい時代である。戦略上、事実に反することを書いてわざと敵方にその密書を奪わせたり、書き残したりすることは良くあった。古文書を解釈する上で苦労する所ではないだろうか。誰かが書いたのは確かだ、ぐらいにしておいた方が、良さそうな気がする。皆さんは、どうお考えだろうか? もし、ある古文書が存在する場合。記述されている事柄を、そのまま事実として解釈するだろうか? その文面に、裏が隠されているとは思いませんか?

この国秀討滅の期間3月28日〜6月1日の4月25日には、琉球王国の使者天王寺の僧が薩摩に来ていて、その使者によって、琉球王国へと戦勝の報がもたらされた。それは薩摩が、琉球王国に恩を売る絶好の機会となったのであった。

既に対馬の宗氏は、朝鮮の倭寇対策に提携し、その見返りに、李王朝から貿易の特権を得ていた。細川氏は、対立する大内政弘氏の勢力圏内の中国路を避けて、薩州島津氏が略勢力圏にしている南海路を利用しなければならなくなっている。対明貿易と琉球貿易の統制及び独占権を以前から狙っていた薩摩の島津氏にとって、琉球王国との国交を強固なものにする事と共に、大内氏と細川氏の対立は頗る都合が良かった。そして、それは、絶好の機会となった。

 

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