渇愛


いつもの朝。いつもの食卓。いつもの笑顔。
変わっていくのは、深まっていく深い思い。
悟空は眠れなかった。
 正しくは眠らなかったのである。
 悟空はまっていたのだ。その時を。
 チチが近づいてくる。ぶつぶつと何か言っている。

   いつでも傍に置いて……。
   好きな時にに好きなだけ……。
   どこにも行かない……。

 やっぱりそうか。

 突然。
 鈍い音がした。
「ぅぐ」
 思わず声が出る。

 途端に。
 チチの顔に何かが飛んできた。
    血飛沫だった。
「いやだ……悟空さ………いやだぁ」

 それは。愛する人を手にかけてしまった者の悲痛な叫び。
 カチャカチャ と食器のぶつかる音を訊きながら悟空はいつの間にか眠り込んでいた。
水音に混じってスースーと軽い寝息を立てている。
 寝息に気付いたチチは水を止めて振り返ると、
「やれやれ。そんな格好で寝ちまったら風邪ひくでねぇか。困った人だなぁ」
 と、呆れたように呟きながら濡れた手を拭きタオルケットを探す。
 春の陽気になってはきていたが、まだまだ油断は出来ない。
 もちろん悟空が簡単に風邪をひくとは思っていないが、眠っている悟空にそっとタオルケットを掛けてやるなんて滅多にないことだ。
 それが何となく嬉しかったが、こんなことでウキウキ出来ることにも驚いていた。
   このまま時が止まっちまえばいいのに……。
ふと。そんな考えが頭をよぎる。
 途端に慌てて頭を振る。
  時が止まるわけねぇでねぇか。
でも。
  止まったら悟空さはどこにも行かねんでねぇべか……?
 ソファの横に座り込んで、眠っている悟空の頬にそっと触れながらチチの思考は加速する。
   時が止まれば悟空さはずっとオラのそばにいてくれるんでねぇべか……?
両手で悟空の顔を包みながら、下唇を噛む。
   どうしてオラだけの悟空さじゃねぇんだろう……?
 そう。いつでも悟空はチチの夫である前に孫悟空だった。
 いや。そうではない。
 悟空は、チチの夫になる前からずっと誰のものでもない『孫悟空』だった。
 それでも。
   それでもオラは悟空さをオラだけのものにしてぇ……。  
それはわがままなのか。
   チチには判らなかった。
   このままこの手を……。
ぽとり と涙が悟空の頬に零れた。
「あ?  チチ?どうしたんだ?」
突然落ちてきた涙に悟空が目を覚ます。
 悟空に見つめられたチチは思わず両手を引いた。
ゆっくりと起きあがった悟空は不思議そうな顔でチチの頬に指を当てると、
「どうしちまったんだ?何で泣いてんだ、チチ?」
 そう言いながら流れている涙を拭ってやる。
 チチも慌てて手の甲で涙を拭うと、
「な、何でもねぇだ。オラもウトウトしちまって…。何か夢でも見ちまったんだろうな、きっと」
「夢?」
「んだ。夢だ。そ、それより悟空さ。そろそろ出掛ける時間でねぇのか?」
 辻褄の合わないチチの説明に首を傾げたものの、修行と言われると全てが飛んでしまうようで、
「おう。そうだった!どぉれ。天気はどんな具合ぇかなぁー」
 と、立ち上がって庭に飛び出した。
 その後ろ姿を見つめていると突然、どっと力が抜けて行くような感覚に襲われ、テーブルに手を付いてきゅっと目を閉じる。
 コトリ と音がしてチチがゆっくり顔を上げると、部屋から出てきた悟飯が手にしていたカップをテーブルに置きながら心配そうにチチの顔を覗き込んでいた。
「お母ぁさん、気持ち悪いの?大丈夫…?」
 悟飯の様子にチチは付いていた手をぎゅぅっと握り締めると何とか笑顔を作って、
「大ぇ丈夫だよ。悟飯ちゃんは余計な心配ぇしねぇでお勉強しててけれ」
「は、はい…。判りました…」
 その台詞に一応頷くが、やはり普段と違うチチの様子に不安そうな表情のまま部屋に戻って行った。
 悟飯の姿を見て気を取り直したチチは、修行に出掛ける悟空のために今度は昼食の準備に取り掛かるのだった。

 ふとチチが目覚めたとき傍に悟空はいなかった。
「悟空さ?……悟空さ?どこいるだ、悟空さ!」
 ベッドの上に起きあがって悟空の名前を呼ぶが、返事はない。
 途端に血の気が下がった。
   悟空さがいなくなった!
 頭にはそれしか浮かばなかった。
 焦りが体を動かした。
 ごとん とベッドから滑り落ち、ずるずると這いながら部屋を出て家の中を悟空を捜して動き回る。
「悟空さぁ……。悟空さ…どこいるだ……」
 頭がぼぅっとする。
一体何が起こったのか全く考えられなかった。
 自分の知らない間に悟空がいなくなってしまうなんて考えられなかった。考えたくなかった。
ずるずると動く。
 眠ってばかりの生活と、落ちてしまった食欲のせいで体に力が入らない。
 とうとう恐れていたことが現実になったのだ。
恐れていたこと。 それは悟空がいなくなってしまうこと。
 今はそれしか考えられなかった。
 早く、早く何とかするべきだった。
 悟空を自分だけのものにするために何か手を打つべきだったのだ。
   でも、どうすれば良かったのだろう?
 方法は思い付かない。
 今のままの悟空に自分だけを見てもらうなんてとても無理な話だ。
   そう。今のままでは。
 突然チチの中に何か黒い塊のようなものが入り込んできたような気がした。
 それは図らずもあの医者が言った台詞が示したように「良い方向に行くとは限らない」
ことが起きてしまった瞬間だった。
 心の隙間に入り込む黒い塊。 それを人は「邪悪」と呼ぶ。「邪気」と呼ぶ。
 今この瞬間に、どろり と音を立ててその黒い塊がチチの中に入ってきたような気がした。
   そうだべ。生きている限り、悟空さはオラのものには、オラだけのものにはなりっこないんだ。
 それなら……、それだったら……。
 いつかの言葉が頭に浮かぶ。
   いつでも傍に置いて……。
   好きなときに好きなだけ……。
   どこにも行かない……。
 あれは何だったんだろう……。
 そうだ。あれは……。

そんな。チチの行き場のない思いの話。
ちょっと。シリアスです。



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